バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学――配信のシステムとデザイン:『ヱクリヲ vol.10』「一〇年代ポピュラー文化」


はじめに

ひとびとは、キャラクタに憧れ、引退するアイドルに涙し、配信者の言葉に反感を覚える。ひとびとはこれらの対象といかに関わっているのか、その関わりはどのように作り上げられているのか。これらの問いは、この関わりの一般性にもかかわらず、美学において十分に問われてきたとは言えない。特に、近年、ポピュラー文化において存在感を増しているバーチャルYouTuberとの関わりについて哲学的な観点からの考察はみられない。だが、VTuber文化*1を肯定的/否定的に価値づけるにせよ、社会的分析を行うにせよ、鑑賞者とVTuberとがいかに関わり、その関わりはいかに作り上げられているのか、これらの問いを問うための概念の整理と理論的枠組みの構築は不可欠だろう。

本稿は、メディア論と分析美学の議論を手がかりに、鑑賞者がVTuberに情動的に関わる行為のメカニズムを分析し、その関わりがいかにデザインされているのかを明らかにすることを目指す。

本稿の構成は以下の通り。第一節では、ペルソナとVTuberを特徴づけ、同一化、共感、そして同情のメカニズムから「ペルソナエンゲージメント」を特徴づける。第二節では、インタラクティビティ、自己関与、共同注意、そして、時間性の四つの観点から、VTuberエンゲージメントを特徴づける。第三節では、これらの議論をまとめ、VTuberエンゲージメントのシステムを記述するとともに、エンゲージメントがいかにデザインされているのかを、応援と宣伝、課金行為、そして、悩みと目標の共有という三つの契機に焦点をあて分析する*2。

本稿の読み方について案内をしておきたい。本稿では、第一節で議論の対象を特定し、第二節で対象の骨格を描き、そして、第三節で理論の肉づけを行い、その理論を用いてVTuberのエンゲージメントがどのように作り出されているのかを明らかにする。特に、第一節と第二節は最後の節に向かうために概念の導入が連続するため、ややもすると、方向を見失ってしまう読者もいるかもしれない。そこで、本稿の到達地点をまず知ったうえで詳細な議論を追いたい場合、第三節にある結論を確認してから前二節を読み返すこともできる。また、ペルソナやエンゲージメントに関する概念や枠組みを知りたい読者は、第一節と第二節を読み、それぞれに関心のある道具立てを手に入れることもできる。

1 ペルソナ、エンゲージメント、バーチャルYouTuber

本節では、鑑賞者によるアイドルやキャラクタといったペルソナとの関わりを「ペルソナエンゲージメント」として概念化し、VTuberの鑑賞の構造を特徴づけ、後続の議論の枠組みを作り上げる。以下、第一に、ペルソナとエンゲージメントとは何かを明示化し、第二に、ペルソナエンゲージメントを同一化、共感、そして同情という三つの情動的関わりのメカニズムから特徴づけ、第三に、VTuberについて説明を行う。 

1–1 ペルソナとエンゲージメント

アイドル、フィクショナルキャラクタ、そして、バーチャル/YouTuber。こうした対象との関わりは、現実における社会的関わりとはどのように異なるのだろうか。

一九五〇年代、メディア研究者のホルトンらは、テレビやラジオのパーソナリティと鑑賞者とが作り出す独特な関係へと注意を向けた(Horton & Wohl 1956)。彼らは、ラジオ、テレビといったメディアを介したある「ひと」の現れを「メディアペルソナ(media persona(e))」と呼んだ*3。鑑賞者は、メディアを介してのみであるにもかかわらず、あたかも現実の対面的な関わりにおけるようにペルソナと様々な仕方で関わる。その独自な関わりは、「パラソーシャル関係(parasocial relationship)」と呼ばれ、現在まで、社会学的/心理学的研究が盛んに行われている(cf. Giles 2002)。本稿では、こうした関係について、特にその情動的関わりに焦点をあて、美学的な視点から分析する。

ここで、ペルソナ*4と鑑賞者のあいだの情動的関わりを「ペルソナエンゲージメント(persona(e) engagement)」と呼ぼう。エンゲージメント*5は、広く、ペルソナの心的状態や行為一般に言及すること抜きには説明しえないような鑑賞者によるペルソナへの関わりである*6。たとえば、あるペルソナが特定の目標(単独ライブの達成、メジャーデビュー)を達成したことをじぶんのことのように喜ぶことや、ペルソナの配信、つぶやきを見て、共感あるいは反感を抱くことなどがエンゲージメントである。

1–2 メカニズム

次に、エンゲージメントのあり方を、その情動的関わりのメカニズムから整理する*7。第一に、基礎となる「同一化(identification)」の概念からはじめよう。分析美学者ベリズ・ゴートは、同一化とは、広く、鑑賞者が、対象の心的状態と自身の心的状態とを想像的に共有することであるとした(Gaut 2010, 256; 2012, 206-208)。しかし、そんなことは可能なのだろうか。鑑賞者とペルソナとは、明らかに同一でないパーソナリティや特有の心的状態によって特徴づけられる存在であり、想像的にせよ、前者は後者に「同一化」などできるのだろうか(cf. Carroll 2013)。とすると、この概念はそもそも不可能な関わりを指す無用なものではないか(cf. Allen 2012)。

