記号的身体の健康と美味について ―『東京喰種』論―


少年の「成熟」、食材の「熟成」

  『東京喰種』(2011‐2018)は新人漫画家、石田スイの「週刊ヤングジャンプ」初連載作品にあたる。累計発行部数は三千万部を超え、先日惜しまれながらその連載を終えた。

 バトルマンガである本作は、ヒトと喰種の種族間抗争、あるいは喰種同士の対立を描く。喰種はヒトを喰い、また喰種同士でも喰う。ヒトは喰種を殺して、その「赫子」を利用して対喰種兵器「クインケ」を作り出し喰種に立ち向かう。赫子もクインケも個性を持っており、得手不得手や相性が設定された能力固定型の特殊能力である。後述するようにこの点で本作は、ゼロ年代までのバトルマンガのまごうことなき直系である。
 一方、主人公が最上級に「美味しい」という奇妙な設定については、他にそうたくさん例を挙げられるものではない。主人公の金木研はヒトと喰種のハーフであることによって、食材としての香りや味わいはヒトとも喰種とも異なる。金木はその珍味ぶりから、新しい食の驚きを求める喰種界の美食家によって命を狙われることになる。

 同様に「美味しさ」がストーリーを駆動している数少ない例のひとつが『約束のネバーランド』(2016‐)である。舞台となるのは塀に囲まれた孤児院だ。そこで生まれ育った子供達はある日、孤児院だと思いこんでいたその場所が、ヒトを養殖するための農園であったことを知る。一定の年齢になると子供達は「出荷」され、それを塀の外にいるヒト喰い鬼たちが食べていたのだった。鬼にとってはヒトの脳が一番美味しいそうで、子供たちは連日知能テストを受けさせられているのだが、主人公たちはそのテストで満点を取り続ける天才児たち、つまりは最高級食材たちである。

 興味深いことに、これらの設定において「美味しさ」の要件は同時に力の要件にもなっている。喰種はヒトよりもずっと強い力を持つが、金木はハーフであることによって、純粋な喰種では到達しえない水準まで身体を強化していく。孤児院の子供たちは塀の外への脱出を図り人間の住む世界を目指すが、鬼によって高められた知能こそが鬼を出し抜く最大の武器となることは言うまでもない。育つことは強くなることであると同時に、食材として美味しくなることなのである。少年を主な読者とするマンガの重要な主題として「成長」と「成熟」を挙げたのは大塚英志だったが、こうしたルールの下でキャラクターの「成熟」の問題は、食材としての「熟成」の問題へと横滑りする。

  「強い」=「美味しい」というこの価値基準は、もう少し遡ると冨樫義博『ハンター×ハンター』のゼロ年代の連載にその原型を見出すことができる。「念」と呼ばれるやはり能力固定型の特殊能力で戦う主人公たちが、知性をもったヒト喰い蟻の集団と対決する「キメラアント」編だ。
 ヒト喰い蟻たちは小さな島国を占拠し、はじめは手当たり次第にヒトを喰い散らかすわけだが、やがて人の中でもとりわけ「美味しい」個体がいることに気づく。彼等を駆逐しにやってくる念能力者である。捕食種としての蟻にとって、念能力者は強ければ強いほど「美味しい」。兵隊蟻は念能力者を「レアもの」と呼び、こぞって捕食したり、蟻たちの王に献上したりするようになる。王はあまたの念能力者を食べ、次第に誰にも手が付けられないほど強くなっていく。
 王がその力を増幅するプロセスを鑑みるに、「強い」=「美味しい」食材を摂取することはそれ自体が「強い」ことの条件でもある。この素朴な価値基準が、対戦相手を食べることがルール化されたバトルマンガに導入されたとき、「強い」ことと「美味しい」ことの間には循環構造が生じる。この循環を繰り返した蟻の王自身もまた、よく「熟成」された「美味しい」食材であったはずだが、残念ながらこれを味わってみようと試みる不届きな兵隊蟻はいなかった。

 冨樫とその作品からの影響を公言し、トリビュートマンガも書いたことのある石田は、キメラアント編の描写から直接の影響を受けていたかもしれない。『東京喰種』がやっていることのひとつは、この循環構造をルールとして明文化することだったと言ってよい。

