追悼をめぐるざわめき――中川龍太郎『四月の永い夢』レビュー


 死者を悼むとはどのようなことか、最近よく考える。その直接的な契機については省くが、実際のところそれは、具体的な「正解」があるというわけではなく、考えられる形態のなかでの選択――自身のなかでの落としどころを見つける作業にすぎない。ただそれだけのことだが、しかし、落としどころを見つけるにはいくつかの条件がある。ひとつには、その死から一定の距離を置くことである。「距離」ということばはいいかえれば「時間」であろう。感情の昂ぶりを抑えるうえでは、時間はいちばんの特効薬であり、同時に、その死が持ちえる意味を消失させるモルヒネのような存在にもなりうる。
  『四月の永い夢』は追悼――死に対してどのように向き合うか――を描いた映画である。具体的には、3年前に恋人を亡くし、蕎麦屋でアルバイトをしながら隠棲生活を送る27歳の女性・初海の再生が描かれる。追悼とは『Plastic Love Story』(2013)における同級生の死、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2015)における親友の自死など、監督である中川龍太郎が一貫して描き続けてきたテーマであり、いくつかのインタビュー1で語られているように、大学の同級生を自死によって亡くした経験を持つ中川にとっては、自身にとってごく近しいテーマでもあった。

 冒頭、主人公である初海のモノローグとともに映し出される――本作におけるメインビジュアルともなっている――桜と菜の花が同時に咲き誇る光景がある。その中に喪服を着た初海がひとり立っている。この光景は中盤において再び登場するが、これは実際の風景であるのか、初海の心象風景であるのか。一観客としては、後者として享受することが自然であろう。この撮影現場となったのは埼玉県の城ヶ谷堤であり、春はお花見客でにぎわいを見せるという、フォトジェニックなスポットである。画面の右端にわずかな動きがある以外には、初海のほかに人の姿は見えず、そうした「外部」の不在に、明らかな人為性が感じられるためである。

©WIT STDIO / Tokyo New Cinema

 また、「桜の木の下には」「屍体が埋まっている」と続く梶井基次郎の小説を例にあげるまでもなく、概念としての桜は死ときわめて密接なものであり、ちょうど喪服姿の初海とも、ぴったりとした調和を見せている。このふたつの点から、これが想像上の光景であることは推察が可能となる。
(じっさい、そのあとに『四月の永い夢』とタイトルがあらわれ、さらに次のシークエンスが初海の起床場面であることからも、夢=心象風景と整理することは容易だろう)

 一転して、初海が眠りから覚める次のシークエンスにおいては、「外部」がくっきりと感じられる。それに奏功しているのは、初海の部屋に置かれたラジオの音声である。早朝、交通情報を告げるその声は、初海が目を覚まし、歯を磨き、朝食を食べ終わるまで続く。この装置は初海の動き、またそれに付随する彼女の身近な人間関係のみではなく、別な世界へ意識を誘導するうえでの確かな効果をあげている。いわば、中心の分化とも呼ぶべき効用が、ラジオという装置からは生起しているのである。音声は、初海が蕎麦屋の店内で染織物を作る青年・志熊からの個展の誘いを受ける場面や、かつての教え子・楓からのSOSを受け、楓が交際相手からの暴力を受けている現場へ向かうタクシーの車中にも随伴しており、いくつもの要所で「外部」の存在をくっきりと浮き彫りにさせている。
 また、初海が映画館での『カサブランカ』の鑑賞後、楓に偶然出会い、喫茶店に場所を変えてのシークエンスを参照しよう。(主演女優である)イングリッド・バーグマンが好きなの、と問いかける初海に対して、楓はそんな人は知らない、自分は(劇伴音楽である)「As Time Goes By」を聴きに来ただけ、と答える。楓はジャズ・シンガーを目指していることがその後確認され、つまりこうした鑑賞法は、音楽に関心の強い彼女にとっては自然であったと理解ができるのだが、初海の立場になれば、この見方は自身の内部に存在しなかった、「外部」の見方であることに着目をすべきではないか。同時に、その「外部」を意識させる存在が音楽であることにも着目したい。このシークエンスじたいは、些末なことにすぎないのかもしれないが、あえてこうした細部に留まりたいのは、音響と「外部」の結びつきこそが、この映画を理解するうえでのもっとも重要なファクターと思われるからだ。

