MVエフェクティズム(前編):『エクリヲ vol.11』特集「ミュージック×ヴィデオ」


『エクリヲ vol.11』「ミュージック×ヴィデオ」特集に掲載された「MVエフェクティズム」では、ミュージックビデオで用いられる38つの技法をピックアップし、関連する作品を取り上げ解説している。MVは他の映像表現よりも、技術的な側面の影響を強く受ける特性を持つ。MVにはどのような方法があるのか、そして何が可能なのか。MVの歴史と共に考える必要があるだろう。本記事では誌面掲載の「MVエフェクティズム」を公開する。

 
〈目次〉

  1. カメラ目線――マイケル・ジャクソン『Thriller』、xxxTentacion『Moonlight』、ビリー・アイリッシュ『when the party’s over』
  2. ワンカット/長回し――ボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』、マッシヴ・アタック『Unfinished Sympathy』、レディオヘッド『Knives Out』
  3. リリックヴィデオ――サカナクション『アルクアラウンド』、リル・ウージー・ヴァート『XO tour Llif3』
  4. 同期/非同期――ザ・ホワイト・ストライプス『 Hardest Button To Button』、オウテカ『Garntz Graf』、ヴェネチアン・スネアーズ『Szamár Madár』
  5. 連想モンタージュ――サカナクション『ナイロンの糸』、テイラー・スウィフト『Shake it off』、宇多田ヒカル『Keep Tryin`』
  6. スロー・モーション――Wax『California』、ケミカル・ブラザーズ『Electrobank』、ディスクロージャー『Omen ft. Sam Smith』
  7. パロディ――ヨ・ラ・テンゴ『シュガーキューブ』、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ『ダニー・カリフォルニア』、アル・ヤンコビック『Smells Like Nirvana』
  8. POV(Point of View)――lyrical school『RUN and RUN』、OK GO『I won`t let you down』、Cornelius『point of view point』
  9. ループ――カイリー・ミノーグ『Come Into My World』、Lillevan『Otan Osaa / Crystal』
  10. 幾何学模様――オスカー・フィッシンガー、Radiohead『House of Cards』、映像集団BRDG

1. カメラ目線

 その黎明期から、MVに映るアーティストたちにとって、カメラ目線はひとつの規範的な態度だった。MV本来の目的であるプロモーションの宛先はカメラの向こう側の視聴者だからだ。ボブ・ディランも歌詞をめくりながら視線をこちらに向けていた。だが映像が単にライヴ演奏シーンを模したものではなく「劇」として構成され演出が入り始めると、アーティストの目線はカメラではなく、映像のなかの登場人物やオブジェクトに向けられるようになる。例えばマイケル・ジャクソンの『Thriller』においてマイケルがカメラに目線を送るのは、彼がゾンビ化し、ダンスしながら恋人に迫るシーンだけだ。この場面では、彼の恋人役の視界がカメラと重ね合わされているのだ。

 カメラ目線の意味合いはジャンルによっても異なってくる。例えばヒップホップにおいては、特にラッパー本人がリップシンクをしながらカメラに目線を送るのがMVの前提だ。リップシンクとカメラ目線が、歌詞の物語のなかの主人公が生身のラッパー本人であるという「リアル」を担保するからだ。しかし例外もある。xxxTentacionの『Moonlight』では、彼はカメラに視線を投げず、リップシンクもせず、さらには映像に現れる何人もの友人たちの間でヘッドフォンを着用し一人孤立する。自分の内側にひとり籠る、極めて内省的な態度を示している。近年のラップ・ミュージックは、従来ロックの持っていたエモーションや内省性の発露の機能さえ包含しつつあるが、カメラ目線という態度の有無にそのことが表れているのだ。

 スマホなどの自撮りによって、誰もがカメラ目線に慣れ切っている時代にあって、改めてアーティストが持つ力を思い出させてくれる例もある。ビリー・アイリッシュの『when the party’s over』では、前半は彼女の目の前に置かれたコップの黒い液体を飲み干すという演出で、彼女はリップシンクをせず、一切カメラを意識していない。しかし後半のフックに入ると同時に、カメラをきつく睨みつける。すると、飲み干したはずの液体が逆流するように瞳から溢れ出す。彼女は黒い涙を流しながら、リップシンクを始めるのだ。歌詞に表れる恋人との離別による絶望が、その視線に集約されている。モニターの向こう側にしか存在しないポップアイコンへの共感は、第一に聴覚を通して、歌唱に刻まれるテクストや感情を受容し行われる。しかし眼差し同士がヴァーチャルに出会う場を提供することこそ、MVの最大の機能であり功績だといってもいいかもしれない。(吉田雅史)

