卒業できなかった子どもたち――『mid90s ミッドナインティーズ』レビュー


「誰よりも悲惨な目に遭ってる。そんな必要ないだろ」(1)

 レイというサモア人の青年が、病室のベッドに横たわる友人に語りかける。『mid90s ミッドナインティーズ』(ジョナ・ヒル監督、2018年。以下『mid90s』)終盤のシーンだ。レイの見かけは高校生ぐらい。あなたは彼を子どもだと思うだろうか。大人だと思うだろうか。話しかけられたほう、ベッドに横たわる傷だらけのスティービーはもっと幼く小学生くらいだ。こちらはさすがに誰がどう見ても子どもだろう。いったいなぜスティービーはこんなに傷だらけになってしまったのか。彼のような小さな子どもがなぜ傷つく必要があったのか。

 なんで彼はこんなに「悲惨な目に遭ってる」のか。映画のプロットの話だけではない。誰がこんな映画を作ろうと思ったのだろう。決して悪い映画ではない。しかし子どもが傷つく姿など誰が見たいのだろう。一つずつ順番に考え直してみよう。これは現代劇ではなく、少し昔の、文字通り1990年代を舞台にしたドラマ。ここで描かれる子どもたちは、現代の子どもたちではない。当時のカルチャーを懐かしむために観客が映画館にやってくるのなら、その観客もきっともう子どもではない。この映画はただ、題に冠したその時代を懐かしむだけの作品だろうか。それとも、私たちが「子ども」だと思っているものを更新するなにかだろうか。

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 『mid90s』はタイトル通り、90年代半ばのロサンゼルスが舞台だ。スティービーという少年がスラムにたむろする五つも六つも年長のスケートボーダーたちと出会う。少年は警察の目をかいくぐって日がなスケボーで乗り遊び、タバコを吸い、パーティーに興じて、奔放な女の子たちに恋する生活に憧れ、彼らの一員に加わろうとする。それは1995年、文字通り90年代半ばに作られたラリー・クラークの『KIDS』という映画を――そこに登場したニューヨークで倫理を逸した奔放な暮らしを楽しむスケートボーダーたちを――彷彿とさせる。

 15、6歳の男の子たちの後を追って小学生が一人とぼとぼ付いて歩く様はいかにも滑稽だ。同年代の友達というには、背格好も運動能力も経験値も違いすぎるはずだ。高校生に憧れるおぼこい少年。そういう間抜けさがしばらく画面につきまとう。

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 映画の中盤、この違和感に劇が直接向き合うようなシークエンスが訪れる。ある日、大きな日よけの屋根でスケートボードに興じていた少年たちは人一人分すぽっと入れるくらいの長方形の穴を見つけ、屋根の斜面を滑走して勢いをつけ、この穴を飛び越える遊びを始める。まず一番滑るのが上手いレイがやってみせると、仲間たちもそれに続く。スティービーも同じように滑ろうとするが、誰もこの間抜けな小学生がレイたちのように、穴を飛び越えることができるとは思っていないので思わず慌てる。案の定彼はジャンプに失敗し、穴から落ちていく。急いで年長の少年たちが地上に駆けつけると、穴の下にあったテーブルの上に落下した衝撃で頭から血を流したスティービーが倒れている。すぐにTシャツを脱がせて彼の頭に巻いて止血する。そして、これをきっかけにスティービーは一人前の仲間だと、スケートボーダーたちに認められるようになる。

 注目すべきは、怪我をしたスティービーがTシャツを脱いで晒す裸体だ。彼が裸になるのはこれが最初ではない。開巻直後から何度も彼はその貧相な肉体を晒している。スティービーは五つか六つ上の兄と母親の三人暮らし。日頃から兄は衝動的に弟に暴力を振るい、いつも意味もなく殴られる。彼は自分の部屋の鏡の前に立ち、身体の傷を確認するために裸になる。やがてスケートボーダーたちとつるむようになると仲間の一人、ルーベンからもらったタバコを、背伸びして吸ってみる。帰宅する前に公衆トイレに寄って匂いを消すために、また鏡の前で服を脱いで全身に消臭スプレーを浴びせる。そして、先の穴から落ちて怪我をするシークエンスに至る。それまで一人で鏡の前で裸になっていた少年が、初めてその裸体を仲間たちに晒し、怪我を見せることで彼は仲間に認められる。

 最初の問いに戻ろう。15、6歳の少年達というのは「大人」だろうか、「子ども」だろうか。この映画のドラマに乗るためにはスティービーの目線に立つ必要がある。小学生の彼から見れば、実は高校生はかなり「大人」なのだ。例えばひとたび成人してしまうと忘れがちだが、自分が小学生かそこらの年齢だった頃、高校生なんてまるで世の中のことをなんでもわかっているような「大人」に見える時期があった。スティービーが憧れたのは、未熟な高校生ではなく、自分にはできないことを平然とやってのける立派な「大人(に見える者)」だった。そして今、やっと彼は彼らと肩を並べることができた。

