1、
パヴェウ・パブリコウスキの新作『COLD WAR あの歌、2つの心(以下、『コールド・ウォー』)』の「首」にまつわるある奇妙なショットを忘れることができない。本作は終戦直後から60年代にかけてポーランドとパリ、鉄のカーテンをまたいで東西のいくつかの都市を行き来する一組のカップルを追いかけたメロドラマだ。そこにはヒロイン、ズーラの頭部をまるで断頭台の生首のように画面の中心に据えた風変わりなショットが何度か登場する。フレーム下部で首から下を切り離すように撮られたその構図は、表情を映すためのクロースアップとも、会話を映すときの切り返しにつかうバストショットとも異なる。これはなんのためにあるのだろう。
結論から言えば、これは視覚ではなく聴覚を重視するためにつくられたもののようだ。ショットの役割がもっとも顕著に現れるのは、パリで歌手デビューの決まったズーラが「Dwa Serdszka」のレコーディングに臨むシークンエスである。白い壁に囲まれた防音室でマイクに向かって歌い出す彼女を眺めるカメラは、彼女の顔が声の発生源であることとその声が響き渡る背景の空間を強調する。同じアプローチの構図は、彼女がオーディションでソビエトの劇映画の挿入歌を歌う場面や、舞台上でソ連国歌を歌う場面にも登場した。それは視覚情報としての顔を見せるクロースアップとも、次のショットとのつなぎを維持するための映画文法のクリシェとも異なるものだ。「首ショット」は音楽に従事する身体についての表象だった。
2、
もう少し広い視野で分析してみよう。近年、プロット上の重要な契機を音楽が担う映画が増えている。2019年のアカデミー賞を中心とした賞レースでは、本作が外国語映画賞、監督賞にノミネートを果たしたのに加え、作品賞をはじめとした主要部門だけで他にも3作品、実在のミュージシャンの伝記や、本業歌手のスクリーンデビューとして音楽家が登場する「音楽映画」と呼びうる映画たちが授賞式を彩った。
トーキーの発明以来、映画は視覚と聴覚でつくられた芸術であるが、一方で音楽は映画にとって本当に欠かせない要素と言えるだろうか。「音楽映画」とは言え、それはあくまで「映画」であり、「MV」であってはならない以上、そこにはいつもある形式上の問題がいつもつきまとうことになる。つまり「音楽映画」はあくまで「音楽が流れる映像」であり、「映像が添えられた音楽」であってはならない。裏を返せば、音楽と映画のどちらに焦点が定まっているのかというのがもっとも揺らぐのが、「音楽映画」には不可欠な登場人物の歌唱・演奏シーンなのだ。具体例を見てみよう。
第91回アカデミー作品賞を受賞した『グリーンブック』(ピーター・ファレリー監督、2018年)では、クラシック音楽の演奏家として成功を収めた実在のピアニスト、ドクター・シャーリーと彼のイタリア系運転手の交流が描かれた。成功した裕福なアフリカン・アメリカン、シャーリーは演奏ツアーに出かけた先の1962年のアメリカ南部では黒人差別を目の当たりにし、自身も不当な差別を受ける。そこで音楽は魔法の道具となり、社会が彼に浴びせかける差別を無効化する。音楽の才能が彼を社会的に成功させ、ピアノを弾いている間、シャーリーという特別な個人は「黒人」ではなくなることができるのだ。
本作がアメリカとの経済戦争真っ只中にある中国でヒットしたという事実もまた興味深い。白人中心社会で、既得権益を持つものたちに一矢報いる手段として「音楽」はわかりやすい立身出世の物語を与える。
日本でも700万人を超える動員で大ヒットを記録した『ボヘミアン・ラプソディー』(ブライアン・シンガー監督、2018年)では、デビュー前のフレディ・マーキュリーがバンドメンバーに声をかけるシーンが印象的だ。たまたま見かけたバンドに俺をボーカルにしないかと自分を売り込んだフレディだが、メンバーには容姿を理由に断られる。大きな前歯の目立つ彼の醜い顔がバンドのボーカルにはふさわしくないというのだ。しかし、フレディはこの大きな口蓋がよく響く声を可能にすると言い返し、バンドのボーカルの座を奪取する。こうしてフレディは、「見た目よりも声」つまり、視覚よりも聴覚を優先する音楽家として登場する。後半では一層踏み込んで、自分の体を音楽の手段にしていく。
