変身の神話と言葉の誕生――遠藤麻衣子論


 遠藤麻衣子という才能の前で私たちは言葉を失う。彼女の作品を見た者は高速で移り変わるヴィヴィッドなイメージと、声とノイズが混濁した音の奔流に圧倒されるだろう。それは鑑賞者に感じることを求め、「読む」ことを恐れさせる。彼女は意味という砂金を約80分の音と光でできた砂漠の中に放り投げる。そのせいで、私たちはそれがどういう映画であったかと他から聞かれれば、なかなか言葉にできなくなってしまう。なんとか説明しようとすれば言葉の前で恐れをなし、立ち往生してしまうだろう。
 しかし、ただその映画に何の意味も見出さず、体験に溺れるうちにいつのまにか見終わってしまうのであれば、その鑑賞はいくばくかの寂しさを残すかもしれない。私たちはこのダイナミックな体験を持ち帰ることはできないのか。このまま彼女が描く世界とのコミュニケーションの手段は失われてしまうのか。
 本稿は、突如現れた一人の独創的でエネルギッシュな作家へのささやかな抵抗だ。前半では遠藤が援用する古代の神話のモチーフのほんの一部を取り上げ、彼女の作品があるところまでは記号的に解釈可能であることを確認する。後半では、そうした記号的な解釈からこぼれた知覚体験について、主に音の構成について読み解く。
 だが、本稿を読み終えても決して彼女の作品を全て理解することはできないだろう。しかし、何かを感じ、読み取る私たちの感覚は一層洗練され、もう一度映画館へと足を運びたくなるかもしれない。さあ、この豊かな知覚体験の砂漠で、ちょっとした宝探しを始めよう。

1.

 遠藤の作品のモチーフは決して「読めない」のではない。作家自身が20世紀のシュルレアリスム画家ギュスターヴ・モローからの影響1を公言することからもわかるように、彼女は東西の神話から多くの着想を得ている。坊主頭の少年が商店街や海や森の中を行き来し、土着的な幻想空間とリアルな日常風景の混在を描いた『KUICHISAN』(2011年)からも、アイスランドとインドを舞台に、東洋と西洋、自然と文明の寓話的な衝突を描き出した『TECHNOLOGY』(2016年)からも、いくつかの共通したシンボルを取り出すことはできる。遠藤が参照する、両者に共通する神話とはあるものが別のなにかへと「変身」を遂げる物語だ。
 「変身」の最も顕著な例は「動物」だ。ただの動物ではない。それらは、人や神であったものの化身として現れる。『KUICHISAN』には、人の手で喉にナイフを刺されて走り回る豚が登場する。古代ギリシャで豚は子宝を授かるために生贄に捧げられた。生贄の豚が新しい人間の命に転生するかのように、人間のほうは新しい命をさずかる。また、林の中でうごめく蛇は、沖縄の民間伝承の中で人間の男に化けて女を妊娠させる怪異を連想させる。『TECHNOLOGY』のインドパートにはなんども牛が登場する。牛はミノタウルスから、エウロペをさらうゼウス神まで、ギリシャ神話で神々が変身する動物の定番だ。あるいは、主役の少女が目をつむり眠っていると、突然、次のショットでは若い白人男性の手に乗った蝶へと移り変わっている。女の子は、夢の中で蝶に化ける荘子の寓話「胡蝶の夢」のように蝶になった夢を見ているのだろうか。

 モローが好んで画題に選んだものに、古代ギリシャの詩人オウィディウスの『変身物語』がある。そこでは人は動物へ、動物は神へと容易く変身する世界が描かれる。ギリシャ神話原典の一つでもある『変身物語』で、世界創生の神話は、まずこの世のあらゆるものが渾然一体のスープのようなカオス状態から始まる。そこから大地と海が分かれ、一体だった世界が様々な要素を獲得する。つまり、そもそもすべてのものが混ざり合っていたために、あるものは別のものに変身することが可能なのだ。
 ところで、ギリシャ神話の最高神は「雷」を司るゼウスである。そしてその「雷」こそが、世界の創造と「分離」について重要な役割を果たす。ここで、遠藤もまたこの「雷」をモチーフにとっていることに注目したい。