2. ワンカット/長回し

 MVはその誕生以来、ワンカット/長回しによる撮影と長い付き合いを保ってきた。MVの元祖とも言われるボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』(D・A・ペネベイカー監督の映画『ドント・ルック・バック』より)からしてワンカットで撮影されている。路上でディランが歌詞の書かれた紙を次々と投げ捨てるこのヴィデオにおいて、カメラは冒頭でズーム・アウトする以外、大きな動きを見せない。ほとんど固定カメラで撮られているような印象さえ受ける。

 一九八〇年代、MTV全盛期に入ると、デュラン・デュラン『Hungly Like the Wolf』などを監督したラッセル・マルケイの作品に代表されるように、細かくカットを割ったMVがもてはやされ、ワンカット/長回しのヴィデオは多く見られない。(完全なワンカットではないものの)エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ『I Wanna Be Loved』(一九八四)、そしてピーター・ガブリエル&ケイト・ブッシュ『Don’ t Give Up』(一九八六)などが長回しを用いたこの時期のヴィデオとして思い浮かぶが、前者は証明写真機に入ったコステロの両側からさまざまな人々が現れ、彼の頬に次々とくちづけるというもの、後者は抱き合ったガブリエルとブッシュが合成のバックの前で曲を歌いながらくるくる回り続けるというものである。カメラの移動、空間の変化は見られない。これらのカメラの移動が行われないヴィデオにおいて、重要なのは画面内の人物の動作であり、定点でひとつのアイディア/動作が延々と繰り返されるという点で箱庭的な窮屈さを覚えかねない。

 カットを割らずに本格的なカメラの移動を取り入れ、MVに「空間性」を持ち込んだのはマッシヴ・アタック『Unfinished Sympathy』(バリー・ウォルシュ監督)あたりからだと考えられる。ロサンゼルスの街角を伏目がちに歌いながら歩くシャラ・ネルソンを捉えた映像は長回しのMVのひとつの雛形であり、同タイプのヴィデオとしてエルトン・ジョン『I Want Love』(二〇〇一)などが続く。一方、レディオヘッド『Knives Out』(ミシェル・ゴンドリー監督)のように、カメラの移動する空間が極めて狭く、いくつかの要素を変化させていく箱庭的な作品でありつつも、一九八〇年代のワンカットのヴィデオより格段に作りこまれた作品も登場する。近年になると、CGなどによりカットの継ぎ目がわかりづらくなり、「ワンカット」の定義が揺らいでいる、ということも付言したい。 (千葉乙彦)

3. リリックヴィデオ

 様々な実験的な手法を用いて映像の新奇さを追求するMVにおいて、歌詞の「文字」をどのように取り扱うかもまた、ひとつの実験の場だ。最初のリリックヴィデオとも言われているボブ・ディランの『Subterranean Homesick Blues』では、押韻部を中心に言葉の書かれたスケッチブックが次々とめくられていく(前出)。画面上にアーティストと同時に歌詞が表示されるという状況は、文字に目が行き、言葉の意味を理解しようという意識が働くため、アーティストの身体に対しては注意が散漫な状況になる。だからこれは最初から、作者が画面内にいるにも関わらず作者の死=楽曲中心主義を後押しする奇妙な試みともいえる。

 ストリーミング時代においては特に、リリックヴィデオがリスナーの目を歌詞へ向けさせる貴重な機会となるため、MVに映画の字幕のようにリリックが表示される例も増加している。しかし重要なのは、そのようにアーティストの身体とは別のメタなレイヤーに映画字幕のようにテクストを配置するのではなく、もっと別の方法で取り扱うことはできないのか? という問いだ。ディランはスケッチブックに書いたテクストを自らで掲げた。彼の身体とテクストは画面上の同一のレイヤーにあった。だからそれは、声を視覚化することで、リップシンクすることなしに音と映像をシンクロさせる試みでもあったのだ。

 例えばPerfumeの演出等も手がける関和亮が監督したサカナクション『アルクアラウンド』では、約四分四〇秒の長尺ワンカット撮影をしながら、次々と画面に「物理的に」登場する歌詞の文字──様々な趣向が凝らされているが、大部分は文字を左右に二分割したオブジェクト──を、楽曲の進行通りに追っていく仕組みになっている。表音文字だけでなく漢字という表意文字も持つ日本語だからこそ、物理的な文字が字幕とは違ってもっと直接的に視覚に訴えかけてくる作品になっている。

