Interview:横山博「アメリカ実験音楽を「古楽化」し、刷新する。鍵盤奏者、横山博のヒストリカルアプローチ」


 古楽をバックグラウンドに持ちながら、アメリカ実験音楽のピアノ演奏の刷新に挑戦し、聴衆に大きなインパクトを与えた横山博。70分以上の大曲にしてモートン・フェルドマン後期の傑作《バニータ・マーカスのために》の実演と、ジョン・ケージのプリペアド・ピアノのための《ソナタとインターリュード》録音にまつわる、ロングインタビューを行った。

聞き手・構成/大西 常雨


──2019年8月27日に宇都宮市立南図書館サザンクロスホール、2020年1月11日に豊洲シビックセンターホールと続けて、ジョン・ケージの《4’33”》(1952年)とモートン・フェルドマンの《バニータ・マーカスのために》(1985年)を演奏し、現代音楽ファンの間でも大きな反響を呼びました。まず、アメリカ実験音楽を代表する作曲家の2作品を選んだ経緯について聞かせてください。

《バニータ・マーカスのために》豊洲公演ライブ音源 

横山 博(以下、横山)僕は現代音楽にも興味はあるのですが、基本的には古楽演奏をメインとするチェンバロ奏者です。ただ、僕のコンサートに来てくれる客層にはコアな音楽ファンが多く、彼らを通じてケージやフェルドマンについて考えることが増えていきました。フェルドマンは以前1度取り上げたのですが、より深く掘り下げる必要を感じていました。

 宇都宮で《バニータ・マーカスのために》のリサイタルを企画した当初は、フェルドマン1曲のみを想定していましたが、8月になり出版されたばかりの『ジョン・ケージ 作曲家の告白』(アルテスパブリッシング、2019年)を読み、《4’33’’》の作曲の経緯を知って、巷のコンサートで散見される取り上げ方──つまりアンコールピースとして余興に取り上げること──としてではなく、メインプログラムに取り入れてみようと思ったんです。そして、《バニータ・マーカスのために》との対比も面白いかもしれない、と──。

 ほとんどのお客さんは《4’33’’》を生で聴くのは初めてで、Twitter上の感想などを見ると、70分を超えるフェルドマン曲よりも《4’33’’》のことが多く、「《4’33’’》の方が長く感じた」と言う人さえいました。これは「してやったり」と思いました。

 

──どのような経緯があってフェルドマン作品の実演にたどり着いたのでしょうか?

 

横山 2016年当時、僕が運営に携わっていた栃木市にある西方音楽館というホールに、オルガニストの今井奈緒子さんから、子供の時に買ってもらったという70年代のニューヨーク・スタインウェイが寄贈されたんです。

 古楽器をやっていると、その作品が書かれた時期と、使われていた楽器との整合性を考える癖がつき、そのピアノならば、フェルドマンと地域や時代も合い、なにか出来るんじゃないか、という発想になりました。

 また、尊敬する古楽器奏者、そして現代音楽演奏のスペシャリストである大井浩明さんに相談したら「アメリカの音楽に興味があるなら、まず、ケージのプリペアド・ピアノのための《ソナタとインターリュード》と、フェルドマンの《バニータ・マーカスのために》をやりなさい。2週間あれば弾けます。」と提案してくれたんです。

 実際に楽譜を見てみると案外簡単そうで、フェルドマンの譜面もページ数は多いけれど音は少ないから、たしかに僕にでも弾けそうだ、と。大井さんからメールを貰った翌週には企画書を書いて、告知に入ってましたね。僕は部屋にポスターも飾るくらい、もともとマーク・ロスコの絵が好きで、フェルドマンもまたロスコと関係があり、やるしかないと思いました。

 

──まず、《4’33”》は、豊洲と宇都宮の時と比較して、宇都宮での演奏では、ピアノの蓋の開け閉めこそしないものの、椅子を直したり、ハンカチで顔を拭いたりする動作が目立ち、身体的な律動感を感じました。豊洲での演奏も同じような動作があったのですが、比較的穏健なものに感じました。


《4’33’’》宇都宮公演

 