例えば「ボヘミアン・ラプソディー」の収録では歌手にほとんど悲鳴のような声の出し方を指示し、歌手や演奏家を人格を持った人間というよりも楽器のように扱う。また、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」では、あの有名な手拍子を楽曲を特権的な演奏家だけのものではなく、観客が一緒に盛り上がることのできる「使える音楽」へと再編していくエピソードとして語り直している。
やがてフレディは派手なパーティーやソロ活動といったスタンドプレイをきっかけにメンバーとの間に軋轢を生み出すようにもなる。しかしそれは成功者の驕りであるよりもむしろ、進んで周囲が望むような振る舞いを繰り返し始めるフレディの過剰なサービス精神の結果として描かれる。フレディの成功は、自分を聴衆に利用可能な「モノ」にしていくことであり、その異常さが彼を人間扱いする仕事仲間や家族との間に溝を生んでいるのだ。
音楽はある地点まで音楽家を立身出世させる道具であるが、一度成功すると今度は音楽のほうが、聴衆を楽しませるための道具として音楽家のほうを使い始める。こうしてある成功の水準を突破した音楽家は、同じ商品を消費者に提供するための「音楽」の、そして市場の消耗品となる。現実のフレディ・マーキュリーがどのような末路を辿ったかはここで書くまでもないだろう。
アカデミー賞歌曲賞を受賞した俳優ブラッドリー・クーパーの初監督作『アリー/スタア誕生』(2018年)を、以上のような見立ての中で考えるとすると本作は音楽のせいで壊れてしまった人間のドラマと言える。聴覚の不調を訴えながら演奏活動を続けるロックシンガーのジャクソン・メイ(ブラッドリー・クーパー)は、地方巡業先の飲食店で出会ったアリー(レディ・ガガ)に歌の才能を見出し、彼女をスターへの道へと導いていく。ガガ演じる主役のシンデレラストーリーと、クーパー演じる恋人の没落の対比が本作にドラマのダイナミクスを生み出しているのだが、そこには現実世界で本物のポップ・スターであるガガが市場に消費されても、それに耐えうる鋼の肉体を持った超人的なスターを演じ、激務に体を壊して人生の幕を閉じていく生身の人間のドラマを俳優が演じるという作品の社会批評性を深読みすることは難しくない。
3、
人は音楽を通じて社会の中で成功することができるが、成功者の肉体は朽ちるまで音楽に使役される。ここまでの論旨を一言で、少々乱暴に要約することができるかもしれない。ではこの見解を今度は『コールド・ウォー』の物語に照射することはできないだろうか。
『コールド・ウォー』という文字通り「冷戦」期の世界を舞台にしたこの映画はその東/西によって音楽がどのように出世の役に立ってくれるかも描き分けている。1939年のナチスドイツによるポーランド侵攻を契機に第二次世界大戦が始まったことはあまりに有名だが、アンジェイ・ワイダ監督によって映画化(2007年)もされた「カティンの森事件」にも見られるように、ドイツだけでなくソ連もポーランドに大きな戦争の爪痕を残している。ポーランドは第二次世界大戦中からソ連と西ヨーロッパに、戦後の東西に引き裂かれた国だったことをまず押さえておきたい。
終戦後、ソ連による実質の傀儡政権が成立した東側の国家ポーランドで物語は始まり、音楽は国を賛美する道具になり、同時に出世の手段として二人の役に立つようになる。主役のヴィクターはポーランドで、国の後援で土着の民族音楽を収集する楽団を率いる作曲家だった。彼の楽団のオーディションで彼と出会い、見初められたズーラはアンサンブルのメンバーに選ばれ、ヴィクターと強く惹かれ合うようになる。一方、親共産主義者の要請で党のプロパガンダになるようなパフォーマンスの追加を求められ、ヴィクターは同意するが、彼にはそれによって約束された東ベルリンでのコンサートの際に、西側へと亡命するという目論見があった。ヴィクターはこれにズーラを誘うが彼女は約束の場所には訪れない。
数年後、イタリア人との偽装結婚によって西側への脱出に成功したズーラはパリで作曲家として成功していたヴィクターと再会する。ヴィクターはジャズを通じて別ジャンルの音楽と混じり合い、音楽は資本主義社会の商品となり、作曲者も演奏者も歌唱者も有名にする。また第二次世界大戦中、陥落するまでのパリにポーランドの自由主義者たちの亡命政府があったことを考えると、パリが彼らにとって特別な場所であることも伺える。二人はパリで音楽家として成功し、映画の冒頭でヴィクターが発見した民族音楽のアレンジでズーラのレコードデビューも決まる。ここまでは本稿前半の音楽による立身出世の物語にぴったり符合する。冒頭に触れた「生首」ショットは音楽の道具となったズーラを象徴していた。