 しかし字幕型による、新たな表現の模索の余地もある。リル・ウージー・ヴァートの『XO tour Llif3』では、彼のラップに合わせてアラビア語の字幕(左右が逆のため意味は取れず)が表示される。読解できない言語のキャプションを挿入することで、彼のスタイルが何を言っているのか聞き取れない所謂マンブル・ラップと呼ばれることへの強烈な皮肉となっている上、耽美・幻想趣味に貫かれたMVのデザインのひとつとして一層の奇抜さを付け足す演出でもあるのだ。(吉田雅史)

4. 同期/非同期

 サウンドとイメージの同期が「共感覚」を私たちの知覚にもたらす。人間に備わる五感の存在をあらわにしたのはアリストテレスによる『感覚と感覚されるもの』だが、一八世紀末には色彩と音楽の完全な融合を目指したカラー・ミュージックで、おそらく最初の制作実験が行われる。MVはその実験の歴史のなかに位置づけることが可能だろう。

 音楽と映像の同期がもたらす「共感覚」を表現しようとするMVの試行錯誤が明確なかたちで結実したのはミッシェル・ゴンドリーが監督したケミカル・ブラザーズの『Star Guitar』(二〇〇一)だ。リズムパターンと風景が一体となった同期が視聴者にもたらす快感はいまでも色褪せていない。ゴンドリーがこのMVで試みた音とオブジェクトの呼応関係は、音が図形のように感じられたり、風景を音楽のように感じさせる「クロスモデリティ」な視聴覚体験を生み出した。ゴンドリーがこの手法をさらに発展させたザ・ホワイト・ストライプス『 Hardest Button To Button』では、リズムに合わせて、演奏するホワイト兄弟やアンプなどを増殖させたり、あるいは編集上でジャンプカットする方法を用いている。しかし、興味深いのはその同期の周期性のなかに、時折増殖したオブジェをスペクトルのように扱い同期をずらしている点にある。この方法は、周期的に繰り返されるリズムパターンにシンコペーションのような効果を与えている。

 より複雑なリズムパターンとの同期の場合はどうなるか。九〇年代〜〇〇年代に出現したオウテカ『Garntz Graf』ヴェネチアン・スネアーズ『Szamár Madár』のようなIDMやブレイクコアのアーティストのMVを例に見てみよう。これらの映像は完全にコンピュータ・グラフィックスで制作され、無機質なオブジェクトが複雑怪奇なリズムに合わせてその形象や風景が変化してゆく。コンピュータ・グラフィックスでなければ不可能であるその表現と方法は、同期性を超え、「音楽のかたち」を直接的に表出している。ここに聴覚と視覚がもたらす「共感覚」に一つの臨界を見てもいいかもしれない。(佐久間義貴)

5. 連想モンタージュ

 ここで言う「連想モンタージュ」とは、ソヴィエト連邦の映画監督・理論家セルゲイ・エイゼンシュテインによる五つのモンタージュの分類の一つ「トーナル・モンタージュ」を想定している。トーナル(tonal)は倍音の構造に由来し、音階の構造的規則性と同じように映像が色彩や幾何学的構図などの類似した形態をがもたらす視覚的な連想を通じてジャンプする編集を想定している。これは映画において物語の説話性ではなく、視覚の類似性を利用した唐突な場面転換に説得力を与える方法として使われる。一方、MVではこうした画面の視覚的な連想といった同様の手法が、リズムや転調といった曲の音楽的構造に重ね合わされる手法として頻繁に確認できる。

 例えば、サカナクション『ナイロンの糸』はこの表現手法が身近で新しい作品の中でも生き生きと使われている実例の一つだ。大写しにされた瞬きする女性の目が、波間に大きなストロークを描きながら浮かび上がる男性がつくる半楕円へ、海の水が青いマニキュアの塗られた爪のクロースアップへと色彩の連想がなされる。しかし、小節の切れ目に合わせてリズミカルにではなく、映像との単純な同期を避けて編集と曲とが独立した構成を維持する構造は技術の成熟を感じさせる。

 連想モンタージュは、映画において説話であることをひっくり返す手段として使われた一方、MVにおいてはリズミカルな編集として音楽構造と親和する。むしろ聴覚的な効果を視覚においても、正に倍音のように付加していくことにその真髄があるようだ。

