『きみの鳥はうたえる』と同日(2018年9月1日)に公開された日本映画『寝ても覚めても』の監督である濱口竜介は、自身が特集された『ユリイカ 』2018年9月号において、「同日公開記念」という建前のもと『きみの鳥はうたえる』の監督である三宅唱に対して「10の公開質問」と題した質問状を記している。質問という体裁を取りながらも細部に至る真摯な観察に裏打ちされた鋭い洞察を含む豊かな文章の中で、濱口が何よりもまず着目したのが、『きみの鳥はうたえる』の開巻から10分ほど続く夜のシーンであり、その中で試みられたかに思われるデジタル・シネマにおけるフィルム体験の「闇」を取り戻そうとする実践についてであった。濱口はニコラス・レイの処女作『夜の人々』—原題は”They Live by Night”、直訳すると「彼らは夜に生きる」である—のタイトルを引きながら「やはり今回「夜の人々」を撮るという気概があったのだろうか」と三宅へ質問するのである。1
少なくとも濱口にとって、夜に生きる人々を撮るということは単に暗闇と人間を同時に画面の中に収めることに留まるものではなく、ある種の「気概」を必要とするものであることに疑いの余地はない。濱口の映画ではイメージとしての夜のみならず、観念としての夜もまた、そこで生きる人間に対して極めて重要な変化を与え、映画のナラティブにさえ支配的な力を発揮する。そこでは、昼間は影のように息づく人間の繊細な感情が、闇に飲まれて肥大化し、溢れた情動は理性の制御という殻を破って暴走する。それは時に大胆な行動・行為となってイメージの中にも顕現し、人間同士の関係性を破壊してストーリーや構造および映画そのものを突き動かす。
濱口の実質的なデビュー作『PASSION』においては、30歳を目前にした複数人の男女が形成する一定の秩序を保った交友関係が、そうした夜を経由することで決定的な変化に直面する様が見事に捉えられていたし、最新作『寝ても覚めても』では、唐田えりか演じる主人公朝子が、とあるひとつの夜に、まるで魔に囁かれたかのように、これまで培ってきた生活の全てを捨て去るというおよそ取り返しのつかない決定的な選択をしてしまう様子が大胆に描かれる。
だからこそ、濱口にあっては夜が次第に白み、薄明を迎える瞬間こそが重要となる。暴走し、破壊され、混迷を極めた映画が、それでもなお汚れなきイメージとともに物語の新たな秩序を再構築し、映画としての体裁を保つ奇跡的な和解のとき。そのように機能するのが濱口における夜明けである。『親密さ』(2012)前半部のラストシーンのように、時に長回しで捉えられる夜明けの瞬間が濱口の映画を見るものを惹きつけてやまない豊潤な美しさを湛えているのは、まさしくそうした理由による。
しかしながら、三宅の映画の夜は、説話上において決定的な機能を有する神秘的な時空間からはかけ離れたものである。なるほど確かに『きみの鳥はうたえる』は濃藍色の空の下で煌々と光る函館の夜景を捉えたファーストショットから始まり、閉店後の書店を見回る店長のシルエットを捉えた横移動のショットや、窓から侵入する微かな月明かりの中、冷蔵庫から漏れる光によって家主の表情が瞬間的に映し出されるショット、雨上がりの水たまりに日没後の街の灯りが幻想的に反射するロングショットなど、夜の相貌を様々に掬い取った数えきれないほどの優れたショットを有している。それらは光源の配置と照明の効果の巧みさに支えられ、デジタル・シネマとしては驚くほど繊細な黒のニュアンスをスクリーンへ定着させることに成功している。にもかかわらず、それらは確かに現前すると思われる函館の夜の一風景を超越した特権性を保持することなく、究極的な変化を人間にもたらしたり、ましてや映画自体の構造に対して深刻な打撃を加えたりすることもない。
だが、その夜は、不思議な魅力を纏って見るものを限りない羨望の感情へと包み込む。それは、その夜を生きる人間が、自分自身の人生と自らを取り巻く大切な人間に対して、あまりにも愚直な誠実さを貫いているように見えるからだ。彼らは、二度とは訪れることのない夏の夜の一瞬一瞬を無二のものとして過ごし、興奮とまどろみと疲労の混じり合った時間は、彼らの多彩な表情の輪郭を煌めかせる。キャメラは、そんな彼らの美しい表情に、まるであたたかい夜風のようにやさしく寄り添い続ける。あとほんの少ししたらひんやりとした空気が秋の訪れを告げることを分かっているかのように。そうした瞬間がスクリーンに映し出されているからこそ、見るものは羨ましさを抑えることができず、濱口でなくとも「夜の人々」について質問せずにはいられないのだ。一体全体、本作におけるそのあまりにも美しい人々の秘密は何なのだろうか。
