コミケが開催され、今年の人気コンテンツ筆頭である「ラブライブ!School idol project」(以下、ラブライブ!)の話題もまたTwitterのTLに流れてくるようになった。今回はこの「ラブライブ!」について私が思うことを述べる。この作品は元々は雑誌・音楽・アニメーション3社の合同企画で、ユニット編成などにユーザーの声を積極的に採用しながら「μ’s」という2次元のアイドルグループを形成していくプロジェクトだ。最初の展開は紙面での連載やCDの発売・声優のライブのみであった。2013年冬にテレビアニメ第1期が放映されたが、この時点ではアニメ好きが知るだけで大ヒットはしていなかった。しかし、2013年6月頃からスマホゲーム「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル」(以下、スクフェス)が配信され、このゲームをプレイしている人を「ラブライバー」と呼ぶなど知名度がかなり上がった。無料でクオリティの高い音ゲーであったこともあり、アニメ好き以外のバンドサークル内でも流行したりと現在ではユーザー数400万人を達成している。そして2014年春にアニメ第2期が放送され、映画化も決定した。
私も例に漏れずにスクフェス→アニメ→それ以前の曲という流れでラブライブ!を辿っていったのだが、そのようにラブライブ!を見ている中で、あることが気になった。それはアニメ版2期のOP、最終話EDなどの背景に描かれている女の子達(モブキャラ)たちである。彼女らは応援しているような動きを繰り返し、μ’sのライブが盛り上がっているように演出する。アニメはその性質上「偶然映る」といったことは有り得ず、そこにモブがいなくても物語は成り立つ。なのに重要な場面で彼女らは登場するのだ。私は彼女らがいることによって「盛り上がっている」以外のことを感じた。それはμ’sに「なれなかった」モブキャラたちの切なさである。
アニメ版のμ’sは、徹底的にDiYの手段を取る。作詞作曲はもちろん、ダンス指導や戦略も全てメンバーが行う。成長の仕方はとにかく特訓というスポ根的な方法で、危機が訪れた時は自分たちだけで乗り越えるか、所謂「神モブ」(名前が付いているのでモブではないのだが)と呼ばれる3人組が手助けをしてくれる。モブキャラ達はμ’sを応援するか、神モブの指示でμ’sの力になることしかしない。同じ学校にμ’sという輝いている存在がいるのなら、新聞部が取材に来ることやスタッフ・またはメンバーになりたいと訪問する人(神モブは実質スタッフであるが、3人というのも少なすぎる)がいてもおかしくない。だが、それもない。物語の進行上必要がなかったからかもしれないが、訪問者によって新たな物語を作ることも可能であったはずだ。モブとμ’sの間には暗黙のなにか超えてはいけない境界のようなものがある。モブ達はμ’sと同じ学校に通いながらも、それ以上でもそれ以下でもなくただの「ファン」の立ち位置を徹底するのだ。他の大人向けアイドルアニメではプロデューサーや先輩などもっと多くの役割の人が登場してアイドルを取り巻いているのに、少し不自然である。
そう考えると、モブ達はアニメを見ている私の化身のように見えてくる。それまでの雑誌の連載やCDのようにユーザーの声をその都度取り入れるのが困難であるアニメというメディアでは、私たちはμ’sをプロデュースすることも、神モブのように具体的に助けることはできない。アニメを見る私たちにとって、μ’sは「触れられないアイドル」である。そこには越えられない境界があり、私たちは「ファン」として振舞うことしかできない。アイドルもの(以外の最近流行しているものも殆どそうだが)では「私たちがいかにそのコンテンツに関わり一緒に面白くしていくか」がヒットするために重要なこととなっている。だからこそ他のアイドルアニメ(「THE IDOLM@STER」や「うたの☆プリンスさまっ」など)ではファンももちろんいるが、プロデューサー・マネージャーなどを主人公として描いていて、視聴者はそこに自分を投影しやすいように作られている。そのようなアイドルのサポートキャラに感情移入してアイドルを育てることも、アイドルといい感じに恋愛することも想像としてはもちろん可能である。というより、そのような物語の消費がされやすいよう、大抵のアイドルアニメは作られている。しかし、一方通行であるアニメの本質としては、アイドルの育成や恋愛は現実的には不可能なことである。その想像を整合性を持ったものとするには作品の脳内改変を行う必要があり、二次創作としてアニメ以外の土壌に身を置くか、もっと個的な妄想として留めておかなければならない。それは、現実でのアイドルと私たちの関係にとても近い。そのような不可能性が、「○○は私のものだからグッズを付けないで!」と同じキャラが好きな人(同担)の鞄からそのキャラのキーホルダーや缶バッジを強奪するような「同担拒否事件」にも繋がる。ラブライブはそういったアニメの不可能性を知ってか知らずか、徹底的にそこを排除したものとなっている。
では、モブ達とμ’s達を分けるこの境界はなんであったのか。それは「奇跡」としか言いようがない。もちろん先に挙げたように、練習シーンを描かれる頻度が高く、μ’sが成長をするために練習をたくさん重ねてきたという要因もある。だが、μ’sが困難を乗り越えるとき、理屈では説明できないような奇跡がしばしば起こる。例えば、「雨やめー!!」って言ったら本当に雨が止むし、雪で交通機関が麻痺しているので吹雪の中を走ってライブに間に合うなど、「アニメだから仕方ない」と言ってしまえば終わりだが努力や成長どころではない要素がμ’sの物語に大きく関わっているのだ。これがμ’sとモブ(私達)の間にある違いである。それを起こしていたのはもしかして違う人だったかもしれない、奇跡が1つ起こらなければμ’s自身もモブの中の一員でしかなかったかもしれない。そんなギリギリの中で大きくなっていったμ’sだからこそその成長は感動的なものなのである。ライブシーンの背景に描かれた女の子達はμ’sの影であり、μ’sはそんな女の子達の光なのである。そこにはソーシャル戦略のような具体的なものによる成長ではない、もっと純粋に応援したくなるような作用が生み出されているのだ。
「さあ行こう 私達と一緒に 見たことのない場所へ! 見たことのないステージへ! 叶え、私達の夢! 叶え、あなたの夢! 叶え、みんなの夢!」
これは、ラブライブ!第2期最終話の最後のμ’sのセンター(主人公)のセリフである。印象的なのは「私達」と「あなた」は別であるとはっきり言ってしまっている点だ。あなた=アニメ内のファンに向けたメッセージかもしれない。しかし、メタ的な発言であると捉えればあなた=アニメの視聴者であるかもしれない。アニメ版ラブライブ!は視聴者=ファンと徹底的に規定し、そこに境界を設けた。それは、μ’sが関わった多くの奇跡の反動である。奇跡がより超常的で回数が多いほど、そうならなかった時としての普通の女の子が潜在化してくるのだ。その潜在的な女の子達=私達もなにか奇跡さえ起これば夢が叶うかもしれない、そんな希望を与えてくれる。
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