 「美味しい」主人公金木研を食べてやろうとたくらむ喰種の美食家、月山習は、「殺す」「健康」「美食」という食の三つの問題系を一手に引き受けて第4巻で現れる。ブリア・サラヴァンを愛読する月山の生き甲斐は、「新しいご馳走の発見はヒトの幸福にとって星の発見以上のものだ」という彼の信条に従い、まだ見ぬ美食を得るために奮闘することである。

 喰種は一般的には「不味い」とされるが、金木が喰種でありながら人の匂いを色濃く発することに気が付いた月山は、その未知なる食材を味わってみるべく、金木を騙して誘い出す。金木はスカッシュで汗をかかされた後、会員制の喰種レストランでの食事に連れていかれる。レストランではなぜかシャワーを浴びさせられ、正装に着替えて待たされ、案内された薄暗い廊下の先で、金木は彼を食べようと待ち構える月山と大勢の喰種に対面する。食べるつもりが、自分が食べられる側にまわっていた――説明するまでもなく、賢治の「注文の多い料理店」のパロディだが、むしろそのあとが問題である。
 結局レストランの企みは月山自身によって頓挫されるのだが、後日改めて金木が月山と対峙するとき、今度は「健康」が問題にされる。ヒト肉を食べることを忌避してきた金木は、すっかり燃料切れの状態にあった。助太刀に入った金木の友人、霧嶋トウカもまた「お粗末な食事」(彼女の場合はヒト肉以外の食物を摂取していた)によって本来の力を失っていた。もはや赫子を出すことすらできない金木とトウカを、自らの欲するままに食べ強靭な赫子を維持してきた月山はあざ笑う。「僕のように良質な食事でメンテナンスしないとすぐに錆びつき機能しない…」「お粗末な食事では――諸君! 相応の力しか発揮できないものさ」。
 事実、この美食家編の戦闘は、まさに「美味しい」ものを食べた者によって制される。金木とトウカは、人数の利によって戦うことを諦める。トウカはその場で金木の僧帽筋を食いちぎってただちに力を取り戻し、美食のためにわざわざ腹をすかせて準備していた月山を圧倒する。ヒトを食べていない金木よりも十分に食べてきた月山が強く、たったいま空腹の月山よりも美食で腹を満たしたトウカが強い。こういう極めてシンプルな力の序列によって美食家編は幕を閉じる。
 余談だが、ここで死の淵に立った月山はその後、自分自身の身体を食べることによって復活する。のちに金木と行動を共にすることになる月山は、その際のことを「僕は結構美味しかった」などと振り返っている。「美味しい」もので「健康」を維持してきた月山自身もまた、よく「熟成」された「美味しい」食材なのである。

 

「成熟」と勝利のコスト

 このようにしてバトルマンガに導入された「食べる」ことのルール、そのルール下で行われる思考実験はしかし、バトルマンガの水準においてもマンガ表現の水準においても異様である。
  「美味しい」が絡むことによってやや複雑化したかにみえる戦闘ルールは、整理してみれば「美味しい」ものを食べた者が力を得て勝つという、極めてシンプルな「力比べ」の様相を呈してもいる。さて一方で、単純な力の序列によって規定される戦闘は、むしろバトルマンガの展開を限界づけるものとして克服されてきた歴史を持つ。すると『東京喰種』とは、バトルマンガ史においては一種の後退なのではなかろうか。

 評論家、宇野常寛の言葉を借りて経緯を整理するならば、「少年ジャンプ」を代表してきたバトルマンガは、その読者層と内容ゆえ大塚が指摘した「成熟」の問題ともっとも真摯に向き合ってきたジャンルである。そしてそれらが「成熟」を描く方法は、ゼロ年代を境に「力比べ」から「知恵比べ」へと大きく舵を切った。90年代の人気連載だった『ドラゴンボール』(1984-1995)や『SLAM DUNK』(1990-1996)、『幽☆遊☆白書』(1990-1994)、これらの展開を駆動していたのは「トーナメントシステム」である。
 一対一で戦うリングは、純粋な戦闘力の多寡とその増大を比較するのに効果的な舞台だ。強くなり戦闘に勝つことはすなわち「成熟」を意味した。『ドラゴンボール』には、相手の戦力を数値化するデバイス「スカウター」が登場するが、これもまた「成熟」を可視化するための装置である。しかしながらいずれの連載も、むしろトーナメントシステムの限界を露呈するかのような形で終了していく。