 特定のMVにおいては音楽に感覚の、映像に意味の役割をそれぞれ任せることでこの手法はその力能を発揮する。テイラー・スウィフトの『Shake it off』は、こうした視覚的連想性とポップ・ミュージックの相性の良さを示す好例だ。スウィフトを中心に据えて、バックダンサーたちが踊る構図を維持したままバレエダンサーからコンテンポラリーダンサーへ、ヒップホップへと着せ替え人形のように画面がジャンプする様は、構図の統一性に頼って商業的多様性を併置する方法論として結実している。宇多田ヒカルの『Keep Tryin`』もそうした「ポップスターの着せ替え」の日本版として見ることができる。カメラに向かって歩きながら客室乗務員、選挙候補、警察官と様々な職業に擬態する彼女に一つの曲が複数のイメージに共有される様を演出する。

 映画においてナラティブに対立する連想モンタージュは、MVにおいて音楽構造に対して真逆の効果を発揮し、視覚上のメッセージを曲の中に内包するような演出も可能にするのだ。(伊藤元晴)

6. スロー・モーション

 スロー・モーションは撮影された映像を異化し、アンダーラインを引く効果を発揮してきた。想像してもらえればわかるが、たとえばどこにでもいる中年の男がただ走るシーンを三分間スロー・モーションで見せられるのはかなりの苦痛である。そこに見せるべき「普通と違った何か」があるからスロー・モーションを導入するのである。スパイク・ジョーンズが監督したWax『California』のMVでは中年男性がひたすら街中を走り続けるが、その背中は燃えている。しかし、何事もないかのように男は走り続ける。このように、何か変わったものや特筆すべきアクションがあるところにしばしばスロー・モーションは用いられる。映画で例えれば、ジャッキー・チェンの映画のエンディングで流れるアクション・シーン集がしばしばスローで強調される場合と相似である。同じくスパイク・ジョーンズの監督したケミカル・ブラザーズ『Electrobank』のヴィデオでは、新体操の演技をする女性がフィーチャーされるが、彼女が負傷した足のせいで着地に失敗し、そこから最難関の技を成功させることができるかというところで効果的にスロー・モーションが用いられる。まさにアクションにアンダーラインが引かれる瞬間を目にすることになる。

 そもそも、MVにスロー・モーションを導入することには大変な問題がある。音楽に付随する映像という特性上、演奏シーンを映すMVは数多存在するが、スローにした場合、演奏する手つき、歌う口元が音と映像でずれてしまい、同期することが不可能になってしまう。そのような理由もあり、先程挙げたような劇仕立てのMVにスローが用いられることはあったものの、音それ自体と同期するものはほぼ皆無と言える。しかし、ディスクロージャー『Omen ft. Sam Smith』のMVでは、全篇にわたってスローで撮影されているが、歌うサム・スミスの口元は流れる音楽と同期している。倍速で歌ったものをスローにし、同期させているということである。よくよく考えてみれば不自然な映像だが、音楽に同期させるとスムースに観ることができる。従来の「アンダーライン」としてのスローの用法だけでなく、音と映像が併存するという特性上、このMVが「同期」の問題の最前線として機能することは当然のことのように思われる。(千葉乙彦)

7. パロディ

 言うまでもなくパロディは真面目な形式である。それは「歴史」を参照し、「出典」を明示するからであり、リンダ・ハッチオン曰く「遊びへの開かれた心よりも、知識や記憶を要求する」のである。過去との連続性を前提としつつも批評的距離を保つ手法であり、「進歩的であると同時に退行的でもありうる」(シュロンスキー)。

 またパロディ作品を低く見るということは、独創性や個性を寿ぐロマン派以降の「天才」信仰を少なからず引き継いでいる。その意味でMVにおけるパロディの隆盛は、「MV作家主義」なる神秘のヴェールを暴くことになる。「他作品を解体し巧妙に部品を拝借して出典については知らんぷり」という作家主義=ロマン派イデオロギーに対し、パロディは「出典を素直に認め、皮肉な講釈を加える」とハッチオンは言う。

 ここでMVにおけるパロディに進む前に、MVの本来的機能について考察してみる必要がある。ロック作品がバンド演奏を主体とし、ヒップホップ作品が自分たちの縄張り(フッド)を好んで映し出すことに顕著だが、基本的にはミュージシャンの「アイデンティティ」を効果的に伝える場である(撮影技法はあくまで付随的な進化だ)。パロディの対象になりがちなのが、映像テクニックやモチーフというよりは、ミュージシャンその人の服装や演奏スタイルであることからも、「アイデンティティ」なるものが問われる場であるとわかろう。しかもそれは、パロディの避けがたい自己言及性から、逆説的に自身の「アイデンティティ」を問うものに転ずる。

