Interview:ウィリアム・ブリテル「ニュー・アムステルダムの中心人物が語る、新作『Spiritual America』とジャンル流動性(Genre FLuidity)」


聞き手・構成・翻訳/大西常雨

2019年6月10日 Skypeにて


創造的な音楽の中心として、知る人ぞ知る存在のニューアムステルダム・レコード。今年になって名門の老舗レーベル、ノンサッチと3作品を共同リリースすることが発表され、いよいよ存在感を増し始めた。そのレーベルの共同創設者の顔を持ち、さらにはその共同リリース作品に新作『Spiritual America』が選出されたウィリアム・ブリテル。インディー・クラシックの由来から、自身の提唱する流動的ジャンル性、 新作の経緯、レーベルに至るまで語る。


 

――まずは、ノースカロライナ州の子供時代からNYに行くまで聞かせてください。

ウィリアム・ブリテル(以下、WB) ノースカロライナ州の小さな保守的な町で育ち、その後カントリー音楽で有名なテネシー州ナッシュビルの学校に移り、さらにその後大学院進学のためNYCに引っ越した。数年後に大学院をやめてバンドで演奏した後、再び作曲に戻ることになる前の話だね。

――あなたは宗教的に保守的な街で育ちましたが、その背景からは随分と変わった音楽を作っています。そして不可知論者と聞いていますが、日本から見ると特にわかりにくいのです。まずあなたの宗教的バックグラウンドについて教えてくれますか。

WB 自分の通ったキリスト教系の小学校や、子供の頃所属していた保守的なキリスト教社会では、キリストが人類の罪のために死んだことを信じて救われるか、信じて地獄に行くかの2択しかない。閉塞的な社会で育ったせいで、ほかの地方にどんな宗教的特色があるかなんてわからなかった。結局、私の家族が私より先に教会を離れたので、自分自身はあるとき信仰を捨てるというプロセスを経験することはなかったものの、20代になって、仏教によって、世界や現実にいることに興味を持った。そして、しばらくの間、自分に安らぎと世界認識の構造を与えてくれたんだ。

 主体的な信仰がないとわからないように感じたので、転生とカルマを受け入れることは自分には困難だった。今は無神論に落ち着いている。呼吸法を利用した瞑想の経験上、大きな存在論的な問いすべてに対する確かな答えは見つからないと感じ、不可知論が適切であるように感じる。

 ただ、こうした実践のおかげでよかったと思えることはあって、自分の基底性に迫ることができたんだと思う。表立って信仰してはいなくても、文化的にキリスト教徒だったり仏教徒であったりする人が多くいる。たとえ自分自身で仏教の実践を考えなかったとしても、人々がどのように成長したか、ある種の物の考えが影響されていることがある。いくら自分の思考法を分解しようといくら量子論の本を読もうとも、自分の感情的な世界の構築の仕方は、ある方法によってなされるとわかったんだ。

――大学時代の音楽活動について教えてください。バンドもやっていましたね。

WB 大学時代に、ジャズにも強い興味があって、Dizzy Gillespie(註:ジャズレジェンドのトランペット奏者)の音楽ディレクター兼ピアニストだったMike Longoにしばらくの間習った。ジャズは演奏はしないけれど、ジャズの演奏家をとても尊敬している。ただ、ジャズのハーモニー、アレンジ、ヴォイスリーディングは本気で勉強したね。自分のハーモニー感覚はクラシックの和声法より、マイクとのジャズの勉強によるところが大きいんだ。

 それからバンド活動もやったね。テレヴィジョン(註:1970年代のNYパンクシーンを牽引したバンド)にいたギタリスト、リチャード・ロイドと一緒に仕事をした。僕たちのレコードをプロデュースしてくれて、ライヴを何回か一緒にやったよ。

――アカデミックな世界はどう感じていましたか?ポップとはどのように関連づけてますか?

WB 新古典派やポストロマン派、12音音楽などのいずれかが主流だった。当時は、どんな種類の一般的な形式に対しても、本気で取り組むことに対し嫌悪感を抱いていた。結局、クラシック音楽のアカデミックな側面に幻滅してしまった。図書館であまりにも多くの時間を費やしてしまったと感じたんだ。

 必ずしも最初からポップミュージックとクラシック音楽の融合を画策していたわけではなく、自分が一体何者なのか、どこから来たのか、興味を持ったのは何か、それを突き詰めやりたいと思っただけなんだけど、アカデミックな状況の中ではなかなか難しく、ついに壁にぶち当たり、もうそれ以上できない気がしたんだ。

――また、中退後にクラシック作曲家のDavid Del Tredici(註:ロジャー・セッションズに師事した後、新ロマン主義の先陣を切った作曲家として活躍した。1980年にピューリッツァー賞受賞)に師事しています。

