記号的身体の健康と美味について ―『東京喰種』論―


「食べる」が辿る顛末

 実は『東京喰種』において、「食べる」ことのルールは何度か軌道修正されている。

 金木は美食家との戦闘のあと、共喰いによって力をつけてきた獰猛な喰種「ヤモリ」と対峙する。このヤモリが金木に、実は共喰いこそが喰種の力を増幅させるのだという隠されたルールを明かす。これを知った金木はそれ以降、ヒトに対して非倫理的にふるまう悪い喰種を食べてその生命を維持し、力をつけ、赫子を肥大化させ、やがて喰種からも捜査官からも危険視される強力な喰種となっていく。
 共喰いという倫理の抜け穴が設定されたことで、喰種が生命を維持することは極めて容易になる。生命維持のために「殺す」ことの葛藤は、悪を倒すという大義名分によって巧妙に上書きされる。「殺す」ことが力の獲得にも寄与するとなれば、力を得るために課せられていたはずの負のコストは存在しなかったことになる。そもそも殺し合いを基本原理とするバトルマンガの中で、生きるために「殺す」ことの倫理的是非を問うという試みそれ自体が一種の自己矛盾をはらんでいたわけだが、この矛盾は主人公が強くなるにつれ顕在化する。強くなった主人公が、自らもまた誰かの食材となりうることを思い出す機会はもはやない。

 一方で新たなルールは、「食べる」ほど「強い」というすでに敷かれたルールと一見問題なく同居しながらも、「美味しい」ものを食べなくてはならないというルールを下位に押しやっている。本来は不味いとされる喰種を、食の喜びとも倫理的な葛藤とも無縁な、何物にも揺さぶられることのない安全圏で食べ続けることが強さへの近道だとしたら、食行動は量に還元される記号的な作業と化し、彼の身体はふたたび生理的身体から、記号的身体へと変質する。もはや記号消費のゲームと化した「健康」には天井がない。敵を倒せば倒すほど強くなる力のインフレが帰結するのは、極めてシンプルで古典的な「力比べ」のゲームである。

  『東京喰種』はここで、バトルマンガとしての限界を迎える。
 石田は決断した。それまで十四巻に渡って続いた『東京喰種』の連載は、金木研が最強の喰種捜査官、有馬貴将の圧倒的な「力」の前に敗れるところで幕を閉じる。数週間の休載を経て再開された新シリーズ『東京喰種 : re』は、続編でありながら全く別の漫画へと変わっていた。復活した金木の身体は、あろうことか「食べる」ことの必要性を隠蔽されていた。

 すべての記憶を喪失した金木は、『東京喰種 : re』において「佐々木琲世(ささきはいせ)」という名の喰種捜査官として再登場した。彼自身の身体は半喰種のまま、ヒトに混ざって喰種を退治する役割を新たに与えられたのである。捜査官の間では、彼をあくまでもヒトとして扱う取り決めがなされている。佐々木/金木は部下のための食事を作ったり、パーティに人を招いて食事を振舞ったりもするが、彼自身がなにかを食べる描写は周到に避けられている。敵対する喰種を食べることもなく、「喰種対策基本法」に則り生け捕りにして収容所送りにするというのが捜査官佐々木のやり方だ。彼がヒトを食べねば生きていけないというルールは、まずフィクションの水準において隠蔽され、結果として作者‐読者関係においても無効のものとなっている。

 この新シリーズでは最終的に、喰種全体が「食べる」ことの葛藤を免除されることになる。終盤で新たに出現した第三勢力を共通の敵として、ヒトと喰種は協同して戦うようになる、というやや穏便な結末に着地する本作のエピローグでは、両種族の共存を図るべく人工ヒト肉なるものが開発されたことがさらりと紹介される。序盤から登場しヒトを食い散らかしていた喰種のひとりは、その人工肉を「不味いな…」とつぶやきながらも試食する。どうやら喰種たちはその極めて記号的食材を食べながら、その後も第三勢力と戦い続けているのらしい。
 種族間抗争を軸とした本作がハッピーエンドを迎えるための選択肢は、そう多くはなかっただろうと推測する。ストーリーを円満に着地させるために、「食べる」という問題自体がまるでタブーのようにして徐々に隠蔽され、最後には解決されてしまう展開のうちに、しかし、むしろ我々が「食べる」ことの本質は垣間見えている。

  「食べる」ことを忘れた記号的身体の飢えは、むしろ根が深い。

 