 例えばヨ・ラ・テンゴの『シュガーキューブ』では、ナード系インディ・バンドとして知的層に愛されている彼らが、『スクール・オブ・ロック』をパロディ化した悪趣味なHR/HM教師たちに「古き良きロックンロール」を教え込まれる筋書きだが、この対照性によって彼らの「アイデンティティ」であるナード性が逆に浮かび上がってくる。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『ダニー・カリフォルニア』ではサイケ、パンク、メタルといった「歴史」が参照され、その時代を画したバンドのルックと演奏スタイルが次々とパロディの対象になるが、肝心なのはそれらの集約点と言わんばかりに最後は自身のスタイルに回帰する点である。これはパロディを通じてバンド自身の「アイデンティティ」を再認識する過程に他ならない。こうして「パロディは真面目な形式である」という冒頭のテーゼに回帰するわけだが、アル・ヤンコビックのようなパロディを生業とするカメレオン的人物のMVに関していえば、これは「珍奇(ノヴェルティ)」と確固たる線引きを設ける必要があるだろう。(後藤護)

8. POV(Point of View)

 POV(point of view)はもともと定点観測の「定点」という意味で、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(一九九九)や『パラノーマル・アクティビティ』シリーズ(二〇〇七〜)のようなホラー映画で、家庭用ビデオカメラ、監視カメラなど生活空間にある「カメラ」に擬態することでリアリティを獲得した映画ジャンルの一手法である。文字通り定点であることを意識したPOVは、編集によってリズムとの同期が安易に可能になるMVとは一見相性が悪いように見えるが、ここではスマートフォン、ドローン、ドライブレコーダーという三つの道具に絞ってその可能性を試行した作品を見てみよう。

 lyrical schoolの『RUN and RUN』は全編スマートフォンで撮影された意欲作だ。パスワード入力でのロック解除から始まり、メンバーの集合写真が壁紙画像に設定され、メールの添付動画や、SNSの投稿として流れて映像が展開され、メンバーそれぞれが通話相手としてテレビ電話上に出現するなど演出は工夫に富んでいる。携帯電話の画面という固定構図であると同時に、画面の操作というものがそもそも運動であり音楽に合わせて一つ一つの操作が「踊る」ことができると示したこの作品の成果は大きい。

 こうしてPOVとは、その都度カメラの特性によって制限がかかり、その制限が特色となると同時に、音楽構造との同期/非同期という観点でネックとなる。OK GOの『I won`t let you down』は、遠隔操縦ドローンカメラによる一発撮り作品だ。ドローンの弱点/特色はその浮遊感ゆえに画面の停止ができないことにあるが、本作では上空から真下にカメラを向け、バスビー・バークレー調の集団舞踊を撮影するというかたちでこの問題をクリアしている。こうして本来弱点であったPOVゆえの動きの制限は人間にはない機械の視点と音楽の相性をアイデアによっていかにクリアするかという批評性に展開する作品を彼らは作るに至ったと言えるのではないか。

 人間ではないものの視点として最も先進的な実験をしたと言えるMVの一つがCorneliusの『point of view point』だろう。ここでPOVの実験に用いられたのは二種類の映像はそれぞれ監視カメラとドライブレコーダーの記録を想起させるカメラの視点だ。こちらにも、定点ゆえに不気味なほど動きのない視点の中で高速で動き回る被写体という機械ならではの視点を確認できる。

 POVというのは動かないカメラの手法と言い換えることあであるできるかもしれない。それは人間の体を離れた目、機械の目、物の目に関する手法なのだ。ここで見た実験にはいずれも「物は音楽に合わせて踊ることができるか」という問題が表れていると言えるのではないか。(伊藤元晴)

9. ループ

 一八三四年、映画史が正式に幕をあける遥か以前、イギリスのウィリアム・ジョージ・ホーナーによってゾエトロープ(ギリシア語で生命の輪を意味する)という視覚的=光学的玩具が発明された。同時に複数の人間による鑑賞が可能であるという意味において、その先行機フェナスキトスコープよりも現代的なメディア性を有していたゾエトロープは、中を覗き見ると平面的な絵が残像現象により動いて見え、単純な反復を楽しめる。そこには催眠的な効果と、直接的な遊戯性があった。

