『きみの鳥はうたえる』の脚本のラストシーンには、通常の劇映画の原則に照らすと異様とも言えるほどの長大なト書きの文章が書き連ねられており、その中で〈僕〉と佐知子の繊細な心理の揺れ動きが数十行に渡って記述されている。もちろん現実の世界と同様に映画のスクリーンには人間の心理など一切映ることは無いのだから、その場面は演じる俳優のクロースアップという形式であっけなく差し出されるしかない。その表情に何が込められているかは見るものには全くわからないがゆえに、見せかけの媒体としての表情はすべての意味を反射しながらただスクリーンに輝き続ける。ただその顔が光を反射し続けるからこそ、我々は深く感動するのである。
二人の男と一人の女が、毎晩函館の街へ遊びに繰り出しては自分たちにとって大切な時間を過ごす、という本作は、古典的ハリウッド映画のように物語世界内の単一の主人公が観客の同一化を促す重大な目的や動機を保持するという構造を持たない。そのため、説話上の緊張感を維持するためのフックとして、一人の女を巡る二人の男の心理的な闘争という形式が採用されている。だが、凡百の恋愛映画に存在するような、恋愛の主体が自らの感情を声高に叫ぶ醜悪な場面などは当然のことながら固く禁じられているため、心理は俳優たちの微細な行為として画面と音声の間に中に立ち現れてくることになるだろう。
映画冒頭、レイトショーの映画館から出てきた〈僕〉は、外で待っていた静雄に「飯どうする?」と問いかける。胸ポケットから取り出したタバコを咥え、ライターを手探りで探しながら「あっちのあの新しいラーメン屋どうなんだろうと思って」と続ける際、その声は極めてクリアーでハキハキとしており、3連続の母音を用いた頭韻のリズムが耳に心地良い印象を残す。だが、街を徘徊した〈僕〉が偶然佐知子と出会い、再びタバコを咥えながら「火ある?タバコ吸うんだっけ?」と問いかける時、その口に挟まれた棒状の嗜好品は、子音の滑舌を阻害し、言葉の印象を緩やかに飛散させる。一度は吐き出される煙とともに唇から離れたそのタバコは、(「ねえどっか飲みに行かない?」「いつもどこ行くの?」という質問に答えるための)次の発話の際には再び口元へと逆戻りしており、「じゃー杉の子ってわかる?」という発言内の居酒屋を指す固有名詞「すぎのこ」は、もはや「ふぎのこ」にしか聞こえない。翌日の昼、軽食屋で佐知子に再会した〈僕〉は、やはり常にパンの残骸を口に含みながら喋る。それ以降、氷や、トマトや、焼きそばなどが〈僕〉の口を塞ぐことになるだろう。〈僕〉は文字通り、佐知子に対して自分の言葉をはっきりと伝えることが、あらかじめ阻害された人間なのである。
逆に、静雄の口は常に満たされないでいる。彼の喉はいつも渇いており、喋る言葉よりも多くのものを飲み込むことが宿命付けられている。彼が画面に現れると、その右手には大体の場合飲料が握られており、ひとつの会話が終わるやいなや彼はしばしばその液体をグイッと飲み込む。こうして〈僕〉と対比的に印象付けられた彼の口腔的特徴は、病気の母親や〈僕〉と特別な関係を築きつつある佐知子に対して、自身の感情を示さずに飲み込んでしまっていることを直接的に画面へと刻み込むことになる。
では、佐知子はどうか。佐知子は二人とは違って、言葉を紡ぐことに何の障害もない。むしろ、恥ずかしいほどまでに映画的な台詞を臆面もなく発することができるという意味で稀有な存在ですらある。演技経験の浅い石橋静河という役者によって発される脚本と寸分違わぬ佐知子の台詞は、「演出を一切感じさせない」場面の多い本作にあっては、言葉それ自体のゴツゴツとした感触を残したまま我々の耳へと衝突するという意味で相対的に強調されているといってもいい。彼女の最初の台詞が「よかった。心が通じたね。」というあまりにも芝居臭いものである(だが、それゆえにため息が出るほど素晴らしい)のは、その証左であろう。
だから、とある場面において、こうした彼らの宿命とも言える枷から演技それ自体が例外的に解き放たれた時、見るものはその瞬間の美しさを深い感動とともに記憶することになる。
