円城塔×佐々木敦「『エピローグ』と『プロローグ』のあいだ 世界・SF・私小説」(後編)


構成/横山タスク・竹永知弘

2018年3月2日 三鷹SCOOL


 先日公開された円城塔と佐々木敦による対談の後編をお送りする。後編にはいり、佐々木は『エピローグ』『プロローグ』から、最新作にして問題作『文字渦』(2018年7月単行本化の予定)および次回作へと徐々に話題を転じていく。かの奇書『文字渦』を書いた作家は、次にいかなる作品を書きうるのか。ついに円城は次回作の構想を語る(『群像』2018年4月号掲載の円城によるエッセイ「新作予告」もあわせて読むといいと思う)。それだけで十分に興味深いが、彼の読者ならこう考えるかもしれない――円城塔が予告どおりの作品を書くはずがない、と。おそらく、そのとおりだ。痛快に裏切られるためにこそ、あなたはこれを読まなければならない。そして、目撃しよう。われわれの期待を飛び越えてゆく円城塔の姿を。(竹永知弘)


 

フィクションから日本史の方へ

佐々木敦(以下、佐々木) はい、後半です。最後らへんに出た話題の続きから始めます。先ほどのお話を聞いていて、円城さんの小説の特性は「言語の言語としての性質」と「言語それ自体の物質性」の両方をいつも問題にしている、ということにあるように思いました。つまり、小説の場合で言えば、小説を文に、文を言葉に、言葉を単語に、というふうに言葉レベルでの分割がまず可能です。でも他方で、言葉が音声であり、文字であり、活字であり、もっと言えば、それが紙にインクで印刷された物質である、というマテリアルな方向での分割も可能なわけです。そして、円城さんの小説は、つねに言語のこの二つの側面がもつ、複数のレイヤーを蔑ろにしない。とりわけ『プロローグ』では、そういう物の見方が全面的に展開されていると感じました。

円城塔(以下、円城) ほぼ、そういうことしか気にしてないですね。子供の頃から「人間の意識って何?」とかいう素朴なレベルの疑問は持ち続けています。独我論がどうして間違ってるのかとか、みんなが「哲学的ゾンビ」(注・心の哲学における思考実験の一つで、クオリア(意識)を持たないが人間のように生きる、人間とは見分けがつかない仮想の存在)だとして何が問題なんだとか。もちろん、僕はもともと物理屋さんなので、人間が物質だってことも、数学が厳然としたものだってこともちゃんと受け入れていますよ。この世が分子の決定論的な世界が積み重なってできているのものだってことも分かってる。けど、急な腹痛とかに襲われたりすると、これも本当に決定論的なものの結果なのか、とか思うじゃないですか(笑)。そういう部分では、決定論と意識の摺り合わせが上手くいってないですね。でも、どっちも認めていかないとダメなのかなっていうくらいに、人として丸くなり始めてはいます。人の気持ちに限らず、分子の「気持ち」も、器官の「気持ち」も書こう、だから膀胱の「気持ち」も書くぞって(笑)。

佐々木 膀胱の気持ち(笑)。円城さんは「理系の人が書きそうな小説」みたいな評価をデビューからしばらくは散々言われてましたよね。でも、すごく紋切り型の分け方で言うところの「理系の人が書きそうな小説」と、円城さんの小説ってやはり違うと思うんです。普通の理系の人は「気持ち」とか問題にしないですよね? あるいは、逆にするのかな。

円城 そこは完全に人それぞれ。理系のなかでも系統による違いが相当にあります。理学部と工学部では、思弁哲学系とロケット好きくらい違う。所謂理系と呼ばれるなかでも僕は一部分に過ぎません。だから『数学セミナー』っていう雑誌で、数学者についてのエッセイを連載をした時は、書けなくてかなり苦労しましたね。数学者のなかにもいろいろいる。「使えればいいや派」がいたり、「夢に見た」とか言い出したり(笑)。

佐々木 イデアルな世界と直結してる人もいるわけですね。

円城 そういう人もいれば、手に触れられるものしか信じない人もいます。

佐々木 さっきの話に戻るんですが、たとえば、今回の小説には「榎室春乃」という存在が登場しますよね。その存在が何かしらの計算処理の結果として、つまり、象徴的な意味と関係なしに出力された四文字だとします。それには、まず本の中に何十回か出てきて、それぞれのページのある位置に配置される文字で……というような物質的な側面がある。でも、それとはまったく別に「榎室春乃」に、作者あるいは読者が何かしらの次元で感情移入するってことが、ごく普通に小説では起きているわけです。単なる四文字が「人間」だという錯覚を共有し、その運命にほだされて心を惑わされたり、あるいは共感したり/しなかったりする。で、その物質的な部分と感覚的な部分が共存しうるという認識がないと、円城さんのような小説は書けないような気がするんですね。「虚構内存在」(筒井康隆)って言ってもいいけどまず、はっきり言えることは実際は「いない」ってことですよね? あるいは、それも違って「いる」?

