実録・モリッシー日本ツアー参戦記


 80年代、シンセサイザーサウンドが全盛の頃、イギリスの荒くれた港湾都市・マンチェスター出身のインディーズバンドが、シンプルなギターサウンドで音楽シーンに衝撃を与えた。ザ・スミス。多くの人間にとって、その名前は神聖ささえ帯びている。

 ザ・スミスとはどのようなバンドか。人口に膾炙した一般的なことを書こう、つまりザ・スミスはサッチャー政権下の不況に喘ぐ若者の「代弁者」であったと。<僕はまだ病気なのかな>(“Still Ill”)や<僕も人間だ、愛されることが必要なんだ>(“How Soon Is Now”)などの歌詞は、金科玉条のごとく多くのファンの心に刻まれている。その歌詞を書き、歌った「根暗な文学青年」がモリッシーである。これが日本における一般論だ。そして、私もそのような彼の最も過激なファンのひとりであったし、今もそうである。

 しかし私はこういったスミス受容に、彼らの歌詞を持って答えたい。つまり“Well this is true … and yet, it’s false”(“You’ve Got Everything Now”)であると。不幸なことに、ことさら日本では僅か5年間のスミスでのモリッシーの受容のされ方が、未だに現在のモリッシーを規定してしまっている感が否めない。つまり「スミスと比べてソロはあまり……」という声をよく聞くのだ。確かにわからなくもない意見だ。それぞれ、思い入れもあるだろう。しかし私は、それを残念に思う。もはやスミスでの活動期間の五倍に匹敵し、コンスタントに作品を発表し続け全世界で新たなファンを獲得しているモリッシーのソロ活動は、「スミス以上」に素晴らしいと、声を大にして私は言いたい。実際、モリッシーのライブを熱心に追いかけている海外のファンは、「今のモリッシーが一番である」と口を揃えて言う。なんと「スミスを聴いたことがない」と言う(冗談だろうが)モリッシーの熱心なファンまでいるのだ。そして私も、スミスは「心の故郷」ではあるが、今のモリッシーが「一番」であると思っている。それが、今回の来日公演を観て再確認されたのだ。

 

 

 さて、モリッシー来日公演初日である9月28日、渋谷文化村オーチャードホール。彼のライブは、一言で表すと「修羅場」だ。世界中、どこでもそれは変わらない。80年代に青春を送ったスミス直撃世代の、一見落ち着いた大人の方々は、ライブが始まると思春期の見境のない若者に豹変する。むき出しの愛が、行き場をなくしてフロアに溢れ出すのだ。それは4年前の来日で経験済みであった。今回はどうだろう……、何しろ座席指定の「格調高い」オーチャードホールである。まさか4年前のライブハウスと同じようにモッシュの嵐になることはないだろう……。

 しかし、愛は溢れ出してしまったのだ。客電が消えた後、多くのファンがステージ前に殺到した。そして私も……(セキュリティの方々には本当に心から陳謝するのみである)。本題のモリッシーのライブ中に関する記憶は、驚くほどに「飛んで」しまっている。オーチャードホールはライブハウスになってしまった。明らかに「異常」であった。そして私も正気を失っていた。そのような事態を予想していなかったセキュリティは、その日ステージ前のゲートを用意していなかった。知人曰く最前列にねじ込んだ私は、オーチャードホールの舞台を手で叩きながら、モリッシーの30㎝前で「歌う前に次の歌詞を叫び」暴れていたそうである……。そして挙げ句の果てに私は、ステージに乱入するという愚行まで犯してしまったのだ! 