横山 デイヴィッド・チュードア〔1〕の初演時に「蓋の開け閉め」がされたのは広く知れ渡っている事実ですが、今となってはダサく感じ、省略しました。楽譜を見ると、チュードアのやったことは一例に過ぎず、特に決まりは無いようでしたから、「いかにもピアニストが3楽章構成のピアノソナタの楽章間にやりそうなこと」をするのが自然かなと思いました。特に本番での椅子の上げ下げの調整は重要で、かかる人は30秒くらいグリグリ回しますよね。

 豊洲公演では、2回目だからか、マンネリに陥っていたかもしれません。しかし最大の失敗は、ファツィオリ社製ピアノ付属のベンチ椅子が、クルクルと手動で高さを調節するものではなく、油圧式で、片手で簡単に操作できる椅子だと会場で気づいたことです!立ち上がる必要がなく、むしろ立ち上がると椅子が下がらない、自分の体重を利用して下げるタイプでした。

 《4’33”》は音を出さないだけに、視覚的要素が重要です。微妙な動作は、座席の位置によっては、何も伝わらない。ステージに向かって右側に座った人は、ピアニストの手元も見えないし、顔も見えない。(ピアノ演奏で、暗譜が主流になった理由の一つに「譜面台が邪魔で、座る客席の位置によってピアニストの顔が見えないから」というのがあるそうです。)初演者チュードアの蓋の開け閉めも、きっとステージ向かって右のお客様には見えてなかったのではないでしょうか。

 舞台俳優のお客さんの感想に「あのお芝居は欠かせないものなのか?」というのがありましたが、楽章間の区切りを音で聴かせるわけにはいかないので、見せるしかないのです。

 また、予想外のことでしたが、本番中ホールの電光時計が消えていなかったらしく、このことは《4’33’’》の聴取体験に大きく影響を与えたと感じています。

 

──奏者が、楽器を演奏せず、会場のアンビエントノイズの聴取へと向かわせる《4’33’’》から、静謐な長い時間で構成される《バニータ・マーカスのために》への流れは効果的に感じましたが、その意図について教えてください。

 

横山  僕自身、前奏曲を弾くという意味合いについて、古楽の演奏経験から自分なりに考えてきたつもりです。最終的には《バニータ・マーカスのために》への前奏曲《4’33’’》という解釈ができたのでは、と思っています。

 例えば、17世紀のチェンバロ音楽で、ルイ・クープラン、ダングルベールといった作曲家に代表されるprélude non mesuré という一風変わった音楽があります。「拍子のない前奏曲」「小節線のない前奏曲」などと訳されていますが、定量的な記譜法では書かれていないもので、白い全音符だけで構成されています。なので演奏の解釈、語り口のスピードやトーンといったものはすべて奏者の見識に委ねられています。本来は、リュート奏者がチューニングの具合を確かめたり、指慣らしのために即興的に演奏されたもので、続く諸々のダンス音楽(舞曲)への導入の役割があります。古楽器は、自分ではチューニングできないピアニストという存在に疑問を持ったことから始めたので、チューニングという概念と前奏曲、そこに自分の中で関係性を見出しました。また、チェンバロを始める前には生田流のことを習っていました。ピアニストは鍵盤しか触りませんが、箏という楽器は「演奏すること=チューニング」みたいな感じで、楽器のあらゆる場所を操作しながら弾きます。僕の箏の師匠、沖政一志先生は豊洲でのコンサートに接し「《4’33”》は《六段の調》の前奏にぴったりだね」と言っていました。

 

──サウンド・スケープを提唱したマリー・シェーファーが「世界の調律」と言ったように、チューニングとは単に楽器だけにとどまらないのかもしれませんね。《バニータ・マーカスのために》の静謐な空間へと、演奏家と聴衆の耳を──あるいは環境を含めてもいいかもしれませんが──前奏曲にてチューニングした、と言えるのではないでしょうか?