円城 存在のレイヤーもいくつかありますよね。でも、100年前の人→200年前の人→300年前の人……って、段々と存在感が薄くなっていくことは確かじゃないですか。たとえば、いまから500年ぐらい前のことを思う時、存在した人と存在しなかった人の境界はかなり曖昧ですよね。それと近い感覚です。歴史上、誰々は実はいなかったとか、その逆に「斎藤道三は二人いた」みたいな話がある。だから、斎藤道三を主人公にして「いままで一人だったのに、急に二人とか言われても困るんだけど」って安土桃山時代にボヤく、みたいな小説を誰か書いたらいいんですよ(笑)。

佐々木 なるほどね(笑)。

円城 でも真面目に言うと、僕らはインタビューや対談の起こしを直したりするわけじゃないですか。その時に「これは自分とは違う誰かが喋ってるんじゃないか」とか思う。でも、自分は将来的には消えていく可能性が高いので、将来的に資料として残るのは文献の方なんですよね。だから、そういう混じっている感、騙されている感のある証拠からいかに考えるかが重要になってくる。

佐々木 それは僕がさっき言った「私小説」問題にかなり近いですね。「本当に本当なんです」っていうやつが一番怪しい(笑)。

円城 「江戸しぐさ」問題とかも同型だと思う。実在しない風習でもそれっぽく書けば、少なくとも一定の人が信じる、っていう。

佐々木 でも、円城さんはデビュー以来一時期とくにきわめてプロダクティブな作家だったわけじゃないですか。ところが『プロローグ』『エピローグ』以後は、作品の発表数が明らかに減っている。とくに最近はほぼ「文字渦」執筆に集中されていたイメージなのですが、こうした変化は『プロローグ』『エピローグ』を書いたことと関係があるんですか? 仕事のモードを変えてみよう的な?

円城 歳のせいですかね。「日本」っていうことが気になり始めた。僕はいま大阪にいるのですが、関西の日本史観って、京都・奈良・大阪が日本の中心だっていう史観なんですよ。僕は北海道出身なので衝撃でした。確かに『日本書紀』とかにはそう書いてあるのかもしれないが「そんな日本の歴史はないぞ!」みたいなことが正史として扱われてたりする。だから「日本分からんな」って思って、興味が湧いてきてる。在日系の人に対するヘイトスピーチなんかも、関西だと一緒に生活してるので、まずないですね。そういう様々な違いによって、日本の広さに気付き始めたのかもしれない。

佐々木 そういう連作でしたっけ、これ(笑)?

円城 でも「文字渦」は、わりとそういうことを考えながらやった。あともう一個だけ例を出すと、平安時代の軍人を供養した「アテルイの墓」ってのが枚方にあって、わりと近所なんです。ただその由来が「夢にアテルイが現れた」とか言うおばさんが現れて「「ここで首を切られた」ってアテルイが言ってる」って言ったのを、枚方市が認定しちゃったとかで。なんだよその歴史ってなるじゃないですか(笑)。けど、日本の歴史とかも実際そうやってできている。

佐々木 それは『プロローグ』『エピローグ』を経て、出てきた問題ですか?

円城 とりあえず書き散らかした後に何が残ってるかを考えた時に出てきた問題ですね。僕はわりとヨーロッパ思想系の単語や話題を入れてくることが多かったんですけど、その程度の内容なら仏典にもあるよね、っていう気持ちになってきた。それが「右傾化」なのかは分からないですけど。ひとまず、いまは「調べて書こう」っていうモードですね。

佐々木 どうしても円城さんって一般的に理系とか、複雑系とか、SFとかのイメージで語られちゃうんだけど、実は『プロローグ』『エピローグ』のもっと前から、和歌や民俗学だったり、日本古典文学的なものを取り入れていた。そういう、もともとの教養としてあった部分がようやく前面化したのが「文字渦」だってことなのかな?

円城 もともとオカルトが好きなんです。それが興味の対象に過ぎなかった頃は、距離を置いて見てられたんですけど、関西に暮らしてるとそれもまた変化があって。明治期から大正期にかけて、新興宗教とかが関西にいっぱいできるじゃないですか。そういうのが身近にあると気になり始めるんですね。さっきの九段下の鳥居=巨大ロボの話じゃないけど、ずっと地元に住んでる人は気にならないものが、外から入ってきた人には気になる。そういう方向に興味がシフトして行ってる感じですかね。実際に現地に行けば、ディテールは無数にあるので。それを素材にするだけで、それなりに話ができてしまう。それは危ういんだけど楽しい。そのバランスを測っていますね。

(2ページ目に続く)