ある作品が「面白かった/面白くなかった」と言われる時、そこにはおそらく、いくばくかの割合でその作品が「わかった/わからなかった」ということが含意されている。では、「わかった/わからなかった」とは、何をもって言われるのか。そしてそのことと面白さは、どのように関係するのか。範宙遊泳『われらの血がしょうたい』を観たほとぼりも未だ冷めやらぬまま、そんなことを考えている。
私はこの作品を、きわめて「面白い」と思った。これはただの感想だ。では、なぜそう思ったのか、それをこそここで論じるべきだろう。私の考えでは、それはひとえにこの作品の「解像度」にある。この作品の解像度は、誤解を恐れずに言えば、かなり「粗い」。というのもこの作品は、その物語的な側面に目を向ければ、決して理解が容易な作品ではないからだ。母の失踪、インターネット、人工知能、マンション建設現場に居座る男、3番目のクローゼット、犬山の仏像……といったいかにも意味ありげなモチーフの断片が、ごくゆるいつながりを伴って観客に提示される。そして、役者による反復的なしぐさが、その断片のつながりをわずかに後押ししてくれる。だが、90分程あるこの作品のすべてを観終わった後も、それらの断片がすべて繋ぎ合わさる、などということはない。観客はおそらく、各々の印象に残った範囲で、物語を反芻し、再構築するしかないだろう。そういった意味での「粗さ」だ。だがそのことは、この作品が難解であるとか出来栄えがよくないということを全くもって意味しない。
作品に沿って振り返っていこう。『われらの血がしょうたい』は、舞台奥に立てられた二つのスクリーンに、プロジェクターから映像が投射されることから始まる。しかし何が投射されているのかは、初めはよくわからない。というのも、四角であったり、その四角がいくつか組み合わさったドット絵のようなものが映し出されており、それが何の文字であるか記号であるか絵であるか、にわかには判別しがたいからだ。すると、マイクの声で、「は」と聞こえる。ドット絵が「は」を形作る。観客はその符合に一安心する。続けてマイクは「る」と言う。が、画面に映し出されたドット絵はどうも「る」には見えない。マイクが「は、る」と言うと、画面は「は」、そして先程の解読不能なドット絵。舞台上の英語字幕用スクリーンには「spring」。そうか、「は、る」は「春」だったのか……。
『われらの血がしょうたい』は、このようにして、いくつもの符合(安心)と乖離(不安)をちりぢりばらばらに提示してくる。そのことは、この作品の最も肝要なテーマのひとつだと思われる「(ディス)コミュニケーション」と分かち得ない。ラストに近い場面で、茶髪の女性(彼女の演技は特に素晴らしかった)がスクリーンに映し出された映像と会話する(ように見える)場面がある。だがその会話は次第に噛み合わなくなってゆき、観客は、そもそも会話など行われていたのか、と訝しむこととなる(なにせ、かたや映像、かたや生身の人間なのだ)。しかし翻って思えば、この作品におけるすべての会話=コミュニケーションが、そもそも成立していたのか、きわめて疑わしくなる。彼らは問いと応答の関係に正しく入っていたのだろうか。なぜ男はおもむろに英語で喋りだしたのか。そもそも彼ら彼女らには、役柄というものが与えられていたのか。『われらの血がしょうたい』とはいったい何なのか……? こういったいくつもの謎を観客に残し、作品はオープンエンドなまま幕を下ろす。
こうした解像度の粗さは、なぜ面白さと結びつくのだろうか。ずばり、その絶妙な解像度こそが、いくつもの問いを生成する「場」として機能するからだ。もし仮に(あくまで思考実験としてだが)、観客がそのすべてを理解できすることができた、という作品が存在するとしよう。だが果たして、それを観た人間からどんな言葉が、問いが産み出されるだろうか。まったき共感は、何の問いも産出しない。反対に、全くもって滅茶苦茶に作られた作品があったとして、それを観た時、理論的には、観客の頭の中ではいかなる像も結ばれえず、これもまたいかなる問いをも産み出さない。「理論的には」と断ったのは、完璧な理解というものがありえないのと同様に、完全な無理解もありえないからだ。人間は、どれだけ滅茶苦茶に作られた作品(あるいは人為的に作られておらず、そこにただあるモノだってよい)に対しても、何か意味を見出さずにはいられない生き物である。ただの天井のシミに、何らかの顔を「読み取ってしまう」ように。とりわけ演劇の観客などはそういう人種ではないだろうか。「これはどういうメッセージを伝えようとした作品なのか」、「あの挙動にはこんな意味があるに違いない」……、そうした好奇心旺盛な観客にとって、もしかしたら『われらの血がしょうたい』は、インターネット時代に失われつつあるアイデンティティーを探す物語、などと読めるのかもしれない。あるいは、この作品を一義的な理解に落とし込もうとするような言説ならば、何だって似たようなものだ。しかし、もうそうした「解答」はウンザリだ! 上記のような「誤読」(とはっきり言ってしまおう)と、われわれは袂を分かたなくてはならない。一見壮大なテーマを扱っている(かに見える)山本卓卓が作品の持つ可能性とは、あくまでその多孔質的な問いの偏在性にこそあるからだ。われわれは、粗い解像度で提示されたものを、解像度をそのままに維持して受け取らなければならない。しかし注意すべくは、これは”Dont’ think, feel.”などという反知性主義的な事柄を意味するわけではないことだ。むしろ、大イニ思考セヨ。この作品はわれわれにそう呼びかけている。『われらの血がしょうたい』をあの場で観ることができた幸福な観客たちは、作品を観るそのつど生成されていくような、そういう種類の問いをきっといくつも手に入れたはずだ。繰り返す。それはきわめて幸福なことだ。なぜなら人生とは、無数の問いが乱舞するひとつの劇場にほかならないのだから。
(谷口惇)