円城塔×佐々木敦「『エピローグ』と『プロローグ』のあいだ 世界・SF・私小説」(前編)


「私小説」としての『プロローグ』

佐々木 それは所謂昔ながらの「私小説」、つまり何も起こらないような話にはならないと確信されていたということですね。ここでもう一度『プロローグ』の話に戻るのですが、自称「私小説」の本作を書くにあたり、円城さんが具体的に参照した過去の「私小説」作品はあったんですか?。

円城 ……ないですね。僕が考えていたのはむしろ「私小説じゃない小説はありえるのか」ということです。どんな小説であれ、自分の経験から書かれるものだと思うので。だから、「私小説」というのは、その「自分」の比重を強めて言ってみているだけのことに過ぎないんじゃないか、と。

佐々木 たとえば、『死の棘』(島尾敏雄、1977年)のような「私小説」の代表のように思われる作品があるじゃないですか、一種の告白文学というか。円城さんは幅広い読書経験をお持ちだから、そういった所謂「私小説」も読んでらっしゃると思って聞いてみたのですが。

円城 そういう意味では所謂「私小説」はあまり読んでこなかったジャンルかもしれません。だから『プロローグ』はあくまでも「僕の考える私小説」と言っておきたい。

佐々木 むしろ「私小説」と呼びうる何かがゼロから生まれてくる、というプロセスの感覚が『プロローグ』を読むスリリングな醍醐味です。実は僕も『新しい小説のために』という本を昨年出したのですが、そのなかで主張したことの一つが「「私小説」が一番嘘をつく」ということだったんですね。たとえば、西村賢太さんの小説をどう読むかというリテラシーの問題でもあるわけですけども。でも、先ほどの円城さんの「私小説じゃない小説はありえるのか」という発言から考えてみると、「私小説とは何か」という問いはほとんど「小説とは何か」という問いとほぼイコールになりますよね。ということは『プロローグ』において、円城さんが自分の一年半をこれから「私小説」的に書いていくということと、また別の批評性として、小説そのもののゼロ地点を問う視線が本作にはある。

円城 そうですね、さっきも言ったように『プロローグ』は、何かツールを生み出しながら書いていこうという野心があったので。実際はそれがいかに失敗していったかを赤裸々に書くことになりました。

佐々木 その赤裸々感に私小説味があるんですね。目的があったのに上手くいかず、翻弄されていく「私」。書いていくなかで上手くいかない部分もあったわけですね。

円城 始めるときから「きっとできないだろうな」と思っていた。ただ、そうした破綻に対して、もう少しツッコミが来るかなと思ったんですが、それほどでもなかったですね。連載1回40枚なので、読者も作品内容を全部覚えるのは難しかったんだと思う。連載が5回くらい進めば原稿用紙200枚ほどになってしまうわけで、そうなるともう毎回すべてを読み返せない。それは僕自身にしてもそうで、勘で「このあたりに書いたはず」とかになってくる。『エピローグ』も書いているので、余計にごっちゃになりました。

佐々木 書きながら過去に書いたことを忘れてしまう、というお話から小島信夫の『別れる理由』(1982年、連載は68年10月〜81年3月)を思い出しました。あれはとても長い連載を『群像』でやっていたわけですが、小島さんは自分が書いたものを読まないので、本当に同じ話が何度も出てくる。

円城 小島さんでいうと『美濃』(1981年)もまさにそういう作品でしたね。作家よりも作品に詳しい読者がいて、作品リストを作っているんだけど、作家はその人をとても嫌っているというエピソードが書かれるわけですが、小島さんが書いたことを忘れてしまうからその話が何度も出てくる。

佐々木 絶筆になった『残光』(2006年)は書きおろしなのにそれが起きているからね(笑)。書きおろしでもやっぱり読まないんだ、と。あと、小島信夫からの影響を公言している保坂和志も、そういうことを自分で言ったりする。冒頭の円城さんのお話とも通じますが、僕はこれは「連載」という装置の問題だと思うんです。同じ枚数を書くにしても書きおろしなら起きないことが、連載だと起きてしまう。保坂さんは小島さんの影響下で、「書いたことを忘れる」ということを方法化するわけですよね。ただ、天然でそうなることと、そうした方が面白いから意図的にそうするという違いが、小島さんと保坂さんのあいだにはある。それで円城さんのことを考えると、この二つのどちらにも分類できない部分がどうしてもある。

円城 僕の場合は、呆けたノーランが撮った『メメント』(2000年)みたいなものです。

佐々木 絶対に観たくない(笑)。何が起こったのかも分からず、まったく伏線が回収されないまま終わりそう。でも、そういう面白さは確実にありますよね。としても、円城さんは意図的にそれを取り込んでいるのか、できればちゃんと書きたいのか、どちらですか?

円城 もちろんできるなら、ちゃんと書きたかったですよ。……だから連載という形式はやめた方がいいと思うんですが、でも生活を成立させるには必要なので。単行本の収入よりも、文芸誌での連載でもらうお金の方が多いですからね。あと、小説の厚さに僕はずっと関心があって。今回の小説は500枚くらいですけど、本当は別にそんなに量がなくてもいいのかもしれない。俳句1句を1万円で売ったっていいわけです。でも、人間の認知とか情報処理の速度という条件から、本はやはり現在のフォーマットに固定されている。さっきの話題に戻ると、書き手はやはり人間の能力的にどうしても忘れてしまうわけですよね。だから、読者もどんどん忘れてくれたらいいんですよ。究極には「これ読んだっけ……?」と同じ本をずっと買い続けてしまう、みたいなことでいい(笑)。でも、それは一つの快楽でもあって『水戸黄門』とかは、そういう快楽で続いているんだと思っています。
(3P目に続く)

ヱクリヲ vol.8 
特集Ⅰ「言葉の技術(techno-logy)としてのSF特集」
〇Interview:円城塔「言葉と小説の果て、あるいは始まりはどこか」
〇《付録》 A to Z SFキーワード集 ほか多数の論考を掲載
特集Ⅱ「ニコラス・ウィンディング・レフン――拡張するノワール」