筆者は現在放送中のアニメ、幸福グラフィティがアニメ会社のシャフト制作でアニメになった時、原作を愛読していたこともあり、アニメ化に際してどのようにそれが翻案されるかを心配していたりした。
ご存じない方のためにアニメ「幸腹グラフィティ」の内容について簡単に触れるが、祖母をなくした中学三年生のりょう(栗色の長髪の子)が、同じく美学校を受験するつもりのきりん(紫っぽいおさげの子)と、同じクラスメイトのりょう(金髪の子)と料理を作ったり作られたりして親交を深める作品だ。
原作の河井まことはもっちりとした女の子とご飯を巧みに書く…
さて、放送が開始されたときに、割りと僕がいぶかしく思ったことは、本来は上のようにりょうときりんと椎名の三人だったビジュアルコンセプトが、二人+1になったことだった。まぁ、この理由は後で説明される。
他にも例えばシャフトのお家芸の、分割線だらけの画面(非常に息苦しい)と屋内描写とか、
(サイバー空間にでもいるような実線の数の水平カット。シャフトあるある)
二人だけで食べてたりするのに時々やたら説明口調で料理番組的になるりょうときりんの演技づくりとかは、正直あまり面白く思ってなかったりする。
♫モーツァルト「ホルン協奏曲」と濱口の「できたー!」が聞こえてくるようなカット。誰に料理を見せてるんですかね…
とりあえず、ダメ出しはぱっぱと終わらせた。
さて、アニメ版にてはじめて達成されつつある境地もある。それは、端的に言えば、伝統的料理漫画における「作る人」と、最近主流になりつつある「食べる人」系漫画をゆるやかに接続して、 たべるとつくるを「一つの動作として、交換可能なかたちで行う」という試みにあるだろう。以下でくわしく説明しよう。
まず、現在の料理マンガの流派と難点に簡単に触れる。
古典的料理対決漫画(「焼きたて!ジャぱん」「鉄鍋のジャン」や「食戟のソーマ」など)は長らく料理法や材料など過程を見せつける判定式のショーとしての料理を提示してきたが、それを食べる人間のリアクションには、どこかワイドショー的な奇抜さが伴っていた。 なぜなら作る人を扱う作品にとって調理過程のほうが大事なものだし、過程がすごいのだから、食べた人もきっとすごい反応をするだろうという作り手の一方的な解釈があり、しかも食べた人はひたすらそれが美味しいことを料理人に示さなければならない、という少し息苦しい関係がある。
(鉄鍋のジャンでダチョウの肉にサシを入れるとか言って蛆に食わせたシーン。この後優勝するがダチョウの怒りを買って殺されかける。この鉄鍋のジャン、この分類では最強に面白いのでぜひ読んでほしい。)
・一方「美味しんぼ」以降の「ラーメン大好き小泉さん」や「花のズボラ飯」「孤独のグルメ」など近年流行の食道楽系漫画において、料理は作ることよりもむしろ食べることの内的な喜びを求めた行為になった。そこではダイアログ(独白)が多様され、おいしさには綿密な心内描写が割かれる。だがこのとき、逆に作り手の姿がどこかぼやけてしまう。作った人がおいしくなるために費やしただろう努力が、そのピントの中にあまり入ってこない。
作った人にあまり敬意を払わない食道楽タイプの人間の一例(孤独のグルメ)。
だけど、そもそもこの二つの描き方では、交代できる関係がなく、作る人は永遠に作る人だし、食べる人は永遠に食べる人だ。作ると食べる、この二つは本当に必ず別々の行為として描かれる必要があるほど、専門性があるのだろうか?いや、そうではない。幸福グラフィティが二つの分類のどちらにも属さず、その中間に位置している。そこで強調して描かれているのは、そもそもふたつの体験は共有であり、つくるとたべるが交換可能であるということだ。
りょうときりんの関係は、一見作る人、食べる人と分かれているように見えた、序盤には。だが後半になると、徐々にきりんが美味しいものをつくってくれるりょうに、今度は自分も何か作ってあげたいと考えるようになる。昔、「私作る人、僕食べる人」というCMが炎上したのはジェンダー問題への軽率さのせいだったが、最近は男が厨房に立っても何か言う人はいないだろう。
エヴァ破の加持さんは「台所に立つ男はモテるぞ〜」と言っている。
七話以降、今まで食べるだけだったきりんが、椎名と共同作業でさんまを焼いたり、八話では一人で弁当を作ってみる。またりょうもきりんの作った料理が食べたいと考えるようになる。一度作られた関係は逆転可能で、料理のうまい方が料理をする、沢山食べる方が食べる、のではなく、いつでももう片方のパートを担当できるのだ。