疑問はもっともである。だが、同一化の際に、ペルソナと鑑賞者の心的状態のすべてが完全に一致する必要はない。同一化はつねに「アスペクト的(aspectual)」、すなわち、同一化とは、対象の心的状態すべての共有ではなく、認識的、感情的、信念的、動機的、そして行為的なといった、様々な心的状態のうちの特定の側面の想像的共有なのである(ibid., 258)。たとえば、映画において、一人称のPOVショットはキャラクタへの同一化をもたらす手段のひとつだが、これは主にキャラクタの視界という認識に関する心的状態への同一化、すなわち認識的同一化をもたらし、感情的あるいは動機的同一化は、むしろキャラクタの表情や反応を三人称視点から知覚することで達成される。

次に、同一化を手がかりに、「共感(empathy)」のメカニズムを特徴づける。ここで共感の理解に関していくつかの議論があるが、共有されているのは、共感が「実感」を伴った同一化であるということだ。すなわち、同一化の際、対象の心的状態を想像するのみならず、実際に、鑑賞者が、対象と想像的にせよ同一の心的状態にある時、彼女は共感を行っている(ibid., 260)。加えて、実感を行う同時性も重要な要素として指摘されている(Walton 2014, 9)。たとえば、あるアイドルが、名誉ある賞を受賞し感動で泣いている時、同じ会場で、あるいは生中継を見ているファンが同一の感動をその時点で抱き泣いている時、ファンは、アイドルに実感を伴ったヴィヴィッドな同一化を行っているだろう*8。

さいごに、「同情(sympathy)」とは、対象への「配慮(concern)」によって特徴づけられる同一化である(Giovannelli 2009, 84, 88-92)*9。ここで、配慮とは、それを行う者が、対象の持つ目標や特定の事態に関する欲求を、部分的にせよ想像的に共有、欲求する行為である(Giovannelli 2009, 88-89)*10。なお、同情は、共感と排他的ではないが、しかし、実感を伴う必要はない*11。幼子が探していた小さな美しい石を見つけ喜んでいる姿を見て同情する際、あなたは喜びを実感している必要はない。だが、彼女が持つ、石を見つけたいという特定の欲求を想像し、彼女と同じ欲求や目標を想像的に共有できる。このとき、あなたは彼女に同情している。

以上、同一化を基礎として、共感と同情というふたつのエンゲージメントのメカニズムを整理した。これらの関係は次のように図示できる(図1)*12。

図 1 同一化、共感、同情

1–3 バーチャルYouTuber

本稿では、特殊なエンゲージメントの対象として、VTuberを扱う。そこで、VTuberについて、本稿に関係する限りで特徴づける。

以前、わたしは、VTuberがどのような鑑賞の対象から構成されているのかを「三層理論(three tiered theory)」から分析した(難波 2018; ナンバ 2018a)。ここで、三層理論とは、VTuberの鑑賞の対象は、じっさいのひとであるパーソン、そのパーソンのメディアを介した現れであるペルソナ、そして、パーソンが用いる広い意味でのアバター/擬人的な画像が表象する「フィクショナルキャラクタ(fictional character)」の画像*13の三層の身体から構成され、それらの関係づけにおいて、それぞれが、あるいはその総体が、そのつど、鑑賞者の鑑賞の対象になっている、とする理論的枠組みである(図2)。

図2 バーチャルYouTuberの三つの身体

たとえば、『キズナアイ』というVTuberは、「キズナアイ」というキャラクタの画像、そしてその動きをつくりだしているひとであるパーソン、そして、そうしたキャラクタの画像と重ね合わせられたペルソナからなる。さらに、こうしたペルソナは、TwitterやYouTube、各種イベントを介して、ファンによって共通理解としてつくりあげられる特定のペルソナイメージを伴う。ここで、ペルソナイメージとは、鑑賞者が抱くペルソナの印象の総体を指す。ペルソナイメージは、パーソン自身の性格や印象とつねに一致するわけではなく、その多くは、メディアを介してのみ構築されえたものである(難波 2018, 119, 123)。『キズナアイ』の知覚可能な見た目は、「キズナアイ」というキャラクタの画像であり、パーソンのそれではない。また、「キズナアイ」という画像が表象するキャラクタには性格がほとんど存在せず、鑑賞者が『キズナアイ』の性格とみなしているのは、「キズナアイ」の動きをつくりだしているパーソンがメディアを介して現れたペルソナによってもたらされているペルソナイメージである。鑑賞者は「キズナアイ」というキャラクタの画像のかわいさ、すなわち、その造形的なかわいさと、『キズナアイ』というペルソナイメージの愛らしさ、あるいは、『キズナアイ』のパーソンについてのなんらかの知識を、自覚的あるいは無自覚的に総合させながら、『キズナアイ』というVTuberの総体を鑑賞している(cf. ナンバ 2018c)。

加えて、VTuberは、ペルソナとしての複数の鑑賞のされ方が存在する点に特徴がある。一方で、あるVTuberは、その外見から一般に想像しうるような声や性格を逸脱し、かつ、そのパーソンの経験や考えをあからさまに語っているようにみえる。他方で、動画内にとどまらず、SNSにおいてもロールプレイに徹しており、設定上、キャラクタとして鑑賞者に鑑賞されるVTuberもおり、こうしたVTuberのふるまいの種類に応じて、鑑賞者の鑑賞のあり方も変化している。

こうした鑑賞のされ方の違いはふたつに分類することができる。まず、前者のようにペルソナにおいてパーソンがはっきりと現れているようにみえる場合、鑑賞者はVTuberを「パーソンのペルソナとして(qua person’s persona)」鑑賞している。こうした鑑賞がなされるVTuberは、パーソンに関するメタ的な発言を行っているとしても構わないだろうし、ある程度変更を加えながらも、パーソン自身の体験や思想をVTuberとして発言しているとみなされる。他方で、後者においては、鑑賞者は、あたかもキャラクタが現前しているものとして、すなわち、「キャラクタのペルソナとして(qua character’s persona)」VTuberを鑑賞する。このとき、鑑賞者は、VTuberのキャラクタとしてのロールプレイを重要視し、彼女をパーソンについてのメタ的な発言をほとんど行わないものとして鑑賞し、ふつう、鑑賞の最中にはパーソンへの言及を控える(難波 2018, 119-120)*14。

