絵画というハイブリッド――梅沢和木について


メメントからモメントへ:写真的なものをめぐる条件

 メディア理論家のホセ・ファン・ダイクは、『デジタル時代における媒介された記憶』において、写真に求められる性質の変化を、メメントからモメントへの変化であると指摘する23

現在の使用者の世代に目を向けると、研究者たちは、アナログカメラをデジタルカメラへと買い替えている大多数である大人の使用者とたくさんの多機能通信メディア機器とともに成長している10代や若い世代との間に分岐点を観測している。(中略)カメラ付き携帯電話で配信された画像は、手短なメッセージを伝えるため、または単に感情を伝えるために使用される。現実を写し取り記憶を保存するのではなく、繋がりあって連絡を取り合うことが、この種の写真にもたらされた社会的な意味なのだ。両親やその子供たちが一緒にソファに座ってフォトアルバムをめくっていたのに対し、こんにち、ほとんどの10代の若者は、写真を恒久的な記念品ではなく一時的なリマインダとみなしている。(中略)画像は、写真が社会的相互作用のための新しい通貨〔currency〕へと変化したように、話し言葉へと近接する。ピクセル化された〔=デジタルな〕イメージは、話し言葉のように、個人やグループのあいだを循環し、彼らの結びつきを確立したり再確認したりしている。(中略)写真の撮影、送信、受信はリアルタイムの体験であり、話し言葉のように、画像の交換は記録保管されることを意図していない。それゆえ、こうした写真は、記念品=メメントとしての価値を失う一方で、「瞬間的なもの=モメント」としての価値を獲得しているのである。24

ファン・ダイクによれば、現在、写真は「かつてあった」ことを示す形見〔memento〕としての性質ではなく、単に「これを見て!」というような瞬間を指し示す記号としての側面を肥大化させている。こうした変化は、デジタルカメラによって写真一枚あたりにかかるコストが急激に小さくなったことを契機とし、カメラ付き携帯電話やスマートフォンの普及によって決定的となった。いまや写真に与えられた主要な役割は、ある状況を隈なく記録することではなく、瞬間的に状況を共有することになっているのである。さらにいえば、このような変化は、私たちをとりまく文化的なレベルだけではなく、それを契機としたカメラアプリケーションの開発によって、デジタル写真自体の性質へと逆照射されている。現在、多くのカメラアプリケーションは、自動的に被写体を認識し、それ以外の要素をぼかしたり、切り抜いたりすることによって、コミュニケーションに必要な記号だけをとりだし、それ以外の細部を埋却する機能をもっている。かつて写真機の自動性によって否応がなく定着してしまう細部は、カメラアプリケーションに実装された新しい自動性によって馴化されているのである。

 ラウシェンバーグと梅沢における要素の自律性の違いは、写真に与えられた役割の変化——メメントからモメントへの変化としてみることができるだろう。すなわち、ラウシェンバーグにおいては、個々の要素が画面から自律するうえで、それらが作家の手から不可侵な自然の自動的な記録であることが重要だったのに対して、梅沢においては、その要素の自律性は、むしろコミュニケーションに用いられるときのような記号化のプロセス——細部を埋却し、喚起力の強い部分のみを抽出すること——によって担保されている。そして、こうした画面を基礎づける条件の違いは、画面の構成原理にも当然折り返されている。写真的な自動性をその条件とするラウシェンバーグの絵画は、転写元の印刷物やシルクスクリーンの版のために、矩形をその基礎的な単位とする。これらの矩形は、画像の撮影者が意図した対象の境界とは全く異なる論理によって画面を間隔化するため、そこには手に負えない細部が入り込む。こうした画像が細部を他者性として懐胎しつつ配置されることによって、ラウシェンバーグの画面は統辞的な関係を取り結ぶ。ラウシェンバーグの作品において、こうした作品における言語的な特徴——統辞的な関係と無意識の混入——が支配的な構造となっているのである。一方で梅沢の画面は、前言したように、作者の恣意的な切り抜きやトリミング、場合によっては色域選択ツールなどの画像抽出のアルゴリズムによって、特定のキャラクターを指示するような「喚起力の強い」画像が選択的に画面へ組み入れられている。そして、こうした画像は、多くの場合輪郭線などによって切り抜かれており、ラウシェンバーグが用いる要素とは異なり、その画像の境界を規定するような外的なメカニズムを欠いている。

