恋する彗星――映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く


図1『君の名は。』(新海誠監督、2016年)。 *1

 人はなぜ映画を見るのか。そこに映し出されている自分の片割れと出会うためである。その片割れは、ときとして人ならざる姿をとって我々の前にあらわれることがある。

 映画『君の名は。』(2016年)が分裂して隕石と化した彗星核の主観ショット(見た目のショット)で幕を開けている点を見逃してはならない。この映画で問われているのは、立花瀧や宮水三葉といった表向きの主要人物たちの名前だけではなく、彼らの日常に狂奔と奇跡をもたらし物語を駆動することになるティアマト彗星の名なのである。『君の名は。』とは、スケールを違える人間と非-人間的存在が相互に連関しながら豊かに紡ぎ上げる壮麗なテクスチュア(織物)の謂である。

 本作は、何よりもまず恋する彗星の物語である。そう断言するところから話をはじめよう。何しろそれは1200年かけて自らの片割れに会いにやってくるのだ。この彗星の振る舞いが時間のズレを乗り越えて劇的な出会いを果たした瀧と三葉のアレゴリーであるのは明らかだが、たかだが三年の時間差を克服したにすぎない二人の存在は、彗星が経験した1200年という宇宙的なスケールの大きさを際立たせる「補助線」となっている。誤解のないようにただちに言い添えておくと、それは監督の新海誠(あるいは本作の成立に重要な影響を及ぼしたプロデューサーの川村元気)がそのような読みを要請しているということを言いたいわけではない(彼らの思惑などはどうでもよいことだ)。作り手が自らの創作物の解釈を誤ることはそれほど珍しくもないのだし(このことは一般常識として広く共有されるべきだと思う)、そもそも人は作者のつまらない意図を斟酌するために映画を見るのでは断じてない。

 恋する彗星の物語は、それよりはるかにスケールの劣る人間たちの物語を逆照射する。瀧と三葉の恋が成立するためは、まず彗星が恋をするような環境世界が前提として要請されるのである(何しろ新海作品には「夢見る宇宙」が登場するのだから、「恋する彗星」がいてもおかしくはない)。じっさい、ティアマト彗星の描く軌道は、常軌を逸して、あまりに人間の振る舞いに似すぎている。彗星の楕円軌道の焦点が太陽の手前にきていることの不自然さは考証の不備としてつとに指摘されているが、むしろそれは、物理法則を曲げてまで地球上の片割れをめがけてやってきた彗星の「意志」の堅固さと見るべきだろう(もっとも、彗星核の氷のなかには「石」ならぬ鉄塊が隠れていたわけだが)。観客は人智をはるかに超えたティアマト彗星の壮大な恋物語のうちに自らの似姿を見出し、同時に自分自身を超越する感覚を疑似体験する。これが本作の記録的大ヒットを支えた一因である。

 では、ティアマト彗星はいかなる「人間的振る舞い」を見せているのか*2。1200年かけて太陽系を一周するというティアマト彗星は、前回の地球最接近時に片割れを残していった。その痕跡が糸守湖である。2013年に地球に再/最接近した彗星は、またしても分裂し、再び片割れを糸守町に落とす。その落下跡はもとの糸守湖と繋がって、新糸守湖を形成する。1200年の孤独を経た後、源を同じくする二つの隕石は、こうして再会を果たす。瀧と三葉が町を救うべく奔走したところで、その恋路を邪魔することはかなわず(彗星や隕石の軌道自体を変えるには及ばず)、あくまで災厄は人間の側が道をあけて回避するしかない。彗星はたとえ時間を戻したところで容赦なく、正確に、何度でも、片割れが眠る場所をめがけて、文字通り一直線にやってくることだろう[図2]*3