 『TECHNOLOGY』の冒頭、主役の少女は真っ白な山際から湖へと歩いて登場し、水に浸かり、空に雷鳴が轟き、川をボートで下る少年たちが少女を水中で発見する。彼らが少女を引き上げたのかは定かではないが、少女とおぼしき(1ショットだけの極端なクローズアップで定かには確認できない)人影を車がニューデリーの繁華街へと運び出す。それもまた解釈の一つにすぎないのだが、少女は西洋文明の終わった何もない世界から東洋の文明圏へと移動したのかもしれない。嵐の中では牛(神の化身)がたむろしている。その途中に「雷(神鳴り)」がある。

 『変身物語』の一挿話「パエトン」を画題にした同名作で、モローは「雷」を描いた。「パエトン」の話を簡略に説明すると、ギリシャ神話において太陽は、太陽神アポロンが御者を務める炎のチャリオット(馬に引かれる戦車)である。父アポロンの目を盗んでチャリオットを動かした少年パエトンは、誤って馬たちを暴走させ、天球の軌道上で焼け死んでしまう。モローは、惨状を見かねたゼウスが「雷(いかづち)」によってパエトンを一思いに殺す場面を題にとり、「雷」をライオン、その落下の軌道を蛇のような体躯を持つ龍の姿に象徴させている。
 モローの絵画で「雷」は炎と少年を分け、そして生と死をも分かつ。つまり、ゼウスの「雷」は「分ける」ことそれ自体の徴――稲妻が空に亀裂を刻むように――なのである。 ここまで遠藤の映画に登場する動物のモチーフを取り上げ、それが人と動物と神とが変身によって行き来する寓話性を持つこと、それはあらゆるものが混ざり合った状態から個々のなにかに分離し始めるという創生神話に基づくこと、その「分離」に雷が関わることをそれぞれ確認してきた。

 しかし、彼女が提示する種々のモチーフは、映画全体の説話を補強するようなイメージでも、明確な記号性を持った2ものでもない。ときに、遠藤作品のカメラは被写体に接近しすぎ、その全体像を見失い、しばしば何が映っているのかもわからなくなる。
 彼女はどうして、ある部分までは神話の象徴として読むことができるこうした被写体を、音と光の過剰な信号にしてしまうのだろうか。読むことのできる象徴をどうしてわざわざ「読みつくせない」ほどの刺激にしてしまうのか。以下では、その過剰さのほうに目を向けていこう。

 結論を先に言えば、遠藤がこのような手順を取るのは私たちが創世記よりも前の世界にいるからではなく、すでに出来た後の「言葉が当然になった世界」に暮らしているからなのではないか。私たちは、ここまで取り上げてきたような動物のイメージがなにかの象徴になることを当然視してはいけない。それらが「読まれる」前提には、そもそも「言葉」を使った認識がある。つまり、それはすでにあの「分離」が行われた後の知覚だと自覚する必要がある。遠藤作品はそれと逆行するように「言葉」のある世界以前へと観客を誘う。神話を参照することで、遠藤はできあがったあとの「言葉」の世界から、「言葉」の誕生、そしてそれ以前のあらゆるものの混ざった世界に観る者を立ち返らせようとする。だから、彼女はもう一度「雷」から始める必要があった。
 ここで「雷」は視覚(稲妻)だけでなく、聴覚(雷鳴)でもあることを想起しよう。「言葉」の誕生への立ち返りにはイメージと意味ではなく、音と意味という回路が必要だ。言葉は「文字」ではなくまず「声」としてやってくる。そうであれば、最初の言葉は無数の「言葉になり損ねた無意味な声」の集まりから湧き出たのではないか。

 遠藤の映画の中の「言葉になりそこねた音」に目を向けよう。それは、人間の口から出る意味を持たない声のことだ。『KUICHISAN』のあるシークエンスには、そのヒントがある。主役の坊主頭の少年が「あはは、いひひ、うふふ、おほほ」と海に向かって叫び続け、不満そうに何度も繰り返す。この呪文は子どもたちが暗闇で焚き火をするシーンで再度繰り返される。さっきは海に向かって発せられたその「あはは、いひひ、うふふ、おほほ」は、今度は炎に向かってときには「あはは、いひひ、えへへ、おほほ」となったりして反復されるのだが、それは決して「あはは、いひひ、うふふ、えへへ、おほほ」たり得ない。

