特異点としての2016年――『Fate/Grand Order』から見るゲーム経験と2017年の行方


 

 

1.FGOについて

 魔術だけでは見えない世界、科学だけでは計れない世界を観測し、人類の決定的な絶滅を防ぐために成立された人理継続保障機関・カルデア――そこでは100年後の未来まで人類史の安全を保証していたにもかかわらず、2015年のある日、人類は2017年を迎えることなく絶滅する事が突如証明されてしまった。主人公は過去にある7つの特異点へと向かい、自分が契約したりその先々で巡り合ったサーヴァントと共にそこで起こっている異変を解明して人理(=人類の航海図)を修復すること――聖杯探索グランドオーダー――で世界を救う。これが、2016年12月31日に完結したスマートフォン専用ゲーム『Fate/Grand Order』(以下、FGO)の大雑把なシナリオだ。

 そのシナリオと同期して2016年12月22日から25日に、最終章の一環である制圧戦が行われた。全7章のシナリオをクリアした=7つの特異点を修復したプレイヤーが参加できるこの戦いは、他のプレイヤーと連携(というほど大層なものではないが)を取り=これまで出会ったサーヴァントに助けられながら7本の魔神柱を各200~400万回ずつ倒し、敵勢力を制圧していくというものである。敵勢力の制圧を完了するとラスボスと戦うことができるようになるのだ。そう、FGOプレイヤーにとって2017年サーヴァントや他プレイヤー達との絆を以て掴み取った未来なのだ。

 制圧戦やそれを含む最終章の内容は多くのプレイヤーの心を掴んだ。その「FGOありがとう」の気持ちから始まった布教活動は活性化の一途を辿り、最終章を終えてもFGOプレイヤーの増加はまだ続いている。しかし私の中にはFGOプレイヤーの増加を喜ぶ思いの一方で、クリアしたプレイヤーの「FGOありがとう」コールに対するいくばくかの疑念が残ったのだ。ではFGOは2016年と共に何を終わらせ、一方で何を終わらせられなかったか。そこから2016年、そして2017年の輪郭が浮かび上がってくることを期待して、考察してみたい。

 
 
 
 ※『ヱクリヲvol.5』を読んでくださった方向けFGO制圧戦補足

 私はゲームにおける他プレイヤー(ソシャゲではフレンド)について、『ヱクリヲvol.5』掲載の「ソーシャルゲームのパラドックス――『ヒーロー』を巡るゲーム経験」において以下のように書いた。

これまでのゲームでは物語世界は個々のプレイヤーのセーブデータの中に独立して存在し、他のプレイヤーとの繋がりは必ずしも必要がなかった。だからこそそのセーブデータの中の世界は自分が動かなければ解決すべき状況が残されたままとなってしまい、「自分が救わなければいけない」というヒロイズムを抱くことができたのだ。(中略)しかし『Fate/Grand Order』は物語世界を個々に持ちながら、フレンド機能によって物語外に「使命を背負うべきマスターが自分しかいない」という同じアイデンティティを持つ他者を意識しなければならない(中略)サーバーが共通しているどこかで誰かが世界を救っているとしたら、自分が今見ている世界は所詮救われる前の「ログ」でしかなく、自分が頑張って世界を救う必要はなくなってしまう。理論的には最速でゲームをクリアした人がヒーローとなってしまう。(p241-240)

つまりソーシャルゲームにおいて、フレンドの存在はシナリオとシステムの間に乖離を引き起こすエラー箇所なのだと言える。FGOの制圧戦ではその乖離が説明された訳ではないが、うまく繋ぎ合わせて修復はされている。なんの説明もなく他のプレイヤーとの連携をゲーム内に組み込むのではなく、制圧戦で応戦に来てくれるこれまでに出逢った数多くのサーヴァントの動きを他プレイヤーが敵を倒す動きに仮託し、AIの代用として刻々と変わる戦況を表現したのである。元々FGOにおいてフレンドの持つサーヴァントの助っ人機能はあったにしろ、ランキングで他プレイヤーと競争させる仕様はなかった。単にフレンド=縁のあるサーヴァントとして表象されているにすぎなかったのだ。