図2


線の主題系、あるいはムスビのヴァリエーション

 彗星(風景)と人間の相互嵌入的な共鳴関係は、「線の主題系」を通して多層的に結びつけられて提示されている。組紐や糸守という地名が象徴するように、様々な線状のイメージ(これを「線的イメージ」と呼ぶことにする)が本作の全篇にわたって網状に張り巡らされ、「分断」と「連繋」の模様を描いているのである。そうして緻密に張り巡らされた線のイメージ群は、「運命線」というより大きなテーマを束ねる。映画内にあらわれるさまざまなモティーフは、ある運命線を断ち切り、かと思えば、そうして切断した線を別の世界線へと繋げてみせている(このとき、切断面は新たな接続面と化し、映画編集の原理そのものを体現する)。じっさい、瀧と三葉の間の「運命の赤い糸」を断ち切らんとしてやってくるティアマト彗星は、同時に二人を結びあわせるための最大の物語的原推進力ともなっている。
 このテーマは劇中で「ムスビ」について説明する祖母・一葉の次の言葉に集約されている。

糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ神さまの力や。ワシらの作る組紐も、せやから神様の技、時間の流れそのものを顕しとる。よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながる。それがムスビ。それが時間。》

 観客に求められるのは、このテーマを乱反射するようにして作品(テクスト)内に散りばめられている映画的イメージの断片を拾い集め、それを自分なりの模様に織りなしていくことである(それが「作品を生きる」ということである)。本稿で着目する線の主題系は、そのための手がかりを与えてくれる。

図4

図3

 じっさい、線的イメージを通して彗星と人間を重ね合わせる演出は本作の随所に見られる。その最たるものが、三葉の口噛み酒を飲んだ瀧が(過去の)イメージの洪水に包まれるシークェンスである。ここでは、長く尾を引く彗星の線的なイメージが、瀧の手首に巻かれた組紐のそれと入れ替わりながら日本列島を貫いた後*4、精子となって卵子に進入する。その受精卵は成長して三葉となる。母・二葉から産まれた彼女は、臍の緒を切られることによって、片割れとしての独立した人生を生き始める。この幻想的なシークェンスに、わざわざハサミで臍の緒を切断する現実的なショットが挿入されているのは、その点を強調するためである(ハサミのモティーフについては後述する)。

 彗星/組紐/精子のイメージ連鎖に話を戻すと、精子に変わる直前の彗星の動きが龍(ドラゴン)を思わせるものとなっているのは偶然ではないだろう(映像にあわせて鳴き声のような音も入れられている)。もともと「ティアマト」とはメソポタミア神話に登場する女神の名であり、後世の創作物のなかではしばしばドラゴンの姿で描かれる(したがって瀧という本作の主人公の名前が、龍にさんずい、すなわち三を足してできた漢字であることは徴候的である)。バビロニアの創世神話『エヌマ・エリシュ』に海(=産み)の女神として登場する彼女は、男神アプスーとの「聖婚」を経て多くの神々を誕生させる。しかし、やがて(『エヴァンゲリオン』の機関名にも借用されている)マルドゥクに敗れると、その身体は二つに裂かれて、天と地の基となる(二つの眼球からは二股の二大河川ティグリス・ユーフラテス川が生じる)。ティアマトという名前が背景にこうした神話を抱えている以上、その名を冠した彗星は二つに割れない方が不思議なのである。この点において、『君の名は。』は、天と地の聖婚神話をアニメーション的に再現しているとも言えるのだ。

線は分断する

 臍の緒を切るシーン以外に、ハサミが意識的に用いられている場面(当然ながら分断のイメージと高い親和性を示す)が少なくとも二箇所ある。東京で(中学生の)瀧に会った後に三葉が髪を切る場面[図5]と、変電所の入口チェーンを工具(巨大なハサミ)で切断する場面である(チェーンを切断する際の「キーン」という音は、それによく似た音響が別の重要な箇所で繰り返し使われている)。いずれも、それまでの世界線を切断し、新たな切断面を生じさせることで既存の運命を変えようとする象徴的な意味合いを持つ場面だ。じっさい、髪を切った後の三葉の世界線は二つに分岐している(隕石の直撃を受けて死ぬ三葉と、入れ替わった瀧の力を借りて延命に成功する三葉)*5。また、(入れ替わっていたときの)瀧が三葉のノートに残した落書きを確認する場面で、彼女の部屋の机の上のペン立てにはきちんとハサミが描き込まれている[図6]。こうした充実したディテイルは、本作の稠密な世界観を支えることに一役買っている(定義上、アニメーションはすべての細部に神を宿す)。

