清水穣インタビュー メディウム・スペシフィシティの新しい幽霊 :『ヱクリヲvol. 9』「写真のメタモルフォーゼ」


写真教育とニューメディアの写真

――写真作品を展示する際のキュレーションアイディアとしてではなく、作品としてインスタレーション的な形態を持つ写真も増えてきていますね。

清水 そうですね。粛々と一枚一枚の作品が並んでいる方が珍しいよね。空間全体に写真を展示する、「散らし貼り」と僕は呼んでいますが、あれをポピュラーにしたのはティルマンス(32)でしょう。たしかケルンのアートフェアのダニエル・ブッフホルツのブースで、メンディングテープで写真を貼って公開したのが始めです。それに先だって流行っていた展示が、ベッヒャー・スクール(33)がノイスにある非常に有名なラボに持ち込んだCプリント+アクリルマウントという、ひたすらお金がかかる展示方法ですよね。アーティストはみな知っているように、写真の展示にはとてもお金がかかる。ティルマンスの展示はそれに対するアンチテーゼだったんですよ。裸の印画紙をメンディングテープで貼れば十分なんだと。最初はそういうものだったのが、そのうちにすごく洗練されてきて、空間全体に星座あるいは楽譜みたいに展示するようになった。

 やがて「散らし貼り」が流行りすぎたので、一時、ティルマンスはやめていました。その間にテーブル展示を発明して、それ以降は特に気にせず、いろいろな展示法を組み合わせていますね。この散らし貼りのインスタレーションは面白いと思いました。リニアに写真を読ませないというコンセプトですよね。こちらとあちらで大きな画面が向かい合っているとすれば、当然響き合うことになります。順路を辿る鑑賞の代わりに空間そのものの中にたくさんの映像が響き合うから、交響空間に踏み入る感じがしますね。そういう写真の見方は写真集では難しい。

 しかも同じ写真を、大きさを変えて展示することもできる。ティルマンスの「デスクトップタイプ」のシリーズの画面はかなり複雑なコラージュ状をしています。そうするとある作品のコラージュに使われていた断片的映像が、別の部屋にフルサイズで出現したりする。「あれ、これどこかで見たな」と、前後の部屋を行きつ戻りつすることになるわけです。同じものが二回出てくるってなかなか衝撃的なことですよ。最初の一枚とその次の一枚は同じ写真だけど、同じ空間にないことによって意味合いや効果が違ってくる。ティルマンスのインスタレーションは、写真の同一性を覆すインスタレーションです。だから非常に重要なんです。

 彼はセンチメートル、ミリメートルで指定してくるそうです。四面の壁のサイズを教えてもらって、ここから何センチ、そこから何センチ何ミリと図面を書く。その図面に従って美術館のスタッフ、ティルマンス・アトリエのスタッフと、ときにはワコウ・ワークス・オブ・アートのスタッフが設置を実行するわけです。ところが、実際にティルマンスが現場に来て見て、どうも違うと言い出す、と(笑)。それは仕方ないですよね。実際の空間と図面は違うのだから。

――「写真を撮る」という行為の日常化を受け、ゲームアートやメディアアートの文脈からの写真へのアプローチも強くなっているように思います。

清水 多摩美術大学での授業(34)は非常にプラクティカルで面白かったですね。顔認識機能を使って雲の中から顔のモティーフを抜き出す作品はユニークでした。「雲」は写真史の中では特権的なモティーフです。あのスティーグリッツの「イクイヴァレント」のモティーフですからね。スティーグリッツが雲を撮ったのは、ある人に「あなたの写真が良いのは、半分は良い被写体のおかげだ」と言われたことに反発して、誰でも空にカメラを向けさえすれば撮れる雲を選んだ。それは被写体に頼らないため、自分の写真の一番純粋な表現となったのです。顔認識は身近なものですし、時々変な認識が生じたりするので面白いですよね。ですが、それもまた誰かが作ったアルゴリズムでしかありません。だからそれをテーマに選んでも、どこかのプログラマーのアルゴリズムを批評しているに過ぎません。そこからもう一歩踏み出せればいいのですが、何かのアルゴリズムを前提としている限り、その逆をやっても抵抗にはならない。そのアルゴリズムを書き換えることはできないのですから。しかし、この実践的なカリキュラムは二〇一〇年代の教育として非常に感心します。

――はい、とても充実していると思います。一方で、これはメディア芸術コースの授業であり、写真学科や写真専攻のものではありません。

清水 なるほど。こういうコースで学んでいる人からの「写真新世紀」への応募は多いですよ。とても洗練されていて、写真をよく学んでいると思います。日本の写真は先ほども言ったように遅れていません。ですから、世界の繋がりの中で日本の写真がどういう位置にあるのか教えるべきです。日本の場合はモダニズムの受容が非常に高いレベルでありましたが、敗戦によって戦前というものを否定してしまうし、させられた。そこからもう一度アメリカからモダニズムを輸入しますが、それによって随分歪んでしまったように思います。写真の歴史は誰でも分かりますが、全体的な繋がりは明確に見えるわけではありません。例えば七〇年代の写真家たちがなぜあのような表現をしたのかといえば、社会全体がメディア化していく中で、リアリズムやドキュメンタリーが危うくなったからです。しかし、日本の写真教育の現場では、そうした問いについて触れることはなく、写真家や技術に関する知識ばかりを教えている。写真そのものの見方について考えさせる教育がすごく弱いと思います。

