絵画というハイブリッド――梅沢和木について


はじめに:「絵として見ると下手」な梅沢の絵画

 梅沢和木の絵は下手だ。これは、小畑多丘と梅沢和木の二人展『梅沢和木 × TAKU OBATA 超えてゆく風景』展1(以下、『越えていく風景』展)の関連トークイベント「ハイパーランドスケープ論」2において、インディペンデントキュレーターの長谷川新や美術批評家の黒瀬陽平によって行われた指摘である3。もちろん、この指摘は、梅沢の作品自体が稚拙で鑑賞に耐えない、ということではない。長谷川や黒瀬は、梅沢の作品を評価しつつも、しかしそれは絵の巧拙という基準においてではないと述べているのだ。

 長谷川らによるこの指摘は、私たちが梅沢の作品を——優れた実践として、という留保が必要だろうが——鑑賞する際に暗黙のうちに前提している条件を再確認するものであるだろう。その前提とは、梅沢の作品における異種混交性、すなわち梅沢の絵画における「絵画的でない水準」の混在のことだ。梅沢の作品の画面は、キャラクター画像や写真、作品画像、スキャンされた自身の筆跡といった要素がコラージュされ、さらにその画面の上には再度ラメペンやアクリル絵具による加筆が施されており、内部に様々な要素を有している。そしてまた、『越えてゆく風景』展において顕著であるように、しばしば巨大な壁紙とともに展示されることによって、単一の絵画としてではなく、インスタレーションという空間的な水準においても、梅沢の作品は機能している。

『梅沢和木 × TAKU OBATA 超えてゆく風景』展、ワタリウム美術館(2018)

『梅沢和木 × TAKU OBATA 超えてゆく風景』展、ワタリウム美術館(2018)

 とはいえ、こうした異種混交的な特徴は決して梅沢に特有のものというわけではない。そもそも、印刷物への加筆も、絵画の空間的な展開もモダニズム以後の絵画において、もしくはそれ以前の前近代の美術において、珍しいものではないからだ。梅沢と同世代の作家でいえば、たとえばデジタルコラージュとペインティングを組み合わせている今津景や、キャラクター表象の特徴を絵画空間において積極的に利用している藤城嘘など、梅沢と類似のモチーフや手法を用いる作家は少なくないが、彼らの作品の多くは依然として絵画的完成度と分かちがたく結びついている。当然ながら、作品の形態における異種混交性は、絵画という水準において機能しないというわけではない。今津や藤城といった作家は、むしろこうした絵画におけるポストモダニズム的な条件を絵画という形式=形態に再縫合するような実践としてみなすことができるだろう。

 つまり、梅沢の作品に特徴的なのは、単にその作品が様々な物質=素材的、形式=形態的水準を抱えているというだけではなく、作品において絵画的な論理が支配的な位置を占めていないという点にある。要するに、梅沢の作品は「絵として見ると下手」にもかかわらず、作品として高いレベルで成立しており、それは作品における絵画的な論理ではない、別のメカニズムによって構築されているということだ。今津や藤城といった作家が、絵画的でない要素を画面内に招き入れつつも、ひとつの画面における構図や構成、それによる視線運動や空間操作といったものを決して手放さないのに対して、梅沢の作品では、そうした完成度はほとんど放棄されているのだ。

 本稿はまずこの前提、すなわち梅沢の作品が「絵として見ると下手」なのにもかかわらず、作品としては優れているとみなしうるという前提に基づく。そして、この前提において次の問いに答えることを目的とする——梅沢の作品が絵画的な論理を内在していないのだとしたら、それはどのようなメカニズムによって機能しているのか。

 そのために、本稿ではまず、美術史家のレオ・スタインバーグと美術批評家のロザリンド・クラウスがそれぞれ指摘している、モダニズム絵画の終焉を徴付ける絵画史的な転換に注目する。スタインバーグとクラウスの両者は、ロバート・ラウシェンバーグのコラージュの作品をもとにその転換について論じており、本稿は彼らのラウシェンバーグ論をベースに梅沢の作品分析を展開する。ラウシェンバーグを契機とした大衆消費されるイメージの利用やコラージュにおける切り抜きや組み合わせなどの画像操作の少なさは、ポップアートをはじめとする後の美術作品においても共通して見られる特徴を有しており、梅沢の作品もひとまずはこうした系譜の中でみることができるだろう4。そのうえで、ラウシェンバーグと梅沢の両者における、コラージュ要素に施される操作の違いに着目し、その違いを「写真的条件」という観点から分析する。そして最後に、梅沢の作品を成立させている「写真的条件」のもつ政治性について、特に2011年以降の震災にかんする画像を用いた梅沢の作品を中心に検討する。