2 バーチャルYouTuberエンゲージメント

前節では、ペルソナ、VTuber、そして、エンゲージメントの概念を提示し、同一化を基礎として、共感、同情のメカニズムを整理し、ペルソナとエンゲージメントの輪郭を描いた。だが、VTuberエンゲージメントの特徴づけのためには、さらに別の概念を導入する必要がある。本節では、VE*15のあり方を、インタラクティビティ、自己関与、共同注意、そして、時間性の四つの観点から特徴づける。

2–1 インタラクティビティ

第一に、VEの特徴は、鑑賞者がペルソナへと働きかけることができる点、すなわち、その「インタラクティビティ(interactivity)」にある。

しかし、この概念にはあいまいさがまとわりついている。そこで、概念の明示化からはじめよう。ビデオゲーム研究者、美学者の松永伸司は、先行する議論をまとめ、インタラクティビティを定義した。再定式化すると、次のようになる。

 ある作品は、ちょうど以下のような場合にインタラクティブである。(a)その受容者が、自身が関わり合っている作品の構造―その作品を形作る諸々の形式的要素の取り合わせ―を変化させることができ、かつ、(b)その受容者が、その作者によって意図された仕方でその作品の構造を変化させることができるとき、かつ、(c)その受容者が(a)と(b)の両方に自覚的であるとき。
 また、ここで、ある構造を変化させることができる、すなわち、「インタラクション(interaction)」可能なのは、(1)それが反応を返すものであり、(2)相手を完全にコントロールするものではなく、(3)相手によって完全にコントロールされるものでもなく、そして、(4)完全にランダムな仕方では反応しないときである(cf. 松永 2018, 87-92; Frome 2009; Lopes 2001, 68; Smuts 2009, 65)*16。

VEにおいては、鑑賞者は、VTuberの反応や表情、態度といったVEを構成する諸構造を、コメント、ファンアート、課金といった手段を介して変化させることができ、これらの構造の変化は、程度の差はあれ、VTuber自身によって意図された仕方で行われうるものであり、鑑賞者はこれら二点について自覚的である。そして、VTuberが反応を返すものであり、鑑賞者はVTuberを完全にコントロールせず、また、VTuberによって完全にコントロールされるものでもなく、完全にランダムな仕方でVTuberは鑑賞者に対して反応しない。以上からVEを構成する諸構造は変化可能である。したがって、VEはインタラクティビティの条件を満たし、インタラクティブなエンゲージメントであると言える*17。

2–2 自己関与

こうしたインタラクティビティはVEの他の諸要素とどう関わっているのか。この点について、「自己関与(self-involvement)」という概念を手がかりに分析しよう。ゴートの議論を参照すれば、自己関与的エンゲージメントとは、鑑賞者自身を対象とする情動をもたらすようなエンゲージメントとして特徴づけられる(Gaut 2010, 273-276)。たとえば、ビデオゲームにおいては、あるキャラクタを救い出すことにプレイヤが成功し、あるいは失敗することができる。この際、成功した場合には、プレイヤは達成感を自身を対象として抱きうるし、失敗した場合には、自身に対して悔しさを感じうる。すなわち、自己関与的エンゲージメントの特徴は、対象への同一化のみならず、エンゲージメントする者が自己に対して特定の情動を抱く点にある*18。

この観点からVEをみてみよう。インタラクティブなVEにおいては、コメントやファンアート、メッセージを送ることで、VTuberとコミュニケーションを行いうる。そこでのVTuberの反応(感謝、苦笑、無視、否定)を知覚した際、鑑賞者は、自身に対して、自身の行為に由来する後悔、喜び、怒りを自身に対して抱きうる。ちょうどゲームプレイにおいて、自身のスキルに苛立ったり達成を感じたりするように、VTuberの鑑賞者は自身の行為の結果によって、自身を対象とする情動を抱き、それを味わうことができる。この意味でVEはインタラクティブであり、自己関与的でもある*19。

2–3 共同注意

上記のインタラクティビティと自己関与に加え、VEにおける経験は、集団的である点に特徴がある*20。VEは、自宅で、あるいは通勤時間にといったように、一般に、空間的には個人的に行われる。だが、YouTubeや様々な配信メディアにおいて、鑑賞者たちは互いに他の鑑賞者のコメントを知覚する。そのため、多くの場合、広い意味で、VEは集団的である。とはいえ、集団的な鑑賞のあり方については、さらなる明示化が必要だろう。

分析美学者のトム・コクランは、音楽の聴取経験を例として、「共同注意(joint attention)」に関する一般的なモデルを構築することで、集団的な鑑賞のあり方を分析した(Cochran 2009)。ここで、共同注意とは、「二人かそれ以上のひとびとが、ともに、ある環境においてある対象に注意を払っていることに相互に気づいている」際にもたらされるような注意である(ibid., 59)。

たとえば、あなたとパートナーが、二人が出会った頃に流れていた音楽を聴いている時、二人とも、じぶんたちが同一の曲を聴いていることに相互に気づいており、共同注意が生じている。互いに苦笑いを浮かべつつ、あるいは、思いもよらずあなたの目が潤んでいるのをパートナーが茶化しながら、泣き笑いながら二人は曲を聴く。その際に二人に惹き起こされる心的状態は、互いの注意によって作り出されるものであり、それぞれが互いに独りでその曲を聴いている際とはある程度異なっている。

