『ヱクリヲ4』副編集長 山下 研
2014年7月から12月にかけて「映画美学校 批評家養成ギブス第3期」が実施された。主宰者は過去「4期」の批評家養成ギブスと同様に、文芸/映画/音楽/演劇批評家の佐々木敦である。この「批評家養成ギブス第3期」の有志同人として創刊されたのが、『ヱクリヲ』だ。今、このミニコミを手にしているあなたはここで初めて『ヱクリヲ』を知ったかもしれない。知人、もしくはTwitterを通じて以前からその存在を知っていたのかもしれない。いずれにせよ、多くの読者は『ヱクリヲ』を手に取って読み込んだ経験はないはずだ。そんな大半の人に一つ、断言できることがある。この同人誌を手に取るのなら、今日この会場で初めて頒布される『ヱクリヲ4』を最初に読んでほしい。
過去3号とは異なり、今号では初めての同人拡充を行った。「ゲンロン 批評再生塾」から優秀賞を獲得した横山宏介&原暁海、中国文学博士の卵である楊駿驍、新潟からは社会学を専攻する茂野介里の4名を執筆陣に迎えた。3つの特集を掲載し、最も頁量も多い号となったが『ヱクリヲ4』を強く推す理由はこれら外的要因に留まらない。
『ヱクリヲ』はこれまで映画を中心とした、狭義の「サブカルチャー」を批評の対象として扱ってきた(カラックス、タルコフスキー、シルヴィアン……)。これは佐々木敦が主宰する「ギブス」に参加したメンバーの志向性を強く反映した結果でもある。一方でゲンロン(東浩紀)のもとで行われた「批評再生塾」から同人拡充を行った今号は、その断片に“ゼロ年代批評”の影響を読み取ることができる。つまりアニメやゲームといったオタク系カルチャーを対象に持つ論考だ。今号は映画監督「エドワード・ヤン」の特集を組みながら、その一方で「日本アニメ(ーター)見本市」もまた射程に置かれている。メイン特集である「ニッポンの批評」では、それらサブカルチャー評論/ゼロ年代批評(佐々木敦/東浩紀?)の両軸が混ざり合った様相を呈している。その広範なテーマ設定も相俟って、読者の幾人かは散漫な印象を受けるかもしれない。
しかし、私はここに肯定的意義を見出したい。今やオタク系文化の成熟(人気の失速)によって、“ゼロ年代批評”も領域化しており(映画/音楽/演劇評論が遥か昔から陥っていた)「批評のサイロ化」は刻一刻と進行している。サブカルチャー誌は新陳代謝もないまま一定の読者を抱え、かつてのシーンを言祝ぐ言説を繰り返している。ジャンルを横断する「批評」の言葉は求められずに自閉化は加速していく。『ヱクリヲ4』、なかでも「ニッポンの批評」特集の雑多性にこそ、この状況をゼロベースで起動する可能性があるのではないだろうか。
また、『ヱクリヲ4』はもう一つのテーマを持って編まれてもいる。それは「アジア」である。「ニッポンの批評」においてインタビューを掲載した安藤礼二は「日本」を考えるために、その「外」に出る必要を語り続けた。今、なぜ「日本」を「アジア」を考える必要があるのだろうか。中国の大国化、世界各地から撤退するアメリカという時代情勢のなかで、アジアは欧州のような前世紀の災厄を経た地域秩序を持たない。否応なく大文字の「政治」が回帰するなか、過去の歴史の清算もつかぬまま私たちは「アジア」と向き合う必要がある。そのようなとき、私たちは状況に応じる「言葉」を持っているのだろうか。戦後、ニッポンの批評は遠く海の向こうの「政治」を空理空論の「イズム」の材料として扱ってこなかっただろうか。『ヱクリヲ4』には「エドワード・ヤン」の小特集も掲載される。台湾というアジアの混沌の最中にあった地で、その政情に振り回されながら傑出した作品を残した映画監督である。ヤン作品のテーマから、もしくは「外部」からの寄稿者であり日本育ちの中国人・楊駿驍の論考から「アジア」を考える契機を持って頂ければ幸いである。
最後に。『ヱクリヲ』の執筆陣のほとんど全員は20代である。それも主要メンバーは20代前半だ。ここで大きなことを言うつもりはない。しかし、シーンはその熱を失わないためにいつでも更新され続ける必要がある。本誌『ヱクリヲ』には、その一つの萌芽が確かにある。
(第22回文学フリマ東京にて無料配布致しましたミニコミ『ヱクリコ』に収録した文章を再掲しています。)