 

横山  そうですね。それこそバッハの《平均律クラヴィーア曲集》第1巻第1曲、あの有名な前奏曲も「世界の調律」と呼びたくなりますね。《4’33”》を弾いてみるとわかると思いますが、めちゃくちゃ緊張しました。間違いがあってはいけない。そしてゾクゾクするほど演奏している実感があります。他の曲ではまずそんなことは感じませんが、お客さんとの一体感の充実という意味で究極の音楽ではないでしょうか。僕の勝手な解釈ですが、お客さんもピアニストと共に黙って座るという身体的に同じ行為をしている、そして曲の長さやコンセプトも共有していることになる。耳と身体を共有して、まさに同じ作品を演奏しているという感覚になれるんです。

 

──次に《バニータ・マーカスのために》の実演に関してですが、正確なリズムキープをされました。一般的にテンポを伸縮させたり、少しルバート〔2〕気味に弾くピアニストも多い。フェルドマン自身は、演奏家の解釈に対してかなり鷹揚であったと聞きますが、演奏の意図を教えてください。

 

横山 僕は、曖昧なルバートでお客さんたちを眠りに誘ってしまうのが怖かった。メトロノーム表示は「4分音符=63-66」で、これは全然ルーズなテンポ指示だとは思いません。多少の狂いがあっても2-3mmでお願いしますよって感じ、譜面には拍子記号の数字たちがずらり……フレキシビリティを伴って弾くようなものには見えませんでした。

 リズム概念における伸縮性なども考慮するべきではあるけれど、1小節1小節、綿密に指定された変拍子を受け流すことが、本当に作者の意図を汲み取ったことになるだろうか? 特に、ほとんどの2/2拍子の小節は音をたてないので、長く沈黙を保つことになります。弾かないからといって、リズムが無いかというと、僕の内側にははっきりと脈打つリズムが存在するんです。沈黙の2/2拍子の中で、リズムと時間の関係を見失わずに、この巨大な作品の魅力を伝えたかった(ロスコの絵のように)。フェルドマンは公式に「リズミカルにする rhythmicize」という言葉を使ってこの作品を紹介し、《バニータ・マーカスのために》を「例外的な作品」だとも述べています。

 《バニータ・マーカスのために》の演奏速度が間違っていたり、2/2拍子の沈黙部分を正確に数えず曖昧に流していたら、曲のサイズとプロポーションが丸ごと歪んでしまいます。抽象的で幾何学的な絵画や絨毯に触発されたフェルドマンは、作品の寸法に対して厳格な人だったと思います。5/16拍子を見て真っ先に思い出すのは当然、ストラヴィンスキー《春の祭典》(1913年)のラストの生贄の踊りでしょう。フェルドマンはストラヴィンスキーを大変尊敬していたわけですから、《バニータ・マーカスのために》の変拍子にも、厳密なカウントを要求しているように見えます。

 

──また、打鍵に特徴があるように感じます。古楽との接点、あるいはチェンバロ演奏からの影響があるのでしょうか。実際に弾いている姿を見ると、抑制された静謐な音空間の中にリズミカルで繊細な打鍵がもたらす緊張感を感じました。

 

横山 この曲を弾く他の人の手元を見たことがないのでなんとも言えませんが、チェンバロ奏法の基本は、いついかなる時も鍵盤に指が触れているということです。この曲は最初から最後まで最弱音(ppp)で弾き続けることを要求しています。僕にとって、現代のピアノを最弱音(ppp)でリズミカルに弾くことは、とても簡単です。チェンバロ演奏は常に必要最低限の力しか使いませんから。音が強いとか弱いとか、そう単純なことではなくて、チェンバリストは、無数の情報量を持った音の「トーン」というものを意識しています。特徴的な5/16拍子の小節の頭にはいつも16分休符が置かれていて、シンコペートされています。シンコペーション=アクセントでもありますから、自動的に3/8拍子と比べ5/16拍子に硬いアクセントが生じます。しかし必ずしも「アクセント=音量が大きい」ということにはなりません。この辺りの細かい打鍵のコントロールはピアニストよりチェンバリストのほうが得意かもしれません。