 こうした写真的な、ないしは印刷物的な論理の脱落は、梅沢のコラージュにおいて、ラウシェンバーグに特徴的なグリッド的配置が採用されない理由として適当であろう。ラウシェンバーグにおいては、要素は画面の辺と合わせるようにして——なかばリストにデータを記入するかのように——隅から画像が配置されているが、梅沢においてはそうした関係は構築されづらい。印刷物の縁と画面の縁をあわせるという単純かつ明確な配置の論理が失われているからだ。そのため、梅沢の画面において、各々の図像は、ラウシェンバーグのようにブロックを組み合わせるように配置されるのではなく、ときに隣接し、ときに重ね合わせるようにして、星雲状の塊を作り出す。こうした星雲状の塊は、例えば《東方新超死》(2010)や《グラシャラヴォス》(2010)において、単一の塊として見ることができる。そして、《Untitled》(2009)や《滝 PixiBurst》(2010)では平面的に、《とある現実の超風景》(2011)や《彼方クロニクル此方》(2015)では奥行きを伴って、こうした塊が画面上を浮遊するように複数配置されている。これらに共通して重要なのは、こうした星雲状の塊は、その境界を周囲の他の塊と共有し、その輪郭を相互に溶融させており、ほとんどの要素が画面の印象を決定づけるような支配的なゲシュタルトを提供していないということだ。この点において、梅沢の画面はラウシェンバーグの画面と決定的に異なる。確かにラウシェンバーグにおいても梅沢においても、そのコラージュの要素は画面全体の論理に対して従属せず、それぞれ自律的にふるまっている。しかし、ラウシェンバーグの画面が、それらが統合される統辞的関係を生起させるのに対して、梅沢の画面において個々の要素は、そうした相互的な関係を欠いているのである。

梅沢和木《とある現実の超風景》2011年 協力 : 新津保建秀

 こうした特徴は、ラウシェンバーグの作品と比較したときの、梅沢の作品におけるコラージュ要素の相対的小ささからも説明できるだろう。繰り返しになるが、ラウシェンバーグにおいて個々の図像が自動的に生成された細部を含むものであるということは基底的条件であり、そうした要素は統辞的関係という全体的な論理で位置づけられるものであった。それゆえ、個々の画像は、画面全体を視野に入れたときにその画像の境界が識別可能で、その細部が視認できる必要がある。つまり、ラウシェンバーグの作品において、コラージュの要素は一定サイズよりも小さくすることが——もしくは逆に言えば、コラージュの要素数は一定数より多くすることが——できない。それに対して梅沢は、一目見ればわかるように、コラージュ要素のサイズが画面に対して非常に小さい。それは前言したように、梅沢の画面において、個々の要素は、全体的な構図と、少なくともその構成論理においては、完全に切り離されているからである。

 

いったんの結論:梅沢の作品における身体的モジュレーション

 結論を求めるまえにひとまず議論を整理したい。ここまでラウシェンバーグと梅沢を、主に自然=自動性/文化=人為性という二項対立を道具立てとして比較してきた。スタインバーグによれば、ラウシェンバーグの作品は、自然から文化へという美術における主題の変化を標しづけるものであり、その画面は人為的な操作に相同するものであった。またクラウスによれば、そうした人為性、すなわち複数の画面を配置するという行為は、画像による統辞的関係を生み出している。そして、こうした画面を条件づけているのは、写真的な自動性、すなわち個々の画面の自動的なプロセスによる生成であった。なぜなら、こうした人為的な統辞的関係を成立させるためには、それを可能にする外部として間隔化が要求されるからである。写真の自然な自動性は、あらゆる対象を矩形に切り取り、画面の中に各々の分離を明確に保ったまま配置する。そしてこうした矩形の要素は、それ自体は画面に埋没しないまでも、しかし画面全体において他の要素と相互的な関係が要求される。そのため、個々の画像は画面に対してある程度のサイズを保つ必要があり、その数もまた鑑賞者が把握可能な程度の少なさに限定される。以上のことから、ラウシェンバーグの作品において基底的な特徴を以下のようにまとめることができる——写真的自動性に基づく矩形、間隔化、グリッド的配置、いくつか性。