映画「KUICHISAN」 ©A FOOL

 なぜそうならないのか。少年は同じ年頃の子どもたちから「ばっかじゃないの」と罵られながらも一心不乱に目の前の炎に向かってその呪文を繰り返す。
 なぜ「あはは、いひひ、うふふ、おほほ」や「あはは、いひひ、えへへ、おほほ」が「あはは、いひひ、うふふ、えへへ、おほほ」たり得ないのかについて、それは彼がフレーズが4つであることに執着し、5つであることを拒んでいるとするのはいささか解釈の遊びがすぎるだろうか。しかし、彼がそのフレーズを四つ刻んでは再び「あはは」に返るのを繰り返して聞いていると、こうした思いつきも的外れではない気がしてくる。その繰り返しが心地良いのは彼が「あはは」から始まる4つのリズムで一つの小節を構成するからだ。この「あはは…」は一方で目の前の炎や海への驚きを「言葉」で表そうとする身振りにも見え、もう一方では4つのフレーズで一つの小節をつくる音楽であろうとする。つまり彼が目の前の自然に発する声は言葉でも音楽でもなく、それゆえに「そのどちらでもありうる」のだ。彼の発声は決めかねるかのように、その二つの基準を行ったり来たりする。それは声とノイズと音楽とが一体の状態から、今まさに「言葉」が生まれようとする直前の風景なのだ。

 遠藤の映画における「動物」と「変身」のモチーフは、「言葉」を持つもの(人)から持たないもの(動物)への変身、またはその逆方向への変身と取ることもできるだろう。彼女はこうして「言葉」が生まれる前と後の世界を絶えず行き来する。
 私たちが普段使う、お互いに意思疎通するための共時的な言葉がどれだけ当然のように存在していても、そうして「言葉」が通じ合う世界のずっと前に「言葉」の通じない自然に向かって悲鳴のように発せられた最初の「一語」があったはずだ3。「雷」が象徴する「言葉」の誕生は、自然から「人間」への変身の瞬間でもある。遠藤はこの変身を微分し、引き伸ばし、なんども再生する。

映画「TECHNOLOGY」 ©A FOOL, the cup of tea

 また、遠藤の言葉の起源への立ち返りは決して考古学的な時代劇ではないことも看過してはいけない。『TECHNOLOGY』のインドの繁華街を映したパートや、『KUICHISAN』の現代の沖縄の商店街やショッピングモールで松任谷由実の『人魚姫の夢』が歌われるショウタイムなどのシークエンスは必ずしも彼女が、時代劇として神話を語っているわけではないことを印象付ける。どんなに発達した文明の中にも音と光が溢れ、私たちは知覚によって周囲の世界を体験することを彼女は思い出させる。「言葉」というのは大昔に生まれただけではない。日々、個々の体験の中でその都度、新しく生まれているのだ。世界は絶えず「変身」し続ける。
 では、その誕生(変身)の場とはどのようなものだろう。以下では『KUICHISAN』で見たようなノイズとも音楽とも声ともつかない「音」たちについて検討してみよう。雷に限る必要はない。私たちの生活の中にある、一つ一つの音は、スープのように混ざった自然の中から分離し、今にもなにかの意味を持とうとしているのだから。

2.

 『KUICHISAN』における「音」を思考するのに、長門洋平が『映画音響論 溝口健二映画を聴く』(2014年、みすず書房)で用いたいくつかの道具立てはおそらく有用だろう。だが、長門が映画における音響を声・音楽・騒音(ノイズ)の三つに分けられるとしている点については留保が必要だろう。遠藤作品に鳴り響く「音」は、この三つの区分を常にかき乱し続けるように思えるからだ。
 複数の音楽家によるクリエーションを混ぜ合わせた遠藤作品の音響は、土着的な民謡、ポップス、インダストリアル・ノイズのようなものまで混ざって非常に多様だ。また『KUICHISAN』における子供たちの不明瞭な発音や、観光客の女性が電話に向かって話す小さな声、『TECHNOLOGY』におけるインド人の訛りのきつい英語と、主演のインディアが寝起きに発するうめき声といった「声」は必ずしも「言葉」のように整理された意味を持たない。あるいは環境音と声とを区別しないような音響演出もなされるし、場面によっては、声・音楽・騒音(ノイズ)という三つがかなり混じり合った状態で映画が進行していく。なにより、それらの「音」が果たす機能も一般的な劇映画とは異なっている。