 切断の機能を持つ刃物のヴァリアントとして、ハサミ以外に包丁も登場している。映画の冒頭近くに、朝食の準備をしている四葉がトマトを真っ二つに切るショット[図7]があるが、後ほど詳しく検討するように、本作には切断される円形のヴァリエーションが存在する(電線によって分断される月や、映し出された彗星の影によって分断される糸守湖など)。

図5

図6

図7

 しばしば用いられるスプリット・スクリーン(分割画面)も、瀧と三葉を文字通り(映像通り)二つに分断された画面で同時に提示する点でそのヴァリアントをなしている[図8]。また、宮水神社のご神体のある場所で瀧と三葉が時空を超えて出会う場面では、まず沈みゆく太陽の残光が直線をなし、構図の上で二人を分断する[図9、10](同様の演出は新海誠の別の作品、たとえば『雲の向こう、約束の場所』(2004年)にも見られる[図11])。そして太陽が完全に没する直前のつかの間の時間、すなわちカタワレ時が訪れると、その分断線は消え去り、二人はお互いの姿を見とめあうことができるようになる。

 線的イメージによって画面を分断する同様の演出は、ティアマト彗星をめぐってもなされている。落下する隕石の軌跡が画面を二分割するショットでは、その右側に影をつけることによって分断のイメージを強化している[図12](このように風景が空間を分節する演出は新海誠の過去の作品にもしばしば見られる。たとえば『秒速5センチメートル』[2007年]のロケット発射場面を見よ[図13])。さらにこの彗星は、糸守湖に映し出される軌跡によって湖面を二つに分断している。この状況について詳しく見ておこう。じっさいに上空を飛んでいるティアマト彗星に対して、湖面に映るそれは文字通り(映像通り)その影であり、片割れである。そして、彗星核が分裂したことでもともと一つだった彗星は二つに割れ、現実に片割れを生じる。さらに隕石と化した物理的な片割れが糸守湖の側に落ちたことで、二つ目の新たな湖が生じている。このように、ここでは一なるものが二つに分裂するさまが豊かに変奏されて描かれているのだ。

 また、画面内に描き込まれている電線も単に背景を飾っているだけではない。それは思わせぶりにクロースアップで映し出される月を半分に分断し、高台に位置する宮水家を下界から分かつ分断線として機能するなど、明確に説話的な働きを期待されている。映画の掉尾で二人が駆け回る街のなかに見られる電線は、彼らが選び取っていく細い路地と並んで都会の迷路感を演出している。また、映画の終盤で彼らが爆破するのが変電所であり、それによって内部を流れる電気を止められるのは(送)電線である。

 あるいは、線なき線としての「無線」もまたこうした主題系に連なっている(ただし、これは次節で見る「連繋」のヴァリアントともなる)。糸守町には町中にスピーカーが設置されており、映画の冒頭ではこのスピーカーから町長選挙の案内が聞こえてくる。その放送はラジオを通しても聞こえているが、一葉がその電源を「切って」いることとあわせて終盤に向けた伏線になっている。映画の終盤、変電所の火災とそれに伴う山火事を口実にして人々を高校に避難させるべく、三葉たちは町の防災無線をジャックし、役場を騙った偽の放送を流す。「無線」の力で、今まさに途切れようとしている町民の「生命線」の延長を試みるのである(しかしその放送は大人たちの力で強制的に「切断」されてしまう)。三年という時間的ズレゆえに繋がらない瀧と三葉のスマフォの電波は、この挿話に隣接する細部を形成すると言えるだろう。*6

 映画の終盤、隕石の落下から町民を守るため、三葉は父親である町長のもとへと走る(消防を出して正式に町民への避難を呼びかけてもらうためだ)。このとき、三葉は道路の亀裂(分断線のヴァリアント)に足をとられて派手に転んでしまう。次のショットでは、かたわらの草むらからそれに驚いたバッタが飛び立つ様子が映し出されている。特に何の変哲もないショットに思われるかもしれないが、このちょっとした細部は観客に決定的に重要な気づきを与えてくれる。飛び立つバッタは、人間存在を相対化する風景の一部をなしているのだ。このバッタは、三葉が転ばなければここから移動することはなかっただろう。すなわち、ここでわざわざ描き出されている名もなきバッタ氏は、三葉が存在したおかげで隕石落下の影響圏外へと脱出し、命を長らえたものの総体として捉えうるのである。巨大な災厄たる隕石の落下を描くと同時に、その足下で展開されている微小かつ匿名のものたちの世界を示唆することで、極大と極小の風景に、文字通り挟み撃ちにされながら生きている人間存在の、この世界に占める位置を指し示しているのではないか。それを表現するためには、彗星と人間と昆虫がともに存在し、相互にゆるやかに結びつけられている世界のなかで三葉を転ばせる必要がある。道路に刻みつけられた分断線は、そのことを告げ知らせるための、文字通り最後の一線なのである。