 一方で、梅沢の画面おいては、自然な視覚的印象の再現であることと、それが人為的な操作に相同するものであることが同時に成立している。それは、画像から細部を取り除き「喚起力の強い」部分のみを抽出すること——手に負えない細部の埋却と、主題の強調——によって実現しており、こうした写真における細部の埋却は、写真をめぐる文化のなかに見出せると同時に、写真機の処理として内部化され、写真の性質=自然〔nature〕へと折り返されている。そして、それらのアルゴリズムは、梅沢の画面において、「自動選択ツール」に起因するジャギーのように、しばしば制御の聞かない細部を画面へと招き入れる。gnckは、こうした細部について「人間の直感とは異なる、〔デジタル〕画像の原理のあらわれだ」と述べているが25、梅沢の画面においてジャギーは、人為とも自然ともつかない、その混成物として画面に定着しているのだ。すなわち、梅沢の作品では、その画面の水準でも、画面を条件付ける画像の性質の水準でも、自然/文化という二項対立は、明確に分離されることなく相互に入り混じっているのである。こうした併存は、その画面を構成する要素においても発生している。梅沢の画面において、その要素はその配置を規定する外的な論理をもたず、互いに混じり合いながらいくつかの塊を生成する。そしてそれらの塊は、全体を統御する論理とは切り離されたまま画面へと配置されるのである。以上から、梅沢の作品において基底的な特徴は以下のようにまとめられるだろう——細部の埋却によって抽出される輪郭、要素間の溶融、星雲状の塊、膨大性。

 このような両者の違いは、作品の鑑賞にも変化をもたらす。梅沢の作品を鑑賞するものは、壁面から距離をとって画面全体を視野に入れようとする模範的なモダニズム絵画の鑑賞者とは異なり、画面にへばりついて、画面上を舐めるように蟹歩きしながらその細部をクローリングする。鑑賞者は部分——個々の塊ないしは切り出された「画素」に集中し、そうした部分を次から次へと走査するように視点を身体とともに移動させるだろう。ラウシェンバーグにおいて、作品における時間的持続は、その画面の統辞的接続ひいてはそれを条件付ける間隔化によるものであった。しかし、梅沢において、持続は、身体の空間的な推移として実装されているのである。そしてこのとき、絵画の最も基本的な条件、すなわち画面の終わりを規定する境界はしばしば忘れ去られている26。作品の経験が、絵画空間上の要素の関わり合いではなく、塊の連なりによってもたらされているからである。梅沢は、『越えていく風景』展を含め、様々な場面で自らの作品を壁紙を用いて展示しているが、こうした壁紙によるインスタレーションと絵画作品の併置は、絵画作品においてその境界が支配的な条件となっていないことによって達成されているといえるだろう。もちろん壁紙と平面作品を併置するという展示方法はアンディ・ウォーホルをはじめとして、ポップアートにおいて頻繁に用いられた手法だ。しかしポップアートにおける壁紙と平面作品が、その境界が明示され、それらの対比的な関係によって構成されていたのにたいして、梅沢においてその境界は相互に侵犯されているのである。すなわち、梅沢の作品においては、そのコラージュを基礎づける写真的条件によって、部分と細部と紐帯が大きく損なわれており、それによって、作品を構築する細部は絵画的な統合を必要としなくなる。その結果として、作品を構成する論理は近代的絵画の論理から離れ、いわゆるインスタレーションとよばれる形式、すなわち身体的な移動によって鑑賞対象を移っていくような形式へと漸近しているのだ。本稿の最初の問い、「梅沢の画面が絵画的な理屈で作られていないとしたら、どのような力学によってつくられているのか」については、ひとまずそのように答えることができるだろう。

(次ページへ続く)