空白の焦り、それか気楽な無党派層たち——「即興的最前線」に寄せて


気楽な無党派層たち

  とても熱心な二元論や二項対立を示されてまごついたという経験はないだろうか。少なくともわたしは非常にまごついたことがある。思考の覇気がない現在にあって、二項のいずれかに振り分ける手はわれらがコンパスの針をすべてまさぐろうとするかのような必死さだ。するとわたしはその焦燥に居心地が悪くなって、無党派層がただよう海のようなところへと紛れようとする。調査のYES / NOではなく「どちらでもない」を選んだ無気力な難民たちの群れだ。いつもそうだ。急な選択肢が出てきたら、すぐに逃げ出したくなっている。「わたしの合理的な判断によっていずれかに属することを選んだ」ことがおぞましい。まるでわたしが矯正されているようだ。熱烈に「どちらかであること」を余儀なくされれば余儀なくされるほどに。こういう機会は日々のものごとが複雑になるにつれ、極端に単純化されつつ強い信仰心を伴って増えていく。わたしはそのどちらでもない。だがそう主張すればするほどに、自分の存在はおぼろげになっていく。

 

会場となったEFAGの入り口

 

 東葛西のアートスペース「EFAG(East Factory Art Gallery)」で2018年の11月9日から25日まで「A HOROI」という展覧会が開催されていた。その関連企画として同会場を舞台に11月24日の12時から18時過ぎにかけて、音楽批評家の細田成嗣がキュレートする、彼と同じく「若手」の即興演奏家たち——野川菜つみ、池田若菜、時里充、山田光、加藤綾子、岡田拓郎の6名を擁した、「即興的最前線」という名前を冠した呼気の荒いイベントが行われた。その大仰なタイトルからもわたし個人にとっても、兎にも角にも葛西は遠かった。家から持ち出していたのは谷川俊太郎の初期詩集と入沢康夫の全集だったから、わたしはそれらを研究しながら待ち受けるべきことをはせ考えていた。すなわち、即興音楽と時空の関係性だ。

 戦後の難解な詩のなかには時空というテーマを放り出すととたんにすんなり読めてしまうものがある。谷川の2冊目の詩集である『62のソネット』は特にそうだ。たとえば31番の有名な「私は時間の本を読む/すべてが書いてあるので何も書いてない/わたしは昨日を質問攻めにする」のくだりを見てみよう。もしもラプラスの悪魔のように因果律の必然性があるなら現在も未来も既知である。悠久の過去から遥か彼方の未来まですべてが決定されている。だったら「時間の本」にはすべてが書いてある。でも現実はそうじゃない。未来のことなどわからない。いや、未来が決定されていたとしても、わたしはわたしの過去をすべては知らない。そこには個人的経験のうちにある未知なる忘却がある。この忘却を未来の空間に投げ込もう。そのために「昨日を質問攻めに」しよう。そしたらラプラスの悪魔も未来がわからないというに違いない。こうした詩的態度は未知なるものを求める即興音楽のそれをつややかに想起させるだろう。

 カントからアインシュタインから様々の現代的思想から自分と時空は相対的な関係にあると理論的に教えられても、わたしはどうしても素朴な絶対性に身を委ねたくなってしまう。ある時空に音楽を感じたならば、揺るぎない音楽なるものがそこにあるとまずは思ってしまう。これはきっとわたしだけではなく、実演する大抵の音楽家だってそうだろう。演奏者が演奏することを解釈する媒介が、絶対的なものでなければ何を判断基準にすればいいのだろう。わたしと演奏者は音楽なる安定をお互い慎重に押し付けあっている。だが刻一刻と変化する即興音楽に安定した音楽を求めるのは難しい。即興音楽と時空の関係性を考えるなら、わたしと演奏者の間には絶対的なものよりも、入沢らしく言うとふわふわしてぶよぶよした(大脳のような)不安が押し込められていたほうがいい。それがきっと期待と刺激の空間になる。

 観客はそもそもどこに立っていればいいのだろう。ハプニングを期待するのなら東西線を西に行って渋谷の交差点にでも紛れていたほうがマシだ。芸術がセットアップされている場がいいというのならちょっと足を伸ばして表参道ヒルズにでも行けばいい。あそこはそう設計されている・・・・・・・・・・・・・。演奏者と観客とに権利のほとんどが委譲されている「作曲」のように。違う。そうじゃない。即興音楽を聞くわたしは時間も空間も一から観てみたい。音を聞くわたしの意識が線を描けるのなら、そこにちょくちょく微分不可能な点をはさみたい。断絶。断絶。断絶を繰り返した末の空白のはて、真空のなかに音の経験と自意識を混ぜ合わせてみたい。そこで出会うものは演奏者プレイヤー企画者キュレーター、わたし自身やそのほか、誰か一人の企みであってはならない。あらゆる既存の選択肢や立場を拒否することによって、気楽な無党派層となったわれわれから希望とともに生じる期待であるべきだ。

 演奏者は渋谷の交差点にいる訳にはいかない。迷惑を通り越して生活という通行への侵害なのだから。それは動力をも落とすことになる。生活のはざまから耳を傾けてくれる用意をしてくれる群衆に向かって、彼らは外部から自らの身体や電源を清く準備してきたという動機があるからである。そういう前提がそもそも音楽奏者として用意されているからこそ、まっさらの空間に最初の意味を与えることができる。ついでに職業的な演奏家という肩書もつけて。通常の生活空間から断絶されなければならない。一般人という心地よさからも断絶されなければならない。今までの生活時間からも一旦断絶されなければならない。なんらかの薄ぼんやりとした期待にこたえて音くらいは出さなければならない。または期待にこたえて裏切っているふりぐらいはしなければならない。その期待と自分や演奏を断絶させることは、少なくとも意図的には不可能だろう。この期待の一部には、たぶんコンテクストという20世紀の遺物を含んでいるから。

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ヱクリヲ vol.7 
特集Ⅰ「音楽批評のオルタナティヴ」
●interview:佐々木敦  「音楽批評のジレンマ」」
●音楽批評の現在(リアル)を捉える――「音楽」批評家チャート 2000-2017
●音楽批評のアルシーヴ――オルタナティヴな音楽批評の書評20
●来るべき音楽批評を思考するためのライブラリー ほか多数の論考を掲載
特集Ⅱ「僕たちのジャンプ」