図8

図9

図10

図11『雲のむこう、約束の場所』(新海誠監督、2004年[DVD、コミックス・ウェーブ・フィルム、2005年])。太陽光が画面を二つに分断している。また、ここには円形とその分断のモティーフも見られる(太陽光によって生じた円形の光を、太陽光が発生させている別の光が分断している)。さらにここでは、建物を支える支柱がフレーム内フレーム(内フレーム内……)として機能するとともに、その形状が神社の鳥居を思わせる点にも注意を促しておきたい。

図12

図13『秒速5センチメートル』(新海誠監督、2007年[DVD、コミックス・ウェーブ・フィルム、2007年])。加藤幹郎はこの光景のうちに主人公の孤絶ぶりが表現されていることを正しく看破している(註2参照)。それは擬人化や比喩や象徴といったものの次元を超えたところで我々に直観的に働きかける風景の力である。そのことは彼に思いを寄せる少女にも伝わっており、それゆえにこそ彼女は告白を断念する。二人の世界はいまやはっきりと分かたれ、交わることはないのである。


線は結びつける

 一方で、本作には分断とは異なる「結合」「連繋」のイメージを担う線の演出も見られる(とはいえ、分断と連繋のテーマは対極にあるわけではなく、表裏をなすものである)。たとえば、チンピラ客に切り裂かれた奥寺先輩のスカートを、瀧(中身は三葉)が刺繍(すなわち糸)で縫い合わせるというエピソードはこの系列に組み込まれている。外的な暴力によって生じたスカートの裂け目を糸の力で閉じることによって、瀧と奥寺先輩は人間関係における距離を縮めることになるのだ。あるいは、四谷の歩道橋(車道をまたぎ越えて歩道を連続させる装置であると同時に、瀧と三葉を結びつける場たりえる)はその象徴の最たるものであり[図14]*7、よりささやかな細部としては、瀧(中身は三葉)が高校の友人と三人で訪れたカフェの「手がかかっている天井の木組み」などが挙げられる。

 高度に発達した東京の鉄道網もまたそのようなイメージ系に連なる(そもそも電車とは、決して交わることのない永遠の平行線たる鉄道レールをそのボディによって架橋しつづける輸送機関である)。俯瞰で映し出される新宿駅や東京駅の「複線」はそのことを映像的に示す「伏線」として機能している。じっさい、首都圏に網の目のように張り巡らされた鉄道レールの上を日々膨大な数の列車が運行しており、その(映像的)事実は、本作を満たす線的イメージの一環をなしながら、たまたま隣の線路の電車に運命の相手を見つけ出すという本作の劇的な結末を支えている[図15]。

 ラストと並んで電車という舞台装置がもっとも効果的に用いられているシーンの一つは、三葉が(中学生の)瀧に組紐を手渡す場面である。そこでは閉まる直前の電車ドアの隙間を縫って伸びる組紐のイメージが、電車の内と外という形で象徴的に分断された二人の時空間を繋ぎあわせるべく機能している。映画内には他にも扉の開閉を大写しで見せる場面がいくつか存在しており(三葉の部屋の障子、宮水家の玄関戸、新幹線の扉など)、それらはこのシーンのための視覚的な伏線となっている[図16]。

 ちなみに、分断を繋ぎあわせるような演出は線を用いたものに限られない(繰り返し述べているように、この細部の徹底した作り込みが作品の豊穣さを支えているのだ)。議論の本筋からはいくぶん話が逸れるが、いくつか具体例を挙げておく。たとえば、映画冒頭の三葉パートで政治家(町長)と土建屋の癒着が示唆された後(級友たちの「町長と土建屋はその子どもも仲ええなあ」、勅使河原の「腐敗の匂いがするなあ」という台詞)、つづく瀧(中身は三葉)パートで瀧の父親が朝食を摂りながら流し見ているタブレットのニュース画面には「政治とカネ」の文字が踊っている。

