小説と映画、演技と内面
――小説について伺わせてください。深田監督は『淵に立つ』に続いて、『海を駆ける』の小説版も書いています。小説だと、様々な視点人物の一人称で構成されていますね。映画は多くの場合、カメラ・アイによる客観的な視点ということで「三人称的」とも言えます。小説と映画に取り組む上での違いはどこにあったのでしょうか。
深田 映画だと、基本的に「人の心は映らない」という前提で作っています。お客さんが想像できるように撮っている。あとは、なるべく三人称的に撮るということも心がけています。対照的に小説だと、人の心の内面をまったく描かずに書いていくことはとても難しい。『淵に立つ』の小説版は三人称なんですが、「章江はこう思った」というふうに内面を補足しています。
それで映画と小説の違いで言うと、優れた映画には「他者性」があると思います。たとえば、すべてが監督の脳内のイメージ通りに構築されている映画って、どこか箱庭のように感じてしまう。キューブリックや黒澤明のような完璧主義と呼ばれる監督の作品がわかりやすいと思うけど、もちろんとても面白いのだけどどこか息苦しさがある気がして。そういう「息苦しさ」からは離れていたいと考えていて、そこで大事なのが「他者性」です。ようは俳優であったりスタッフであったり自然現象であったり、監督にとっての「他者」の介入による偶然性があった方が映画は風通しの良いものになる。でも、小説はぜんぶ一人で書くしかない。
――内面についてのお話がありましたが、役者への演技指導のときに内面の説明はするんでしょうか。深田さんは過去のインタビューで「脚本を信じてください」と役者に伝えるとも語っています。
深田 聞かれたらしますけど、基本的には任せています。なぜかと言うと、よくできている映画の脚本はすべてそうなっていると思うんですが、構成だけで関係性の変化や登場人物の心情をある程度伝えることができると考えています。構成の力だけで「この人はいま悲しいんだろうな」とか、観る人に想像させることができる。それができていないと、俳優が脚本の穴をカバーしなくてはいけなくなってきます。つまり、「この人物は悲しんでいる」ってことを役者が説明的に表現しなくてはいけなくなる。
でも、普段のわたしたちの生活で自分の感情を説明するなんてことは、まずないわけです。脚本ができていないと、そういう説明的な芝居、大きな芝居を役者に強いることになってしまう。だから、普通に脚本どうりに演じてもらえれば感情が観ている人それぞれにそれぞれの在り方で伝わるはずなので、そういう意味で「信じてください」と役者には言っています。あと、やはり「人の心は見えない」ので演技で具体的にアウトプットするまでの思考は、基本的に役者にお任せしているということですね。
――演劇だと役者さんとしっかり稽古でコミュニケーションをとった上で上演に臨むます。映画だと、逆にスケジュールの都合であまりコミュニケーションが取れないまま、撮影に臨むこともあると思います。深田監督はどちらの方がやりやすいですか。
深田 現実的に、映画は演劇のように稽古を長期間、集中してやることができません。ただ、できる限り、俳優同士でコミュニケーションを取ってもらうようにしています。僕はカメラの前で俳優同士が普通にコミュニケーションをしていれば、70点はもう取れたという感覚があるんです。自分で「こう演じるんだ」と決めてきた演技するのではなく、共演者やその場の状況に応じた演技をしてもらえれば、自然といい演技なると思います。それをするためには役者さん同士で普段からコミュニケーションをとってもらっていた方がやりやすい。『海を駆ける』の若者グループ(※太賀、阿部純子、アディパティ・ドルケン、セカール・サリ)は、クランク・インの一週間前には、一緒に映画を見に行くくらい仲良くなっていましたね(笑)。
――太賀さんは今回の役は日本の血を引くインドネシア人ということでした。
深田 そうですね。インドネシア語を母国語のように話すという役だったのですが、本当に成りきってましたね。僕自身ではわかりかねるのですが、インドネシア人が聞いても驚くくらい太賀くんは発音が上手いらしい。音で覚えているだけなんですけど、それはもう彼のセンスでしょうね。あと彼が上手いのは話し方だけじゃなくて、動きとか仕草がとてもインドネシアの現地の若者っぽくなったところです。それは結局、太賀くんはリアルタイムで目の前にいる俳優と自然とコミュニケーションが取れていたということだと思います。クリス役のアディパティさんともとても仲良くなっていたので、自然とコミュニケーションを重ねていくうちに、その仕草とかを覚えてインドネシアの若者っぽさを取り込んでいったんでしょうね。