 お客さんの感想にばらつきがあって、どうもおかしいなと思ったのですが、ステージ向かって左に座った方たちは、ピアニストの手元や動作を見ているから、複雑なリズムを処理している感じが伝わってヒリヒリと緊張した空気が漂っていました。ステージ向かって右側に座った人たちは、拍子をカウントする姿も見えず、ただただ浮遊する音と音に身を任せ、リラックスムードでした。《4’33’’》より《バニータ・マーカスのために》の方が視覚情報が重要だということが分かりました。

 

──ジョン・ケージによるプリペアド・ピアノの代表作、《ソナタとインターリュード》(1948年)の、美しくエレガントな録音も2017年にすでに出されています。ソナタ第2番ソナタ第12番)また、2018年12月には両国門天ホールで小型スタインウェイでの全曲20曲の演奏もされていますね。ケージはまさにプリペアド・ピアノを発明した本人で、譜面の最初にある表、Table of Preparationsでその細かいプリパレーションの指示をしているわけですが、作業工程はいかがでしたか?

 

横山 まず、Table of Preparationsに沿って、丁度良いサイズのボルトとかゴムシートとかをホームセンターに買いに行くわけです。作業を進めていくうちに、このサイズのボルトが良い音、これが良い感じのネジのキラキラ、余韻のあるラバーのポコポコ感というのが自然と分かってくるわけです。この鐘の音を模した音は、何度も出てくるから入念に調整した方がよいだろうな、とか。これは僕の主観的な判断にすぎないから大丈夫なのかな、とか色々感じながら、です。ケージはこれらを決定するのに何百倍も時間をかけたわけですから妥協しては失礼に当たると、試行錯誤しながら使う素材を決定して、これが実験音楽というものか、と感じました。

 丁寧にプリパレーションすることのできたこの録音を僕は気に入っています。倍音が無限に折り重なっていて生音は録音の何倍も美しいんです。ノイズ成分が少なすぎると受け取る人もいるでしょうけど、「心地良い音色」を心がけました。

 

──ケージの楽譜をどのように解釈しましたか? ケージが目指していた通り、独立した打楽器アンサンブルが演奏しているように聴こえましたが。

 

横山 まず、楽譜の事で最初に面白いなと思ったのは、《ソナタとインターリュード》の譜面には、特別な場合を除いて「スラー記号」が現れないということです。スラーが無いということは、柔らかなレガートが求められていないという風に受け取れます。つまりこれは打楽器の譜面なのだと視覚的に理解できます。

 ペータース社から出版されている楽譜は、ケージ手書きのものですが、なんて綺麗な楽譜なんだとびっくりしましたね。きっちり定規を使って、整然としていて、几帳面な人柄がひしひしと伝わってきます。音像が頭の中で明確に出来上がっていたのでしょうね。

 プリペアド・ピアノは、ガチャガチャしたもののように捉えられがちですが、《ソナタとインターリュード》の中で、元気一杯に弾くような箇所はごく限られていて、半分以上の時間が幻想的なピアニッシモ(pp)かピアニッシシモ(ppp)の世界なんです。ドビュッシーみたいな瞬間も沢山あります。楽器も音楽もとてもデリケートなものです。

 

──《ソナタとインターリュード》における楽器の選択に関して伺います。

 

横山 ピアノのサイズ、種類は重要です。《ソナタとインターリュード》は、そもそもフルコンサートグランドピアノ〔3〕は想定外だと思いましたし、ヤマハの楽器だと「フレーム邪魔問題」が起こります。

 練習では実家にあるヤマハのピアノでプリパレーションをして練習しましたが、指定位置にボルトやネジを挟んでいくと、スタインウェイと違うものだから、フレームなどが邪魔をして物理的に挟み込めないところが何箇所も出てくる。よりによってそれが《ソナタとインターリュード》で象徴的に何度も現れる、ゴーンという鐘の音だったりする。これを妥協して指定よりも離れた場所にボルトを移動すると、ひどい音になってしまって台無しになります。これは単純にフレームの形状の問題です。マテリアルを選択する余地はありますが、綿密に指定されたダンパーからの距離、例えば「8.75インチと3.25インチの場所に長いボルト」という風に書いてあるわけです。この寸法に逆らうわけにはいきません。楽器のデザインが違うという理由だけで良い音が得られないのは致命的です。