 裸身を晒すのは怪我や汚れを確かめるときばかりではない。彼はパーティーで知り合った年上の女の子と部屋で二人きりになり、裸でじゃれ合う。怪我を年長の仲間たちに晒し、恥部を異性の眼前に晒し、いわゆる「大人」の階段をまた一段登る。そして家に帰ると今度はそれまで、自分に理不尽な暴力を振るっていた兄に反撃を始める。誰よりも弱く未熟な子どもだった頃とはうってかわって今、彼はそれまで自分よりも「大人」だと思っていた兄や母と対等に向き合うことができる。自宅の母親の部屋に至る扉が一瞬映り、そこから見知らぬ男の影がちらっと出てくる。女を知った彼には今、その意味もわかる。どうやら母の恋人らしい。それをずっと前から知っていた兄は「母さんはお前が生まれる前、もっと遊んでいた。ああいう男がもっと出入りしていた」と告げる。まるで自分の精神不安の原因がそうした母親の素行のせいだと糾弾するかのように弟に姑息な告げ口をしている。やっと「大人」になったスティービーの前に、今度は大人の未熟さが顔をのぞかせ始めた。

 未熟さを露呈する「大人」は家族ばかりではない。スティービーが憧れてやまなかったスケートボーダーたちが実は、将来になにも希望を抱くことができず、近所をたむろするチンピラでしかなかったことが徐々に明らかになる。リーダー格だったレイは彼に、自分が弟を亡くしたこと、自分よりも誰が一番貧乏で、誰が一番親からひどい目にあわされていて、とつぶさに話し、最後には「他の奴らを見ると、自分のことをまだマシだと思うから仲間とつるんでいるんだ」と告白する。彼らは立派な大人ではなく、臆病で怠惰な子どもだった。一見クールに見えた憧れの対象への幻滅がこうして徐々に始まる

 やがてやけを起こした仲間がパーティーの帰りに親の車を酔っ払って運転したために、交通事故が起きる。運悪く後部座席に座っていたスティービーが大けがをして、救急車で病院に運ばれる。運び込まれた病院の処置室で再びスティービーは裸体をあらわにする。ここで最初に触れた病室のシーンが登場する。ベッドの上で意識を取り戻したスティービーにレイが語りかける。スティービーは「誰よりも悲惨な目にあってる」。そして怪我をして裸体を晒す「悲惨な目」は途中まで、「大人」になるための通過儀礼だった。しかし、そんな目にあう「必要はない」とレイは語りかける。まるでそんなことをしても「大人」にはなれない、どこにも行けない、俺はそういうことをよく知ってる、と言うように。果たしてスティービーは、少年たちは、彼の家族は真の「大人」になれるのか。最後に仲間の一人が撮りためていたフィルムが上映され、突然中断されるかのように映画が終わる。このフィルムが一番、ラリー・クラークの映画に似ている。

 ラリー・クラークの『KIDS』と見比べてみればこの映画がいかに手の込んだ上品な映画かわかるだろう。クラークの映画で、ドラッグと性行為に溺れて他人を傷つけることをなんとも思わない残忍な少年たち、傷つくことを想像しない無軌道な少女たち、手軽になったカメラで撮影されたいかにも素人臭い手ブレとその絶妙な素人臭さが売りの「新しい」映像たち。あれから、20年以上が経ってその映像はもう若くも新しくもない。本作は『KIDS』という映画が今の時代までに年をとってしまったことにとても自覚的だ。かつて奔放で時代の先端を走るように見えた少年たちが、もう少しもクールでないことが暴かれてしまった。1995年頃という「mid90s」を描いた映画である一方で、本当に1995年に作られた映画には似ても似つかないのだ。

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「必要もない」のに「酷い目に遭う子ども」を見たい客とはいったい誰だろう。本作は子どもが主役だからと言って子ども向けの映画というのではない。では大人が見る映画なのか。だとしたら、それはどんな大人なのか。これが90年代のノルタルジーに浸るための映画だとしたら、当時このように子どもだった人たちが見る映画だと言えるだろうか。しかし前述のように、これは奔放で無軌道な姿こそ子どもの真実かのように映画を撮ったラリー・クラークのそれとはまったく異なる映画だ。あるいは別の仕方で、大人には決して理解できない未開の領域として子どもを描いたフランソワ・トリュフォーのようでもない。『mid90s』は新鮮で挑発的な新しい価値観を提示するような映画ではないのだ。
 言うなればこれは、隅々まで演出の行き届いた、丁寧に骨董品のような加工がされた新品だ。それはネガティブな意味でおしゃれで上品な映画だ。トリュフォーやクラークがそれぞれのやり方で、時代の新しい価値観を提示していく「若い映画」の作家だったとすれば本作にはほとんどそういう若さは見られない。観客の価値観を直接揺るがすような画期的な演出は見当たらない。もはや表現を更新する可能性を諦めてしまったかのようでさえある。では、そこにあるのは本当に感傷的なノスタルジーだけなのだろうか。いや、それも決してそうではない。