 映画評論家の松崎健夫は、「中川龍太郎作品の作品に共通するのは、若さゆえの〈蒼さ〉でもある。もう少しだけ年を重ねて成長すれば、人生を客観視できるようになるはずなのだが、若さがそれを阻害する。達観できない不器用な〈蒼さ〉を諭すのは、常に年齢を重ねた大人たちの存在なのである」2と語っているが、この〈蒼さ〉とは作品の登場人物のみの次元にとどまらず、おそらくは監督の中川をふくめた制作陣にも通底する概念であろう。
  〈蒼さ〉にはさまざまな定義があるが、ひとつには世界を、ごく限られた要素によって解釈してしまうことがある。率直に言って、本作は「エキゾチズム」とひとくくりにできてしまう面があることは否定できない。たとえば前述の桜が舞い誇る風景をはじめ、銭湯、蕎麦屋、染織物、花火、田舎の自然と、本作の装置はいずれも、純日本的な価値観、いいかえれば郷愁の延長線上の存在として受容されるものだ。現実の世界として受け入れるには人工臭さが鼻につき、映像そのものが生み出す多様性を狭める、鎖のような存在となっているのである。こうした閉塞性も松崎の指摘を参照すれば、若さゆえの〈蒼さ〉に起因するものであろう。
 そして、松崎の言う「客観視」とは、自分がふれる事象以外にも世界が存在すると知ること=「外部」を意識することから生まれてくるものであり、その鍵が本作における音響の存在なのである。

 中盤、東川亜希子と神谷洵平によるユニット「赤い鳥」の曲である、『書を持ち僕は旅に出る』が使用される印象的なシークエンスがある。イヤホンを耳に着け、歩く初海を横移動でとらえる映像に、彼女が聞く曲として大音量で重なるのである(この曲は劇の開始から10分ほどして、初海の部屋のラジオから流れる曲として登場する)。
 このシーンに先立つかたちで、初海は自身に好意をよせる志熊と人間的な情のふれあいをもったことにより、精神的にはいささか高揚した状態にあった。そうした彼女の心境の変化を表すうえで、このシークエンスは奏功しているといえるが、ここで着目すべきは、作曲家・理論家であるミシェル・シオンの区分を参照すれば、この音楽が「イン」の音であるということ3だ。すなわち、映画の物語世界に音源を持つ音であり、かつ音の出所が画面内に位置しているものとしてあらわれるのだ。この他に使われている音楽は当然ながら「オフ」の音――画面で示される場所とは別の時間、あるいは空間にある不可視の音源に発する音である。それらは基本的には感傷に寄り添った、「映像・物語の強調」にしか過ぎず、先述した桜や染織物などの作中の装置と同様に、本来映画が持つべき世界の多様性を狭めていた。しかし、これまでの基調奏音から逸脱したかのように見える、ある種のポップさが目立つ『書を持ち僕は旅に出る』が「イン」の音――換言すればこれまでの音楽の用途から逸脱した「外部」の手法――として使用されることで、これまでの物語を覆っていた感傷性、さらにはそこに端を発した閉塞感が見事に覆されることになる。

 しかしながら、この閉塞性の打破は本作においてはまだ「第一の波」にすぎず、真打とも呼ぶべき高揚、ひいては「外部」への開放はラスト近くになってふたたび訪れることとなる。その後、再度の感情の気詰まりをおぼえた初海は、友人から紹介された臨時教師の職に就くことを躊躇し、志熊からの恋愛感情の告白にもはっきりと答えることができない。初海は自身の気持ちを清算する意味でも、亡き恋人の両親が暮らす富山を訪れることを決める。