店長と別れ話をした翌日、バイトを休んだ佐知子はメールで静雄を呼び出し、二人はカラオケボックスへと向かう。〈僕〉は、その時間は職場で同僚の森口とうんざりするようなやり取りを行っている。静雄が着てきたTシャツは、初めて佐知子が〈僕〉のアパートへとやってきた際の帰りに借りたものであり、静雄の身体に佐知子の記号が触れていることが画面上で密かに示されている。静雄は二人分のドリンクをカラオケルームへと運び、いつものように少し口をつけるが、その後、彼の右手がドリンクを掴むことはない。
佐知子が入れた曲は、ハナレグミによってカバーされた「オリビアを聴きながら」であり、尾崎亜美の原曲が持つしっとりとしたバラードの雰囲気を陽気で軽快なブギのリズムがひた隠しにする感じが、若干無理をしているようにも聞こえて非常に切ない印象を与える曲だ。その明るいイントロが流れる中、いつもは言葉を”飲み込んでいた”静雄が、「ねえ佐知子。おれ、二人の邪魔してないかな」と尋ねるのである。
「なんでそんなつまんないこと言うの」と笑って受け流した佐知子が歌い始め、その会話は答えを失ったまま宙吊りとなるが、しかしドリンクを”飲まない”静雄は静かにカラオケの画面の方向を見つめ続け、人工的な光が彼の横顔を照らす10。その口元が「出会った頃はこんな日が来るとは思わずにいた」という歌詞でゆっくりと動き出し、「making good thing better」に合わせて歌声として重なった時、見るものはそれまで”飲み込まれていた”言葉が、佐知子の歌と重なるように引き出された奇跡的な瞬間をまさしく目撃することになるのである11。
戦略的に課せられた枷から解き放たれた演技が、最大の効果を発揮するのは、本章冒頭で触れた「心理的」なラストシーンであろう。
ラスト直前のシークエンス。〈僕〉は佐知子からとある事実を告白され、それを静かに受け入れる。独白という形式で述べられる〈僕〉の気持ちは、まるで夜明けのように澄み切っていてよどみない。その〈僕〉が、別れ際の些細な身体的接触をきっかけとして、突如メロドラマのように間に合わなかったことに気づき、走り出す時、もはや彼の口を“塞ぐ”ものは何も無いのだから、彼の言葉ははっきりとそして極めて明確に佐知子へと向かって発されることとなるだろう。それまで「映画的」な台詞を発していた佐知子が、もはや言葉を失うしかなく、彼女の表情それだけが映される時、そのあまりにも美しい瞬間を我々がただ見つめることしかできないのは、既に述べた通りである。
***
原作である佐藤泰志の小説からそのまま受け継がれた本作のタイトル『きみの鳥はうたえる』は、ビートルズの曲名”And your bird can sing”を明確に参照している。この曲のもっとも有名なバージョンは、7枚目のアルバム『リボルバー』9曲目に収められた第6テイクと第10テイクがミックスされたバージョンであるが、実のところ『The Beatles Anthology 2』にはそれより前に録音されたテイク2のバージョンが密かに収められている。このバージョンは、ジョンとポールが曲を歌い出すとともに、おかしさをこらえきれず笑い転げてしまい、冒頭部のメロディーや歌詞内容が何かなどは判然としない。だが、不思議な魅力に包まれていて、何度も繰り返し聴きたくなる楽しさに溢れている。この曲を聴くと、きっと、本作の三人の美しく豊かな表情が、まるで懐かしい記憶のように思い出されることだろう。そして窓を開けると、冷たい夜風は秋の訪れを告げている。
(了)
【註】
1 三宅唱が処女作『やくたたず』を白黒の映画作品として監督したこと、同じくモノクロの監督作『Playback』においてデジタル撮影を行いながらも35mmフィルムへのブローアップを経てフィルムでも上映を行ったこと、以上の2つの事実が、濱口の質問の背景となっていることは間違いない。特にフィルム上映の秒速24コマに潜むフリッカーの「闇」が、デジタルにおいては「黒」の色彩によって取り戻されるのではないか、という発想は、三宅のこれまでの取り組みを含む実践の中に見出されたものであろう。
それは、単にフィルムは粒状構造により黒の色彩に関して独特のファジー感とニュアンスを生み出すが、CCDチップの発展によりデジタル撮影においても同様の黒が撮れるようになりつつある、というような科学的・技術的な話を越え、映画を見るという体験の心理的作用をも包括する壮大な射程を備えている。だが、本稿ではそれについて記述する余裕はないのでここではあえて質問された「「夜の人々」を撮る」ということ、それのみに着目することとする。
