渡邊琢磨 インタビュー: 『ラストアフターヌーン』幽霊的世界の到達点


『ラストアフターヌーン』について(2 of 2)

――音は画面の外から状況を説明することができると言います。ホールの反響音や部屋の音など、人は無意識のうちに空間認識をすると思うのですが、残余感のある音響を含め非現実的な多様な音空間がひしめいています。例えば、渡邊さんはテュードアの「Rain Forest」でラップ現象を感じ、インスピレーションを受けたと語っています。聴覚自体の変遷、切り替わりを問題にしている気がしますが、どのような聴き方を想定しているのでしょう。

渡邊 「Rain Forest」は、それがラップ現象なのかテュードアのライブエレクトロニクスによる音なのか判然としない、というのが本音ですが(笑)ただそれは、あの作品にそういう得体の知れない何かを想起させる雰囲気、聴き手の意識をプロジェクションできる余白があるからだと思います。不明瞭さ、満たされていない感覚やある種の寂寞感は、自分の制作の土台になっている気がします。

 音楽の聴き方に関してはリスナーに委ねます。作曲者の制作背景やコンセプトよりも、まずは音楽作品ありきです。作曲上の概念と作品そのものが同じスケールであることは稀な気もします。自分の場合、コンセプトや何らかの方法論が作曲の後押しをすることは殆どなく、制作それ自体が制作の動機になっていることが殆どです。なのでプリペアし過ぎることはなく、直感的に作業をしていることが多いと思います。

 いま手元に、モートン・フェルドマン(1926-1987)(註:アメリカ実験音楽の代表的な作曲家)の「The Viola in My Life」のスコアがあるのですが、この譜面には――現代音楽のスコアで見かけるような――演奏に関する細かな指示書のようなものが殆どなく、淡々と美しい響きが書かれてるだけです。こういう響きの謎を音楽技法的に解き明かそうとしたら、徒労に終わるかもしれません。ジョン・ケージが驚いたように、(註:フェルドマンが自身の弦楽四重奏曲を初めてケージに見せた際のケージの反応。ケネス・シルヴァーマン著『ジョン・ケージ伝』参照)その作品を作曲者本人ですら「どうやってつくったか分からない」場合は多々あります。個人的には、制作過程において特定のイメージや概念が、楽想を発展させることもありますが、一度曲が完成してしまうと、そのアイディアやコンセプトが作品にどのように反映されているのか、まったく分からなくなってしまうのです。

  今回、アルバムに収録した曲のいくつかに自作のアニメーションビデオ(「Last Afternoon」「Tactile」)を作成して、作曲過程で想起したイメージやアイディアの痕跡をあえて残してみましたが、これは夢でみた出来事を目が覚めてから記録して、音にまつわるイメージを可視化させる実験というか、念写みたいなものです(笑)このアニメーションヴィデオで描いたイメージや世界は、私的には本作における理想のリスニング環境といえるかもしれません。

――2つのアニメーションヴィデオ作品は、東日本大震災の被災地や幽霊との邂逅の世界を表しているのかと思いました。例えば、被災地でタクシー運転手が幽霊に遭遇したなんて記事もありましたが。

渡邊 解釈は鑑賞者に委ねます。元々このビデオは基本的に、90年代後半から今日に至るまでメモや譜面に書き留めてきたムードやイメージを、3DCGアニメーションで具体化したものです。今回は、2作品をミュージックビデオという形で公開しましたが、元々は、全10話からなるオムニバスアニメーションフィルムとして構想されたものです。パンデミック以降に制作が加速し、現状、今回公開したビデオの長尺版を含める6話分のエピソードがあります。閑散とした風景のなかで、少々デプレッションした人物が想定外の出来事や未知の人物と邂逅するという物語りが、全編を通して展開されるのですが、生活感がない建築物や窓がない車、無人の人工湖、荒野での焚き火、そこに出現する幽霊などは、自分の生涯を通じて付き纏う憑依的なイメージにほかなりません。

  本作は後々、俳優の川瀬陽太さん、作曲家兼SN Variationsレーベルオーナーのエイドリアン・コーカーや、チェリストで作曲家のルーシー・レイルトン、ドラマーの山本達久くんの音や声などを当てて完成させる予定です。