Interview: イ・オッキョン「アジア系女性インプロヴァイザーの到達した未踏の地」


聞き手・翻訳・構成/大西常雨

2018年5月9日 East Village, NYC

 2000年代前半のNYダウンタウンシーンの中心地Tonicには、いつもイ・オッキョンの名前があったことを覚えている。彼女は当時から百戦錬磨の音楽家と対等に渡り合う新星として観衆の関心の中心にあった。今や比肩する者が見あたらず、国際的な活動に多忙な彼女だが、その全貌が語られることはほとんど皆無に近い。それゆえ、ここ日本ではどこか――その超絶的な演奏も相まって――神秘的な存在に留まっているように思う。まるで自伝のような語り口で、この稀代のアーティストは本誌に向けて時間を割き、多くのことを語ってくれた。


イ・オッキョンの来歴

――まず生い立ちと音楽を始めたきっかけについて伺います。

イ・オッキョン(以下、OL) 3歳でクラシックのピアノを始め、6歳でチェロに転向しました。楽器を始めたのは、自分から興味を持ったからではなく、母が良い生活と高い社会的ステータスの為に私に良かれと思って選んだのが理由です。韓国では今でも、西洋のクラシック音楽の演奏を習得することは、ある経済的な階層に属することを意味しています。ですから、レッスンを受け、きちんとした楽器を購入することは、その家庭が経済的に支えられる余裕を意味するのと同時に、ある一定の未来に導くことと同義なのです。私は明らかに彼女が期待したようにはならなかったのですが――。

 私の出身地はソウルから南へ2、3時間ほどかかる大田広域市テジョンです。12歳のとき、Yewon Arts Schoolに通うためにソウルへ引っ越しましたが、寮もなかったので、ほとんど1人で暮らしを始めました。そのおかげで早い時期から私は自立できたのではないかと思います。

 いまでもなぜだかはわかりませんが、私は11歳のときの冬休みにパンソリ(註:韓国の伝統的な民俗芸能における歌唱法)のレッスンを受けました。それまで西洋の音楽的伝統によって厳しくしつけられていましたが、韓国の伝統を学習することは全く異なる経験となりましたね。口承で伝達されるものであることが大きかったのです。先生はフレーズごとに歌唱し、私はそれをその場で復唱しなくてはなりません。私自身は正しく唄っていると思ったものの、西洋式にメロディを「調律」してしまったため、先生は満足してはくれませんでしたが、非常に有益な経験となりました。

 他方、チェロの教師とは12歳のときから良い時間を過ごすことはできませんでした。生徒はできるだけ教師を真似ることが要求されましたが、非常に厳格な時期のドイツで学んだ教師だったのです。私はなんとか修了させるため十分にこなさねばなりませんでしたが、楽器を習得したいという、心と魂の火を灯すことはありませんでした。しかしながら、音楽と自分との関係を確かに感じられる希少な瞬間がありました――それは17歳のとき、ソウル国立大学の入学試験の必要要項として、バッハの無伴奏チェロ組曲のアルマンドを習わなければいけなかったときのことです。数週間ものあいだ、音楽的だと自分が感じられるよう、厳しい特訓を重ねたのですが、教師の前で演奏した際、ただ「全ては間違っている」との反応を受けました。そのとき、その種の音楽に対するほんのわずかな愛情さえも打ち砕かれました。ですから、入学試験を通過できなかった際、私は単に安堵しただけでなく、母にもはやチェロは演奏したくはないと告げたのです。その後8ヶ月に渡って、楽器を触れることはなく、それは最高のひとときだと感じました。

 その後、バークリー音楽大学ではクラシックとは異なる音楽を始めたのですが、最初の2年間は生徒は楽器を演奏することが要求されるので、楽器の中で私が唯一演奏することができるチェロを持っていくことになったのです。

――ボストンでの生活、及びバークリー音楽大学時代はいかがでしたか?