 そしてもう一つ、「2016年以内に世界を救う必要がある」とシナリオが構成されており、制圧戦期間中に7章までクリアできていないプレイヤーにとっては、「まだ救われていない世界」が単なるログになってしまうことを割り切っている。しかしそれを犠牲にすることでネットワークゲームらしい「リアルタイム感」を演出し、ゲームへの没入効果を高めているのだ。 

 

 

2.7章:神代の終わり

 最終章「終局特異点 冠位時間神殿 ソロモン」を語る前に、少し回り道をしよう。予備知識として外せないのはその2週間前に配信された7章「第七特異点 絶対魔獣戦線 バビロニア」である。舞台は紀元前2655年、メソポタミア文明の都バビロニア――人々が彼らの生活に度々介入してくる神と袂を分かって、自分たちの世界を作る筈である時代だ。そんなバビロニアを三人の女神たちがそれぞれ固有の思惑に基づいて襲っていることが特異点である所以である。

 そのうちの二女神は主人公の説得などによって味方側へと引き入れることに成功する。しかしティアマトだけは、人類を滅ぼして新たに自分が産み出した新人類を地上に繁栄させようと最後まで立ちはだかるのだ。ティアマトは神話時代に様々な神々を産みだして愛したが、そんな世界の全て(こどもたち)に棄てられて天地創造の礎とされたメソポタミアの母なる女神である。子が自らの手を離れていく悲しさ、裏切られた憎しみをラスボスに利用され、ティアマトはもう一度すべての母に返り咲くためにバビロニアの都へとひたすら歩みを進める。ティアマトたちが地上世界を蹂躙していく中、主人公たちがティアマトを倒すことで紀元前2655年バビロニアの人理は修復されるのだ。

 神と人間の子であるバビロニアの王、ギルガメッシュはティアマトとの決戦を前にこう言う。

貴様は産み、管理するもの

我らは育ち、旅立つもの

子はどれほどの愛情を持たれようと、

母の手から離れなければならん。

(第七特異点 絶対魔獣戦線 バビロニア「絶対魔獣戦線 バビロニアⅡ」)

人間が神(=母)の怒りを乗り越えて、加護のない人間だけの世界を作ろうとしているのに対しティアマト以外の神や英霊(サーヴァント)はそんな人間を見守り支えようとする意志を7章では貫いている。そしてこの章で、プレイヤーはそんな神々や英霊から人間の世の未来を託されることになる――「君たち人間の行く末を見たい」と。

 7章のクリアによって無事に歴史上の神の時代――神代は終わる。人理は修復され、めでたく人間の社会が完成するという訳だ。最終章は7章から2週間後の配信ということもあり、その「神代の終わり」というテーマは引き継がれていく。ゲーム内で神の世を終わらせた私たちが、プレイヤーとして得た経験はどのようなものだろうか。

 

3.主人公/ヒーロー

 ゲーム(特にFateシリーズを含めたRPG)では、内実は時代や作品によって異なってはいるものの「世界を救って主人公がヒーローになる」経験を得られるものが多い。FGOでは何度かこの世界を救いうる「主人公の素質」についての言及が、登場人物の口からなされる。これらは決して「ヒーローの素質」についての言葉ではないところが印象的である。

 

 カルデアのトップを暫定で務めるDr.ロマンが「彼女(主人公)のような平均的で、でもまっすぐな人間がまわりに助けられながら世界を救う――それこそが人類の本当の価値であり、真価を示すのではないか。」(終局特異点 冠位時間神殿 ソロモン「ラストエピソード」)と述べていたエピソードでFGOは幕を下ろす。このように人間がただ人間であることを認め、「特別でなくていい」と肯定されるのが、FGOの特徴だ。その〈特別でない〉主人公という設定によって、プレイヤーは主人公と自身を重ね合わせやすくなる。そして、プレイヤー自身が「世界を救う」経験をすることができるのだ。