――写真教育というとベッヒャー・スクールが有名ですが、それと対比しての日本の写真教育についてはどのようにお感じになりますか。

清水 ベッヒャー・スクールの教育プログラムは非常にアナログです。だから、多摩美の教育とはまた違います。ベッヒャーは多摩美の谷口先生(35)のようなサービス精神旺盛な方ではなく、古典的なドイツ人です。何がしたいのか、「what」しか問わない。それが一番重要で、技術的なことは二の次です。まずなぜそれを撮るのか徹底的に問う。そのたった一つのことしか問わない。なぜ君はそういったことをするのか、何を使ってではない。何を使うかは自分で勝手に考えればいいことです。

「what」ないし「why」についての教育は日本の芸大は弱いと思います。ただこれはドイツの原理主義の一番いい面です。ルフやグルスキー(36)とかはうまくいきましたが、ベッヒャー・スクールの次の世代になるとローカルですね。ドイツの国境を越えることはない。そして、彼らのゴージャスなスペクタクルが嫌でティルマンスのような世代が出現してきます。ですから、ベッヒャーの教育はすごく機能したと言えます。

 例えば、下手な料理人がどんなに優れた道具を使っても美味しくはなりません。道具や方法ばかり強調して、結果が伴わなければ本末転倒です。ニューメディアの美術作品が陥っているのは、まさにそのような状況に見えます。A4用紙一枚でコンセプトや方法論を提示し、それが実際には質の低いアウトプット作品をカバーしている。重要なのは、我々が日常感じることとリンクしているとか、「Sowhat」と問うことです。それに答えられる中身が伴ってないと面白くありませんね。「写真新世紀」ではデジタル的な観点を導入して静止画と動画の境界を取り払ってしまいました。あらゆるカメラに動画機能がついているのが現在の状況なので、その境界は必要ないと思ったんです。動画というとすぐに映画と結びつけられがちですが、そうではない最新の表現が出てくる可能性があります。

 他方でアメリカは極めてプラグマティックです。ニューヨークのMoMAでディレクターをしていたボーモント・ニューホールによる写真史の教科書を使います。そしてまず、自分の立ち位置を理解させる。その次に、成功した写真家たちの流れを叩き込まれ、その流れを踏まえた上で写真を撮ることを要求される。そういう意味では極めてスタンダードな教育です。その後にどうやって売っていくのか戦略が問われる。理想的といえば理想的ですが、実際の作品からはそのカリキュラムが悪い意味で透けて見えるんですよ(笑)。アレック・ソス(37)とかはそういう教育のたまものですね。

 エドワード・サイードのポストコロニアリズムの理論が現代美術の世界に入ってくる九〇年代頃に、「エスノロジカル・ターン」という言葉が有名になりました。そこにはいろいろな側面がありますが、まず一つは白人主導で美術界が動いてきたことへの批判的な視座があります。日本だとヒノマル、ヒロヒト、ヒロシマのような見方が一方的になされてしまうという問題ですね。そこで白人≒アメリカ人もまた、「ローカル」な存在として対象化するという動きが出てきたということだと思います。

写真と画像、写真を見るという環境

――最後に、「写真」と「画像」の違いについてお聞きします。写真を紙や素材にプリントせずに、ウェブを作品発表の拠点とする作家も増えていますね。

清水 画像は画像で一種の物ですが、小さいタブレットの液晶画面だとよく見えないからもっと大きくしようとして、自動的にこんなこと(二本の指でピンチ・イン/アウトをする仕草)してしまうよね(笑)。それは、画像の写真には大きさという概念がないからです。解像度に関しても、デジタルデータの解像度はいまはとてもフレキシブルですよね。一昔前、『ニューメディアの言語』が出る前くらいは、例えば解像度が350dpiに決まったらそれが決定値だった。だけどいまは「この解像度になるように生成せよ」というプログラムによって圧縮率は保存されるので、見るたびに特定の解像度で生成される。さっきも言ったようにピクセルデータをシャッフルしなおすだけなので全然難しくないんだよね。

 こうした「生成」的なプログラムのほかに、もう一つ「補完」プログラムもありますね。低解像度で空いている箇所をうまくきれいに埋めてくれる。そちらの方がポピュラーかもしれない。いずれにせよデジタルデータの場合は、大きさも解像度もフリーという性質があって、これはプリントアウトしたものにはできない芸当ですね。

『ニューメディアの言語』にも書いてあったけど、デジタルデータはアナログと違ってコピーしても画像のロスがないと定義されている、しかし画像は圧縮するからそこでロスは起こると。音楽もそうですよね。CDはサンプリングだし、音楽の圧縮にはMP3やM4Aがあるけれど、人間の耳にどうせ聞こえないところはカットしちゃう。例えばAとBの音が重なっているとして、同周波数の同波形の重複している部分は無駄だから重なっている箇所を切って圧縮する。でも結果はやせて聴こえるんですよ。そういう人間の経験値が、聴覚ではまだ少し上回っているかもしれないという世界はあるけれど、印画紙に関しては完全に追い抜かれてしまったよね。