 モリッシーのライブでは、この「ステージ・インベイジョン」が恒例となっている。ステージに登り、彼に抱きつく。それは、スミス時代から変わらない慣例である。ファンの想いが強すぎ、それがステージという壁を越境させるのだ。私はセキュリティに、初めから睨まれていたのだろう。舞台に登ろうとすると、すかさずセキュリティが駆けつけてきたので、彼に抱きつくことはできなかった。しかしそもそも私は、畏れ多くも彼に抱きつこうとは思っていなかった。彼に忠誠を誓うため、手を握り騎士のように跪きたかったのだ。そして、それは完遂された。彼の大きな手の温もりと微笑み。これだけはしっかり覚えている。そして永遠に忘れないだろう。

 舞台上で私は、腰が完全に砕けてしまった。日本人セキュリティに「頭を冷やせ」と(もっともである)後列へ死んだ家畜のように運ばれていった。しかしその後でも、私が後列で踊り狂っていたと言うのは知人の弁である。そしてライブ終了後、私は興奮から来る過呼吸を起こし、その知人に介抱されていた。そうして狂乱の1日目が終わった。「現在進行形のモリッシー」を再確認するどころでは、まったくなかったわけである。

 翌日29日、会場は同じくオーチャードホール。昨日の狂乱のせいか、セキュリティがずらりと通路に並び、準備運動までしている。そして繰り返される「警告」のアナウンス。モリッシーのライブに特徴的なのは、ライブ前に前座を置かず、彼の好きな楽曲や映画のシーンを流すという点だ。「座席から離れないでください」と言う放送の後ろで、彼の愛するSex Pistolsの“God Save The Queen”のMVが大音量で流れる空間は、暴発しそうな緊張を孕んでいた。客電が落ちた。さすがに私も動かなかった。前に行こうとするファンとセキュリティの小競り合いはあったようだが、何よりも今日はモリッシーの歌声をしっかり聴きたいという思いがあった。

 そのモリッシーの歌声の素晴らしさ! “Ouija Board, Ouija Board”という曲がある。これは、モリッシーのソロ初期の曲で、イギリス版の「コックリさん」について歌ったものだ。今回のツアーのセットリストのうちでも盛り上がる、人気が高いこの曲の、最も美しい箇所。それこそ、ピアノの伴奏とともに“hear my voice”とモリッシーが「あちら側」に歌いかける瞬間だ。29日のハイライトは、その曲の“hear my voice”の部分に強いエコーがかかり、会場を満たした瞬間だろう。モリッシーの歌声の艶やかさが何倍にも増幅され、クラシック用のホールの高い天井から降り観客を包んだ。

 その時に私を捉えた感情は、一つの崇高さであった。それは私をある経験へと連れ戻した。私がドイツをバックパッカーとして放浪していた時、ケルンの大聖堂で朝のミサを偶然聴くことができた。その時のコーラスだ。からりとした九月の朝の寒さの中、朝日がステンドグラスを通過し、ゴシック様式の内装を優しく照らしていた。その聖歌隊の声。私はまさに、その時に感じた崇高さと同じものを感じていた。これはファンの妄言だろうか……“Well this is true … and yet, it’s false”。

 モリッシーは、バックドロップに自分の好きな映画のワンショットを使うことで有名だ。今回のツアーは、ニクいことに私の好きなカール・テアドア・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』のワンショットが使われた。それはジャンヌが火刑にあう直前の、彼女の顔を写したクローズアップショットである。うつむき加減に全てを諦めたジャンヌ。その目は、魂の戻る先の肉体を焼かれるというキリスト教徒にとって最も残酷な刑である火刑や、その先の死をも超越した「あちら側」を見ているかのようだ。そのイメージと、“hear my voice”の重なり。

 モリッシーは昨年、食道ガンの治療を受けていると公表した。彼は幾分、死を意識しただろう。それを踏まえて、もう一度「あちら側」と「こちら側」を結ぶ「オルフェ」的詩人像を彼に認めてみよう。するとモリッシーの「歌」にかける真剣な思いが、伝わってこないだろうか。モリッシーは、そういった点でまさにオルフェウスなのだ。

 そして、スミスの有名な曲“This Charming Man”のシングルに、ジャン・コクトーによる映画『オルフェ』からのショットがすでに使われていることを思い出そう。30年近く前からの、軸のブレのなさ。そして生と死の境をなくす詩人として、またそれを圧倒的な声量と「現前性」で歌い上げる歌手として、モリッシーは現在進行形のアーティストなのだ。前回の来日よりもじっくり歌い上げる曲で占められたセットリストは、「老い」など感じさせず、より「深み」を感じさせるものだったのだ。私は大変な満足感と興奮を胸に、渋谷の雑踏を駅に向かって帰って行った。 

