記号的身体の健康と美味について ―『東京喰種』論―


「食べる」ことの美的感覚

  「食べる」ことについて考えれば考えるほど、深い沼の中にはまっていくような気がする。
  「食べる」という営みが一種の関数であるとするならば、それは生理、嗜好、環境、その他あらゆる変数によって規定され、その係数もまた個体や集団によって異なる。「食べる」とはつまりこういうことである、などと安易に記述することすらおこがましい。

 一方で「食べる」ことの本質は、ときに我々の予想もつかないようなところに発露する。

 どういうわけか、近年の青少年マンガにはヒトを食う話、ヒトが食われる話が多い。『進撃の巨人』、『約束のネバーランド』、『食糧人類』――いずれもヒトが被食種であるという設定が、バトルやストーリーを駆動する漫画だ。とりわけその設定が前景化しているのは、ヒトと「喰種」が食べたり食べられたりしながら戦う『東京喰種』である。
  「喰種」とは、ヒトそっくりのヒト喰い種である。生物学的にはほとんどヒトだが、ヒトを食べるか、共喰いすることでしか栄養を摂取できない。戦闘と捕食のための器官「赫子(かぐね)」と高い再生能力をもつ彼等は、人間社会に紛れ込んで暮らし、時々ヒトを襲って食べながら生きている。主人公のヒトの少年、金木研は、喰種界の陰謀に巻き込まれて「赫子」を移植された結果、自らも喰種となってしまう。アイデンティティはヒトでありながら、ヒトの捕食種として生きる葛藤が、序盤の展開の駆動力となっている。

 ヒトが喰われる話自体は珍しくもないし、そのような想像力によってヒトが「食べる」=「殺す」ことの是非をも問い直す、というのもむしろ使い古されたモチーフだ。日本であれば必ず、宮沢賢治の名前が挙がる。弱い生き物を食べて生きながらえることの罪悪感に嘆く「よだかの星」、熊を狩って生きる猟師が最後は熊に殺される「なめとこ山の熊」、食べるつもりが気づけば食べられる側に回っていた「注文の多い料理店」――。『東京喰種』をはじめとしたマンガたちが、この問いの延長上にあること自体は間違いない。

 しかし、ほんとうに重要なのはおそらくそこではない。見逃してはならないのは、これらのマンガにおいてはしばしば、被食種としてのヒトが「美味しい」か否かという、いわば食の美的感覚への言及がなされる点である。
 これは、奇妙なことである。宮沢賢治は、食べられる者が美味しいかどうかについては言及していない。生贄譚や人喰い譚を網羅的に扱った最近の文献には赤坂憲雄の『性食考』があるが、ここでも「美味しさ」の話題はほとんど登場しない。同書が出発点とするのは「食べちゃいたいほどかわいい」というよくある換喩への問いであったが、それは決して「食べちゃいたいほど美味しそう」ではないのだった。生贄が美しいかどうかは問題になる一方で、美味しいかどうかについては、それを食べるほうの神々もあまり問うてこなかったのらしい。

 ひょっとするとヒトが次々食べられていくこれらのマンガは、人喰い譚やバトルマンガである以上に、グルメマンガとしてなにかを問うているのかもしれない。

 美食をめぐる言説には、古今東西事欠かない。
 およそすべての人類がその当事者だからだろう。美食家ならば美食家なりに、粗食家にも粗食家なりに一家言あるこの題材について、これまであらゆる書き手が優れた言説を残してきた。しかしながらこれらの言説は、どういうわけか思考として積みあがり、継承され、前進していくということがない。

 映画評論家の廣瀬純は、こうした問題意識から『美味しい料理の哲学』(2005)を書いた。
 冒頭で引用するのは、食を真正面から扱った数少ない思想家、空想的社会主義者のシャルル・フーリエである。「民衆を幸せにするには、民衆に何よりもまず美味しい料理を与えなければならない」という立場のフーリエにとって、重要なのは食べ物の機能ではなく「美味しさ」だった。生物学的な必要性の水準を超えて、最低限の食糧ではなく「美味しさ」があまねく行き渡るような社会…。フーリエの想像は、今日おおむね現実のものになったと言ってもいい。しかし残念ながら、こうして広く民衆に解放された美味しい食事を前にして、多くの人々は「美味しい」という以上の思考を展開することがない。