 それゆえ、本稿は二段階の、しかし連続した議論によって進められる。まず、先の作品の形式=形態〔form〕にかんする問いに答えることを目指し、その結論をもとに作品の社会的・政治的水準について議論をする。しばしば指摘されるように、梅沢の作品は、アニメやゲームといったオタク文化の消費者としての梅沢と切り離すことができない5。後述するように、梅沢の作品を駆動させている力学は、梅沢をとりまく社会的、文化的、技術的装置に基礎づけられている6。そのため、作品の形式=形態にかんする議論と社会的・政治的水準にかんする議論を別々に論じることは、作品に内在する論理と、それが生み出されている社会とを切り離してしまう。本稿では、この両者を別々の位相で論じるのではなく、両者を絵画という同一平面上の問題として論じることを目標とする。

自然と文化

  「絵として見ると下手」というファジーな表現が意味するところを大まかに言えば、(1)絵画を窓として見たとき、そこに描かれている風景の空間的な構成、色彩的な構築、視線誘導といった要素が適切に設計されておらず、(2)絵画をひとつの物理的対象としてみても、ストロークやマチエールを含む平面的構成が成立していない、という二点になるだろう。こうした区別はいささか乱暴ではあるものの、絵画的対象における作品の巧拙を判断する指標であることは事実だろう。優れた絵画は、その抽象度の違いこそあれ「表象=代理〔representation〕」と「物質=素材〔material〕」というふたつの極のあいだで振動する。そして、近代の絵画は、この後者を特に肥大させることによって展開してきたといえよう。

 美術史家のレオ・スタインバーグは、「他の批評基準」7のなかで、このふたつの極を、自然と文化という二項対立で論じた。スタインバーグは、ロバート・ラウシェンバーグの作品を例に挙げ、そうした作品における様々な要素の混在する画面を、直立して風景を眺めるときのような「視覚的な自然の体験」の表象ではなく、デスクで資料や道具を扱うときのような「人為的な操作に相同するもの」であると指摘し、そこで絵画の主題は「自然〔nature〕」から「文化〔culture〕」へと移行しているのだと主張した8。詳しくは後述するが、この後者である文化、つまり「人為的な操作に相同するもの」としての絵画のなかに、非絵画的な水準が入りこんでいる。それゆえ、すこし議論を先取りすることになるが、梅沢の絵画における「絵画的でない水準」の混在は、美術史的に言って、スタインバーグの導入したこの二項対立に端を発している。そして、梅沢における非絵画的なメカニズムの全面化もまた、この対立を生じさせている条件の変化によって引き起こされているのである。

 スタインバーグは、この論考のなかで、フォーマリズム絵画における「平面性」の称揚を批判しており9、芸術の主題における自然から文化への移行という彼の指摘は、グリーンバーグ的フォーマリズムにおける教条的な単一的基準にたいする、他の批評基準の提出として行われている。それゆえ、スタインバーグによる一部の抽象表現主義にたいする評価は両義的だ。スタインバーグは、ジャクソン・ポロックのドリッピングによる作品を例に挙げ、それが「どうしても茂みのように見えてしまう」ことから「なお自然の/本来の〔nature〕画家である」と断じている10。しかし一方で、ポロックの作品は、明確に行為の痕跡としての絵画という側面も有しているのである。

 それに対して、美術批評家のロザリンド・E・クラウスは、「ラウシェンバーグと物質化されたイメージ」11において、より明瞭な切断線を導入する——単一像からなる絵画〔single-image painting〕からの脱却という指標である。

単一像からなる芸術の優位性に直面しながらも、ラウシェンバーグは、彼の作品を、そのメディウムが絵画であろうと版画であろうと、彫刻やパフォーマンスであろうと、コラージュという経路を通じて考えた。それは、後述するように、大きく再編されたコラージュの形態である。(中略)ラウシェンバーグによって施された、部分ごとかつイメージごとの作品読解という特殊な方法に基づくなら、彼は、その作品の経験を、言説的な性格を言語と共有するだろうことを保証する。次から次へのイメージとの出会いは、それゆえ、文章を読んだり聞いたりするときのような時間的な展開のようなものへの注意を要求するだろう。そして、ラウシェンバーグにおけるイメージ同士の統辞的接続は、決して既知の言語の文法的論理を前提としていないにせよ、談話のもつ様態がこのアーティストのメディウムにおけるひとつの側面であることを暗示している。ラウシェンバーグの主張は、(単一のイメージにおける)認知的瞬間と呼ばれるものとは関わりがなく、代わりに、持続——記憶や反省、叙述や命題のような経験にかかわる、一種の引き伸ばされた時間性——に関わるような芸術のモデルなのだ。12