しかしヴィクターと合流してソロデビューが決まった後、ズーラは次第に無気力になり、突然彼の元を去ってしまう。その理由についてはほとんど何も描かれない。なぜ彼女は突然パリとヴィクターのもとを去ったのか。そこでは何が描かれなかったのだろうか。
結論を先に言えば、ズーラはミュージシャンとして自分の体が使われることから逃げたのだ。本稿前半を見返してもらえば、ズーラはやがて自分を商品化しようとする音楽と市場のメカニズムに背を向けて、それが始まる前に西側社会から逃げ出したのだ。彼女はフレディマーキュリーやレディ・ガガのような商品としてポップスターになる人生を自らの意思で拒んだ。
その後のプロットを辿ってみよう。偽装結婚で西側に渡ったズーラはもともと楽団を体制側のプロパガンダ活動へと導いたカチュマレックと再婚することで、東側に帰還する。今度は彼女を追いかけてヴィクターは国境を越えた「スパイ行為」の汚名のもとにポーランドに帰国し、ワークキャンプでの労働で演奏のための指を失った。パリでの成功した音楽家としての暮らしを捨てた、ヴィクターは文字通りその身を犠牲にしてズーラとの関係を選んだ。しかし、いずれ彼が商品としての音楽に使われるだけの存在になるなら、ズーラはヴィクターを救ったと見ることもできるのではないか。
さらに数年後、ズーラの嘆願でカチュマレックの尽力に恩赦を受けたヴィクターとズーラは再会し、再び駆け落ちした二人は朽ち果てた田舎の教会で結婚式を挙げて丸薬を口にして心中をはかる。教会の祭壇に手を伸ばす二人を写すショットはあの断頭台の「首ショット」そのものだ。しかし、今度は音は鳴っていない。しかしこれは紛れもなく、その背景となる場所に彼ら二人がその身をなにかの道具として捧げた場面である。
ヴィクターとズーラがパリを去った後の物語は、二人が何に肉体を捧げたのかという点を起点に駆動している。この最後の行為を「愛の映画」であると言ってしまうことあまりにたやすく、あまりに陳腐だ。そうではなく本作の主題は愛を通じて描かれた、自由というものの正体にこそここでは目を向けたい。私たちはほとんど皆、子どもから大人になり、その変化の中で望むと望まざるとに関わらず社会の中の役割に巻き込まれる。そのとき、社会が自分を見つけ、与えようとする役割に一方的に仕えてしまうことは少なくない。それを幸福な形で受け入れる多くの人もいれば、与えられた役割に押しつぶされることもある。やがて朽ち果てるのであればそれは何のためであるべきか。国のためか、お金のためか、愛する人のためか。愛が重要だという話ではない。ズーラは捧げたくないものが押し付けてくる役割を拒み、自ら自分の体の行き先を選んだ人物としてここでは描かれた。
『コールド・ウォー』という映画の主題は音楽と映像だ。決して大戦や冷戦がポーランドという国に残した爪痕ではない。その証拠に社会背景の説明がほとんどなされない。主役の二人はラストで、無音の背景に自らの意思でその首をさらす。それはやめようと思えば、人生さえもいつでもやめられるという自由の表明だ。本来、役割と個人とは別々に存在するものである。本作はこうして音楽が映画とは、関連を持つことはあっても、基本的には別々に自立して存在すると指し示す。私たち個人の生が、また社会から自立しているのと同じように。
〈公開情報〉
『COLD WAR あの歌、2つの心』
6/28(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
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配給:キノフィルムズ
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監督:パヴェウ・パヴリコフスキ 脚本:パヴェウ・パヴリコフスキ、ヤヌシュ・グウォヴァツキ
撮影:ウカシュ・ジャル
出演:ヨアンナ・クーリク、トマシュ・コット、アガタ・クレシャ、ボリス・シィツ、ジャンヌ・バリバール、セドリック・カーン 他
2018年/原題:ZIMNA WOJNA /ポーランド・イギリス・フランス/ ポーランド語・フランス語・ドイツ語・ロシア語 / モノクロ /スタンダード/5.1ch/88分/ DCP/ G / 日本語字幕:吉川美奈子 配給:キノフィルムズ/木下グループ 後援:ポーランド広報文化センター