遠藤麻衣子インタビュー:連載「新時代の映像作家たち」


 遠藤麻衣子は違う惑星からやってきた――。
 この新たな作家がもたらす衝撃を気鋭の映画監督ジョッシュ・サフディはそう評したが、それは日本の観客にとっても同じことだ。ヘルシンキで生まれ、高校卒業後に日本からNYへと渡った遠藤麻衣子は、すでに二つの映画を撮っている。しかし、それらの作品は当の日本で上映される機会がなく、今回が初めての公開となるのだ。なにより遠藤麻衣子の作品はわたしたちが想像する「日本映画」とはかけ離れている。『KUICHISAN』(2011年)で轟音とともに映し出される街や自然は、およそわたしたちの知っている「沖縄」ではない。『TECHNOLOGY』(2016年)の舞台はアイスランドとインドであり、その寓話的な世界に日本人は一人も登場しない。わたしたちはその強烈な音響とヴィジョンにはじめて「遭遇」することになるだろう。
 この未知の作家との「ファースト・コンタクト」をさらに奥深く体感すべく、インタビューではNYシーンでの経験や、神話とインスピレーション、その特異な音響設計、日本映画との関係性などを監督に聞いた。

(聴き手・構成 伊藤元晴・後藤護・山下研)

映画「TECHNOLOGY」 ©A FOOL, the cup of tea

 
映画を撮るためにNYへ渡った

――遠藤監督の作品は今回のイメージフォーラムでの上映が日本初になります。まず映画を作ろうと思ったきっかけや経緯からお伺いしてよろしいでしょうか。

遠藤麻衣子(以下、遠藤) 高校生ぐらいの頃から、何となく映画を撮ろうと思っていました。それで映画の勉強をしようとアメリカに行こうと決めて、NYを選びました。その頃は英語も全然喋れなかったので、語学学校に通ったりしていました。映画学校に行くには年間300万ぐらいかかると知って、入るためのテストも面倒だったので、そのままフラフラしてました。

――具体的に撮影を始めたのはいつ頃なんでしょうか。

遠藤 高校生の頃です。学校にデジタルカメラを持ち込んだりして、それで授業風景とか、もう何でも撮ってました。編集したりもせず、ただ撮って一回も見返さないということをしていました。いつまで日本にいるかも分からないですし、学生ももう終わりだし、ということで記録すること自体が尊かったというか。

――英語圏での記事に「マイコ・エンドーはBattlesの一員だった」という記述がありました。公式の記録には遠藤さんの名前はないと思うんですが、デビュー前のお話でしょうか。

遠藤 Battlesって最初、イアン・ウィリアムズがやりたかったのは10人くらいの女の子のボーカルを入れるものだったんですよ。結局、メンバーが全然練習とかに現れなくてイアンが言うには「女の子たちはlazyだ」ということで挫折しちゃったんです。ただ、ライヴは何回かやりました。

――イアン・ウィリアムズとはどのような出会いだったんでしょうか。

遠藤 オーディションの貼り紙をたまたま目にして、何の応募なのかも分からずに行ったらバンドのオーディションだったんです。それまではDon Caballero(イアンの前身バンド)のことも知らなかったです。イアンとは『TECHNOLOGY』でも音楽をやるかという話になっていたんですけど、結局なくなっちゃいましたね。

――具体的な作品の制作過程について聞かせてください。最初に作品に取り組むとき、まず何かを撮り始めるんですか、それとも脚本を書いたりアイデアを書き留めるところから始まるんでしょうか。

遠藤 まず最初にロケハンですね。そこで見たものを記憶して、それから脚本を書き始めます。だから最初から「撮る」ってことはないんですが、リサーチ用に撮ったりはします。それは主にSuper8で撮影していて、少しデジタルも混ざってます。

――ロケハンに向かうとき、あらかじめヴィジョンを持って向かっているのでしょうか。例えば『TECHNOLOGY』ではインドとアイスランドが舞台ですが、何かしらのイメ―ジを作ってロケハンに行ったのでしょうか。

遠藤 いや、まったく先入観なしで行きますね。縁のあった場所に、ただ入っていく。

――『KUICHISAN』と『TECHNOLOGY』の舞台になった沖縄、インド、アイスランドには、それぞれどのような縁があったんでしょうか。

遠藤 まず『KUICHISAN』の方ですが、『Beetle Queen Conquers Tokyo』というドキュメンタリー作品の制作を手伝っていて、そのお給料で仲のいい友達がいた沖縄・コザに向かったんです。『TECHNOLOGY』は、以前から知り合いだった主演のインディア・サルボア・メネズの縁でインドとアイスランドに行きました。沖縄もインドもアイスランドもそれまでは行ったことのない土地です。