 一方、同じ時期から連載されていた『ジョジョの奇妙な冒険』では、「力比べ」では到底勝てない相手にいかに知恵を使って勝つか、という「知恵比べ」の戦闘が描かれ始める。とりわけ第三部以降、「スタンド」と呼ばれる能力固定型の特殊能力が登場してからの展開に顕著だ。スタンド能力は持ち主の個性を反映して多様性に富む。力が強い者もあれば、自分の力は弱いが相手の力を封じられる者、相手を出し抜くのが得意な者もおり、彼等の戦闘は純粋な戦闘力通りには決着しない。
 宇野の整理によれば、ずっと亜流にありつづけたこの知恵比べ型の戦闘は、その限界を露呈した力比べ型と入れ替わるように、『遊☆戯☆王』(1996-2004)が導入した「カードゲーム」の価値観によってむしろ本流となっていく。この潮流においてもっともヒットしたのは、世直しを目論む天才犯罪者と捜査官の頭脳がぶつかり合う『DEATH NOTE』(2003-2006)だったが、『ジョジョ』が開拓してきた能力固定型の特殊能力もまたこうした知恵比べモデルと相性がよく、多くのマンガで導入された。宇野はこうした流れの総決算に、すでに取り上げた『HUNTER×HUNTER』の念能力の描写をおいている。

  『東京喰種』の掲載誌は「少年ジャンプ」ではないもの、この『HUNTER×HUNTER』をひとつの到達点とするバトルマンガというジャンルの制約を当然ながら受けている。

 その形跡は「赫子」という能力固定型の特殊能力の設定に見出すことができる。喰種の武器である赫子は大きく四つの系統に分かれ、その形状や数も個体によって異なる。四系統のうち、機動力型の羽赫、防御力型の甲赫、火力型の鱗赫は三すくみの関係にあり、鱗赫は甲赫に、甲赫は羽赫に、羽赫は鱗赫に強い。残る尾赫がスキのないバランス型、という設定になっている。加えてスタンドと同様、赫子も持ち主の性格や精神力を反映し、その大きさや形態に個性がある。
 しかし驚くべきことに、図解つきで詳細に解説されるこれらの設定は、その後の展開で知恵比べに生かされることはほとんどない。月山は甲赫、トウカは羽赫だったが、すでに見てきたように両者の戦闘において生き残ったのは、腹を満たして力を得たトウカだった。おそらく一度は知恵比べのシステムが敷かれようとした本作は、結果として力比べのシステムによって上書きされている。これは、いったいなぜなのか。

 この問いをいったん保留して、それでもなお、九〇年代に限界を迎えたはずの力比べモデルの先に『東京喰種』が到達しているのだと仮定してみる。力比べとしての本作を擁護するならば、それは力を得るということの扱われ方の適切さにおいてかもしれない。
  『ドラゴンボール』における力の増幅のプロセスは「修行」であり、ここでコストの意識は希薄である。たとえばそれは、一日を一年に引き伸ばすことのできる空間「精神と時の部屋」の存在に顕著である。ここには時間的コストを修行の効果と天秤にかける葛藤が存在しない。強さは本人の努力と友情によって単調増加する。「少年ジャンプ」の有名なテーゼ「努力・友情・勝利」は、勝利のために必要なコストがただ二つ、努力と友情のみであることを示唆してもいる。
  『ジョジョ』における戦闘能力の増幅は、主として精神的な超克によって行われる。彼らは必ず、急速に力を得る時に自分の中で大切にしていた何か、自分がどこかでこだわっていた何かを捨てる。精神的な変容とはつまり「成熟」そのものであり、ポジティブな価値のみを帯びている。ひとたび「成熟」した登場人物たちに、もはや葛藤は存在しない。高度な知恵比べと理解されがちな本作は、その力比べの部分において思いのほか単純な構造をとっている。