共同注意は、対象に注意している者たちが抱く心的状態に影響し、時に、ライブ、映画、コンサートにおけるような特定の鑑賞経験を構成する重要な要素となる(ibid., 73)。たとえば、サッカー観戦における盛り上がりは、観戦の付随物ではなく、その楽しみや独特の雰囲気を生み出し、高揚感や応援チームへのいっそうの思い入れを可能にする重要な構成的要素である。

VEにおいて、こうした共同注意は、コメントを介してなされ、情動的な反応と深く関係している。見逃してはならないのは、現状、YouTubeを含む様々なメディアにおいてVTuberは配信を行っているが、たいてい、鑑賞者は配信中にコメントを行うことが可能であり、多くの配信で、コメントは画面上にキャプチャされ、鑑賞者はそうしたコメントを含めて鑑賞を行っている点である。すなわち、コメントは、鑑賞者によっては無視できないわけではないが、動画に付与される要素というより、VEを構成する重要な要素のひとつとなっている。そこでは、VTuberの特定の発言やふるまいは、集団において、注意づけられ、価値づけられ、解釈される。鑑賞者は、自身がコメントを行う場合のみならず、そうでない場合も、共同注意に影響を受けつつ鑑賞を行う。そして、この集団的影響は、鑑賞経験を部分的にせよ構成する。ゆえに、共同注意は、インタラクティビティと自己関与とならんで、VEを特徴づける重要な要素のひとつであると言える。

2–4 時間性

以上に加え、VEを特徴づけるのは、その鑑賞における「時間性(temporality)」である*21。分析美学者のジェロルド・レヴィンソンとフィリップ・アルパーソンは、「時間芸術(temporal art)」に関する十四の概念を提示し、それらを対象、経験、そして内容に関する時間性から三つに分類した(Levinson & Alperson 1991)。この分類を参照すれば、VEは、その創造における時間、提示における時間、そして受容における時間とがしばしば一致する経験として特徴づけられる(cf. ibid., 445)。たとえば、生配信においては、VTuberが話し、企画を行い、あるいはゲームをプレイする動画が創造される時間と、それが配信される提示の時間、そして、それを鑑賞する受容の時間とは一致している(むろん、生放送のアーカイブを視聴する際には、三つの時間は一致しない)。

加えて、VEにおける時間性はそれ自体で特徴的な要素であるというより、他の要素と組み合わさって特有の効果をもたらしている。

時間性は本節で指摘した三つの要素と関係しつつ、次の二点において、独特なVEをもたらす。第一に、VTuberはしばしば生配信を行い、それらは、リアルタイムのインタラクティブなコミュニケーションを可能にし同時的な同一化をもたらす。また、鑑賞者自身が働きかけることによるVTuberの反応は自己関与的情動をもたらす。さらに、鑑賞者はコメントを参照し、それにより、VEにおける情動的経験は共同注意によってつねに更新される。これらがなぜ可能なのかは、レヴィンソンらが指摘した三つの時間の一致から明らかにできる。もし、VEの創造、提示、そして受容が同時でなければ、こうした鑑賞経験は行いえない*22。

第二に、VTuberの配信や彼らの時間的変化(収益や人気の変化、他のVTuberとの関係性の変遷)は、小説や映画といった対象のように既に完成された対象ではなく、つねに何が起こるかはかなりの程度不確定な、リアルタイムで生成され続けるものである。鑑賞者は、VTuberのあり方をインタラクティブに変化させ、それに部分的に自己関与的情動を抱き、それはしばしば集団的に行われる*23。

以上指摘した四つの要素は、単体では他のエンゲージメントにもみられる。たとえば、インタラクティビティ、共同注意と時間性は、様々な配信者やYouTuberに、そして、自己関与性はアイドルにおけるエンゲージメントにもみられる。だが、これらの要素が同時に備わり、互いに影響しあう点にVEの特徴がある。次節では、諸要素の影響関係も含め、考察を進めよう。

3 システムとデザイン

前節では、VTuberとの情動的関わり、すなわち、インタラクティビティ、自己関与、共同注意、そして、時間性の四つの観点からVEを特徴づけた。これらとVTuberの構造の特有性は、同一化、共感、そして同情の三つの情動的関わりと深く結びついている。本節では、両者の要素を総合し、VEのシステムを記述し、そのデザインを分析する。

第一に、前節までの議論をまとめ、VEのシステムを記述し、第二に、その理論的枠組みに基づき、VEがいかにデザインされているのかを分析する。

3–1 システム

ここで、VEにおけるインタラクティビティ、自己関与、共同注意、そして、時間性という四つの要素とVTuberの構造の特有性と、同一化、共感、そして同情に代表される情動的関わりとの結びつきを、四点にわたって指摘する。

第一に、インタラクティビティと自己関与について。一方で、鑑賞者は、VTuberとの関わりにおいて、第三者の視点から、小説や映画のキャラクタに対するようなエンゲージメントを行いうる。他方で、鑑賞者は、特定のインタラクションを行いうる。そのとき、鑑賞者は、VTuberが、じぶんの働きかけに応じて、ときに思いもよらない情動的反応を返すというすぐれてインタラクティブな経験を行う。そして、鑑賞者は、自身の行為がもたらしたペルソナの心的状態に共感あるいは同情する、あるいは、ペルソナが自身の心的状態に関して共感や同情を行ってくれるという特異な経験を行いうる。

