とにかく現場での時間を多くした
――時間をかけて一つのシーンを撮影したとのことですが、それは通常の撮影と比べるとかなり贅沢なことですよね。『シナリオ』のインタビューでは、『きみの鳥はうたえる』撮影にあたって「1日の分量を10シーンとか撮りたくない、平均3シーンが僕の限界」と言っています。それは一つのシーンを撮るために、なるべく長くカメラを回すためなんですね。
三宅 撮影の時間を長くしたいっていうことと、とにかく彼ら(役者)と過ごす時間を多くしたいということがありましたね。1日に5個とか10個のシーンがあると、移動とセッティングが必然的に増えて、そのぶん演出する時間にマキが入る。だから、こう言ってはなんですが、先回りするようにシナリオのシーン数を制限して、仕事できる時間を確保しようとしていました。
この映画は登場人物の魅力にかかっているし、三人(柄本佑、染谷将太、石橋静河)と一緒に映画を作れるのって、一生に一回あるかないかわからないことだから徹底的に一緒に過ごさせてほしい、とにかくそれだけでしたね。
――映画を観た後に『シナリオ』に掲載された脚本を読んだんですが、かなりシーンを削っていますよね。想像よりも減っていて驚きました。
三宅 そうですね。掲載されたものは印刷台本で、75シーンほどあったと思うんですけれど、函館に着いてからロケハンしたり、打ち合わせしていく中で、撮影前に落としたシーンがそこから10ぐらいあったと思います。さらに、撮影したものの編集で落としたシーンがいくつかあったので、結果的に60数シーンの映画ですね。
――小説や脚本からシーンを削ぎ落としていって、一つのシーンの撮影にかける時間を長くしていったんですね。
三宅 素晴らしい小説の全てを映画にできるわけでは決してないので、何を撮らないでおいて、何に集中するかってことが重要でした。それも、ある一点に賭けることが、バランス感覚よりも重要だろうなと思っていて。彼らが生きる時間の豊かさこそが、その一点です。
そのためには、僕ら自身も、小説の人物たちと同じような時間を過ごす必要があるだろうな、と意識していました。なので撮影前から、回数はそんなに多くないんですけれど、佑ともなんだかんだ会っていました。会ったからといって『きみの鳥はうたえる』の話をするわけでもなくて、別の映画の話だとか。石橋さんとは音楽の話なんかをしました。映画とか音楽の話をすることでお互いの価値基準だとか感性みたいなものがなんとなくわかる。この人こういうところに気がつくんだっていうのをお互いわかり合っていくために、人は映画とか音楽の話をするんだと思うんですよ。
日常を撮ること、日常的に撮ること
――日常的な動作を撮ることへの興味が『きみの鳥はうたえる』にあると思うんですが、それは三宅さんの過去作にも現れていますよね。ドキュメンタリーである『THE COCKPIT』(2014)では、MPCでビートをつくるOMSBさんの指の動きがフェティッシュに捉えられています。一方、『密使と番人』でも石橋静河さんが野菜を洗ったり、水を汲むだけのショットが魅力的であったりします。お聞きしたいのは、日常的な動作を劇映画というフィクションのなかで撮ることと、ドキュメンタリーのなかで捉えることは三宅さんにとって違うものなのか、それとも同じことなんでしょうか。
三宅 それは答えるのが難しい質問ですね……。なんにせよ結局、映画は身近なところから出発するものなのかなという思いがあります。
たとえば『ミッション・インポッシブル』シリーズでトム・クルーズはものすごいアクションをしていますけど、その「走る」だったり「飛びつく」という動作それ自体は僕らでもできる動きですよね。もちろん、その精度は全然違うけれど、トム・クルーズは「手の指をまっすぐにして走る」というごくシンプルなアイデアで勝負している。日常的な動作の積み重ねがとんでもない舞台で、世界一洗練された形で展開されているというか。OMSBの手や首も、とんでもなく洗練されていて真似できるものではないけれど、決して特別ではない普通の動作であって。そういう素晴らしいアクションを記録する、というのがフィクションだとかドキュメンタリー問わず、映画の役割だと思います。