 松江泰治(38)さんと時折会って話すのですが、例えば皆が大好きな杉本博司(39)の「海景」シリーズ、単調なピクセルデータの反復が多いから、あれは圧縮しやすいだろうと(笑)。いろいろなもの、ばらばらなものが写っている方が省略できないから、JPEGに圧縮しても巨大データのままなんですよね。松江さんはそういう話を具体的に作家としての経験から言われるから、話していて面白いですよ。

――松江さんの写真は圧縮しづらいですよね。

清水 そう、彼はそれを目指しているわけだからね。今年の十二月に広島現代美術館で松江泰治さんの回顧展が開かれるのですが、新作はすごいですよ。

 彼の写真は極めて高解像度なことで知られていますが、それは学生の頃、理学部地学科で衛星画像をリアルタイムで画像解析することを学んでいた人だからです。例えばパノラマ写真。いまならiPhoneでも適当に作ってくれるけれど、そういうものではなく、例えば巨大な壁をカメラで撮ろうとすると引くしかないですよね。でもそのとき引かずにたくさんのショットを撮ると、後できれいに繋いでくれるソフトがあるんです。結局デジタルというのは、ピクセルをどうやって一つのレイヤーへ再合成して、人間の目に見せるかという話です。なので元データが歪んでいるなら矯正すればいいし、それも僕らがよく考えがちなパースをこうする、とかアオリがどうとかという話じゃなく、画像のアトムを並べ替えればいいだけの話ですよね。

図6 松江泰治『cell』、赤々舎、2008年

 また、モニターは基本的にはRGBの合成で見ているわけですが、プリントアウトはまるで別の原理ですよね。紙質とかによっても違うし。だからデジタルカメラ+Instagramでアップしてきただけの人が、いざアーティストになって困っているというのはよく見かけますよね。イメージ、画像だけで済ませている人は、それをモノにすることがいかに難しいかということを先送りにしているわけで、それでは、やはり作家にはなれないんじゃないでしょうか。そうなると、プリントディレクターとの相談になってくるよね。

 でもそれはたぶん、写真家の才能とは関係ない。関係ないけれども、アートの世界って、結局高く売れるものはあまり流通しないものなんですよね。例えばルフの巨大な作品はかなり高いですけど、エディション3とかの限定品なわけです。経済活動は結局は値段が高いものを目指すから、できるだけ「エディションが少ない」「巨大なもの」に収斂していく。

 例えばいまハイデルベルグがどうのとか言っていても、十年後にはエプソンやキヤノンから二万円で同クオリティのものが売っていることは、技術の場合は大いに起こりえますからね。ティルマンスの生データとかダウンロードできちゃったら、勝手にティルマンスのシートが作れちゃう。だからティルマンスは物でしか取引していないですね。

――今日は多岐にわたるお話をありがとうございます。

二〇一八年七月二十八日 同志社大学烏丸キャンパス志高館にて

『デジタル写真論――イメージの本性』
清水 穣 著
発売日:2020年02月19日
ページ数:248頁
(内容紹介)
SNSやスマートフォンによって全面化するデジタル写真とは何か? その本性と可能性を松江泰治やヴォルフガング・ティルマンスらの具体的な作品を詳細に解析することで考察する.水や空気のように遍在することで透明化してしまったデジタル写真を真に見るための必読書.著者幻のデビュー論考「不可視性としての写真」(改訂版)も所収.

『ヱクリヲ vol.9』
特集I  写真のメタモルフォーゼ

写真研究の第一人者・清水穣(同志社大学教授)ロングインタビューほか、古典技術からInstagramまで写真性からその多様性を総覧する「写真の『可能態』を思考するためのアルケオロジー」収録。セス・ギディングス(サウサンプトン大学准教授)による「ゲーム内写真」をあつかう先駆的論文「光なきドローイング――ビデオゲームにおける写真のシミュレーション」、「写真論ノート from ボードレール to バッチェン」ほか論考を多数掲載。

●Interview:清水 穣 メディウム・スペシフィシティの新しい幽霊
●写真の「可能態」を思考するためのアルケオロジー
●写真論ノート from ボードレール to バッチェン

《Critique》
●セス・ギディングス/増田 展大 訳:光なきドローイング――ビデオゲームにおける写真のシミュレーション
●大山 顕:自撮りの写真論
●久保 友香:浮世絵・プリクラ・Instagram――日本の女の子の「盛り」文化と技術
●楊 駿驍:もう一つの宇宙を夢見る写真――中国における「写真コミュニケーション」について
●水野 勝仁:ジェスチャーとともに写真のフレームを無効化する「写真」――ピンチイン/アウトによる「写真」の拡大縮小
●松 房子:Googleマップの無人
●山下 研:無数の「窓」――写真と絵画、あるいはその界面に
●中村 紀彦:映画は静止を求める――「停滞の映画」についての覚書