きりんに弁当を作ってもらってめっちゃ嬉しそうなりょう…
その関係はまた、りょうときりんのキャラクターソングの「しあわせグラフィティ」に現れている(次回タイトルのときに流れている曲だ)。曲中、サビで「つくる」ときりんがうたい、「たべる」とりょうが歌い、掛け合うように歌うとき、一見関係は一方的に見える。だが二小節目から、きりんも「つくる」し、りょうも「たべる」と歌い始める。実は関係は流動的で、交換的であることが、明らかになるのだ。
次回予告で使ってるあの曲です。ついでにあのめっちゃかわいい動きを再確認してほしい…
音楽についてはまた特に強調したいすべきことがあって、それは番組宣伝のCMでキャラクターソングでは、りょうときりんの声の和音についてこだわられているということだ。一般にキャラクターソングといえば、一人ずつ別々に出されるか、あるいは全員で歌う場合にしても大体は合唱の形態を取る。だが、りょうときりんのキャラクターソングでは、ED含む三曲全てにデュエットが取り込まれていて、それが素晴らしい。というのも、デュエットもまた、「交換可能な別のパートを担当しながら、一つの音を作る」というたべるーつくるに見られるコンセプトを体現しているからだ。
つくるとたべるは、時間差を含みながらも、限りなく同時的に、協同的に、ひとつの動詞で表現されることができるのだ。なぜなら、料理は作られただけでは意味がないし、食べる人は作ってもらわなければ、これまた意味がないのだから。「食べられないけど作る、作られたけど食べない」、ではいけない。二つの動詞の中に、「られた」のどこか拒絶を含んだ受け身の動詞がある。
料理が楽しい共同作業である以上、その受け身がなくなり、互いがひとつに必要がある。(とはいえ、日本語のみならず、多くの言語でこの二つの動作はわかれているが、例えば韓国語の해먹다(ヘモッタ)は「作って食べる」を意味することができるし、シナ・チベット系の大陸の2.4%が使用する言語である贛語は動詞の行動と結果を同時に表すことが可能なので「食べるー作る」を一単語で表すことは可能だろう。)
難しい話が続いてちょっとびっくりする皆さん…
たべるーつくるという、二つの動作が一息に同じ場所で行われるためには条件があり、それは「あつあつ」の「できたて」であるということだ。だからこそ、もっとも重要な「暖かさ」が何度もタイトルにて印象づけられる(「ほかほか」「ふんわり」「トロッ」「じんわり」「あつあつ」「ジュー」「ほくほく」「グツグツ」)のだし、描かれる料理も香ばしさや湯気が重点的に描かれているのだ。この辺は、コンセプトがうまく伝達されている。
メシ作画担当(伊藤博明)がいるこだわり。料理がエロ担当。
僕もオトコ飯のようなものしか作れないが、目の前で自分が作った料理を、元気にたくさん食べてくれる人は良いものだ。反対に、自分のために厨房に立っている人の背中を眺めるのは、それが男でも女でも嬉しい。そして食の実感を、こういうところから始めても、別にまずいことはない。なぜなら、実のところ、家族なり友人なり恋人なり、大事な人が試行錯誤して作ってくれた料理なら、レシピ通りでなくても、形が悪くても、全然平気なのだから(と、きりんは「ご飯の練習」で歌っている。)
失敗例。
まぁ以上なわけで、たべるーつくるの最小の関係をわかりやすく明示するために、基本的に、それがふたりである必要があった、だから最初に提起された問題についての解答になるが、この二人の関係をわかりやすく描くために、椎名は項としては一段下におかざるを得なかったということになる。もちろん椎名はゲストとしてとても重要な存在であることには違いないのだが。
三人で食べるシーン。
どうしてどうして、私達はこの「つくるーたべる」のような、一続きで交代可能な関係の動きがあることをしばしば忘れてしまう。責任と分担作業に追われていると、「自分の仕事」はあげればいいかとすこし後ろ向きな気持ちになりがちだ。だが、別に気まぐれに誰かの仕事を代わりにやっても、怒られはしないし、むしろ自分の仕事は別に自分だけのものではなかったと再確認できるいい機会になることもある。
それに、交代することでいつでも別の人の大切さを再確認することができるし、そうやって誰かに与えて喜ばれる幸せが、りょうときりんの交流からもひしひしと伝わってくる。そういう意味で、この二人の関係は非常に幸せで温かいものになっている。
だからちょっと食べ方がエッチでも気にしすぎない…。
書き手 @karoshininja もかみちゃん