 様子が変わってくるのは、やはり『HUNTER×HUNTER』の、ゼロ年代の展開である。
 ここでも、「成熟」によって力が獲得される描写はたしかにある。主人公のひとり、エリート暗殺者の家系に生まれた少年キルアは、その教育の過程で精神的なリミッターとして脳に針を埋め込まれている。このせいで格上の相手にリスクを取れなかったキルアは、窮地に追い込まれて自ら針を抜くことで、相手を上回る力を手に入れる。ここで針とは彼を縛る家の象徴であり、それを抜く描写は古典的な「成熟」そのものである。
 しかし先述のキメラアント編の終盤、連載自体も10年代に差しかかる頃の描写では、力を得ることの意味合いが全く変わっている。もうひとりの主人公、少年ゴンがはるか格上のネフェルピトーという蟻と相対するとき、彼は知恵を使うこともなければ、精神的に超克することもない。あろうことか彼は、自分の身体を無理やり大人に成長させることによって、爆発的な力を得るのである。十数年の時間的コストを前借りするかのような方法のあと、彼はそのコストの代償をきっちり支払わされ、長い戦闘不能の状態に陥ることになる。ゼロ年代の潮流の総決算であったはずの『ハンターハンター』は、奇妙なことにここでコストと引き換えに行われる力比べの様相を呈する。

 この展開を、努力によって達成される線形の「成熟」モデルが限界を迎えたものと素直に理解してもよい。たしかに今日、少年マンガの読者は必ずしも少年ではない。マンガは「成熟」以外の価値基準をなにか示す必要がある。しかし一方で、彼が犠牲を払って成し遂げたのはまず第一に「成熟」そのものであったということも見逃してはならない。
 もう少し穿った見方をすれば、少年ゴンが身をもって示したのはこういうことだ。力で勝てない相手に、知恵を使えば勝てるというものでもない。我々は勝つために、それ相応のコストを支払う必要がある。ようするに、知恵比べモデルもまた欺瞞を孕んでいたという指摘である。

 キメラアント編はその終幕もまた異様であった。既に述べたように、あまたの念能力者を食べて強くなりすぎた蟻の王を、人類はもはや念能力で倒すことができなかった。そこで人類が選んだ最終手段は、やはり念能力同士の勝負でも知恵比べではなく、猛毒をまき散らす核爆弾だった。地域をまるごと汚染するという膨大なコストを支払い、圧倒的な力を行使することでしか決着しなかったこの戦闘には、知恵比べの終焉が色濃く刻まれている。そういえば冨樫の前作『幽☆遊☆白書』もまた、「トーナメントシステム」そのものを否定するかのような異様さをもって突然幕を閉じたのだった。
 つまり『東京喰種』は知恵比べの系譜としてではなく、その終焉の先にあるものとして理解されねばならない。喰種はタダでは強くなれない。知恵をつかって相手を打ち負かすにも、腹を満たしておく必要がある。『HUNTER×HUNTER』が示唆した力を裏打ちするコストの問題は、ここで人間が長きにわたって問うてきた「食べる」ことの問題と接続され、システム化されている。

 

記号的身体と「健康」の二水準

  「成熟」のコストを規定する「食べる」ことのルールはしかし、より根本的な水準においてもう一つの機能を担っている。
 コストということでいえば、喰種はバトルよりも以前に、生きることそのものに対してもコストを支払っている。彼等は「力比べ」に勝つためだけではなく、生きてマンガの登場人物を演じ続けるために食べなくてはならない。美食家編では彼等の「健康」が問題となっていたが、この「健康」は二つの別々の水準において理解される必要がありそうだ。バトルマンガの価値基準である「強さ」を支える水準と、そもそもその存在を存続せしめるという「生命維持」の水準である。

 この「生命維持」というルールは、にわかには信じがたい異様さを帯びている。マンガにおける身体は、バトルや戦争・事故によって死ぬことはできても、基本的な生命維持のための努力を課せられたことはおそらくなかったからである。

 再び大塚英志まで遡ってみれば、彼はその金字塔的マンガ評論『アトムの命題』(2003)において、マンガ表現における「平面的」な身体を「記号的身体」などと呼んでいる。
 平面に描かれたマンガのキャラクターは、記号としての同一性を保持する必要性ゆえ容易には外見を変容しえず、したがってその奥行、つまり内面の成長を描くことは一筋縄ではいかない。「鉄腕アトム」が機械の身体を持ち、傷つくことも大きくなることもないのは、手塚治虫によるマンガ表現の制約への自己言及であったと大塚は言う。アトムの成長問題は、そのまま「記号的身体としてのキャラクターはいかにして成長しうるか」という命題として戦後マンガ史を貫くこととなる。大塚はこれを「アトムの命題」と呼ぶ。すでに紹介した「トーナメントシステム」や「スカウター」は、つまり外見を変えずに力の増幅≒「成熟」を描写することのできる方法として重宝されたわけである。