第二に、共同注意について。VEにおいて、鑑賞者は、VTuberについての他の鑑賞者たちの情動的反応を知覚可能であり、個々人は、それらに同意/反発するなかで他人に影響を受け、それなしでは生まれえなかった情動を抱く。それにより、ある鑑賞者は、VTuberへの様々なアスペクト的同一化を深め、あるいは、それを弱める。すなわち、VEは共同注意により、影響を受け方向づけられる。

第三に、時間性について。VEは、VTuberが生配信を行い、SNSによるつぶやきなどをしばしば活用しているように、多くはリアルタイムで提供される。こうした同時性は、共感をより強固にする。なぜなら、共感は、現在の鑑賞者の心的状態を用いて、ペルソナのそれの理解に役立てる行為だが、それがリアルタイムであるほどによりヴィヴィッドな共感が可能になるからだ。すなわち、VEにおいては、鑑賞者の心的状態とペルソナの心的状態とを(もっとも著しい場合にはほぼ同時に)重ね合わせることができ、鑑賞者はこうした心的状態の同期を行うことで、意識的にであれ、無意識的にであれ、自身とペルソナのある種の「心の近さ」を感じる。そうした「近さ」を感じることで両者の心的な結びつきは強化される。共感の精度の高さと時間的近さによって、VTuberのリアルタイムの鑑賞者は、ペルソナと自身との心的状態を重ね合わせることができる*24。

第四に、エンゲージメントの対象について。第一節第三項で述べたVTuberの三層構造がもたらすふたつのペルソナの「として理解」によって独自のVEがもたらされている。VTuberにおいて、ペルソナとしての彼女の人気や再生数は、彼女という特定のパーソンの現実的な生活や先行きに直接的に影響し、「パーソンのペルソナとして」の鑑賞が行われている時、鑑賞者はこのことを理解している。そのため、VEにおいては、鑑賞者はペルソナの向こうに現実的なパーソンを想像することができ、虚構的なキャラクタに対するよりも、より現実的な同一化、共感と同情が行われている。

ここで、VTuberの存在のあり方に注目することでVEを異なる視点から特徴づけることができる。一方で、アニメーションキャラクタは、その声優が変更されても、そのキャラクタは消滅したとはふつうみなされない。なぜなら、多くの場合、アニメーションキャラクタの同一性は、キャラクタデザインや物語世界における性格といった特徴の集合によって保たれており、それは異なる声優によって繰り返し再現可能であり、また、再現における多少の変化にも耐えうる。

他方で、VTuberは、それを生きるパーソンが変わってしまえば、たとえキャラクタの画像に変更はなくとも、明らかに「そのVTuber」は消滅してしまったとみなされるだろう。なぜなら、VTuberは特定の脚本や物語を再現することによってではなく、つねに自身の物語を生きることによって存在するペルソナとして鑑賞されているからだ。つまり、VTuberの同一性は、そのペルソナを作り出すパーソンのあり方と深く結びついている。したがって、VTuberのパーソンが活動を続けられなくなることを回避するための鑑賞者による活動は、以上の理由から、彼らにとって重要なものであり、ゆえに、VEにおいては、ある面ではアニメーションキャラクタとは異なった、よりいっそう意義深くより現実的な対象と類比的な同一化、共感、そして同情が行われている。

同時に、VEは、YouTuberへのエンゲージメントとも異なっている。その理由は、キャラクタのペルソナとしての鑑賞の可能性によってもたらされている。というのも、VTuberのペルソナの知覚可能な現れが、YouTuberのような現実的なパーソンのペルソナの現れではなく、あくまでキャラクタの画像であるがゆえに、人間的なペルソナへのエンゲージメントにおけるある種の生々しさを弱めており、それによって、YouTuberへのエンゲージメントには興味を持たなかった鑑賞者も、ある面ではアニメーションキャラクタへのエンゲージメントと類比的にVEを行うことができる*25。

すなわち、以上をまとめれば、パーソンのペルソナとしての鑑賞は、現実的な対象に対するような深いエンゲージメントを可能にさせると同時に、キャラクタのペルソナとしての鑑賞は、現実的な対象に課金するといった生々しさを消すこと可能にしており、これらによって、ふつうアニメーションキャラクタやYouTuberにおいては困難であるようなふたつのペルソナとしての鑑賞が可能になることで、より障碍なく、そしてより深いVEが作り出されている*26。

本節では、インタラクティビティとコミュニケーション、自己関与、共同注意、時間性、そしてエンゲージメントの対象といった視点と、共感、同情といった情動的関わりの側面との関係を議論することで、VEを特徴づけた。この特徴づけは、VEの分析、各VTuberによるVEの違いや価値づけにおいて有用な概念的枠組みとなるだろう。それぞれのVTuberは以上で特徴づけた各要素を用いて、それぞれに特色あるVEと鑑賞経験をもたらしている*27。そこで、いかにしてエンゲージメントを形成しているのかという「エンゲージメントデザイン(engagement design)」の観点から、個々のVTuberの特殊性を分類、特徴づけることもできるだろう。とはいえ、以下では個々のデザインの分析は行わず、より一般的なデザインを考察する*28。

3–2 デザイン

以上を踏まえて、エンゲージメントデザインの視点からVEについて、次の三つの観点から分析を行う*29。

まず、第一に、応援と宣伝について。鑑賞者は、自己関与によってVTuberへと抱く情動をじぶんのものとして実感している。そして、VTuberのあり方は、そのパーソンの現実的なあり方と結びついているために、VTuberの(極端な場合には)存続、収益、人気の寡多は、つねにじぶんたちによって部分的にせよ直接的に作られているという理解によって、鑑賞者は自己において部分的な責任や使命感を感じつつ、よりVEに深く関わる。