OL ある意味で初日から全く違った人間になりましたね。私は韓国では友達の極めて少ない、とても内気な子供でしたが、バークリーで学び始めるや否や母国語で喋らずとも、とても大きな自由を感じ、快適に過ごすことができたのです。世界中から来た多種多様の人々と会うことはとてもエキサイティングな経験でした。面白そうに見える人々に全員会いたいと思い、友達を作りましたね。そのあ間、窒素しそうになるくらいの年功序列に基づいた厳しい社会構造を伴う、韓国人としてのアイデンティティーをほとんど忌避していました。

 バークリーではジャズをとてつもなく早く学習しなければなりませんでした。この学校に応募した際、私の感じた魅力は「ジャズ」と名付けられたクールな「非クラシック音楽」を教える学校というイメージだったのですが、すぐに私はジャズに対して間違った印象を持っていたことに気づかされました。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンを知らなかった私は、先生や生徒たちが知らない固有名詞に触れた際、通りを横切りタワーレコードに駆け込むか、大学図書館でその音楽を聴きました。しかしながら、良いと聴こえるようになるまでにしばらく時間がかかりましたが……。

――それからあなたは、ニューイングランド音楽院New England Conservatory(以下、NEC)の修士へと進みますね。

OL バークリーでは、映画音楽とコンテンポラリー・ミュージック・プロダクションを専攻しました。自分はジャズとの完全な結びつきを感じることはなかったのですが、ソウルで1人で生活をしていた10代のときに無数の映画を見たので、常に映画には結びつきを強く感じていました。しかしながら、より高い学位を目指す際、アメリカには映画音楽の修士課程を提供する学校が2つしかなかったのです。1つはLAに、もう1つはアッシュヴィルにありましたが、そのために引っ越したいとまでは思いませんでした。すると、NECを1年早く入学した知り合いが、生徒に一見して多くの自由を与えているように思えたContemporary Improvisationという名が冠された専攻の存在を伝えてくれたのです。幸運にも全くの偶然のおかげで、私は入学を許可され、また死活に関わる奨学金を得ることさえできました。というのも当時韓国はIMF危機に晒され、私の家族にも甚大な影響をもたらしていたからです。

 NECでもまた、直ちに全てを吸収することからやり直さなくてはなりませんでした。なぜならば、そのときは即興について何も知らなかったからです。NECでは、特にHankus Netskyに師事したことが、大変役に立ちました。ある形式や伝統に単に基づくものを選択するのではなく、自分の全ての音楽的知識を関連付けることによって音楽的地平を拡張することが可能となったのです。彼はまたクレズマー音楽(註:東欧系ユダヤ人の民謡をルーツに持つユダヤ系音楽)を最初に紹介してくれた人物で、今でもこの伝統の先導的権威なのです。即興に関しては、バークリーのように形式的制限を受けることはありませんでした。突如としてジャズとは何か、即興とは何か、その定義が拡張されていきました。自分の楽器の演奏を、私はより前進させること、また自分が馴染んだ伝統を越えたものを創造するように励まされました。唐突にチェロの演奏に再び楽しさを覚え、自分自身のあるじになることができたのです。チェロ演奏と即興に関してより自信を深めたとき、2000年のNECでの最後の学期中にDave Douglas〔1〕がNECにヴィジティングアーティストとしてNECにやって来ました。ここでもまた、私は彼の作品を何も知らなかったのですが、ワークショップで彼の音楽を習い、満喫しました。彼の私の演奏に対する賛辞は、本当に好きになった音楽をやっている人から受けたおそらく最初のものでした。それから図書館で彼のレコードをさらにチェックすることになり、「ニューヨーク・ダウンタウン」のシーンを知ることになります。

――NYで最初に演奏したときのことを教えてください。

OL 音楽学校を修了する全ての人間と同様に、私はデモ・アルバムを製作し、ニューヨークのTonic〔2〕でDave Douglasがコンサートをやっているときにそのコピーを渡しました。それがJohn Zornにも渡ったようです。今でもそうですが、彼はいつもオープンで若者に参加する機会を与えてくれます。数ヶ月して、Tonicで彼のCobraを演奏してみないかと声がかかりました。そのステージ上で、集中力と音楽性において驚嘆すべき音楽家と一緒に演奏したことで、私は劇的に変化したと感じました。

――彼らのミュージシャンシップに魅了されたのでしょうか、それともそこにある自由に魅了されたのでしょうか?

OL 彼らの音楽的才能とミュージシャンシップだと思います。その時点まで、音楽を通して感じる自由は充分ではありませんでした。Cobraを演奏したその夜、彼らこそが何十年にもわたって楽器演奏と音楽制作の技術を研磨し続けて来た人々なのだと納得しました。Mark Dresser、Ikue Mori〔3〕、Sylvie Courvoisier、Erik Friedlanderといった人たち――彼らは音楽作りに自分の生の中心を据えているという意味において、彼らは正しく真のプロフェッショナルです。私もその一員になりたいと思い、ニューヨークに滞在する手段を切望したのです。

(2ページに続く)