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『きみの鳥はうたえる』の原作は1981年に発表された佐藤泰志による同名の短編小説であり、とある重大な一点を除けば、基本的にはストーリーは原作に即した形で進行する。
主人公の〈僕〉(柄本佑)は、書店でアルバイトをしている20代の青年で、静雄(染谷将太)という無職の友人と一緒にアパートで生活している。ある日の夜、無断でバイトをサボった〈僕〉は職場の同僚・佐知子(石橋静河)と街で偶然出会い、言葉を交わす。その翌日、二人は〈僕〉の暮らすアパートで最初のセックスをし、帰ってきた静雄を加えて三人で酒を飲む。それ以降、三人は夜の街へ遊びに出かけるようになる――。
放蕩的に暮らしながらも、将来に対する過度に楽観的な気構えや悲観的な態度からは適切な距離を置く彼らは、それゆえややこしい社会的な人間関係や血縁関係のしがらみとも繋がった生活を送っている。〈僕〉は職場の同僚・山中(足立智充)や店長(萩原聖人)との軋轢に悩まされているし、静雄は離れて暮らす病気の母親(渡辺真起子)からのしつこい連絡にうんざりしている。佐知子は書店の店長と不倫しており、その関係を精算するために神経をすり減らしている2。こうした複雑な関係性の輪は、三人を中心として同心円状に拡散/収縮し、次第に彼ら同士のコミュニケーションへも影響を及ぼしていく。
原作小説では後半部分で静雄が母親を殺害して逃亡するのだが、映画化された作品ではあくまでも前半部分に相当する三人の生活に力点が置かれており、殺しの場面は存在しない。監督自身の言葉を借りるならば、「彼らの生きる時間の豊かさ」3こそが、本作の中心点となる。
既に多くのインタビューによって明らかとなっているように、そうした三人の関係性を捉えるための手段として、いわば〈暮らしながら撮る〉4というドキュメンタリーのメソッドが採用された。約3週間の函館ロケの間、出演者と監督は、徹底的に「飲んで、遊んで、会話した」5という。一部の出演者と三宅の間には古くからプライベートな友好関係が存在していたとも聞く6。主演俳優として〈僕〉を演じた柄本佑は以下のように語っている。
初めてこの作品のオファーをいただいた3年前から、「僕」探しの旅が続いていた気がします。そこから三宅さんと遊んだり、飲みに行ったり、濃密な時間を過ごしたことが「僕」の役作りに作用しているはずなんです。だから「僕」は、一緒に過ごした時間によって形作られている、と言えますよね。7
そうしたキャメラを挟んで相対する人間同士の意思疎通の時間の蓄積は、深い信頼関係となって演技を撮影するという相互的なプロセスを下支えし、俳優の”表情の輝き”を捉えた画面として映画へも確実に結実している。特にその信頼関係の存在を感じさせるのは、脚本上には存在しないセリフが非常に生々しい形で演者から発話される、三人の「遊び」の場面であろう。夜のコンビニやクラブで彼らが楽しそうに会話し、体を動かす一連のシークエンスは、動線や動き出しのタイミングは決められていたものの、あとはテイクを重ねながらその場で作り上げられていったという8。三宅自体が「4人目の友達の距離感」と表現するそうした即興的な演出プロセスにおける監督の立ち位置は、彼らの生きる時間を生々しくリアルなものとして見るものに納得させる素晴らしい戦略と言えるだろう。
しかしながら、そうした戦略ゆえに時に「演出を一切感じさせない9」とまで評される本作は、実のところ極めて緻密な俳優の身体的な挙動および画面設計・編集の技術によって卓越した情緒と余韻を生み出していることもまた事実である。奇跡的な「夜の人々」を映し出した『きみの鳥はうたえる』の達成は、少なくとも「深い信頼関係」に裏打ちされた「即興的な演出プロセス」のみに還元されるものではない。
(次ページへ続く)
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