クラウスによれば、ラウシェンバーグの作品は、「単一像」すなわち一枚の画面という統合に基づかないことによって、その鑑賞経験を、モダニズム絵画のような瞬間的なものではなく、言語のような時間性を伴ったものにしている。クラウスはまた別の箇所で、ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズの作品が、大量生産されたイメージやジャンク・オブジェクトによって制作されていることを指摘しているが13、「統辞的接続」は、こうしたありふれた素材に概念的価値を与えることによって、それらを芸術的対象たらしめている。すなわち、単一のイメージからなる絵画は、それ自体に物質的な価値が備わっているのにたいして、ラウシェンバーグの作品では、画像同士の関係が作品の重要な位置を占めているのである。

 当然、こうした画像同士の関係が成立するためには、ひとつのキャンバス、絵画という統合に亀裂を入れる契機が求められる。クラウスは「シュルレアリスムの写真的条件」14のなかで、こうした亀裂について、「間隔化」によって条件付けられていると述べている。クラウスは、ダダのコラージュやシュルレアリスム写真を例に挙げ、これらの実践もまた「文の統辞法の条件によって支配されて」おり、「写真の持つ幾多のイリュージョンの中で最も有力な(中略)現前性の感覚」が奪われていると指摘する15。そして、こうした実践が「同時性のイメージ」ではなく、時間的なずれを伴ったイメージとして感受されるためには、それに先立ってそれぞれのイメージを空間的に隔てる外部性が求められる。クラウスは、こうした間隔化を、ダダのコラージュにおける要素間の隙間や、シュルレアリスム写真の多重露光における二重像などに見出しているが16、このような条件はラウシェンバーグの作品においても見ることができる(両者の差異については後述する)。ラウシェンバーグにおいて、こうした間隔化は、グリッド的な画像の配置や、画像間の色彩的な不連続性によって標しづけられており、それはラウシェンバーグが依拠する複製技術の特性に基づいている。私たちがラウシェンバーグの画面に複数の画像を見出すとき、個々の画像を他の画像から区別せしめるのは、写真や印刷物の原理、すなわち図像を矩形に区切り、水平ないしは垂直に配置する力学にほかならないからだ。

 クラウスは、「指標論パート2」17のなかで、絵画におけるこうした写真的条件について、絵画における指標的特徴(事物との物理的因果性)の前景化という観点から「写真的なもの〔the photographic〕」という概念を用いて論じている。クラウスは、1970年代の絵画において、写真的な自動性、物理的な痕跡としての性質が発現しているとし、それらの抽象絵画を考える上で写真が重要なモデルになっていると述べる。例えば、クラウスは、ルツィオ・ポッツィの《P.S. 1 Paint》(1976)の色面が、作品が設置されている展示室の配色によって機械的=自動的に決定されていると指摘し、そこに絵画における指標的性質の混入を見出す18。すなわち、クラウスによるこの指摘は、作品の生成原理として、作者の手の及ばない論理が用いられており、そしてそれは単なるチャンス・オペレーションではなく、写真的自動性=指標性に基づいているということである。このような写真的性質は、1970年代の抽象絵画だけではなく、コラージュ=非-単一像の絵画を条件付けるものでもあるだろう。ラウシェンバーグにおいて、そこで行われている画像の配置が「人為的な操作と相同するもの」であるためには、そこで用いられている画像が人為的でない、すなわち自然な事物の自動的な転写である必要があるからだ。クラウスは、ラウシェンバーグの作品において、作者自身の描線が積極的に排除されていることを指摘する19。ラウシェンバーグによって用いられている写真や絵画、イラストレーションといった要素は、作者による加筆や切り抜きなどの加工をほとんど施されることのないまま、自動的な転写のプロセスによって画面上に定着している。この自動性こそが、ラウシェンバーグにおける画像の配置が「人為的な操作に相同するもの」たらしめる。操作の人為性は、操作対象としての自然を要求するからだ。複数の画像が配置されていることが自明であるためには、操作対象たる画像のそれぞれが切れ目のない単一像であることが求められるのである。

 付言すれば、ラウシェンバーグのコラージュをキュビズムやダダの実践と根本的に異なるものにしているのもこの点である。クラウスによれば、ラウシェンバーグにおいて、コラージュの要素は、その物質性が絵画的イリュージョンに奉仕しない——すなわち物理的な対象であることを越え出ない——ことによって、自身の同一性を保っている20。キュビズムのコラージュにおいて新聞紙がワイングラスの形態へと変形せしめられているのとも、ダダのコラージュにおいて人物像がもとの空間とは異なる別な絵画的構成に奉仕せしめられているのとも異なり、ラウシェンバーグのコラージュにおいて用いられている兵士のイメージは、それ自身の文脈を保持したまま、物質=素材として画面上に配置されているのである。