 大塚はこの議論の中で、もうひとつ重要な点を指摘している。かつて記号的身体は、生身の身体のように傷つくことがなかった。手塚が色濃く影響を受けたディズニーアニメにおいて、キャラクターは吹き飛ばされようが転落しようが一切傷つかず、かわりにぺちゃんこにつぶれてみたり、☆印が頭上をまわってみたりという記号でその衝撃が表現される。
 手塚はこの「記号」をもって「生命」を描こうと試みた。デビュー前の習作『勝利の日まで』の中で、爆風で吹き飛ばされても傷ひとつ負わなかったアニメ的な主人公が、最後に爆撃機の機銃掃射に貫かれ、血を流して倒れる。大塚はこの一コマに、マンガ史において記号的身体が「死にゆく身体」としての奥行を与えられた瞬間を指摘する。

 当然のことながら、バトルマンガなどというジャンルが成立する背景にもまた、記号的身体が切られれば血を流す「死にゆく身体」を表象しているという前提がある。しかしながらこの特殊空間において、その身体はバトルによってしか死なないという不可視のルールに守られてもいるように見える。仮にも「死にゆく体」ならば飢えて死ぬこともありうべきである、という点についてはまったく隠蔽されてきた。一見生身の身体を持つかのように血を流す記号的身体もまた、生命維持そのものに必要な莫大なコストについては免除されつづけてきたのではなかったか。
  『東京喰種』は、ヒトを食べることを受け入れられない金木研が、激しい飢えに悶え苦しむ描写から始まる。彼に与えられた喰種の身体は、傷つくことのできる身体であると同時に、飢えることのできる身体もであった。金木はフィクションの水準において身体を書き換えられたのみならず、マンガ史の水準においても、「生命維持」機構という奥行をその平面に書き込まれたということになる。

 すでに『東京喰種』以降のバトルマンガでは、同様に「生命維持」活動を行う奇妙な身体がいくつか描かれている。「強さ」のコスト、生命維持のコストが隠蔽されてきたその欺瞞を、マンガ表現は暴き始めている。そしてそのコストは、どういうわけか決まって「食べる」という形式をとり、本筋ではなく必須でもないはずの食事のシーンが執拗に描かれる。

  『約束のネバーランド』では、子供たちが食事の前に必ず手を合わせ「いただきます」と言う様子が、大きなコマで描かれ続ける。舞台が孤児院の外へと移り、野外生活となってからは、自らが被食種であり捕食種でもあるという自覚のもと、彼等が食材調達する様子が時間をかけて描かれる。
 アイヌと軍隊の金塊争奪戦を描いた野田サトル『ゴールデンカムイ』(2014‐)でも、主人公一派はやはり対人戦と同等の尺を使って動物を狩り、アイヌ式で料理して食べる。彼等もまた命をいただくたびに、ときに神話的な想像も交えながら、その食材が辿ってきた物語の奥行をまず味わい、神に祈る。
  「美味しい」ものを食べた者が「強い」というルールをもそのままに継承しているのは、九井諒子『ダンジョン飯』(2014‐)だ。ダンジョンの深層でドラゴンに挑んだ主人公一派は、「準備は万全/負ける要素などない/いや/腹が減ったな」とその空腹に気づいてしまったが最後、そのまま敗退し全財産を失う。仲間のひとりはドラゴンに食べられてしまうが、彼女を探してダンジョンに再び潜ろうとする彼等には、食糧を買うための資金すらなく、探索以前に生命維持もままならない。苦肉の策としてダンジョンのモンスターを狩っては料理し、結果として日々バランスよく栄養をとることとなった彼等は、粗末な携帯食を食いつなぐ他の冒険者よりもずっと「健康」で「強い」。
 こうした「食べる」ことと「健康」の描写は、本来バトルのみで成立していたバトルマンガに、バトル以外の生活の奥行を与える。いわばハレのものとしてのバトルと、ケのものとしての食生活は、かくしてある種の相似形の様相を呈する。