WB 学校を中退した後、自分の教育に責任を持ちたいと思った。学歴のためではなく、自分自身のための作曲に集中した。そこで2年間プライヴェートに彼に習ったんだ。彼は素晴らしいオーケストレーターで、こちらが何がしたいか把握すると、すぐさま洞察力に満ちたレッスンをしてくれた。レッスンはとてもダイレクトに響いてきたね。最初に受けたレッスンでは、私の楽譜はピアノから投げ捨てられたけど。

 そして、この楽譜を演奏してくれる現実の人々がいること、またそれを聴いて理解してくれる現実の人々こそが、重要なんだと気づかされた。(作曲、演奏において)実際に可能なこと、あるいはその効果性の有無、その現実世界について考えること。他の誰にもアピールすることのないような知的な悪循環に陥らないようにすることを教えてくれたんだ。当時は自分はもっと秘教的なことに興味を持っていたのだけれどTrediciは私のしていることを再構成してくれた。

――そして、バンドをやってもいたわけですが、バンドと作曲活動の経緯を教えてください。

WB 大学院を中退して、収入を得るためにロッククラブでブッキングやプロモーションを担当していた。同時にパンクバンドを、少しVelvet Underground寄りのポップパンクをやっていた。ちょうどそのときStrokesやYeah Yeah Yeahs、Interpol、Animal Collective, Dirty Projectors、Grizzly Bearが活躍していた。だから、バンドをやるには楽しい時期だったよ。

 最初はアカデミックな世界の外に出れた安心感があって、机に座って作曲するのではなく、オーディエンスの前で叫んだり、非常に直感的な音楽作りをしていたけれども。しかし、しばらくしてここでも自分のVoice(声)を見つけることができないのだと気付いた。

しばらくして、4人でできる音楽(特に1人は楽譜が全く読めなかった)ではできないレベルの大きな音楽的アイディアが自分の中にあることを感じた。非常に限定されていると感じ、作曲に戻りたいと思った。

――《Mohair Time Warp》(2008)が1番最初のCDでしょうか?様々なテクスチャーや、影響をジャンルからの影響を感じました。

WB 一番最初のアルバムだね。その頃まともな発声法を知らず、絶叫系の歌手だったので声を壊していて、療法士について、短い間だけしゃべることができるようになった。少ししゃべって休んで、とその繰り返しをして、レコーディングした。こうして様々な影響をコラージュ的なフォーマット上でまとめあげた最初の作品になった。その頃は(最新アルバムのように)ジャンル流動的な言語(註:Fluid languageブリテルは自己の音楽スタイルを指すのに頻繁に使用している)ではないけれど何に興味を持ってきたか、どこからきたのか。自分を反映できるスタイルを発展させることができたんだ。

――さらに、パンクの精神があなたの創作の根底にあると聞いています。その経緯や内容を教えてください。

WB (前述の通り)テレヴィジョンの元メンバー、リチャードとの交流で影響を受けた。彼は、テレヴィジョンの最初のCBGBのショーにいて、NYパンクシーンの最前線にいた。そして、自分の心に響くようなことをいくつか話してくれたんだ。

 彼から教わったこと。まず、最もパンクなこととは、自分の最もエキサイトしたことをやることだということ。自分のやっていることに関して、完全にワクワクして興奮してなければ、誰も気にかけはしないし、また気にするべきでもない。どのような人間に本当になりたいのか、どのような音楽を本当にやりたいのか、できうる全てのことを妥協なくやること。なので最初はバンドをやったけど、今となっては、感情面や精神面で大きな負担となる、こんなにも大きく、実現が困難で、馬鹿げてもいるプロジェクトをやることになった。それが自分が想像できる中で最もすごいことで、行動の指針であり、それを信じることが好きなんだ。

 そして次に、真にパンクとは何かに対して反対するのではなく、ポジティヴな動機によって行動すること。だから誰かに言われてさせられることではないし、反抗的なパンク音楽がよく間違えられるけれど、反抗的であるからパンクだというのではなく、本当にやりたいことをやっているからパンクなんだ。単に反抗的であるだけだと、誰かによって自分を定義づけられているかわけだから。本当のパンクとは、他の力がある一定方向や他の方向へと押し込めようとする中で、自分自身の価値観によって何がしたいか、何を夢見るか追求することなんだと思う。

――つまり自己肯定的なパンクの解釈ということですね。

WB そう、なりたい自分になるということ。どんな田舎から来ても自分自身を作り直せるということ。自分自身の名前を命名し直し、現実を作り直すこと。それはとてつもなく美しいことだと思う。自分が最初に触れたロック体験とは、デフ・レパードを筆頭としたヘアメタルだった。今や本当に人気がなくなってしまったけれども、そこには自分自身を作り直すというアイディアがある。もし現実に満足しない中で、(あることを)想像をして、それについていくこと。そこに自分は安らぎを見つけるのだけれど、多くの評論家に根本的に誤解され、自分にとって嫌なやり方や意味をなさないやり方で文脈化されている。司会者と一緒に仕事すると、ギターを入れるな、シンセを入れるな、大音量にするな、などと言われる。常に妥協するように説得されるわけだ。自分の立場を貫いて腹の底で感じることに従うことがパンクなんだ。それはロック的な音楽に当てはまらず、多種多様な音楽や行動に当てはまると思うよ。

――ヘアメタルはどのような経緯で出会ったのでしょう?