――最初に優れた脚本があり、それが必然的に役者同士のコミュニケーションを生み出すということでしょうか。
深田 「いま、私は悲しい」ということを演技で説明することは、コミュニケーションと関係がないことなんですね。それは役者一人のなかで完結してしまうことになってしまう。そうではなく、コミュニケーションのなかで感情をちゃんと想像できるようにするということです。だめな脚本は役者が過剰に感情を説明しなくていけないので――僕はこれを「役者の荷物が増える」という言い方をするんですが――、その負担を減らして、なるべく俳優が自由に演じられるようにしたい。俳優が目の前の役者や周りで起こっていることにすぐ反応をできるような余裕を持たせたいという発想がベースにあって、いつも脚本には四苦八苦しています。
――『淵に立つ』では川辺でのピクニックで4人が寝そべって写真を撮るショットが非常に印象に残っています。『海を駆ける』だと、冒頭でトラックの荷台に作中人物たちが集まっているシーンも同様ですが、観る人が関係性を想像するようなショットが近作では目立ちます。
深田 僕はカットバックも好きではあるんですが、そういうフルショットで人物を全員入れ込むようなものも確かによく撮っている。なるべく引いた形で撮る、つまり三人称的に撮ることでそこから受け取れるものは観客にゆだねたいという気持ちはあります。
――『海を駆ける』では、登場人物たちが文字通り「海を駆けていく」虚構性の高いシーンがあります。以前、深田監督はインタビューで大きな物語に対する反発や、非日常よりも日常を撮ることへの関心を語っていたのが印象的です。ただ『海を駆ける』同様に『淵に立つ』では、ある少女を襲う暴力的な事件が物語に登場します。物語の虚構性に対する距離感になにか変化はありますか。
深田 なるほど。ただ『淵に立つ』の原案は2006年ではあります。映画ってどうしてもドラマチックな瞬間を描きがちだけど、わたしたちの人生でドラマチックな瞬間なんてほとんどないはずです。そういう非日常的な瞬間よりも、人生の大半を占める日常を撮りたいという考えは変わっていません。『淵に立つ』で描きたかったモティーフは「暴力」で、その象徴として浅野忠信さん演じる八坂がいる。でも、僕は殴る蹴るといった暴力そのものを撮りたいわけではないんです。暴力そのものを撮ってしまうと、それは殴る側と殴られる側の関係性や固有性のなかに収まってしまう。
だから『淵に立つ』はそうではなく、暴力そのものを撮らずにふいに日常を脅かす「暴力」の存在を、それを直接的に示すことなく描く作品でした。日常の外部から暴力がやってきて、そしてその後にもまた生活が続いていくという点で、やはり『淵に立つ』は僕にとって「日常」を描いた作品です。事件の後でもふつうに生きていれば、その暴力のことを忘れることもあれば愛想笑いでも笑顔になる瞬間はある。事件性を特権化せずに「日常」を撮るということですね。
――深田監督の映画は「ある共同体に外部から侵入者がやってくる」という設定を共通して持っているように感じます。これからもそのテーマは続くのでしょうか。
深田 さほど意識してのことではありませんが、それは今後も撮っていくと思います。むしろそういう設定がまったくない映画自体がないんじゃないかという気持ちもあります。結局そういうのが好きなんだとは思いますが、単純に変化のない共同体では他者性が薄まるし、ストーリーはなかなか進んでいかないですよね。
日本映画の現状について
――深田監督は小説も書かれていますが、青山真治も小説を書く映画監督です。青山監督は非常に作家性の強いタイプの監督だと思いますし、それゆえに小説を書いている側面があるように思います。深田監督が小説を書くのも作家性の強い監督ゆえと思うのですが、今後メジャー映画やジャンル映画を撮ることに興味はあるのでしょうか。