映画「TECHNOLOGY」 ©A FOOL, the cup of tea

 
「神話」と遠藤麻衣子

――『TECHNOLOGY』は全編を通じて神話的なモティ―フがとても多いですね。たとえば『TECHNOLOGY』では主人公の女性が水に顔を半分沈めて、そのほとりである男性に出会う美しいシ―ンがありますよね。あのシ―ンではナルシス神話やオルフェウス神話を想起しました。

遠藤 私はすごく神話に興味があって、本などもよく読んでいます。『TECHNOLOGY』は「なぜ西洋と東洋は分断されたのか」という着想で始まった映画なので、西洋・東洋両方の神話を取り入れて作っています。

――その『TECHNOLOGY』の着想に具体的にインスピレーションを与えたものはありますか。

遠藤 ユイスマンスの『さかしま』(1884年)を読んでいて、小説自体はそれほどでもなかったんですが、ギュスタ―ヴ・モローの絵画について触れている箇所がありました。それが「西洋と東洋」について考えている私にはピンとくるものがあったんです。ちょうどその頃インディアに会いにフランスに行く用事があったので、モロー美術館にも行ったりしました。

――モロ―の作風は耽美的で細密主義の、いかにも世紀末的な頽廃絵画ですが、遠藤監督の映画はむしろその貴族趣味を壊そうとしていて、その方法を「東洋」に求めているのかなと感じました。

遠藤 やはり描きたかったのは西洋と東洋の衝突ですね。私が『TECHNOLOGY』を作り始めたときにちょうど東北大震災が起こって、原発問題があって、西洋中心に進められてきたテクノロジーというものの臨界点を感じてました。そのときにインドに行ったので、東洋にそれに代わるものを求めていた節はあります。この映画を作るにあたって、リサーチのためにインドのほかにヨーロッパ中を旅して回ったです。その二つの旅を比較してみると、ヨーロッパにいると何か枠にはめられているように感じるんですが、インドに行くとそれが解き放たれて、色々と「隙間」に入っていける気がする。これからの時代、こうしたものが必要だなと思いました。

――各土地を撮る際の撮影方法で気になったところがあって、『TECHNOLOGY』のアイスランドはロングショットで、額縁に収めるようにして撮っていて、これを観たときにすごく西洋的な伝統を感じました。一方インドを撮るときは、手持ちカメラなどで被写体の中に入り込んでいくような感じがありました。撮る土地によって意識的に方法を変えていますか。

遠藤 それはあります。インドを撮るときは、その場その瞬間をやっぱり大切にしたいと思って、なるべく「生」のものを出すようにした結果、あのような撮り方になりました。

――『TECHNOLOGY』というタイトルに絡めて聞きたいのですが、西洋(=テクノロジー)VS東洋(=プリミティヴ)という図式ではないわけですか。

遠藤 そうですね。そのような単純な図式化はできないと思います。インド的なものは、古代のテクノロジー、あるいはそもそもテクノロジーを持つ前に人間が持っていた力でしょうか。それらを神話に仮託して語っているところもあります。

――遠藤監督は神話からインスピレーションを受けることが多いのでしょうか。

遠藤 う―ん……自分のなかに「シンボル」があって、それからいつもインスピレーションを受けてます。それが何かということは、あまり言わないようにしています。そのインスピレーションに近い神話を取り込んでいくという感じでしょうか。あと土地を訪れたときに、神社やお寺とか古くからあるものを実際に見ることから学ぶこともあります。

――映画の構造的に『TECHNOLOGY』も『KUICHISAN』もどちらもメインの登場人物が2人いて、それぞれの物語が別々に展開されているのが似ていると思いました。

遠藤 そうですね。『KUICHISAN』もとても神話的な映画なので、その「世界」に必要なアウトサイダーとして白人女性の役を入れましたね。

――たしかに神話への関心は『KUICHISAN』にも表れています。劇中で「蛇」と「糸」に関する民間伝承めいた逸話が語られるシ―ンがありますが、あれは実際に沖縄に伝わるものなのでしょうか。

遠藤 あの話をしている彼はすごくて、そういう妖怪話を100話ぐらい暗記しているんです。あのお話は、そのなかの一個です。

映画「KUICHISAN」 ©A FOOL

 

 ――『KUICHISAN』というタイトルも、そうした伝承に由来するのでしょうか?