 翻って、このような表現が導き出した「食べる」ことの理解を、逆に我々自身が「食べる」こと、「健康」になることと重ね合わせるとどうなるか。廣瀬や國分が訝しがったところの「健康」は、この新しい視座からいったいどのように見えるのか。

 冒頭で見たとおり、彼等は「生命維持」の問題そのものを「健康」と呼んだ。しかしここまでの議論を鑑みるに、これは「健康」の片面に過ぎない。「健康」は「生命維持」の水準のみならず、「強さ」を規定するというもう一つの水準において理解されねばならない。翻って、我々生身の人間にとって「食べる」ことで得られる「強さ」とはいったいなにか。このマンガ的な価値基準に相当するなにかが、たしかに自らのうちにもあるということに、我々は心のどこかで気がついている。そしてそのことは、すでに國分自身の表現によって明らかとなっている。

「健康」という名の生存の条件を全ての物事の尺度にする考えが、消費社会のロジックから導き出されたものでない保証がどこにあるだろうか? 酒もタバコも甘いものも絶ってジムのマシーンの上でただひたすら走る行為は、どこかしら、終わることのない記号消費ゲームのメタファーにも見える。

 國分が批判している「健康」が一枚岩ではないことは、おそらくは著者の意図せざる形で、この短い記述の中に現れている。前半、「生存の条件」とは、つまり「生命維持」そのものである。一方で後半の「記号消費ゲーム」としての「健康」は、それ自体が「生命維持」に必須のものを指してはいない。むしろ「生命維持」は前提条件としたうえで、その上にいかに「健康」という記号を積み上げられるかという、いわば余剰のゲームのことである。

 我々にとっての「強さ」は、この余剰としての記号をいかに消費したかに依存する。つまり我々は、記号としての食材を記号の水準で「食べる」ことによって、「健康」を維持すると同時にいかに「健康」たるかを競ってもいる、日々バトルする存在なのである。
  『究極の食事』のような地図を唯一絶対の価値基準として「食べる」とき、食材は奥行きを失い、ヒトはしばしば記号的な水準においてのみ食材を理解する。愛する人が作った豚の角煮も、スーパーで買ったローストポークも、あるいは子豚のピーちゃんも、「赤身肉」という記号に還元されればみな等しく地雷である。そしてその結果の反映たる「健康」は、しばしば奥行を欠いた数値として我々に提示される。まるで「スカウター」で相手の「強さ」を測るように、我々は血液検査によって自らの「健康」を数値化する。

 今日よりもずっと素朴なレベルにおいてではあるが、魯山人が批判していたのもやはりこういうことのような気がする。

 近来、食べ物のことがいろいろの方面から注意され、食べ物に関する論議がさかんになってきた。殊に栄養学というような方面から、食べ物の配合や量のことをやかましくいうことが流行った。けれども、子供や病人ならともかく、自分の意志で、自分の好きなものを食うことのできる一般人にとっては、そういう論議はいくらやっても、なんの役にもたたない。
 だから栄養料理という言葉が、まずい料理の代名詞のように使われたのも、むしろ当然である。わたしどもの目からみると、栄養料理というものは、料理にもなにもなっていない。

  「栄養」のあるものを食べるべし、という当時の大雑把な理解は今日到底通用しないが、いずれにせよ当時の人々も「栄養」という記号を食べていたのらしい。「美食」と「健康」の止揚を繰り返し訴えた魯山人は、つまりはこの平面的な営みに再び立体感を与え、記号化した食材に「美味しい」という感覚感覚の奥行を取り戻すことを試みていたわけである。

 平面の記号に、いかにして奥行を与えるか——我々はすでに、これと似たような試みを知っている。
 手塚以来の「アトムの命題」は、もともと記号でしかないマンガのキャラクターに、いかに生身の身体を与えるかという格闘だった。しかし我々が今日生きているのもまた、奥行を欠いた記号的身体そのものなのではないか。ここで記号的身体の生命維持という先の問題は、我々自身が「食べる」ことの問題とたしかに重なり合う。だとすると、たとえば『東京喰種』において喰種たちが辿った顛末を読み込むことは、今日我々が抱える「食べる」ことの困難と課題をおのずから炙り出すことになりはしまいか。

(次ページへ続く)