深田 もちろんジャンル映画も見るのは好きなんですが、しばらくは今のままでやっていきたいと思っています。職人監督のように、来た企画で映画をどんどん撮っていきたいという気持ちもあまりない。意識しているのは、自分の作品を観たいと思ったり、おもしろがってくれるお客さんをいかに増やしていくか、ということです。例えば僕が少女漫画原作の映画を撮るとなったら、宣伝的にやりやすいし、原作ファンも観てくれて観客動員は今よりは増えると思うんです。でも、それは「深田晃司の映画を観たい」と思ってくれる観客を増やすということにはつながらない。だから遠回りのようなんだけど、コツコツと地道に資金を集めて自分の撮りたい映画を撮っていくほうが10年後、20年後には自分が楽になるのではと思っています。
――フランス映画の現状を取り上げたルポ『フランス映画どこへ行く』(2011年、林瑞絵)では、専門の芸術大学を卒業した作家が視野の狭い個人的な世界観を深めていくアート映画と、タレントやモデルのような芸能人主導で製作され、国内市場だけの注目を集める娯楽映画の二極化が、日本の映画産業との類似点として取り上げられています。こちらの記事では、アメリカの批評家リチャード・ブロディが、フランス、日本のインディペンデント映画についての現状について批判的に意見を述べ、『フランス映画、どこへ行く』の数年後も変化していない印象を裏付けます。前作『淵に立つ』がカンヌで賞を獲得した後にも、製作のための資金繰りの難しさを取り上げる深田監督にとって日本で、ハリウッドの外で新しい映画を作り続ける意義について教えて下さい。
深田 自分自身は作りたいところで映画を作れるよう努力するだけなのですが、意義をあえて言葉にするとすれば、多様性です。映画祭の始まりもそうですが、資本主義の社会において経済性だけに映画の価値を委ねていては文化の多様性が損なわれます。芸術には多様な価値観を社会に顕在化させるという役割もあるので、ひとつの価値観に寄らない映画が各地域で自由に作られ続けることは、今の社会にとっても民主主義にとっても公共的な価値の高いことです。
フランスにおける二極化の構造と日本におけるそれを単純に比較し同一視することは、社会構造の理解の一助にはなっても、逆に問題の本質から目を逸らさせてしまう危険があります。なぜなら、フランスと日本の状況が似ているというのは、すごく遠目にみたら富士山とチロルチョコは形が似ているという程度に一見近しいだけで、その実情はまったく違うからです。
まず二極化しているといっても、フランスには興行収入の一部を公的な映画予算に回し循環していく仕組みがあるため、「タレントやモデルのような芸能人主導で製作され、国内市場だけの注目を集める娯楽映画」が高い収益をあげれば、それが作家性の強い映画に回っていきます。フランスでの「作家性の強い低予算のアート映画」はだいたい1億5000万円から3億円ぐらいの制作費で作られています。一方日本では低予算化が歯止めなく進み、数千万円で作られていればいい方で、ときには数百万円で映画が作られるほど底が抜けたと思ったら、最近はワークショップという形で俳優やスタッフから資金を集め作るという貧困労働前提の態勢まで常態化しています。一言で「インディペンデント」「低予算」といってもフランスと日本のそれは似て比なるものです。
日本の文化庁の映画予算20億円に対しフランスには年間800億円近い映画予算があり、それは企画開発から配給宣伝にまで使え、年間あたりの国民ひとりの平均映画鑑賞本数は日本の3倍以上、しかも映画人口の少ない地域においては公共の映画館が運営されることで映画のインフラを維持しています。日本のように大手映画会社が市場を独占することもなく、一方でアーティストのための社会保障制度も充実しています。それらはつまり、商業性だけが重視される環境、貧困に耐えられる人間だけが映画を作れる環境では、文化の多様性を守ることはできず、ひいてはあらゆる人間がその出自に関わらず芸術文化に携わる権利があるという基本的人権に反しているという考え方ですよね。
それだけの努力をフランス映画界は何十年と重ねてきたうえで、フランス人はフランスのシステムを批判しているのであって、日本人が賢しらにフランスの制度を見て先回りし批判するのは、小学校にも入っていない児童が更年期障害を心配し成長を拒絶するようなもので、まずは小学校に入るところから日本映画は考えないといけません。
