デジタル画像を通過した「絵画」
――橋本さんはデジタルカメラで撮った写真を基に制作を行っています。デジタル画像の特徴は何であり、またどんなところに価値を見出しているんでしょうか。
橋本 デジタル画像は光の強弱を記録したデータに過ぎないわけですよね。RAWとか。それを可視化したものがデジタル画像のイメージなわけです。
僕が最近考えているのはアナログ写真よりも、デジタル写真の方が人間の知覚の構造に近づいているんじゃないか? ということです。人間の視覚って、例えばフィルムのように光をそのまま定着させているわけではないですよね。網膜に届いた光を「変換」して、見えるようになる。データにして記録にするという「変容」というプロセスを外部化したのが、デジタル画像ではないかと思うんです。つまり、カメラが目指したような「見る」というプロセスの外部化ではなくて、見て「変容」させるという過程までが外部化された。
だからデジタル画像の操作可能性は、人間の記憶に近いものなんじゃないかと思うんです。直接、網膜なりフィルムに焼き付けられたというインデックス性はなくなっても、デジタル画像にはモノとしての「遠さ」よりも、人間の知覚への「近しさ」を感じますね。
――アナログ写真とデジタル写真だと、イメージそれ自体にも違いがあるように思います。その点についてはどう考えていますか?
橋本 アナログには勿論アナログ特有のよさもあります。僕がデジタル写真を使っている理由は、その操作性ですね。僕はよく画像をピンチ・アウトしながら、絵を描いているんです。こんなに簡単にイメージのサイズを変えることは、アナログ写真だと難しいですよね。気に入らなければ、すぐに別の写真を表示させることもできますし。あまりディスプレイのサイズが大きくないので、画像を思うように拡大できるのは重要なんです。
――おもしろいですね。じゃあ写真をフル表示の状態で描いていくはあまりないんですか?
橋本 そうですね。基本的にピンチ・アウトして拡大した「部分」が集合されて一枚の絵になっていく。拡大した部分を見ているときは、ほとんどそれを何か個別具体的なモノを見ているというより、イメージの「中」を見ているような気がします。
だからキャンバスという一つのフレームのなかに、描いてくなかで切り取ったフレームがいくつもあって、それが集合されて一枚の絵になっているんです。
――まさにデジタル画像の仕組と同じですね。
橋本 アナログとデジタルの大きな違いでいうと、アナログ写真は「稠密」なんです。連結していて切り離せないもので、これは絵画も同じなんですが。一方でデジタル写真は離散的で、分節されているデータですよね。この点でデジタル写真は言語的なものにいっそう近づいたということができるかもしれません。
しかし、写真に何かを見出すという作用や行為自体はイコノロジー的なものだけでは成り立っているかどうかは難しい問題です。写真を見たことが無い人に写真を見せた時にそこに空間を見出せなかったという実験もありますが、ごく自然に現在はそこに空間も見出すことができる。これはアナログだろうとデジタルだろうと同じことができますよね。写真を自然な仕方で扱っている場合、アナログとデジタルにさして違いはないでしょう。それよりも、デジタルによってなされた写真を取り巻く環境の変化のほうが問題となっているのだと思います。
――RAWやJPEGなどデジタル画像にも様々な形式があると思います。橋本さんはデータ形式にこだわりはありますか。
橋本 あまりないですね。ただ僕は形をしっかり描きたいので、強いて言えばパン・フォーカスの写真を撮るようにしています。(ゲルハルト・)リヒターとかは写真のボケなどをテーマにしていますが、僕はすべてがはっきりと映っているものがいいです。
パン・フォーカスにこだわっているのは、そのイメージが写真の瞬間性とは相反するのですが、空間的・触覚的なイメージだと思うからなんです。写真を構成する光は、本来的に「瞬間」のものなんですけど、その瞬間のイメージを使いながら空間であったり、永遠のように思えるイメージを描くというのが僕の試みていることだと思います。
ラファエロの《アテナイの学堂》ってあるじゃないですか。あの絵はすべてに焦点があっているパン・フォーカスですごく永遠感がある。彫刻的とも言っていいですが、すべての形を捉えているし、まさに空間を描いていると思います。それで対比して考えると、レンブラントの《夜警》はまさに瞬間的な光を感じさせる作品ですよね。
橋本 《アテナイの学堂》と《夜警》の対比は、空間的なものと瞬間的なものの二項対立だと思うんです。これは古典絵画とバロックの違いというコンセプトでもあります。この対立構造は触覚的―視覚的なものの対立として美術史の分野で用いられる対概念とも対応しているでしょう。ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で依拠していたアロイス・リーグルの触覚的―視覚的の対概念がそれにあたります。この考え方は芸術を考える場合に示唆的なものであるのか、実際に制作をする中でもこのような区別に度々出くわすことが多いものです。
ドゥルーズもまた『感覚の論理学』においてこの対概念でベーコンを論じていますね。それで、写真は一瞬を切り取るまさに視覚的なものなんですが、弁証法ではないですが僕はそれを題材にしながら触覚的というか、空間を描こうとしている。光と空間のハイブリッドというか、その界面を主題にしたいんです。というよりも、仮に写真を見ながら描いてもそうした諸要素は勝手に混淆してしまうので、そのありさま自体を提示しようとしているというほうが正確かもしれません。