 一方、狭義の現代音楽史においてはミニマリズム以前、単純な反復は極度に避けられる傾向にあった。かつてテオドール・アドルノは、アメリカから流れてきたスウィングジャズの反復的なビートに失望し、以降ポップ・ミュージックを常緑樹(エヴァー・グリーン)と揶揄した。アドルノの作曲の師はアルバン・ベルクであり、言うまでもなく、反復を避け、一オクターヴの一二音を数珠つなぎに使用する一二音音楽の確立者だったことも想起したい。

 ポピュラー音楽の歴史は、しかし、映像とも結びつき、アドルノの批判を笑い飛ばすかのように差異と反復のあらゆる創造的な可能性を開拓していく。特にループを主体とした九〇年代以降のクラブミュージック、及びそこから派生したMVは、差異と反復を徹底することによって進化した。ゾエトロープの隔世遺伝とも捉えられる映像の反復(ループ)は、音楽の拍節感とそのまま同期するのではなく、音楽的なリズムをときに脱臼させ、あるいはときに包摂するようなあり方で洗練化されていく。

 二〇〇一年に発表された、ミシェル・ゴンドリーによる『Come Into My World』は、ポップカルチャーとクラブミュージックの結節点を示し、音楽ファンに大きな衝撃を与えた。カイリー・ミノーグが街中を旋回し、周りの人間とともに増殖していく映像で、差異と反復のメカニズムを示すことによって、音楽構造を擬態し、人々の音楽理解を促進した。

 ここではゴンドリー以降の新たな可能性の中心として、映像作家Lillevanを挙げたい。ミニマルテクノに対する独自の方法論を持ち、複数の映像的要素を対比して反復させ、さらには映像のリズム感をビートとずらし、展開させることに長けている彼は、モートン・スボトニックからフェネスにまで至る電子音楽の実力者たちの信頼を獲得した。望遠鏡で撮影されたモロッコの砂漠と顕微鏡で撮影されたイメージを重ね合わせた『Otan Osaa / Crystal』は、差異と反復の異質なアッサンブラージュと言えるだろう。(大西常雨)

10. 幾何学模様

 幾何学模様は音楽を誘発する。抽象表現主義をはじめとする視覚芸術が実験音楽に与えた影響はよく知られているが、オスカー・フィッシンガーがジョン・ケージに与えた影響も解明されつつある。フィッシンガーのスタジオに短期間在籍したケージは、「固有の精霊が物質に宿っており、振動によって解放される(つまり聴取可能である)」との発言に影響を受け、音響物理学的な側面を考慮しながら打楽器曲の作曲を開始することとなる。近年では、ケージは最新の機材の揃ったスタジオで製作法を目撃した事実、そして『An Optical Film』(一九三八)のアニメ制作用に用意した図面とケージの『Quartet』(一九三七)譜面の図形的な記譜法の視覚的類似性がリチャード・ブラウンの研究で指摘されている。残念ながら二人の共作部分は現存していないが、ドイツの作家ゲルト・ゴッケルによって復元が試みられた。視覚的な幾何学模様と共に、音の物理性、さらにその精神性が志向された最初期の創作実験であったと言えるだろう。

  音楽は幾何学模様を誘発する。そしてその進化はテクノロジカルな進歩に付随し、本質的に非「映画」的だ。現在における本格的な交わりは、二〇〇〇年代以降のネット世代に訪れた。その極となるのはJames Frostによる Radioheadの『House of Cards』だろう。3DのLiDARレーザースキャナー技術は、トム・ヨークの顔のイメージや、街の背景を均質に記録し、点状に集積されたデータとして投射する。それは本来芸術用ではなく、技術的、あるいは軍事用目的で使用されたものであった。

 現在の日本の先端的なクラブカルチャーでは、Yasushi Fukazawa率いる映像集団BRDGの活躍が目覚ましい。マルチ・チャンネルのオーディオヴィジュアル的なアップデート、プロジェクション・マッピング、VRホログラムなどを駆使し、聴衆の反応がダイレクトに表れるダンスフロアにおいて、同期、非同期のパターンを使い分け、ビートの多面的、多次元的な視覚的解釈のレベルを高めることに成功している。これは旧来の意味のMVではない。しかし、インタラクティヴな技術的試みが可能な場における、「映像圏」(渡邉大輔)の時代の映像表現として顧みられるのにふさわしいだろう。(大西常雨)

「MVエフェクティズム」後編へ続く)