特に、鑑賞者たちの幾人かは、特定のVTuberの魅力を伝えたり、ファン動画*30、イラスト、あるいは漫画などを制作し共有する。そうした作品の再生/閲覧回数の伸び、コメントにおける制作者への賞賛、なにより、応援するVTuber自身からの言及、感想や高/低評価、時には、VTuberの動画制作にサムネイルとして役立てられることにより、制作者は、VTuberが歩む物語の形成への関与に由来する情動を抱くことができるだろう*31。

第二に、課金行為について。VTuberのいくつかの配信において、鑑賞者たちは「ギフト」あるいは「Super Chat」と呼ばれる課金行為を行い、VTuber(あるいは所属企業)に直接金銭を送ることができる。課金行為は、商品やサービスに対する対価としてのみ行われているわけではない。鑑賞者は、課金行為によって、じぶんのコメントを目立たせたり、特定のアイテムをVTuberのいる空間に贈ることで、VTuberに自身の名前を読み上げられたり、反応され、感謝を伝えられる。その際に、VTuberに認知してもらえた、応援できたというインタラクティブで自己関与的な要素によって特徴づけられる快を抱きうる*32。この点も課金行為を動機づける理由となる。また、課金行為は、共同注意における集団的な鑑賞において知覚可能であり、VTuberに対してのみならず、他の鑑賞者たちに対するある種の自己アピールとしても作用する。他の鑑賞者たちは、課金行為を褒め、おもしろがり、ときに、その課金額の多さによって、そのVTuberの人気を理解することもある。これらは、一般的なペルソナとの一対一関係におけるコミュニケーションにみられない鑑賞経験をもたらしている。

第三に、悩みと目標について。VTuberの心情吐露や悩みは、そのつどリアルタイムに伝達され、鑑賞者は、それにすばやく反応することで、ペルソナの向こう側にいるパーソンが抱いているであろう心的状態をリアルタイムに想像し、その時点の実感を伴った理解を行うことで、悩みの共感を行う。

特に、目標の共有は同情のメカニズムと深く関わっている。鑑賞者は、期日までにどれだけの目標を達成しなければならない、といった目標をVTuberと共有することで、動機的な同一化を行い、あたかも同じプロジェクトに邁進する仲間の一人として、VTuberの物語に参加し、共感に加え、同情的同一化を行う。すなわち、鑑賞者は、特定の目標達成へのVTuberの欲求を自身のものとして想像的に共有し欲求することで、VTuberと欲求的同一化を行う。鑑賞者が、物語的フィクションのキャラクタに同情を行うことはしばしばみられるが(たとえば、強敵に立ち向かう主人公への)、VTuberの場合は、ペルソナの向こうにはっきりと特定のパーソンが感じられる。ゆえに、VEにおける同情は、フィクショナルキャラクタに対するよりも、ペルソナを介しているものの、現実のパーソンに対するものに近く、より現実的で強いものになるだろう。VEにおいては、悩みと目標の共有を介して、より深い同情と共感、自己関与的情動を抱きうる。

以上の三点から、本稿では、インタラクティビティ、自己関与、共同注意、時間性、そして、VTuberの構造といった諸要素、さらに同一化、共感、そして、同情といった関わりのメカニズムに注目しつつ、応援と宣伝、課金行為、そして、悩みと目標の観点から、いかにして独特なVEがもたらされているのかを明らかにした。以上の分析は、VEのあり方を価値づけるにせよ、倫理的に批判するにせよ、いかにしてVEがデザインされているのかを明らかにしており、これらの問いを問う有効な手がかりを提示するだろう。

おわりに

本稿は、第一に、ペルソナエンゲージメントを同一化、共感と同情の三つの情動的関わりから特徴づけ、VTuberの構造の特殊性を指摘した。第二に、VEを、インタラクティビティ、自己関与、共同注意、そして、時間性の四つの観点から特徴づけるとともに、それらと、そして、VTuberの構造的特徴と情動的関わりとの結びつきを議論し、VEのシステムを記述した。さいごに、構築した枠組みを手がかりに、VEのデザインを分析した。

本稿で構築した理論的枠組みは、VTuberはもちろん、メディアを介した様々なペルソナへのエンゲージメントの分析、構築の手がかりとなるだろう。そして、特に、第二節と第三節において議論したエンゲージメントのシステムとデザインは、「配信」という表現形式に関する美学的考察を行う手がかりになりうる。本稿の議論が、ペルソナへのエンゲージメントの美学、さらには配信の美学の発展をもたらすことを期待する*33。

※この論考は『ヱクリヲ vol.10』に収録されたものです。

★特集Ⅰ「一〇年代ポピュラー文化」
●さやわか×西 兼志「アイドル〈の/と〉歴史」
●高井くらら「コンテンツ-コミュニケーション発展史 〈会いにいける〉から〈反逆される〉まで」
●難波 優輝「バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学――配信のシステムとデザイン」
●楊 駿驍「あなたは今、わたしを操っている。――「選択分岐型」フィクションの新たな展開」
●得地弘基(劇団・お布団主宰)インタビュー「破壊する倫理と破壊される権利、その表現と葛藤」
●横山宏介「ユビキタスとデミウルゴス」