 しかし、録音用に使用したピアノは中くらいのサイズのスタインウェイB-211というモデルでした。僕の録音を聞いてもらえばわかる通り、おそらく多くの録音に使用されているフルコンサートD-274の音よりも、違和感のないナチュラルな音色になっているかと思います。

 ちなみに、ケージは、「《ソナタとインターリュード》に最も好ましいピアノはスタインウェイM-170です」と述べたという資料があります。

 驚くべきことですが、スタインウェイM-170を所蔵する両国門天ホールですら《ソナタとインターリュード》全曲のリサイタルが未だかつて行われたことがなかったんです。しかしケージは、作曲に際して使用したそのピアノのモデルを勘違いしていて、実際にはスタインウェイM-170ではなくスタインウェイO-180だったという資料もあります。困っちゃいますよね。

 

──今後の活動に関して、現代音楽、あるいは音楽活動全般に関して何かあれば教えてください。

 

横山 現代音楽は現代音楽に特化した演奏家にしか弾けないと思われがちですが、僕の今回のケージとフェルドマンのリサイタルで、そうではないという証明にはなったのかなと思います。正直なところ、僕は現代音楽を弾くピアニストとして広く認知されたいとは思っていなくて、ヒストリカルアプローチが可能で、演奏上何らかの更新の余地がある場合だけ、現代音楽を演奏したいと思っています。

 とは言うものの、フェルドマンの《フィリップ・ガストンのために》をどこか、美術館などでやる催しを、どなたか企画してくれないものでしょうかね?アーカイブを見ましたが、たぶん日本初演になると思います。4時間半ですからリレー形式でも良いかもしれませんね。あの編成で音色と音色が折り重ると、グラスハーモニカのように瞬いて、本当にきれいです。

 この4月、バッハ・コレギウム・ジャパン等でご活躍の廣海史帆さん(バロック・ヴァイオリン)らと一緒に、ヘンデル作品を集めた演奏会があります。僕は通奏低音で参加します。またこの公演は、名古屋の安達正浩さん製作、新作イタリアンチェンバロお披露目演奏会でもあります。素晴らしい楽器で、甘く輝かしい音色は必聴です。

 また、先になりますが2021年の2月、ストラヴィンスキーのバレエ音楽《春の祭典》(ストラヴィンスキー編曲4手連弾版)、夏田昌和委嘱新作を演奏予定です(共演:羽石道代)。フェルドマンのあの複雑なリズム構造の源流をたどることになるでしょう。僕の中で《バニータ・マーカスのために》は、あくまでもダンスミュージックなんです。


 

〔1〕デヴィッド・チュードア(1926-1996) 《4’33”》を初演し、ケージの良き理解者であり解釈者であったピアニスト。ピアニストとして活動後、電子音楽の作曲家としても活躍した。

 〔2〕テンポ・ルバート。字義通りに取れば「盗まれたテンポ」であり、厳格にテンポ通りに演奏せずに、音楽表現に合わせてわざとずらすこと。モーツァルトの父であるレオポルド・モーツァルトの文献にも見られたが、ロマン主義の時代に特に顕著になったとされる。 

 〔3〕規模の大きなコンサートホールでの演奏を目的とした、グランドピアノの中でも最大級のサイズを誇るピアノ。

 


 

〈プロフィール〉

横山 博

1981年生まれ。チェンバロ奏者。日本大学芸術学部卒業後、スマラノ・オルガン・アカデミー(イタリア)修了。古楽器を使ったJ.S.バッハの《平均律クラヴィーア曲集》全48曲他主要鍵盤作品全曲演奏会を行う。また、アメリカ実験音楽を歴史的考察から再構築したケージとフェルドマンのリサイタルは話題となった。公式ホームページ

大西 常雨

音楽家、翻訳家。批評再生塾二期修了。「エクリヲ」Web版では主に海外の音楽家を取り上げ、日英両語での掲載を行う。大西穣名義ではジョン・ケージの『作曲家の告白』(アルテスパブリッシング)を翻訳し刊行。

 

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