 

 

 9月30日は、ツアーの中休みであった。しかし、同じ台地の上にモリッシーが存在するという事実が、私の心を落ち着かせないでいた。私は、明日の横浜・ベイホールでのライブについても気を揉んでいた。発売後一分で売り切れたプレミア級の、ツアー唯一のライブハウスでのコンサート。モッシュの嵐が想像された。それに私は耐えられるだろうか……。私は来たる「決戦」の日に備えて、ひと月も前から『タクシードライバー』のトラヴィスばりのトレーニングを課していた。

 そしてその夜、私は味噌汁を作りながら、あの知らせをファンの知人から聞いた。曰く「アーティストが望むステージセットを完全に設置することが困難であることが判明したため、横浜公演は中止させていただきます」と。私は、へなへなと台所に座り込んでしまった。吹きこぼれる味噌汁。ガスの警報機が鳴る。その音で我に返った私は作った味噌汁も食べず、ロキソニンを飲んで眠ってしまった。“The one that you took, God, it really really helped you.”(“Interesting Drug”)

 翌朝は、雨のそぼ降る嫌な土曜日であった。こんな日には、誰も責める気になれないものだ。何も聴きたくない、何も聴けない。しかし、じっとしているだけの余裕もなかった。その日の23時半に発車する深夜バスで、私は大阪入りしなければならなかったのだ。パッキングは何週間も前からできていた。そのカバンには、ベイホールでの「修羅場」用に着替えや靴、湿布まで入れていた。しかし、全ては無駄とわかるとその荷物すら見たくなくなってしまった。大阪行きをやめてしまおうか、そこまで考えた。しかし、家にいるのも落ち着かない。そして結局、夕方から深夜バスの集合所横のファミレスで、長く辞めていたタバコを無駄にふかしながら、時間を潰していた。全ては成り行き通り、なし崩し的に流れた。乗り込んだ4列シートの窮屈な夜行バスに揺られながら、「もし大阪もキャンセルなら」という考えが、浮かんでは消えた。モリッシーはこう歌っている“Do Your Best And Don’t Worry”と。その言葉を頼りに私は、初めの休憩に入る前に眠ってしまった。

 目を覚ますと、バスは京都を出たところであった。それから1時間ほどでバスは、梅田のモータープールについた。3年ぶりの大阪だ。朝5時の梅田は、閑散としていた。天気予報には、10月にしては珍しいほどの暑さの1日になると書かれていた。私は着ていたワイシャツをコインロッカーへ、大きな荷物と一緒に入れると、会場の大阪IMPホールへ下見に向かった。大阪城の堀の向かい側にあるビジネスビルの中の会場は、ライブハウスではなかったが多くの洋楽アーティストが公演を行ったことで知られている。キャパシティはおよそ800人。昨日の横浜キャンセルを受けて、この大阪公演がソールドアウトしたとの報が入った。

 しかしその嬉しいニュースが、かえって私の心を余計にモリッシーへと向けさせたのだ。モリッシーから少し意識を離そう。開場まで12時間もあるのだ。そこで私は、大好きな大阪の街を探索することにした。向かった先は以前から訪れてみたいと思っていた、梁石日の小説で崔洋一によって映画化された『血と骨と』の舞台、鶴橋〜今里・猪飼野地区だ。私の意識は、そこに染み付いた在日コリアンの深い思いと歴史に向かった。しかし胸中には、アイリッシュ移民の血を引くモリッシーの姿もあったのだった。

 コリアンタウンで野菜チヂミを食べた後、私は四天王寺へと赴いた。天気予報は当たり、とてつもない暑さとなった。四天王寺の伽藍の美しさは、シンプルさの「極限」にある。海外から日本までモリッシーを追いかけてきたファンは、私たちにはある種のモリッシーを愛する「カルマ(業)」に捉われているのだと笑いながら言っていた。私は、そんなことを思い出しながら、私の罪深い「カルマ」を浄化するようにじっと涼しい金堂に佇んでいた。