 以前、本作を製作・配給したA24について、この映画会社が三つの映画ジャンルを売り出すことを戦略にしていると論じた。その三つとは、「青春映画」、「ポストヒューマン」、「ホラー」だ。それにはそれぞれ「子ども」、「機械または異星人」、「幽霊」というキャラクターを想定しており(2)、本作はまさしくその一つ、「子ども」が主役の「青春映画」にあたる。

「子ども」を題材にした映画はなぜジャンルとして成立するほど今、作られているのか。これは現在、高校生の青春を描いたジャンルが映画の一大ジャンルとなっているこの国にも決して無関係な問題ではない。例えばA24による、グレタ・ガーウィグ監督の『レディバード』(2017年)はサクラメントに暮らす女子高生の高校生活最後の一年を描いたもので、またボー・バーナム監督の『エイスグレード』(2018年)は中学生の少女が進学前の最後の一週間を過ごす様を描いたものだった。どちらも青春ドラマは「卒業」という通過儀礼によってドラマが一区切りすることを可能にしていた。そして「卒業」という形式ばかりの生活の変化が、登場人物である彼女たちに友人や同級生、長く暮らした土地との別れと出会いのきっかけを与えた。必ずしも明確な成果物としては描かれなくとも、そこには成長らしき変化を見いだすことができた。「青春」を「ドラマ」たらしめるのは、「卒業」という舞台装置なのかもしれない。そこに登場するのはスティービーやレイと同性代か、それと前後する年頃の女の子たちだった。しかし、レイにもスティービーにも「卒業」は与えられなかった。彼らの青春には本来その人生のドラマを駆動するはずの舞台装置が失われているのだ。もし「青春映画」というジャンルが成立するのなら、「卒業」の不在がきっと本作を特異な作品に位置付けるに違いない。

 そもそも「卒業」はあくまで学校が持つ制度にすぎない。それは本来個人の成長や葛藤とは直接関係がない。それをしたからといって誰もが別の人間になるわけでも、ましてや「大人」になるわけでもない。しかし「卒業」はドラマに区切りを与える――かのように見える。なぜそんな勘違いをするのか。本当はただ、観客がそう望んでいるだけではないのか。もう子どもではない、大人になった観客が架空のノスタルジックな「卒業」の追体験をただ映画に求めているだけではないのか。本作こそ、初めてその欺瞞に向き合った青春映画ではないだろうか。もしもその「卒業」という制度が用意した舞台装置がなければ、かつて子どもだった私たちはいつまでたっても大人になれず、真の意味で何からも卒業できないのかもしれない、と。

 この映画はなぜ『mid90s』というのだろう。なぜ20年前の話として、これが今語られるのだろう。彼らは生きていれば少なくとも子どもの年齢ではない。あのどこにもいけないティーンエイジャーたちは、今20歳、30歳、40歳と年だけとったのかもしれない。90年代に子どもだったまま、どこにも行けなくなった者たち。私たちの「卒業」もまた、レイたちのように本当は「宙吊り」にされたままなのではないか。決して荒っぽいとは言えないこの上品な映画がそれでもなにかを挑発しているとすれば、それはなんだろう。もしかすると観客に向かってこう、呼びかけているのかもしれない。お前たちこそ大人になれないままどこにもいけなくなった年寄りではないか、と。

〈註〉
1 『mid90s』本編より
2 「A24と二つのゴースト」伊藤元晴、ヱクリヲ vol.10、2019年

『mid 90s ミッドナインティーズ』
監督・脚本:ジョナ・ヒル『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『マネーボール』(出演)
製作総指揮:スコット・ロバートソン『レヴェナント:蘇りし者』、アレックスG・スコット『レディ・バード』
製作:イーライ・ブッシュ『レディ・バード』 
音楽:トレント・レズナー、アッティカス・ロス
2018年 / アメリカ / 英語 / 85分 / スタンダード / カラー / 5.1ch / PG12 
日本語字幕:岩辺いずみ/提供:トランスフォーマー、Filmarks
配給:トランスフォーマー © 2018 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.  
公式HP:http://www.transformer.co.jp/m/mid90s/  
Twitter&インスタ:@mid90s_JP