脚注

*1  以下「VTuber」はバーチャルYouTuberを指す。
*2  本稿は、わたしが推し進めている、アイドル、バーチャル/YouTuber、キャラクタ、あるいは擬人的な表象、その演じ手などが鑑賞の対象となる文化実践を分析する「層状の文化(tiered culture)」研究プロジェクトの重要なピースのひとつである。現在までに、わたしは、「バーチャルYouTuberの三つの身体」において、こうした層状の文化における鑑賞の対象に関する理論的枠組みを構築し(難波 2018)、「おしゃれの美学」においては、おしゃれすることを、パーソンが装いを介して、自身の理想を他人に提示するパフォーマンスとして理論化し(難波 近刊)、層状の文化の分析を行ってきた。本稿は、これまで部分的にしか取り組めていなかったペルソナエンゲージメントに焦点をあて、その理論的枠組みを提示することを目指す。
*3 単数形は ‘persona’、複数形は ‘personae’ であるが、本稿では一貫して「ペルソナ」と表記する。
*4  以下「ペルソナ」はメディアペルソナを指す。
*5  以下「エンゲージメント」はペルソナエンゲージメントを指す。
*6  この概念はベンス・ナナイによるエンゲージメントに関する議論に部分的に依拠している(Nanay 2013)。ペルソナエンゲージメントの社会心理学的研究については、ナンバ(2018a)を、また、関連する文献については、ナンバ(2018b)を参照せよ。
*7 これらは、エンゲージメントのメカニズムのすべてを尽くすわけではないし、ペルソナへの情動的関わりのすべてを列挙したものでもないが、近年議論が繰り広げられ、重要な構成要素であることが指摘されている諸メカニズムである。この他に、キャラクタやペルソナへある種の愛情や性愛的な欲望を志向する関わりやペルソナへの敵意や憎しみといった情動を抱くようなネガティブな関わりもありうる。本稿では、個々の情動の分析は行わず、より一般的なメカニズムを分析する。本稿とは異なるエンゲージメントの理解についてはCarroll(2010; 2013)を、エンゲージメントのメカニズム一般については、Coplan(2008)、Giovannelli(2008)を参照せよ。
*8 対して、録画した同じ映像を十年後に彼女が見ている時、彼女はその時点ではもはやアイドルと同一の実感を持って共感することはできないが、しかし、十年前に抱いた情動を思い出して、ある種の共感を行うことはできる(cf. Walton 2014, 15)。
*9  ゴートは、同情は必ずしも同一化を伴わず、「同情するとは、広い意味で、彼に気を使うこと(take care)、彼を心配すること(to be concerned for)」だとする(Gaut 2010, 261; cf. 2012, 207)。ゴートの同情概念は、本稿のそれより幅広い対象を含むが、本稿では、彼が指摘する同情的関わりには焦点をあてないため、同情概念に関しては、ゴートの用語法を用いない。そのため、ゴートの立場を採用する場合は、本稿の同情概念を「狭義の同情」として読み替えれば問題はない。
*10  同一化一般と類比的に、同情の際にも、目標や欲求のすべての側面を共有する必要はない。たとえば、幼子をなくし、悲嘆に暮れ、悲しみに耐えられず、いっそじぶんの死を望む母親に同情する時、わたしたちは、想像的に死を欲求するのではなく、悲しみが消えることを欲求することもできるし、また、逆に、否定的な同情、すなわち反感において顕著であるように、必ずしも完全に対象の目標や欲求のすべてに反同一化する必要はない(Giovannelli 2009, 89, 90)。たとえば、息子の成功を過度に自慢する友人に反感を抱いたとしても、必ずしも、その成功それ自体やそれを自慢に思う気持ち全体へと反感を抱くわけではない(ibid., 90)。
*11  アレクサンドロ・ジョバネッリは、典型的な同情は配慮に加え、つねに共感を伴うと主張している(Giovannelli 2009, 84-88)。たしかに、同情はしばしば共感を伴うが、共感を構成要素として持たず、配慮のみを伴う同情も存在しうる。したがって、共感と同情は排反ではないものの、後者が前者を包含するとは言えない(cf. Carroll 2013, 348-352)。そもそも、ジョバネッリも認めているように、典型的な同情の他にも、共感を伴わない同情がありうる。そのため、それが典型的かどうかを保留すれば、共感と同情というふたつの同一化は非排他的かつ区別可能だとする点では各論者で一致しており、その限りで、共感が同情の必須の構成要素かどうかをめぐる論争は、本稿の議論には影響しない。
*12 第三節において議論するように、これらのエンゲージメントは、さらに鑑賞者に特定の行為の動機づけを与えることもある(cf. Giovannelli 2009, 89)。
*13  ここで画像(picture)とは、静止画(still picture)のみならず動画(moving picture)を含む。たとえば、絵やイラストレーションのみならず、映像や2D/3Dモデルも含む。
*14  こうしたペルソナの鑑賞のされ方の複数性とエンゲージメントの関係については第三節で議論する。
*15 以下「VE」はVTuberエンゲージメントを指す。
*16  この定義において「作品」という言葉が用いられているが、この定義が参照するフロムやスマッツも指摘するように、「作品」は、それが芸術作品かどうか、あるいは「芸術性や美的質のレベル」を問わず、ビデオゲームを含み、かつまたそれ以外のインタラクティビティに関連するメディア作品を指示しうる(Frome 2009; Smuts 2009, 53-54, 67)。ゆえに、ビデオゲームのみならず、一般にインタラクティビティの定義としても用いることができる。
*17  また、鑑賞者からVTuberへのエンゲージメントのみならず、VTuberから鑑賞者へのインタラクティブなエンゲージメントも可能である。この点については、第三節でより詳しく議論する。
*18  自己関与の概念、および、ビデオゲームにおける例については、Robson & Meskin(2016)も参照した。