 さて、私の「カルマ」と対面する時間が近づいてきた。そしてモリッシーは、現れてくれたのだ。その日はセキュリティも緩く(本来なら禁止されているのだが)、前に行きたい人は客電の落ちた後、前へ行くことができたようであった。しかし私は敢えてモリッシーの目のやり方、バックドロップやライトニングの使い方などを堪能したかったので、前から6列目の指定された席で立っていた。

 私が興味深く思ったのは、彼の“Ganglord”という2006年の曲とともにバックスクリーンに映される、「暴力を振るい殺人まで行う警察権力」の映像であった。2014年に新アルバム“World Peace Is None Of Your Business”を発表した彼は、その何度目かの「政治の季節」に突入している。彼の政治的信念は、よく噂されるような「右派」でも、また「左派」でもない。彼は「何かを押さえつけ屈服させようとする力」というものを、「純粋」に嫌っているだけなのだ。その点、彼の政治性は単純なものなのだ。しかし、その単純さこそ真実を撃ち抜く。“Ganglord”には、そのスタンスが最も直接的に表れている。歌詞の一部を引用してみよう。

Ganglord, the clock on the wall
Makes a joke of us all
And I’m turning to you to save me
(……)
They say to protect and to serve
But what they really mean to say is
“Get back to the ghetto! The ghetto, the ghetto
Get yourself back to the ghetto!”

 歌詞にある“To protect and to serve”(『保護し仕える』)とは、モリッシーが住んでいた(いる?)ロサンジェルス市警の標語である。しかしモリッシーは、彼らの真意が“Get yourself back to the ghetto!”(『お前らなど自分のゲットーに帰れ』)であると歌い上げる。警察の横暴に耐えかね、自分の身をそれから守るためには“Ganglord”=ギャングの親玉を頼らざるを得ないという構造をモリッシーは示している。

 この曲で“You”と彼が歌う時、ステージのライトは観客一人一人を照らし出す。“I’m turning to you to save me”(『私を救うためにあなた=ギャングの親玉へ味方する』)と歌う時、また“They say (……).Get yourself back to the ghetto!”と歌う時、思わず目を背けたくなるような実録やくざ映画さながらの映像を、彼は文字通り「指し示し」ながら歌う。それはライティングとともに、一人一人に現実を突きつける作用を持つ。すると歌詞の文脈を無視して、You/Yourselfの示す相手が、我々観客一人一人であるかのように感じさせるのだ。そのことでモリッシーは観客を、警察権力に抑圧される当事者としてしまう。傍観は許されないのだ。

 「モリッシーの歌に表れるギャング」というテーマは、実に興味深いものだ。ソロ初期の曲“Sister I’m A Poet”では、“I love the romance of crime”と歌っているし、2004年のヒット曲“First Of The Gang To Die”はあからさまなギャング賛歌だ。また、89年の“The Last Of The Famous International Playboys”では、イギリスの有名なギャングスタであるクレイ兄弟について歌っている。  

 モリッシーが持つギャングへの、共感を伴った関心の根源は、「反権力」というところにあるだろう。彼は純粋に「反権力」の無謬性を信じている。そして、それこそモリッシーの表現の根幹だろう。ライブで彼は「私の唯一つのメッセージ」として“Please don’t kill anything !”と叫んだ。汝はあらゆるものを殺してはならない、動物(モリッシーが徹底した菜食主義者であることは有名だ)、弱者、そして「自分自身」をも。力を持ってそれを抑圧し「殺す」ものへ、舌を出し唾を吐くこと。57歳のモリッシーは、ますますその表現を尖らせているようであった。「現在進行形」のモリッシーは、歩みを止めないだろう。

執筆:クスボリ・しゅーげ

(本稿は第23回文学フリマ東京会場にて頒布したミニコミ『ヱクリコ 2』からの再掲です。)