 また、カフェのない糸守町にあって自販機前のベンチでカフェ気分に浸ろうとする勅使河原のかたわらに野良犬がいることと(「前前前世」が流れているシークェンスで三葉[中身は瀧]がカフェ風の手作りベンチを作った際にもこの犬がいる)、瀧(中身は三葉)が都内のカフェに連れて行かれた際に隣の席の二匹の犬のショットからその場面が始まっていることは、明らかに連続性を意識した演出だろう。町民を避難するための作戦会議の場でショートケーキを食べていた三葉の友人・名取が、三年後の世界にあって東京のカフェでやはりショートケーキを食べているといった嗜好の一致にも気が配られている。これは単にキャラクターに連続的な人格が備わっていることを示すだけでなく、劇中のその時点で生死不明だった(というより瀧が介入する前の世界線では死んでいた)彼女が、実は生き残っていたことを効果的に知らせる細部としても機能している。

図14

図15

図16

 宮水神社のご神体に向かう瀧が山中の洞窟内で雨宿りする際*8、(高山ラーメンの店主がくれた)おにぎり(オムスビ)を口にするシーンがあるが、これから三葉の口噛み酒を飲もうとしている瀧がそれに先立って(口噛み酒のもとになっている)米を口にするのは、いかにも気が利いている(この細部がなくとも物語の展開には一切影響がないが、これがあることによって間違いなく作品の豊かさが増している)。そもそもラーメン店の店主が瀧に親切にするのは、彼が瀧の描いた糸守の風景を気に入ったからである。瀧は鉛筆の「線」でそれを書いている。彼には、宮水家の血筋に連なる三葉のような超現実的な入れ替わり能力はないが、それを埋め合わせるだけの画力が与えられているのだ。画力とは、線によって命を生み出す能力にほかならない(その重要性に比して、このモティーフはあまりに軽視されすぎてきたように思う)。瀧は、(一本一本は単なる線でしかない)鉛筆の描線を繋ぎあわせていくことによって、紙のうえに見るものの心を揺さぶる風景を現前させる。これは、アニメーション映画の登場人物たる瀧もまた一本一本の描線に還元される(非-人間的)存在であることを示唆する自己言及的な、すなわち、自身の存在基盤を問い直すようなラディカルさを備えた細部となっている(線とは、瀧自身および瀧自身が含まれる世界全体の礎をなし、それゆえに観客のいる現実世界と劇中世界とを区別する分断線たりうるものなのだ)。瀧が入れ替わり時に見た糸守の風景を絵におこすことができなければ、ラーメン店で店主の妻に話しかけられることもなく、したがって、三葉のもとにもたどり着くこともできなかっただろう。彼の描いた線の集まりが、人の縁を引き寄せ、現実を変えたのだ。三葉は単に「東京のイケメン男子」だから瀧を入れ替わり相手に選んだのではない。線的イメージの相のもとでは、三葉の入れ替わり(運命線の組み替え)能力と瀧の画力は等価なのであり、それぞれの持つ線が、周囲の人々を巻き込み、相互に絡み合い結びついていくことで、ついに隕石の落下に耐えうるほどのネットワーク(拡がりと太さ)を獲得するに至るのである。

 

ムスビに

 最後に、人間と彗星を線的イメージで結びつけている細部をもう一つだけ見ておこう。瀧と奥寺先輩は東京デートの締めくくりに国立新美術館の写真展を訪れる。この展覧会の飛騨の写真を展示するセクションのレイアウトは示唆的である。具体的には、上方から何本も垂らされた線の下に段違いで写真が並べられている展示デザインが、落下する隕石群を連想させるのだ。この直線が地球に降り注いだ隕石の尾だとすれば、その先にそれが破壊した飛騨(糸守)の景観が置かれているという展示の構図は、明らかに(劇中でこの時点から三年前に起こった)隕石落下の悲劇を再現して見せている。とかくに住みにくい人の世を作ったのが神や鬼かもしれない世界であっても、それを束の間でも住みよくするために、詩人という天職はできるし、写真家という使命も降るのだろう。災厄によって奪い取られた景色が二度とは戻らないと悟ったとき、郷愁が生まれ、芸術ができる。かくて人は物語を生き、映画は公開される。未曾有の被害をもたらしたティアマト彗星の分裂を「ただひたすらに美しい眺めだった」と言い切ってみせることのうちに、本作の矜持は凝縮して提示されている。