 だがそれは「ヒーローになる」経験では決してない。なぜならヒーローになった瞬間に〈特別でないただの人間〉ではなくなり、自らの価値を失ってしまうからだ。先ほどのDr.ロマンの言葉はこう続く――「ほら、どんな英雄であれ、まずは人間から英雄になるものだろ。神の血が混じっていたり、預言にある子供だったりしても、生まれつき英雄だったものは少ない。まずは人として生きる。人間という下積み時代があって英雄という非人間になる。」。神の血が混じっていたり預言にある子供だという時点で「平均的でまっすぐな人間」からはかけ離れてると思うが、とにかくただの人間だからこそ可能性があるということだ。

 

 主人公を取り囲む登場人物はもれなく、過去に偉大な業績を残したサーヴァント(英霊)=ヒーローばかりである。主人公と同じ人間だと思ってきたDr.ロマンでさえ、英霊ソロモンが聖杯の力を使って人間になったものだという。Fateシリーズにおいては、基本的に格好良いのはサーヴァント達であり、ヒーローであるのも彼らなのだ。最終章でこれまでに出会ったサーヴァントが応戦に来るが、そこでも主人公がただの人間であるにもかかわらず、めげずにひたすらに前に進んでいく姿勢が美徳であると評価する。いわばこれだけやっても主人公はまだ〈ただの人間〉なのであり、英霊(ヒーロー)たちに評価されることで「主人公」として存在することができるのだ。そしてそんな〈特別〉であるサーヴァントたちだからこそ、〈ただの人間〉に価値を見出だし最終章で主人公のために駆けつけてくれる――「多くの英霊、多くの争いを垣間見て、なお、私たちを英雄と信じた者が。その信に、その声に応えずして何が英霊でしょう。」(終局特異点 冠位時間神殿 ソロモン「第1節 獣の宙域」、ジャンヌダルクの台詞)それがサーヴァントたちと主人公の絆であった。

 

 

4.主人公/プレイヤー

 7章で神の元から離れ、独立して生きていくと人類は決めた。最終章では人間が苦もなく永遠に生きていける世界をラスボスである魔術王ソロモンが提示するが、主人公たちは困難に立ち向かいながら一瞬一瞬を大切に生きていくことを決意した。それは〈特別〉なものの支配を受けず、〈ただの人間〉として生きることを選んだことに他ならない。たしかに、そのような「神代の終焉」は英雄譚に相応しいものだろう。

 

 しかし主人公が下したこの結論と私たちがゲームを通して得る経験は、矛盾してはいないだろうか。

 たしかにこの主人公は周囲が〈特別〉であるサーヴァントばかりであるからこそ、生き残っている数少ない〈ただの人間〉であるからこそ価値があり、その行動や判断が尊くてかけがえないものとなった。しかし一方で現実にFGOをプレイしている我々の周りには英霊などいる訳がなく、〈ただの人間〉しかいない。そこで「ただの人間のままでいい」と評価されるためには、こちらから〈特別〉な存在を求めなければいけないのではないか。皮肉なことにそれは「神様を信じれば神様が救済してくれる」というように、人間社会において永らく神が担ってきた役割である。

 そう、ゲーム内では7章や最終章のクリアによって神の時代は終わったかもしれないが、ゲーム外に生きるプレイヤーにとってはむしろそのことが神を信じて縋る時代の始まり(自覚)として機能してしまっているのだ。もしくは「〈特別〉になる必要などない、このまま現状は〈ただの人間〉として生きていけばいいのだ。」と肯定してくれる〈特別〉な存在はFGOの中にいる。これがサーヴァントたちとプレイヤーとの――とても「絆」とは言えない――関係である。母離れできない子のように、愛情を注がれに〈特別なもの〉の元にいなければならない。

 ゲーム内では〈特別〉なものの加護を受けず、〈ただの人間〉として生きる。一方で、ゲーム外で〈ただの人間〉として生きるためには、〈特別〉なものを必要とする。この乖離は、主人公への感情移入のしやすさよりもプレイヤーに違和感を与えないだろうか。