*19  自己関与的エンゲージメントとインタラクティブなエンゲージメントとは必ずしも同一の外延を持たない。インタラクティブ性は弱いが、鑑賞者の特定の行為やあり方それ自体に対する情動が喚起されるような自己関与的作品もありうる(必ず鑑賞者は特定のボタンを押さなければならないが、キャラクタに避けられない不幸が降りかかるような作品)。とはいえ、インタラクティビティと自己関与は排他的ではなく、しばしば両立し、また、両者は一体となって自己関与的インタラクティブなエンゲージメントがもたらされうる(Gaut 2010, 273-274)。
*20  集団的な鑑賞のあり方については、Hanich(2014)も参照せよ。
*21  鑑賞経験の時間性一般についての分析は、分析美学においてそれほど議論されていない。例外として、Levinson & Alperson(1991)、Moura(2015)および、Powell(2015)がある。
*22  これを映画作品と比較すると、その違いははっきりしている。映画作品においては、三つの時間はかなり異なっているのがふつうである。
*23  ジョン・ポーウェルは、レヴィンソンらの議論を批判しつつ、庭園を代表例とするような、持続的な時間的変化を含めて美的に鑑賞される作品や形式の存在を指摘している(Powell 2015)。その議論を参照すれば、VEもまた、ペルソナイメージやエンゲージメントの時間的変化が鑑賞の対象となっているものだと言える。また、時間とならんでVEの一部はそのバーチャルな空間の共有によっても特徴づけられうるが、そうした経験はいまだ一部のVEに限られるために本稿では扱わない。この点について指摘してくださった柏田純に感謝する。
*24  この点と関連して、わたしは『ガールズラジオデイズ』というラジオドラマ的作品について、時間と共感の作用をうまく組み込んだ作品として批評した。ナンバ(2019)を参照せよ。
*25  こうしたふたつのペルソナの「としての理解」はボイスロイド実況についても見られる。ボイスロイド実況においては、特定のキャラクタの画像と声を用いて、それらの表情差分や調声を行いテクストを打ち込むパーソンが存在する。そして、幾人もの著名な「ボイスロイド実況者」が存在するように、ボイスロイドという「キャラクタのペルソナとして」の鑑賞のみならず、「パーソンのペルソナとして」の鑑賞も行われている。この点においてボイスロイド実況の鑑賞文化はVTuberのそれと似ている。ただ、ボイスロイド実況者は、各ボイスロイドの設定や性格といったボイスロイドの鑑賞コミュニティにおいて共有された性質を部分的にせよ用いており、また、しばしば、単一ではなく、複数のボイスロイドを登場させて会話を構築する。ゆえに、ボイスロイドの鑑賞文化は、キャラクタを演じるわけではなく、ふつう、キャラクタの画像とそのペルソナとが一対一に対応しているVTuberの鑑賞文化とは異なる。とはいえ、ふたつのペルソナとしての鑑賞が行われるという点で両者は類似しており、異同についてのさらなる分析が必要となるだろう。この点について指摘してくださった『ヱクリヲ』編集部の方に感謝する。
*26  この点について議論を行う必要性を示唆してくださった『ヱクリヲ』編集部の方々に感謝する。
*27  インタラクションを重視し、生配信やSNSで、コメントに積極的に応答するVTuberもいれば、作り込んだ動画投稿を重視する者もいるだろう。とはいえ、ほとんどのVTuberはSNSを用いており、鑑賞者とのコミュニケーションはVEの基本的な要素のひとつとなっている。
*28  本稿では詳しく議論することはできないが、VTuberが、しばしば、ゲームプレイを配信している点は、エンゲージメントの観点から興味深い。一般に、ゲームプレイにおいて、プレイヤは、作品の鑑賞では得られないような、怒りやためらい、恐怖、後悔、悔しさといった自己関与的情動を抱く。鑑賞者は、同じゲーム画面を見ているために、VTuberが特定の自己関与的情動をなぜ抱くにいたったのかをたやすく理解でき、それによって、VTuberへの共感や同情といった同一化を容易に行いうる。この点から、VTuber動画においてゲームプレイが配信される理由のひとつを明らかにできる。VTuberが小説や映画を実況する配信があるとして、それと比較すれば、ゲームプレイの配信の方が、VTuber自身に関するより多様な情動を鑑賞者は知覚、理解することができるために、鑑賞者はより深いエンゲージメントを行うことができることは明らかであり、VTuberや配信者は、無意識か意識的かは問わず、こうしたゲームプレイと自己関与的情動の特徴をうまく用いることで、様々な独自のエンゲージメントを可能にしている。
*29  本稿で注目するのは高次のデザインであるが、エンゲージメントに関してはカメラ目線や語りかけなどの低次のレベルでのデザインも考えられる。この点については、ナンバ(2018a)および、難波(2018)を参照せよ。
*30  たとえば、「切り抜き動画」に代表される。興味深いのは、これらの作品の説明の多くには、制作者自身が応援するVTuberを宣伝するためとの動機が記されており、これらが明確に、様々なエンゲージメントと関わるものであることが、制作者にも理解されていることである。
*31  ファンによるプロダクトによってつくられる環境や、集団的にペルソナイメージが形成される過程については、難波(2018, 121-124)において議論した。
*32  こうした課金文化について、美術史研究者の松下哲也は、本稿の観点と重なり合う視点から批判を加えている(松下 2018, 186-187)。
*33  草稿を読み有益なコメントを寄せてくださった以下の方々にお礼を申し上げたい(五十音順、所属・敬称略)。東千尋、柏田純、松浦優。また、資料の調査を手伝ってくださった下万佑子には深く感謝したい。加えて、草稿を読み、貴重なコメントを寄せてくださった『ヱクリヲ』編集部の方々にお礼を申し上げたい。

参考文献

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