 その数年後、哲学者の國分功一郎は『民主主義を直感するために』(2016)で、同じくフーリエを引いて美食哲学の欠如を嘆いた。フーリエや、その議論を継承したロラン・バルトの食の思考は、あくまでも社会との関係において行われる。食のなかに社会を見出すことの重要性は繰り返し強調したうえで、國分は彼らが「うまさそのものについての考察を試みていない」ことを問題視する。

カール・シュミットはどんな領域でも究極的な区別というものが存在し、例えば、美学なら美/醜、道徳なら善/悪、経済なら利/損、そして政治においてはそれは友/敵であると言った。言うまでもなく、食という領域における究極的な区別とは、うまい/まずいである。ならば、食についての考察はかならずこの究極的な区別に踏み込まねばならない。うまいとは何なのか?

 指摘されてみれば、あまりにも大きな問いが目の前にあったことに気づく。
 これまた奇妙なことに、美味しさについて語る廣瀬と國分は、いずれもその対極として「健康」に言及する。二人は「健康」という価値基準を、生命維持の文脈において理解する。今日、社会からの要請によって「食べる」ことは「健康」、つまり生きるために必要かどうかという貧しい価値基準によって評価され、その余剰としての「美味しさ」は結果的に論じられにくくなっている――二人の指摘には、頷けるところもある。

 しかし遡ること数十年、かの北大路魯山人はすでにこの対立構造を批判していた。

本来言うならば、近来流行している栄養医学に関係ある人々が、食物と料理に精通されるならば、試験管中に一層の命が加わり、栄養料理は美味くないなどという今日の悪罵はおのずと雲散霧消し、日本人の健康増進にと寄与することは疑うべくもない。

 思いのほか健康にこだわるこの男が、どちらかといえば健康よりも美食にうるさい男として知られていたことは言うまでもない。今日の医学に照らしてそれが妥当かどうかはさておき、魯山人にとって美食と健康食はほとんど同じものを意味していた。
 さらに遡って一八二五年、魯山人も参照したブリア・サラヴァンの『味覚の生理学』には、すでに美食と肥満に関する言及がある。肥満がどのような食材によって起こるのか、膨らんだ腹を抑え込みつつ美食の追及も諦めないために、サラヴァン自身がどのような努力をしてきたか――。美食と健康の止揚を試みたかの美食家たちから廣瀬・國分までの200年弱、食の哲学は止まったままなのか、あるいは何周も回ったあげく同じところにいるのか、いずれにしてもこの「健康」なる概念は、結局いまも「美味しさ」の対立項という不名誉な地位にありつづけているのらしい。なるほどたしかに、食をめぐる思考の進歩はたかがしれている。

 

「食べる」ことの地雷原

 ところで『東京喰種』の連載が佳境を迎えたちょうどその頃、公衆衛生領域においてもきわめて重要な書物が出版された。気鋭の疫学者、津川友介による食のバイブルの総決算、『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』である。ありふれた健康本のようだが、凡百の既刊とは根本的に異なり、医療者からも厚く支持される数少ない例である。

  「健康になりたければ○○を食べるな!」と謳う書物は山ほどあるが、そのほとんどは十分な科学的根拠を示せていない。ある食材が「健康」を増進するか害するかを断罪できるのは、複数の大規模臨床試験によってその功罪を検証された場合のみである。そして実際には、そのような食材は極めて限られている。しかし逆に言えば、限られた食材についてはその「健康」への影響がすでに確定した科学的事実となっている。
 疾病・死亡リスクを下げることが証明されている食品のカテゴリは五つだけ。野菜、果物、魚、オリーブオイル、ナッツ、未精製炭水化物。逆に疾病リスクを上げることが明らかになっているのは、赤身肉(鶏肉を含まない)、牛乳、精製炭水化物。一般市民に伝わる時にはしばしば歪曲され薄められているこれらの事実を、津川は正確に、かつあまねく普及させようと試みた。そしてその試みは図らずも、我々が課せられている「食べる」ことの新たな倫理を、つまびらかにしているように思われる。