 

5.2016年に終わらなかったもの/終わったもの

 これが、私たちが2016年に終わらせられなかったものの正体である。たしかに、人は一人では生きていけない。世界を救うことだって〈ただの人間〉には土台無理な話であり、〈特別〉なものの力を借りる必要がある。これまでの数々のRPGの主人公もそうやって世界を救ってきただろう。しかしFGOは〈ただの人間〉を〈特別〉に仕立てあげるために「〈ただの人間〉が一人しかいない」という手段を使い、それを前面に押し出して肯定した。そのためにプレイヤーは自分が〈特別〉になれないことを悟り、そして自分を認めてくれる〈特別〉なものを求める。神代は終わってなどおらず、信仰と加護という形で後景化しているだけである。

 一方でプレイヤーにとっても終わったものがある。それは最終章における「Dr.ロマン」の消失にも表象される――ロマンティズムの終わりだ。神は助けてくれず、永遠も否定され、〈ただの人間〉だからこそ素晴らしいとされる世界。たしかに主人公にはできるだけ多くの人が感情移入ができるよう、〈ただの人間〉がなにかの偶然によってその世界を救わなければならない設定であることも多い。それはゲームをいかに現実的に見せるかというリアリズムの問題が、リアルにまで近付きすぎてしまったからだ。しかしそのような「ゲームのリアリズム」を追求した結果、2016年には「ゲームのロマンティズム」が失われているのではないか。

 

 私たちはヒーローに、〈特別〉にはなれない――ロマンティズムの消失は、どうやらゲームだけの問題ではないのように感じられる。奇跡を重ねて偉大なスクールアイドルとなったμ’sの物語である『ラブライブ!』が2016年4月1日に幕を下ろした。彼女たちは高校卒業を期に「今が最高!」と解散をしてFGOのように直接的に永遠を否定してみせ、次に始まった『ラブライブ!サンシャイン!!』は作中で何度も「普通の私たちが」といった台詞が登場している。μ’sという女神の時代の終わり、そして〈普通の女の子〉がスクールアイドルになれる時代の到来を告げているのだ。

 他にも11月29日発売の『FINAL FANTASY XV』ではもはやファンタジーがリアルの側に寄って存在しており(参考:「【コラム】『FF15』の終わりなき旅―歪な世界の多重リアル構造【ネタバレ注意】」)、この6年間何度も「永遠」を歌詞に入れてきた『うたの☆プリンスさまっ♪』シリーズですら秋クールアニメ『マジLOVEレジェンドスター』で「永遠などないと知ったからこそ、今を大切にする」というメッセージを込めて「今を全力で歌うそれがST☆RISHの永遠」と「永遠」の再定義を始めた。あるいは「良い子」代表としてのイメージが強かったベッキーの不倫報道や、永遠であるかのように存在していた国民的アイドル・SMAPの解散もそのうちの一つと言えるかもしれない。圧倒的で〈特別〉な存在は虚像となり、身近で〈普通〉なものだけが残った。それが2016年なのだ。

 

 2016年という特異点を経て、2017年が幕を開けた。そこにあるのは〈特別〉になることを諦める一方で、後景化した〈特別〉なものを求める時代である。そこで私たちはこれからロマンを追い求めることがいけないことのような、そんな気分を抱えたまま生きるのだろうか。

 FGOで英霊ギルガメッシュがラスボスを評した言葉が特に印象的である。未来を視ることができる千里眼の持主から放たれたこの言葉は、プレイヤーへの警告そして皮肉となる預言かもしれない。

人間を滅ぼすものは人間への悪意ではない。

悪意など一過性のもの、使えば薄れるものだからな。

故に――真に人理を脅かすものは、

人理を守ろうとする願いそのもの。

より善い未来を望む精神が、今の安寧に牙を剥くのだ。

(終局特異点 冠位時間神殿 ソロモン「第15節 帰還」)