2 後に店長は2年前に婚姻関係を解消していたことが明らかとなるが、それまでは二人が不倫関係にあるように見るものは誤解することとなる。
3「素晴らしい小説の全てを映画にできるわけでは決してないので、何を撮らないでおいて、何に集中するかってことが重要でした。それも、ある一点に賭けることが、バランス感覚よりも重要だろうなと思っていて。彼らが生きる時間の豊かさこそが、その一点です。」
三宅唱インタビュー:連載「新時代の映像作家たち」
http://ecrito.fever.jp/20180905221421/2
4 映画監督・佐藤真はかつて「スタッフとともに暮らしながら映画を撮る」ことで築かれた「濃厚な関係から生み出される映画の映像そのもののもつ、魔力としか呼びようのない力」を「ドキュメンタリーの原点」と述べた。以下に引用する「キャメラを中心にとりまく濃厚な関係が映画そのものの力に転化する」プロセスの記述は、ドキュメンタリー映画の話ではあるものの、職業俳優を起用して撮影された劇映画『きみの鳥はうたえる』の制作プロセスを包括する射程を確かに備えている。
「人は誰でも、映画に撮られることを引き受けた瞬間に、パッと輝く時がある。映画に映る人の美しさとはその輝きのことである。撮られる人と撮るスタッフとの深い信頼関係ぬきには、映画の中で人の表情が美しく輝き出すことはない。(中略)そうしたダイナミックな人間関係が、〈暮らしながら撮る〉ことによって生まれる。このキャメラと被写体との関係の深まり様が、表情の輝きを映画にとり込む力にも、作品としての柱=ドラマツルギーともなる。」
佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平(上) 世界を批判的に受けとめるために』、凱風社、2001年、45−46頁。
5 日本経済新聞2018年8月21日夕刊 三宅唱さん「きみの鳥はうたえる」監督 4人目の友達の距離感
6 例えば、三宅唱と染谷将太は2013年の6月に吉祥寺のバウスシアターで行われた爆音映画祭に『ナチュラル・ボーン・キラーズ』と『スプリング・ブレイカーズ』を見に行き、その場に偶然居合わせた柄本佑と挨拶したという。『POPEYE 』2018年8月号、マガジンハウス、88頁。
7 柄本佑「きみの鳥はうたえる 人を見るときはまっすぐ見る。立っているときもどちらかの脚に重心を乗せない 絶対にまっすぐ踵で立つ」『映画芸術』2018年夏号、43頁。
8 三宅唱インタビュー:連載「新時代の映像作家たち」http://ecrito.fever.jp/20180905221421
9 北川れい子「日本映画 きみの鳥はうたえるREVIEW」『キネマ旬報』2018年9月下旬号、キネマ旬報社、78頁。
「3人が共有する遊びの時間の丁寧な描写が危なっかしいほど屈託がなく、演出を一切感じさせない動きや台詞も素晴らしい。」
10 重要な会話が途中で中断されることによるサスペンスの効果は、映画終盤にジャンプカットの手法と組み合わされることで非常な威力を発揮する。母親が発作を起こしたという連絡を受けた静雄が、〈僕〉と佐知子とともに最後の夜を過ごす場面。苛つきを隠せない静雄は佐知子と「遊んだり飲んだり」することを巡って険悪な会話を行う。だが、次の瞬間カットはダーツを投げる〈僕〉の大写しとともに三人が楽しげにじゃれ合う時間軸へとジャンプする。奇妙な焦燥感のみがサスペンドされたまま三人の楽しげな表情が映し出されると、見るものはこの夜が持つどうしようもなく刹那的で切実な重要性を痛いほど感じずにはいられない。
11 ここで「making good thing better」という言葉が紡がれた瞬間、クラブの場面でOMSBが繰り返し叫んでいた「Think good」(彼の2ndソロアルバムのタイトルでもある)というライン、さらには三宅自身の処女作『やくたたず』の英題『Good For Nothing』が重層的に流れ込んでくる、と言ったら言い過ぎであろうか。
■三宅唱インタビュー:連載【新時代の映像作家たち】
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