 映画における音の役割について理論家ミシェル・シオンは「イン」「オフ」「フレーム外」の概念4を提唱した。長門はこれに登場人物の思考をボイスオーバーとして流す「内面的な音」と、複数のショットを連続した一つの環境音や音楽によって一貫性を担保する「サウンド・ブリッジ」を加えて五つに分類した。その上で「オフ」だけが物語世界外の音であり、他の4つが物語世界内の音であるとまとめた。
 他の多くの劇映画と遠藤の作品との大きな違いは、彼女がほとんどカットバックを用いないことだ。一方で、とりわけロングショットを多用する映画というわけでもない。そうして、映画を一つの一環した作品として見せるための古典的な技法を欠いたことで、彼女の作品はほとんど支離滅裂で実験的な映像の羅列になる危機にもさらされる。遠藤作品がしばしば難解な印象を与えるのも、そのためだろう。だが、その危機から私たちを逃がしてくれるのは、その特異な「音」なのである。

 どういうことか。遠藤は、例えば『TECHNOLOGY』における少女が入水するときの、触覚的なものが水に入る時のぼこぼこという音や、『KUICHISAN』で、沖縄の米軍基地の上空を飛び回る軍用ヘリコプターの飛行音など、音と画面とを同期させようとする傾向が強い。一方で、オフの音声として流れた音楽によって複数のシークエンスをブリッジさせ、音楽によって映像をつなぐ、やりすぎれば映画よりもMVに近いものにしてしまう演出も多用する。
 重要なのはこの二つの演出が観客に対して真逆の効果を持つことだ。画面と効果音の同期性はイメージと音を同化し、オフの音によるブリッジはイメージを異化する。このようなイメージの異化と同化を行き来しながらほとんど感覚的に、そして丹念に一本の映画を仕上げていく彼女の忍耐と、鋭利な感性には舌をまく他ない。

 だが上記したような、音による画面の同化と異化自体は、はっきり言って多くの映像作品に共通して一般的に見られる現象だ。遠藤が特異なのは、言葉に頼らない分、映画の一貫性を極端にこの効果に頼ることにある。そして、イメージと音との同期性を強めたり壊したりをするうちにその音が「物語内/外」どちらの領域で鳴っている音なのかという区分が次第に曖昧になっていく。先の五つの分類で説明すれば『TECHNOLOGY』におけるギターやサックスの演奏でまず「オフ」の音と、「フレーム外」の音の分類が曖昧になり、インディアが叫んだり、老人が彼女に古代の花の話をしたりするシーンでその「声」は、「イン」なのか「内面的な音」なのか、「オフ」の「ボイスオーバー」なのかが定かではなくなる。総じて言えばそこでは、「オフ」とそれ以外の四つの音の区別は明確になされず、物語の内/外を区分するはずのフレームがぐらぐらと瓦解するのだ。観客は、物語内外という区分が瓦解した後の、それでも全体が支離滅裂になったわけでもない、奇妙な音と光の織物としての「遠藤の映画」を鑑賞することになる。

 最後に、遠藤の作品における「音」が持つ可能性を考える一つの切り口を提示したい。長門は前記した本の中でおもに溝口健二の作品を取り上げていくのだが、『近松物語』(1954年)について論じた章の中で、その音とイメージの演出の特徴を「一元論的な」構造という呼びかたで紹介している。『近松物語』では、裕福な町人の家で、主人との仲を悪くしたことから、結果的に駆け落ちすることになるその家主の妻と使用人の悲恋が描かれる。長門はクライマックスで、駆け落ちの罪で捕らえられた二人の男女が刑場に送られていく場面での音の演出を取り上げ、セリフと役者の表情、音の使用が「一元論的に」組み合わさった前衛的なものであると分析する。
 「一元論的」と称されるこの音の使用が前衛的なのは、従来の映画が「二元論的な」映像の説話とそれに対する伴奏という体制であったことに由来する。これ以前の映画では、サイレント映画時代の文法を引き継いでおり、イメージによって物語を展開し、その物語を助長するための音楽という「二元性」が通常であったというわけだ。
 「一元」的であるとは、イメージ、音、セリフのどれかが支配的な役割を持つのではなく互いに補い合いながらシーンの機能に寄与する様態だ。早坂文雄の独特な音楽は洋楽器と和楽器の「不純な」編成や、三味線と二胡のユニゾンと太鼓が奏でるミニマルな音色によってニュートラルな個性を獲得する。これが主演のカップルを演じる役者の喜怒哀楽のはっきりしないアンニュイな表情と、行列に集まった野次馬が二人を「あんな明るい表情」と描写する説明的なセリフと合わさり、相互補完的にシーンを作り上げる。長門は早坂の仕事に、歌舞伎由来の日本的な音楽感覚と、早坂が影響を受けたジョン・ケージのプリペアド・ピアノとの融合を見出した。