それと、観点が違う話になりますけど、平日に学校とか仕事をサボって映画を観に行く感じだとか、平日が映っている映画が好きですね。昼間に映画館行くと、あなた絶対サボってるでしょという人がいたり、仕事を終えて家に帰る前に一つ映画を観てから帰ろうとする人とか、なんとなく、いい。もちろん土日に映画を観に行くのも最高なんですけど、平日に映画を観て、できることならそのスクリーンに映っているものも「平日なんだけど、少しどこか特別」というものだったらいいなと。日常的という言葉を平日と言い換えてみると、そんなことを思っています。
――『ミッションインポッシブル』に関連して、三宅監督が、映画の中の非日常的な体験も日常の身体感覚の延長であることを大切にしている印象を受けました。大規模なアクション映画という点では、現代はマーベル・コミックスの映画化のようなCGなどのポスト・プロダクションが見せ場の多くを占める「アクション」が隆盛する時代であり、その中で『ミッションインポッシブル』のような映画は別の立ち位置を獲得するようにも思うのですが、三宅監督から「CGと身体」ということに関して意見を聞かせてください。
三宅 スクリーンの向こうよりも、映画を見ている僕らの身体は生身である、ということに興味はあります。僕らのナマの身体がどう反応するか、ということが重要なので。
自分の仕事としては、まだCGはトライしたことがないので興味はありますが、とりあえずは当分、ナマの身体を撮る楽しみを追求すると思います。CGのメイキングとかを見るのは単純に好きです。途中段階のCGとか妙に興奮するし。そういうSF映画のルック、まだないならやりたいな。
――日常的な動作が魅力的に映し出される、ということは最初の長編である『やくたたず』から三宅さんは一貫しているように思います。その一方で三宅さんは過去のインタビューで『やくたたず』『Playback』(2012)の頃は「やっぱりどうしても、なんとか映画にしようしよう」という思いが先行していたと語ってもいます。三宅さん自身もいわば「日常的に」映画を撮るようになったのは、『THE COCKPIT』(1泊2日の撮影でOMSBやBIMたちの曲作りを映している)が一つの転機になったんでしょうか。
三宅 そうですね。『やくたたず』とか『Playback』の頃は、あえて言えば、これまで自分が観てきた映画のイメージを借りたり、カメラポジションやフレームによって語ることに、今から思うと少しだけ比重がかかっていたのかもしれません。
最近はそれをどんどん取り外していくというか、目の前に存在する人や空間の力をただ捉えるだけのような、そんな映画を作りたいなと。こんなに素敵なことが(目の前で)起こっているんだから、それを最も素直にみれるようなポジションをなるべく探して――実はこれが一番難しいんですけど――そこから撮影するだけ、と。
いつかいなくなるかもしれないけどとりあえず今は目の前にいる人たち、あるいはいつか消えて無くなってしまうけれど今は存在しているその場の空気こそが重要で、それを邪魔しないこと、それのもっとも美しい瞬間を発見すること、場合によってはそれが顕れやすくなるように準備することが、が自分の仕事なんだと思うようになったという感じですかね。
――『やくたたず』はファースト・ショットからとても強度があります。その後も非常にカメラ・ポジションが印象的なショットが多いですよね。撮影のなかでカメラ・ポジションを変えていくことが多いんでしょうか。それとも熟慮した上で置く場所を決めて、そこから撮ることが多いでしょうか。
三宅 『やくただず』の頃は自分がカメラマンだったし、1カット1テイクしか撮影できないようなスケジュールだったので、考え抜いて「ここしかないだろう」という場所に置いて、という感じでした。それと、例えば段取りではどうにも間延びしてしまって、しかも演出に苦戦する場合に、カメラ・ポジションやフレームを変えるとタイトに見えてくる、というようなことが、まあたまにあるわけです。