WB もし1980年代に南部の閉鎖的な場所で子供時代を過ごすとなると、ジャズやクラシックが本当に実在するのかわからないんだ。10歳くらいになって、ケーブルテレビで初めてメタルの存在に気づいたんだ。自分にとって、それは両性具有的で、ぼんやりとした悪魔主義なものだった。ほかの皆が本物のキリスト教信者の中で、反キリスト教的問いかけをするのは、とても魅惑的だった。多くのミュージック・ヴィデオでは、彼らは神のように振る舞い、人の一生より大きな存在に見え、3万人の前で演奏し、強烈なギターソロがあり、歌手は大抵高レベルだった。でも自分の最新作への影響は、その技術面や感情面にあるのではなくて、それで育ったからなんだと思う。作曲の世界に活かすため、あるいはアーティストのメリットがあるからではない。自分の育ちに反するような定義づけを、大人になって強いられたけれど、もちろんそれは全くパンク的なものではない。(新作では)大人である自分と子供時代の自分の積極的な対話をさせたかった。

――だからプリンスやほかの80年代のアーティストの影響が見られたりするのでしょうね?

WB 特にプリンスからね。80年代のヴィンテージシンセやドラムマシーンの音が好き。自分が育ったものであるし、音楽言語としても好きなんだ。90年代に育った人にとっても、80年代の音がノスタルジックに聴こえるというのは面白いと思う。文化的にノスタルジックだと構築されているし、その力が好きなんだ。自分が強烈にノスタルジックだと思うことをやり、他人にも少なくとも、自分がそう聴こえさせるようにしているのが伝わること。それって最高にクールなことだと思う。

――次に自身のレーベル、ニュー・アムステルダム・レコードについて伺います。創立されてから10年くらい経ってますね。レーベルを作ったのは、まず自身の作品を出したかったから、それともシーンを作りたかったからなのでしょうか?

WB 両方だね。レーベルは2008年に創立した。2人の作曲家、Judd (Greenstein)とSarah(Kirkland Snider)とのミーティングから生まれた。実際にはJudd がSarahと私が入る前に始めていた、様々な異なる音楽を作って、皆が結束し合う共有のレーベルなんだ。その方針のもと、2、3作品がリリースされ、さらにレーベルを作り直した。その時製作中の『Mohair Time Warp』を出すレーベルはなかったけれど、このレーベルの人たちからはちゃんとした反応があった。また、自分自身、レーベルの他の音楽にも熱中した。ネットの進化やナップスターなどによって時代的な傾向、雰囲気が相当に変わって、レーベルを違ったやり方で作っていかなくてはならなかった。それで伝統的なジャンルの壁に規定されない、作品をサポートしていくことを考えていく機会に恵まれた。今では多くのクラシック音楽家がジャンル流動的な(genre fluid)音楽に興味を持ってくれる。弦を入れたらクラシックだと思われたり、クラシック的な要素を入れたいのだと思われるわけだから微笑ましいんだけど、自分が試みていることではないね。

 ストリーミングを通して収益を回収されるようになって、ここ数年、音楽は全体的に保守的になっているように感じる。でもレーベルでは作品が行き来して、皆互いに何してるか気にして、ケアし合っていたんだ。Missy Mazzoliは最初期にいた作曲家だね。また今回ノンサッチ(註:創立1964年の名門レーベル。スティーヴ・ライヒ、パット・メセニー、ジョニ・ミッチェル、ビル・フリゼール、デヴィッド・バーンが作品を出している)から出したDaniel Wohlもいる。皆お互いの賞賛の元で、色々と分かち合って、自分たちのクリエイティヴなインフラを作ってきた

――今回、ノンサッチとの共同リリースで選ばれた3人の作曲家ですが、どのように選んだか経緯を教えてください。

WB 1年に3人、それを3年続けるという構想があって、このプロジェクトに合う大きな規模の作品を誰がやっているのか、ということだった。Caroline Shawは素晴らしい弦楽四重奏曲を書いていて、自身が弦の奏者でもあるから最初のアウトプットとしてふさわしかった。自分の場合は7年半にも渡って作っていてその巨大さがこのパートナーシップに適していた。Danielもまた長い間レコーディングしていて、聴きやすい親しみやすい音源だけれども、少しでもクラシック音楽に影響を受けたどんなものでさえも、これほどのレベルのプロダクションを聴いたことがないと思えるほどヤバいものだった。キレキレのナイフでどのような角も完璧に彫琢されたような作品だと思うよ。