 ラウシェンバーグのコラージュにおけるこうしたイメージの自律性は、梅沢の作品では、キャラクター画像において顕著に見られる。梅沢の作品において、そこで用いられているキャラクター画像は自身の来歴、すなわちキャラクターが持っている文脈が失われないままに画面へと配置されている。梅沢におけるキャラクター表象の利用の特異性は、同じようにキャラクターの部分を組み合わせた作品である金氏徹平の《Teenage Fan Club》(2008-)と比較するとよりわかりやすい。金氏の作品において、個々のキャラクターの頭髪は徹底的に抽象化され、人型のゲシュタルトに奉仕せしめられている。一方で梅沢の作品において、キャラクター画像は、匿名化されず個々のキャラクターの特徴を保持したまま画面に定着している。それは、画像の参照元を知っていれば、その部分がどのキャラクターのどの部分に該当するか、瞬時に同定できるほどであろう。キャラクター・画像・インターネット研究者のgnckは、「キャラと画像とインターネット——画像の演算性の美学Ⅰ」のなかで、梅沢の作品におけるキャラクター画像の特異性について、その画像の「固有名性」に起因すると指摘する。

〔梅沢は、〕何よりも、そのキャラクターの最も特徴的で、他のキャラから弁別されうる部位を用いる。梅沢はそれを「喚起力の強いイメージ」と呼ぶ。(中略)梅沢が喚起力と呼ぶのは、そのキャラのアイデンティティが宿る/キャラをキャラたらしめる、「固有名性」が宿るパーツである。金氏徹平が、梅沢同様にキャラを用いたとしても、むしろ匿名的にしていく態度とは対照的だ。金氏がときにその匿名化に失敗しているのは、キャラが持つ輪郭線の、色彩の過剰な強さによってしるしづけられる、固有名性に起因する。梅沢の仕事はキャラを解体しながらも、その固有名性を残すという、キャラの存立条件を問う仕事だ。21

梅沢和木《東方新超死-紅白黒白-》2010年

梅沢の画面においては、そこで用いられている画像群は、単に「赤いリボン」や「円型のアニメ・アイ」といった匿名なレベルに縮減されているのではなく、『東方Project』の主要キャラクターである「博麗霊夢のリボン」であったり、『魔法少女まどか☆マギカ』に登場するキャラクター「キュウべえの眼」という固有名を伴ったものとして扱われている。そしてそれは、梅沢が「キャラを解体」しつつも、そこから「キャラが持つ輪郭線の、色彩の過剰な強さ」といった「喚起力の強いイメージ」を抜き出すことによって実現されているのである。梅沢の画面において、「博麗霊夢のリボン」も「キュウべえの眼」も、それらが依拠する文脈から切り出されて別な文脈へと埋め込まれているのではなく、それ自体ひとつの対象として、その来歴を犠牲にするどころかむしろ強化されながら、画面へと移設されているのである。

 このように、過去の実践と比較した際のコラージュ要素の扱われ方において、ラウシェンバーグと梅沢はともに、要素が画面全体におけるイメージに埋没しないという点で共通する一方で、それを支えている条件を大きく異にしている。前言したように、ラウシェンバーグにおいて、個々の画像が画面上で自律的に振る舞うためには、それらが写真的自動性に則している必要があり、その結果として作られる画面は、人為的操作に相同する言語的な構造を持っているのであった。それに対し、梅沢の画面において、画像の自律性は、自動性よりもむしろ事後的な加工によって作りだされている。そして、それによって作られる画面にも、個々の画像の表れとは全く別なレベルで空間的な奥行きが与えられている。梅沢の作品は、部分的に見れば自律的な画像の集合として見ることができる一方で、画面全体として見れば統合的で連続的な構図を見出すことができる。そして、このそれぞれの位相は、相互に独立した状態で把持されているのである22。梅沢において、単一像/コラージュという二項対立——後述するが、自然/文化という二項対立も——は、梅沢の作品において、どちらが支配的というわけでもなく混在しているのである。

 そもそも、先のようなクラウスの写真観は、基本的にはモダニズム的な写真観——写真を自然な事物の痕跡として捉えること——に大きく依拠している。しかし、こうした写真の性質は、写真という概念のいち側面に過ぎない。現在において、写真を、事物の物理的な痕跡ないしは自動的な発出と同一視することはますます困難である。写真もまた、人為的な操作やそれに伴うイメージの裂開を内部に孕んでおり、そうした写真の異種混交性は、デジタル化によって、ますます決定的になっているからである。実際、梅沢においては、画像は大きく加工されていたり、部分的に切り抜かれており、そこには人為的な操作が多分に含まれている。そしてそれは、ラウシェンバーグにおいて、操作の人為性が、その対象の自動性に依拠しているのと相反する。クラウスは絵画を論じる上で、写真というメディウムをその条件として見出したが、こうした違いは、絵画を条件付ける写真というメディウムの変化と相関しているともいえるだろう。
(次ページへ続く)