 遠藤の作品が神話を基調としたフィクションであること、その上で言葉による語りを採用しないこと、そして物語のフレームが曖昧であるがゆえに音や光がそのまま観客に届くことを分析してきた。彼女の映画は確かに音と光によって観客に伝わるが、その知覚刺激が作り出す記号性と、その音がどこで鳴っているのか(つまり、5分類のどこに含まれるのか)は曖昧なままだ。そのために彼女の映画はなんらかの物語だが映画の要素のどこからどこまでが物語の内なのか、どういう物語なのかは曖昧なままにされる。
 光と音に関する限りであれば『近松物語』と遠藤の映画はよく似たアプローチをしている。どちらも音や光が記号的に意味を持つことを避けている。両者が決定的に違うのはセリフの有無なのだ。長門による分析を見た後、私たちは遠藤の作品が持つ効果を、この『近松物語』の3要素からセリフを除いたような場面の連続とみなせるのではないか。溝口の『近松物語』の3つの要素が互いに相互補完的に成立させる当該シーンからセリフがなくなれば、そこには意味を持つ前のニュートラルな音とイメージだけが残る。つまり、遠藤の作品を「まだ」セリフを持っていないシーンたちの集まりなのだ。だからと言ってこれは、遠藤の映画が説明ゼリフによって豊かになるという意味ではもちろんない。これまで確認したように、彼女の映画はそうして「言葉」を失うことで、私たちが今使っている「言葉」が成立する前の、あらゆる意味が潜在する時間に立ち返っているのだ。

 『近松物語』のその二人が刑場に引かれていくシーンでかかる太鼓、二胡と三味線のユニゾンは、『TECHNOLOGY』の終盤で主演の男女が暗闇でなにやらもぞもぞとうごきまわるところにかぶさる四つ打ちの電子音を想起させる。そこには「あんな明るい表情」という説明ゼリフがないだけなのだ。そこでカップルたちはどちらも口をきかず、説話の機能から解放されたニュートラルな知覚だけがある。彼女の映画がフィクションであるとすればその「語り」のフレームは音が規定している。彼女はその「フレーム」であるはずの音について、声と音楽とノイズの区別をとりはらい、それによって物語内/外の区分は曖昧にし、映画はその内と外を何度も劇的にまたぎ直す。その横断が私たちに思い出させ続ける。今話しているこの「言葉」は、いつか誰かが最初の叫びによって獲得したものなのだと。私たちはいつかなにかから「変身」したものなのだと。遠藤麻衣子の映画は、その瞬間を観客に体験し直させてくれる。

〈註〉
1 http://ecrito.fever.jp/20180512221042
2 例えば、イタリアの映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニは、人間の顔を左右対称に正面から映すことを好んだ。ハリウッド古典映画に代表される俳優の顔を斜め横から移す造形美学からすればかなり異質だが、彼の美学は古代エジプト遺跡の壁画にある、横顔に正面から見た目を添えられた人物像を連想させる。パゾリーニが人気詩人であったことも合わせて想起したい。
3 フランスの小説家パスカル・キニャールは『音楽への憎しみ』(1997年、青土社)の中で言葉の誕生が、なんらかの自然災害の危機に直面した時のうめき声だとしており、雷もそうした災いの一例に挙げられている。
4 フランスの映画理論家ミシェル・シオンは、『映画にとって音とは何か』(1993年)声を発する人物やラジオ、楽器など画面の中に音源が映っているものの音を「イン」、画面に映っているのと同一空間で画面外から鳴っていることを示唆する音を「フレーム外」、感情説明のための音楽やナレーションなど「物語世界」の外から流れてくるものを「オフ」と定義した。

遠藤麻衣子インタビュー
連載:新時代の映像作家たち