 富山に向かう電車から、一泊を経ての帰りの電車までの一連の移動のなかで、注目すべきはやはり音の存在であろう。亡き恋人・憲太郎の母親に、実は彼が亡くなる4ヶ月前に関係性が解消されていたことを打ち明け、母親・沓子からは人生訓めいた励ましの言葉をかけられる。続くシークエンスでは夜の無人の部屋で、憲太郎から来た最後の手紙が字幕であらわれる。その内容自体はひねりがあるものではないが、字幕に重なるかたちで、風鈴の音、(ちょうどラジオから流れるような音質での)複数人からの初海への呼び声、虫の鳴き声などがわたしたちの前にあらわれる。こうした自然音が重視されることによって、わたしたちの意識は手紙以外の世界に向かう余裕を得る。そうしてあらわれた「外部」から、手紙に書かれた言葉、ひいては映像そのものの解釈の多様性が生まれ、同時に劇的な必然性に立脚すれば、再生――初海が生きる活力を取り戻すこと、派生しては、初海と志熊が結ばれること――の可能性が示唆されることとなる。

©WIT STDIO / Tokyo New Cinema

 それがより明確に感じられるのは、翌朝、なにかをもとめ、初海が森のなかに入り込むシークエンスである。そこでは延々と歩みをつづける初海が俯瞰ショット、また横移動のカメラワークでとらえられながら、川のせせらぎの音、小鳥や虫の鳴き声がかさなっていく。そして歩みを止めた彼女の姿を、カメラを引きつつ顔にクローズアップしていく手法が、内面の変化をあらわすうえでの絶妙な効果をあげている。自然のもつアロマセラピー的な効用によって彼女は救われた、といった解釈がここでは可能であろうが、これもまた音声を軸とした、「外部」によってもたらされた効果なのである。

 ラストシーン、ふたたび『書を持ち僕は旅に出る』は登場する。初海が偶然訪れた店のラジオから、つまり「イン」の音として響くのである。音楽や自然音といった不確定な要素は、人間の凝り固まった心情をほぐし、あらたな地平へとその人を向かわせる鍵となりえる。ちょうどストーリーという内部を逸脱して、エンドロールという映画の「外部」へと本曲が響いていくことも、本作の流れとしては必然であった、と言うべきだろう。
 末尾となるが、あらためて本稿の原点に立ち返りたい。恋人にせよ、親しい友人にせよ、人間関係において「軸」となりえる人をうしなったことで、その人のもちえる世界はあらたな相貌をみせることとなる。そのあらたな世界=「外部」を受け入れるための時間をたしかな説得性=音響の魅惑をともなって描いた作品が、本作『四月の永い夢』なのである。

〈註〉
1 本作のプレス資料においても、監督インタビューで前作『走れ、絶望に追いつかれない速さで』が「大学生から社会人になろうとする時に」亡くなった親友の存在が念頭にあったことが語られている。
 2 松崎健夫「人生は何かを獲得するのではなく、何かを失うもの」(本作プレス資料)p.10
 3 長門洋平『映画音響論 溝口健二映画を聴く』(みすず書房、2014年) p.27

〈作品情報〉

『四月の永い夢』

©WIT STDIO / Tokyo New Cinema

2018年5月12日(土)から新宿武蔵野館ほか全国で順次公開
監督・脚本:中川龍太郎
出演:朝倉あき 三浦貴大
川崎ゆり子 高橋由美子 青柳文子 森次晃嗣 / 志賀廣太郎 高橋惠子
音楽:加藤久貴 挿入歌:赤い靴「書を持ち僕は旅に出る」
製作:WIT STUDIO 制作:Tokyo New Cinema 配給:ギャガ・プラス