 小野小町が恋の歌を詠んだ昔に別れを経験したティアマト彗星から見れば、ハイティーンの小僧や小娘の恋物語など文字通り一睡の夢に違いない。漱石が描いたように、人間にとっては夢で見る百年ですら途方もない長さに感じられる一方で、かの彗星は片割れと再会するために1200年の孤独を生き抜いてみせたのである。譲歩するのは、やはり我々人間の方でなければならない。

◆註
*1   以下に引用するものも含めて、映画『君の名は。』の画像はすべて公式サイトで公開されている予告・特報・TVCMの映像からとっている(http://www.kiminona.com/index.html)。

*2   映画研究者=批評家の加藤幹郎は、新海誠のアニメーション映画における「風景の人間化」という事態を正しく指摘している。本作の彗星は、風景の特殊なあらわれなのである。分裂した彗星を指して、劇中のアナウンサーが「幻想的な眺め」「壮麗な天体現象」と呼び、世界各地で人々が空を見上げる様子を提示している(目撃は「大変な幸運」とも述べている)ことは、それを端的に示している。では、風景とは何か。加藤は以下のように明快な定義を与えている。

《風景とは、そこに人間がつつまれると同時に、それとともに人間がそのなかで生きる場であり、それゆえに「わたし」(主体)と風景(客体)、前景と後景とに二分割されえないものである。その意味で風景は人間との共鳴関係なしには成立しない[……]。》(加藤幹郎『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』、岩波書店、2010年、153頁。)

 この定義を十全に実践している映画作家こそ新海誠である。加藤は、「分離可能な前景主体としてのキャラクター(登場人物)と後景客体としての風景という二元論を採用しない」新海作品の最大の特徴を「人間と風景はあくまでも切り離しえないものとして一体論的に創造される」点に求めているが、蓋し炯眼である(132頁)。だからこそ、新海誠のアニメーション作品にあっては「人間は風景のなかに名状しがたい自分自身の状況を見いだす」ことができるのだし、しばしば「風景の人間化」(145頁)といった事態が出来することにもなるのだ(間違っても「風景の擬人化」ではない)。

*3   ティアマト彗星のこのような振る舞いを考えたとき、「運命だとか未来とかって/言葉がどれだけ手を/伸ばそうと届かない/場所で僕ら恋をする/時計の針も二人を/横目に見ながら進む」という劇中歌「スパークル」の歌詞は、ティアマト彗星とその片割れにこそ相応しいものに思えてくる。じっさい、この歌詞は地表をめがけて落下していく隕石群の映像に重ね合わされている。それは文字通り「恋に落ちる(fall in love)」のである。
 また、オープニングの「夢灯籠」や、今やすっかり一世を風靡した感のある「前前前世」が流れるMV風のシークェンスにおいて、しばしば都市景観が非人間的スケールの早回しで描かれる箇所は、彗星の主観的な時間の流れを思わせる。特異な時間イメージのなかで描かれる風景は、非-人間的存在の主観を表象しうるのである。
 RADWIMPSの劇中歌に触れたついでに、「前前前世」の歌詞もまた彗星の側から読めることを示しておこう。たとえば名高いサビの「君の前前前世から僕は/君を探しはじめたよ」の部分は、最初の「君」と二回目の「君」が別の対象を指していると考えることができる。すなわち、これを彗星目線の歌詞と考えると、最初の「君」が(瀧や三葉を含む)地球上の人間を指すものとすれば、二回目の「君」はかつて地上に置いてきた彗星の片割れをあらわす二人称と見なしうるのだ。2013年を生きる人間たちの「前前前世」にあたるほどの昔から、「自分=ティアマト彗星」は「君=片割れ」を探しているという解釈である。
 ここで「昔」というのは、具体的には、かつてティアマト彗星が地球に最接近した1200年前のことを意味する。2013年の1200年前は813年で、これはちょうど小野小町が活躍した時期(九世紀)にあたる。周知の通り、『君の名は。』のルーツの一つには小町の和歌「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ/夢と知りせば覚めざらましを」(「あの人のことを思いながら眠ったから夢に出てきたのだろうか/それが夢であるとわかっていたなら目覚めなかったのに」)がある。小野小町を「前前前世」に持つ人間が現代に生きているかどうか知るよしもないが、本作の世界観にあって、それもありえない話ではない。
 いずれにせよ、劇中歌の歌詞の水準においても、彗星の恋物語に人間の恋愛模様が縫い込まれ、映画テクストの一部を織りなしていることがうかがえる。この二つのスケールの恋を同時に描いたところに本作の強さがある。恋だの愛だのといったきわめて人間的な概念が、風景の一部たる彗星によって、ある意味で人間以上に人間的に演じられているのだ(むろん、映画は[今のところ]人間が人間のために作っているのだから、それは当然と言えば当然だが)。