――深田監督は過去のインタビューで気になる作家で濱口竜介監督や富田克也監督、真利子哲也監督を挙げておられました。世代の近い作家でほかに気になる存在がいたら、教えてください。
深田 横浜聡子監督や三宅唱監督、あと自分にとっては実は珍しくまったく同い齢の監督さんで「戻る場所はもうない」が田辺・弁慶映画祭で受賞した笹井歳春監督ですね。この作品は本当に傑作でシンパシーを感じました。
――連載「新時代の映像作家たち」では、主に80年生まれ以降の映像作家に登場してもらっています。実写映画に限れば、かなり藝大出身者が多い状況です。深田監督は映画美学校出身ですが、現在の日本の若手映画監督を取り巻く環境をみたとき、この状況をどうお感じになっていますか。
深田 もともと映画美学校の関係者の多くが東京藝大の映画学科の設立には関わっていて、映画美学校と東京藝大は妙に親和性が高いなという印象がありました。今ではだいぶ変わりましたが、以前は「映画美学校は東京藝大の予備校だ」なんていう冗談もよく言われていました(笑)。日本に国立の映画の教育機関がなかった時代を思えば、やはり東京藝大に映画を専門で扱う学部があることは心強く思います。あくまで印象ですが、映画美学校や東京藝大の卒業生が映画界に多く見える理由は、その二つの学校在籍者は「映像業界できちんと食っていこう」というよりも「とにかく映画に関係し続けたい」という映画バカが比較的多いためではないでしょうか。自分もそうですが。
ただ、これは東京藝大に限らずですが、話を聞くと、やはり映画の美学的なことは教えても、ではどうやって今この社会の中、業界の中で映画を持続的に作り続けていくかへの教育が不足しているように思います。これからの若手監督のことを思うと、もうプログラムピクチャーが量産されるような時代は終わってしまったのだから、いかにきちんと自分の意思で資金を集めやりたいことを疲弊せずに自立して続けていくか、その方法や業界の仕組みへの理解も教育に組み込んでいく必要があると思います。さらに「公的な映画教育」という点で話を広げれば映画を作る専門家ばかりではなく、もっと小中高校での映画鑑賞教育も広げていくべきではないかと。
あとは、映画学校に行っていない才能をきちんと業界がすくい取れるような体制も作らないといけませんね。そうでないと多様性のある業界とは言えません。
――是枝監督の『万引き家族』がカンヌでパルムドールを受賞されました。是枝監督も現状の日本の文化振興政策への疑義を表明する作家のひとりでもあります。また、特異な家族の形を描くという点でも是枝監督と深田監督は一部で通底しているように思います。深田監督は今回の受賞についてどのように思っていますか。
深田 素晴らしいと思います。作品はまだ拝見していないので、内容的なことには触れられませんが、是枝監督が長年培ってきた評価が最高の形で結実したのだと思います。また、これまで発言できる立場にある人がきちんと発言してこなかったことが、今の日本映画の現状を招いていると思っているので、是枝さんのような立場の方が発言して下さることはとても心強いです。
――ありがとうございます。最後に次回作について伺わせてください。
深田 次回作は日本で撮る予定です。この秋から撮影開始です。『海を駆ける』よりかは『淵に立つ』に近い、暗いものになると思います。
深田晃司(ふかだ・こうじ)
1980年、東京都出身。2016年公開『淵に立つ』では、第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査委員賞を受賞。初ノミネートで初受賞は、20年ぶりの快挙。2012年よりNPO法人独立映画鍋に参加している。
〈作品情報〉
『海を駆ける』
公開日:2018年5月26日
監督・脚本・編集:深田晃司
出演:ディーン・フジオカ 太賀 阿部純子 アディパティ・ドルケン セカール・サリ 鶴田真由
配給:日活 東京テアトル
制作国:日本・フランス・インドネシア(2018)
上映時間:107分
公式サイト:http://www.umikake.jp/
© 2018 “The Man from the Sea” FILM PARTNERS
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