記号的身体の飢え

 新しいシリーズで、捜査官としての彼が初めて「食べる」のは、最強と畏れられる喰種「梟」の巨大な肉だった。
 別の喰種との戦闘中に突如梟が現れ、捜査官一同が戦慄する中、佐々木/金木はこの梟をやはり力比べによってねじ伏せる。劣勢となった梟は、その巨大な赫子を脱皮するようにして退却する。あとから駆け付けたヒトの捜査官達が目の当たりにしたのは、残された肉をひとり、一心不乱に貪る佐々木の姿だった…。これより先、彼の「食事」はほとんど描かれない。

 力比べの結果としての激しい空腹と、敵ならば食べてもよい・食べることができるのは敵しかないという倫理的な制約とが合わさった時、彼が梟の肉を食べることは必然でしかない。しかし、いまやヒトに紛れて生きている彼は、決して「食べる」ことを許されているわけでもない。彼一人の食事は、ここではどこまでも後ろめたい。山のようにうず高く積まれた肉にかぶりつき人知れず食欲を満たす、いやひょっとすると食欲を満たしてもなお衝動的に貪るしかない、獣のようなおぞましさで描かれるそんな彼の姿に、我々はいつのまにか、はからずも、自らの姿を重ねている。

 もうひとつ、『東京喰種:re』の重要な展開を指摘しなければならない。
 先述の第三勢力は、全人類喰種化の野望を持った勢力であった。彼等が復活させた生物兵器は、周囲に瘴気を撒きちらし、これを吸ったヒトは喰種と化してヒト肉を食べるようになる。生物兵器によって廃墟と化した東京の街にはヒトの死体が散らばり、喰種化したばかりのヒトは自らのうちに芽生えた食欲をどうにも抑えられず死体を齧る。戦況を確認して回る捜査官たちが彼女を見つけると、彼女は泣きださんばかりの顔で弁明する。「どうすればいいかわからなくて…」
 もはやほとんど普通のバトルマンガと化していた本作の読者は、このとき久しぶりに思い出す。人目につかぬところで、抑えきれない食欲を解放し、まるで獣のように食べることのおぞましさを。そして気がつく。そんな食欲を抱えながらも、なにくわぬ顔でバトルマンガ的日常を送っているかのように描かれてきた登場人物たちの白々しさに。

 思えば金木の敗北とは、恥ずかしげもなく食べ、肥大した赫子をその飽食の証としてひけらかしてしてきたことへの罰であった。彼がもうほしいままに喰わぬよう与えられた罰とは、周囲のヒトの眼、つまりは新しい倫理であった。「食べる」ことは、当初とは別の形でタブーとなっている。人間社会に溶け込んだ彼にとって、周囲の人々はみな食材でありながら、「食べる」ことの許されない隣人であり、なによりも彼が「食べる」ことを忌み嫌う監視の眼そのものであった。その人間社会は一貫して「食べる」ことの奥行を隠したまま描かれたが、最後の最後でそれを発露させられた。

 かつて哲学者ジャック・デリダは書いた。「正しく食べなくてはならない」。そしてその方法とは、「けっして自分だけで食べないこと」であるという。しかし、それは本当だろうか。
 死体の肉から顔を上げる喰種たちの姿は、人目があれば決してそのようには食べなかったであろうと思わせるのに十分な、後ろ暗さをもって描かれる。たしかに共食は、その後ろ暗い食欲にとって一種の枷として機能する。
 獣のような食欲は、文明化された共食の場において完全に隠蔽される。そのような制御できない食欲などどこにもないかのように振舞うことが、今日のモラルである。しかしそのような社会性の地平にふと開いた裂け目に、我々はしばしば飲み込まれる。一人になったとき、我々は生理的身体としての生命維持の必要性などはるかに超えた、記号的身体にしか存在しない、記号的な飢えを思い出す。

 共食することはできる。とはいえ常にそうあることはできない。それはほとんど、常に他者と共にあることができない、ということと同義である。人目を離れてヒトの歯肉を貪るように、誰か酒を飲んで別れたあとの帰り道、ふらりとコンビニに入ってスナック菓子や生菓子を買い込むように、いかに共食が正しいかろうともその外部には「食べる」ことの深淵が口を開けて待っている。考えなければいけないのは「食べる」ことよりもむしろ、「食べない」ことのほうである。他者と共に食べることよりも、独りで食べることのほうである。

  『究極の食事』のような健康本によっておこることの本質は、國分の言うような記号消費ゲームではなく禁欲であるような気がする。いまや社会に示さねばならないのは、なにかを「食べる」ということ以上に、なにかを「食べない」ということなのである。生理的な空腹は、「食べない」を前提としたまま満たされる。そしてそのあとに、記号的な空腹が残る。我々は、どこかで必ずそれを満たすことになる。
 回心したかのように人工ヒト肉を食べる喰種たちが、隠れて死肉を貪る姿が見える。表向き極めて社会的に振舞う彼等の欠乏を、我々はよく知っている。

(次ページへ続く)