遠藤 それは関係ないです。タイトルの由来は二つあって、一つはあまり言わないようにしているんですが、もう一つは言えます。頓智のきかない少年の話なので、「一休さん」をひっくり返して「九一(くいち)さん」という言葉遊びをしてます。

――作品の舞台となる土地の伝統や歴史を知ることは遠藤さんにとって大事なことなんでしょうか。

遠藤 私は何よりも実体験を重視しているから、「歴史」はあまり調べないですね。沖縄で実際に話をしたその人たちの歴史を身体に叩き込むということは意識しています。だから本を読むだけなら東京でもできるので、現地に行って実際に見た自然や、会った人から作品のイメージを作っていきます。『TECHNOLOGY』でも自然は大きなテーマです。

――現地に行って、そこに住む人たちとどんな話をするんでしょうか。

遠藤 それはもう単純に一緒に過ごす、それだけですね。そこに言葉がなくてもよくて、一緒にいるだけで伝わってくるものもある。映画を撮るときも、ただ撮っている。あんまり演技指導とかもしません。『TECHNOLOGY』はほぼ一発撮りでした。

――『KUICHISAN』の焚火のシーンでは、子どもたちが意味をなさない言葉を連呼しています。あれも神話的なモティーフがあるのでしょうか。

遠藤 あのシーンには具体的な神話の参照があるわけではないんです。ただ私は映画では一つの神話的な「世界」を立ち上げたいという思いがあるので、それにふさわしい音やセリフをつけているという感じです。やっぱり「話」を作るのが好きなんです。虚構のなかで実際に世の中にあるものを表現できたらいいな、と思います。

――宣伝文句にある「幻想記録映画」という呼称は監督自身によるものでしょうか。

遠藤 『KUICHISAN』の音声を担当してくれた子が「この映画は『ファンタジー・ドキュメンタリー』だ」みたいなことを言ったので、それをただ日本語にしたんです。それがしっくりきたわけではないんですが、イメージフォーラムに何かタイトルが必要だと言われたので、これにしました。

――「幻想」と「記録映画」という一般的には矛盾する概念をくっつけているわけですが、それぞれの概念について監督が抱いているイメージや意見はありますか?

遠藤 自分がいつも幻想のなかに生きているようなところがあるから、あまり両者の区別もないのかもしれません。

――(遠藤監督と懇意である)サフディ監督の『神様なんかくそくらえ』(2014年)という映画がありますが、あれも一種の「幻想記録映画」だったと思います。主人公の女性の実話ベースの話でありながら、スマホを宙に放り投げるシーンでそれが花火に変容するなど幻想の要素も多くて、遠藤監督の映画とシンクロしているように思いました。劇中で使われる冨田勲の宇宙と交信するような電子音楽も、『TECHNOLOGY』の服部峻さんの音楽と似ています。何か影響関係はあるんでしょうか?

遠藤 『KUICHISAN』が公開されたのは2011年で、『神様なんかくそくらえ』が2014年です。ジョッシュ(・サフディ)は『KUICHISAN』を観て(服部)峻くんの音楽も羨ましがってたし、ジョッシュはそのあとから『KUICHISAN』の撮影監督のショーン(・プライス・ウィリアムズ)とも組み始めたりしてますね。

――遠藤監督の影響がありそうですね。

遠藤 初期の彼らの映画って観ましたか? それらにはほとんど音楽が入ってないんです。言い切ることはできないですが、無きにしもあらずかもしれません。

 
イメージノートから作品をつくる

――遠藤監督は撮影前にイメージノートを作るそうですね。イメージノートには全体を構成するプロットが書いてあるのでしょうか。作品を観る限り、音響とイメ―ジの連鎖から映像を構築しているように思いました。

遠藤 私のイメージノートは脚本と同じですね。脚本はあるのでそれに沿って撮影をしてるんですが、凝縮に凝縮を重ねていくと結果的にああいう作風になるというか。ただ、それはよくある「設定とAがこう言ったBがこう言った」といったものではなくて、番号を60くらい振っていって、シーンのイメージと何が起こるかを書いています。たぶん私の映画を観た人が想像するよりも、もっとしっかりと細かく書いています(笑)。

――『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』では脚本上ではシーンの数はどのくらいあったんでしょうか。

遠藤 『KUICHISAN』だと60くらいです。『TECHNOLOGY』も同じくらいですね。

――遠藤さんは編集のプロセスにものすごい時間をかけています(『KUICHISAN』は約1年10カ月、『TECHNOLOGY』は約1年半)。編集では何を重点的に行っているのでしょうか。

遠藤 シーン毎でどういう風に上手くシーンを構築できるかですね。あとは一本の映画として時間と空間の流れをどう作っていくのか。編集の段階では脚本のイメージはもう取っ払ってやりますね。ショットやシーンの順番の入れ替えを延々とやっています。

――イメージノートには視覚的なことだけを書いていますか。それとも音響にも触れていたり、トータルのニュアンスを表わすものなんでしょうか。

遠藤       脚本には、音のことは何も書いてないです。ただここに5人が座っています、この人は紅茶飲んでます、のような場面設定です。ロケハンした場所が頭に浮かべつつですが、それはみんながやってることとあまり変わらないと思います。

(次ページに続く)