 行政レベルで「生活習慣病」という呼称が採用されて以来、「食べる」ことは管理可能な「健康」の構成要素として名指され、これを適切に管理することは善良な市民の責務のひとつとなっている。とはいえ「食べる」ことの結果が「健康」に反映されるまでには、多くの場合年単位の時間を要する。答え合わせができないまま、それでも「健康」であらねばならぬ我々にとって、「食べる」ことは目隠しをして地雷原を歩くような営みである。さて『究極の食事』にまとめられたエビデンスは、現時点で最も確からしい地雷原の地図であるわけだが、漠然とした健康情報がかくも明瞭な形をとった今日、「食べる」ことはおそるおそる歩くことの葛藤から、あえて地雷を踏むことの葛藤へと移行しはじめている。

 食には必ず暴力がつきまとうことは、すでによく知られている。「賢治は何かを殺すことの手ごたえを食という肉体感覚において認識した」と書いたのは文芸批評家の大澤信亮だった。他者を「殺す」ことは「正当化しようと思えばどうにでも正当化できる」一方で、「一度つまずいてしまうと、日々、生きる限り意識させられ続けるタイプの暴力」だ。

 しかしその暴力は、常に我々自身にも向けられている。この意味で「健康」とは、ほとんど賢治の命題の相似形である。食の選択が自らをも「殺す」ことに、なにかの拍子に気づかされてしまった者は、ラーメン屋の暖簾をくぐるたびに深く懺悔する。脂質、塩分、豚肉、精製穀物それぞれを明らかに過剰に含んだ美味そうなラーメンは、いまやあきらかに「食べる」ことの倫理に反している。そして、それもまた「正当化しようと思えばどうにでも正当化できる」問題だ。毎日地雷を踏みつづけようが、十数年経つまでその罪を思い出すことはないからである。
 困ったことに、そのようなラーメンはしばしば美味しい。ここで「美味しさ」は非倫理の免罪符として機能する。この意味で、津川がつまびらかにしたシンプルで明瞭な「健康」の倫理は、たしかに「美味しさ」という美的感覚と乖離するかに見える。

 他方、あくまでも生理学的な意味で言えば、本来「健康」と「美味しい」は表裏一体である。我々の身体は「健康」が「美味しい」を規定し、「美味しい」が「健康」を規定するようなシステムを内在してもいる。「食べる」ことは「健康」の要件そのものであるからして、あらゆる生物は「健康」を保つべく「美味しい」の基準を生理的な水準で調整する。平常時、甘味はカロリーの存在を示唆するものとして好まれ、苦味は腐敗や毒を示唆するものとして忌避される。しかしひとたび空腹に陥れば、中枢神経のAgRP神経と呼ばれる部位が反応し、苦みの感受性は引き下げられ、甘味の感受性はさらに引き上げられる。食物の乏しい環境におかれてもなお、必要十分のカロリーを確保するためである。

 この点で、美食をめぐる言説が「健康」によって制約されてきたという廣瀬・國分の問題意識は、誤謬とは言わないまでもなにか重要な論点を見落としている。おそらく本質的な問題は、この生理学的な美的感覚の調整が、基本的には無意識下において行われることである。つまり我々が美味しいものを「食べる」とき、それが「美味しい」のかどうかという問題はしばしば忘れられている。あなたは昨日食べた命を、これまで食べてきた命を、その都度「美味しい」とは感じていない。ほんとうの問題はこうだ。我々自身が「健康」であるがゆえに意識されない「美味しい」を再び思考するには、いったいなにが必要か。

 殺すこと・殺されること、そして「健康」の問題、これらと「美味しさ」を同じ土俵に上げようとした『東京喰種』は、おそらくは意図せざる水準において社会的・生理的な制約を受け、結果として「食べる」ことの今日性を暴露してもいる。その痕跡を見出すことは、すなわち「食べる」ことを思考することに他ならない。これはおそらく、臨床でもアカデミアでもなく、批評という思考様式が担うべき仕事である。

(次ページへ続く)