*4   ここでは糸を引くような彗星の線のイメージと、それがぶつかった対象(日本地図上の糸守町)を中心に同心円状の波紋を描くさまが提示されているが、これは図像的には『雲のむこう、約束の場所』(2004年)や『秒速5センチメートル』(2007年)で主人公が弓道部に所属していたこととはるかに響きあっている。新海誠の過去の作品には、放たれた矢の直線的イメージと、それが的(複数の円で構成されている)の中心付近に命中するショットが見られる。

*5 三葉は髪を切ることで、入れ替わっていた時点の瀧との三年間のズレを埋め合わせようとしたのかもしれない(三葉は瀧より三歳年上である)。つまり、彼女が切った髪は、三年間という時間の長さ(線の長さが時間の長さをあらわす点でこれもムスビの変奏系である)を象徴しているように思われる(もちろん、東京で[三葉との入れ替わりを経験する前の]中学生の瀧と出会った三葉は、そのような現実を認識できていたわけではなさそうだが)。

*6 このモティーフの起源は『ほしのこえ』(2002年)で宇宙の彼方へと遠ざかりゆくヒロインと主人公の間で交わされていたメイルに見られる。地球から8光年離れたシリウス星系からヒロインが送ったノイズまみれのメイルが主人公のもとに届くまで、片道で実に8年半もかかってしまうのだ。「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ」というこの映画のキャッチコピーは、『君の名は。』の彗星にそのまま当てはまるように思われる。あるいは、『秒速5センチメートル』(2007年)の「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」や『言の葉の庭』(2013年)の「“恋”よりも昔、“孤悲”のものがたり」もやはり彗星のことを言っているように聞こえる(ところで、大方の観客が気づいているように、『言の葉の庭』のユキノ先生と思われる人物が『君の名は。』に再登場し、三葉のクラスで古文を教えている)。こうした事態は、新海作品における風景がいかに人間化しているかを端的に示していると言えるだろう。
 ちなみに、『ほしのこえ』でヒロインは「アガルタ」と呼ばれる惑星にたどり着くが、『星を追う子ども』(2011年)で主人公たちが旅する地下世界も「アガルタ」である。あるいは、『雲のむこう、約束の場所』には、引き裂かれた恋人同士が夢のなかで再会を果たすという『君の名は。』に繋がる設定が見られる。くわえて、『雲のむこう』では、国境という恣意的に引かれた分断性を飛び越えて文字通り「雲の向こう」に到達しようとする運動が物語の中心をなしている。このように、新海作品には間テクスト的な連続性を持った主題が存在する。新海誠のフィルモグラフィを貫く主題系の本格的な分析は、いずれ稿を改めて行いたい。

*7 これは『雲のむこう、約束の場所』に登場する廃駅の跨線橋のヴァリアントでもある。『君の名は。』で、歩道橋の上から空を見上げた瀧は、航行する飛行機とその後ろにたなびく二筋の飛行機雲を視界に収めている。二筋の飛行機雲は、((三葉の頭上にあらわれる))分裂した彗星の代替物として機能している。

*8 雨もまた文字通り画面を切り裂く線のモティーフとして新海作品に頻出する。雪や桜の花びら、および本作の彗星はそのヴァリアントである。

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