でも今は、もうどう撮ったっておもしろくなるでしょというくらい、カメラの前の世界をどう作っていくか、という意識に少しずつなってきたし、それを楽しいと思えるようになりました。それに今は撮影の四宮さんらも隣にいて、話し合って作れるし、役割分担もありますね。
トライ&エラーを繰り返す
――『きみの鳥はうたえる』の話に戻るんですが、撮影の時間を長く取ることでカメラの前の世界を作ることに注力されていたわけですよね。一つのシーンを撮るにしてもいろいろなパターンを試していたんでしょうか。
三宅 僕から、そういうことをやりたいんだけどどうだろう、と提案したシーンもありました。全部ではないですが。もちろん、最終的にテイクは一つしか選べないし、その判断が現場ではなくて編集に持ち越される場合もあって、じゃあ小道具の位置や髪の乱れはどのテイクの繋がりで準備するのかなど、各部署に負担をかけている面が強いんですが、タフな人が多くて助かっています。
――編集の段階で、現場だとNGだと思ったものを実際に使ったりといったことはありましたか。
三宅 ありました。特に「僕」というキャラクターについては、現場で複数のOKを撮っていたんですね。(一つの)正解があって、それを目指して70点、80点、90点、100点みたいにしてテイクを重ねていくようなやり方が基本だとしたら、これも正解だし、(別の)これも正解だよなというやり方を少し試してみたいと元々思っていました。
というのも、ハリウッド映画のメイキングを見ていると、そんなふうに現場で撮影が行われていたりする。たいていコメディアンの俳優が多いんだけど、たとえばあるボケ一つに対していろんなバージョンのツッコミの芝居を重ねていたりして、単純にそれは楽しそうだなと。それに、どれがいいだろうって頭を悩ましてる暇があるなら、全部やりゃいいんじゃないかと思ってました。それは俳優にとっては本当に大変なことだったかもしれないけど、信頼関係があれば、彼らも面白いと思ってくれれば、一緒にやっていいことだと思って。とにかく体を動かしてから考える、っていう感じ。
――柄本さん、染谷さん、石橋さんの3人との関係性があるからできたんですね。
三宅 そうですね。そのためにその関係性を維持していこうとも思っていました。『やくたたず』のときじゃないけど、時間とお金がなければ頭を使えばいいんですよ。でも体を使ったほうが楽しいじゃんという気持ちで今回は望みました。
――現場でNGだと思っていたのに、編集で気に入ったシーンを具体的に教えて頂くことはできますか。
三宅 けっこう行ったり来たりで忘れてますが……初めて「佐知子」が「僕」の肘をとんって叩いた後に、戻ってきて「心が通じたね」と言い、そこからやりとりするあのシーン。「僕」向けのカットはいろんな芝居を試しました。
あと渡辺真起子さんが出演しているシーンも全テイク、全然ちがったな。一つのセリフでも言い方が毎回違う。相手の「静雄」のリアクションとか流れに合わせて、全部違う声が出てくる。そんなふうにしていろんな雰囲気を作れたのは本当に幸せというか、延々と撮影したかったんですね。OKを出したら終わっちゃうから、出したくなかった。
――お話を伺っていると、転機となった『THE COCKPIT』自体がそういう映像でもありますよね。OMSBがビートをつくっていくときに、いろんな可能性を試していく様子が映っています。
三宅 『THE COCKPIT』の撮影現場で、手を動かさないとモノは生まれないんだということを強く思ったし、トライ&エラーを繰り返す必要があるんだなと。誰かの前で失敗するってごく恥ずかしいことだから、ついつい成功することだけを考えて、失敗を避けるように動きたくなることってありますよね。でもそれだと、面白いことにはあまりならない。
『THE COCKPIT』でも2、3回、作っているトラックが丸ごと変わりました。ほとんど出来上がっていたモノを全部捨てたりとか、そういうことを許しあえる関係を見て、彼らに憧れましたね。これはできます、できませんってことではなくて、ある種の賭けですけど、試しながら進んでいく。『THE COCKPIT』を作って、彼らから受けた影響は本当に大きいです。
(次ページに続く)