バーチャルYouTuberの三つの壊れ――設定、身体、画像(『ヱクリヲvol.10』刊行イベント「一〇年代ポピュラー文化のアニマ」特別寄稿)


3.バーチャルYouTuberの三つの壊れ

3.1. 配信の上演

 名倉はVTuberの構造と魅力とを議論する中で、さらに一歩進んで、「上演」という概念を提示する。まず、VTuberにおける配信者は実在的対象そのものとして理解できないことを確認する。だが、VTuberOOOからは説明できないことを否定する。

 なら。魅惑がVTuberだけじゃなくそもそもひとがなにかに惹かれたりすること一般の説明としてあるなら。そんな。ひとがなにかに惹かれる瞬間を――まるで演劇みたいに――再現する「上演」をVTuberはやってる。と考えることはできるんじゃない?

 演劇や映画の上演においておじいさんを演じる俳優はおじいさんである必要はないし。男性を女性が演じたり女性が男性を演じることもある。なら。たとえVTuberにおける配信者がほんとに実在的対象じゃなかったとしても。その位置を演じ。感覚的対象とか感覚的性質とかとの関係を上演することは不可能じゃないはず。

 つまりVTuberはぼくたちを魅惑してる。だけじゃない。

 魅惑は世界のあらゆるとこで起こってて。でもふだんは気付かないその魅惑の構図や構造をVTuberは上演し思い出させる。この「メタ魅惑」とも呼ぶべきふるまいこそがVTuberに惹かれるぼくたちのなかでおこってることなんじゃないの。(ibid.

 名倉は「上演」概念を用いて、わたしたちが「魅惑」されるメカニズムを再現しているという意味で、VTuberは「メタ魅惑」していると指摘する。こうした感覚的対象と実在的対象のずれを引き起こすことで、VTuberは、「魅惑」のメカニズムを再現しているとする。

 その当否はさておき、VTuberを鑑賞することは、ある種、わたしたちが日常に行なっている関係性を独特の仕方で実践しているものだという指摘は重要であり、ひじょうに興味深い。わたし自身考察を行なってきたように、「層状の文化(tiered culture)」として、VTuberという一見したところ特殊な例を介して、アイドル、フィクショナルキャラクタの鑑賞、さらには、おしゃれといった、様々なかたちで、知覚可能なものと、その後ろにあると思われるものとの一致とずれによってもたらされるような、あるいは、社会的関係を楽しむことで鑑賞されるような文化を研究する意義が浮かび上がる。また、VTuber文化のうちで、『鳩羽つぐ』や『高い城のアムフォ』のように、VTuberの構造自体を取り入れた作品もまた注目に値する(ナンバ 2018a; 2018c; 難波 2018b)。

 この方向で議論を進めることは、たんにVTuber文化の特殊性を議論するのみならず、パーソン、ペルソナ、そしてフィクショナルキャラクタが鑑賞される文化の共通の特徴を分析するための出発点となりうる。

 名倉とわたしとは、おおきく異なったアプローチを行なっているものの、対立するわけではない。むしろ、VTuberという文化実践を介して、改めてわたしたちを取り巻く文化を分析するためのアプローチを模索する異なる試みとして互いに参照しあえるだろう。

 

3.2. 壊れているキャラクタ

 名倉による実在的対象と感覚的対象の概念からのVTuberの「魅惑」の説明は、三層理論からはどのように説明しうるだろうか。

 一方で、名倉が指摘していることをより簡単に説明できる。ひとつのペルソナが異なる理解の仕方を要求しうるし、その理解の比喩的な意味でのスイッチングや、それらの理解のずれが独特の経験をもたらしているということを指摘していると理解できる。すなわち、名倉が実在的対象と感覚的対象のずれによって説明することは、三層理論においては、キャラクタのペルソナとして、そして、パーソンのペルソナとしてのこれらふたつの「として」鑑賞の一致とずれによって説明できる。これはもちろん、名倉の議論がより本質的である可能性と両立する。

 他方で、名倉の議論を発展させることで、三層理論を超えて議論すべき点を見いだせる。

 まず、感覚的対象の機能不全によって暗示される実在的対象とは、配信者ではなく、より特定のキャラクタそのもののような奇妙な対象なのではないだろうか。名倉自身、作曲家、批評家である灰街令の議論に言及しつつ、この方向での議論可能性を注1において示唆している。

灰街は「メディウム(その表現を支える媒体)を身体として強く前景化させながらそこにありありと現前するキャラクター」という在り方を「キャラジェクト」とよび。その例として『BLAME!』、『宝石の国』などの3DCGアニメ作品やVTuberを論じながら「キャラジェクト」という概念に迫ってく。そこでは主にゼロ年代に繰り広げられたキャラクター論となにがちがい。なにが新しいのか。といったことが語られている。

 本論の関心はこうした灰街のキャラジェクト論と部分的に重なりつつ。すこしずれた方向にいってるつもり。っていうのは3DCGであることではなく。VTuberVTuberであることそのものとOOOの関係を考えてみたい。(ibid.

灰街は、あるキャラクタの画像がその機能を果たせなくなることで、その性質を介して、何か別のものがを前景化させるメカニズムを議論している。

……重要なのはその身体のぎこちなさが前景に現れる諸シーンである。例えば垂直跳びにおいて技術の都合上キズナアイは「跳ぶ」ことができずそこで体をぎこちなく震わせるしかない。

 このようなぎこちなさはVtuberの動画においてしばしば技術的な問題によって前景化される。……重要なのはこのような身体の「バグ」がむしろそこに現前する身体性を強く現してしまうという点だ。普段私たちはドアノブを扉を開ける機能として捉えている。私たちがドアノブ自体の物体性について考えるのはドアノブが壊れた時であり、その時初めてその扉を開けるという機能に回収されないドアノブの身体性を発見するのだ。Vtuberの動画においてしばしば起きてしまう「バグ」はその身体性と強く結び付いているのである。(灰街 2018、強調は原文)

 ここで灰街の議論を詳細に分析することはできない。だが、ここでわたしが惹かれる事態は、名倉が示唆し、灰街が指摘する感覚的対象の機能不全とそれによって暗示される何か、という議論が、わたしの三層理論におけるフィクショナルキャラクタ理解を揺らがせはじめることだ。

 三層理論において、わたしは、フィクショナルキャラクタを表象する画像や映像がVTuberのアバターである、という理解をしていた。このとき、フィクショナルキャラクタという対象についてわたしは詳しい話をしていない。しかし、VTuberの画像が崩れ、壊れるとき、そこで鑑賞者が見出すのは、配信者でもなく、キャラクタでもない、空虚で壊れた対象の表象ではないだろうか。

 崩れた画像は特定のキャラクタの表象に失敗する。しかし、その時点から何も表象しないのではなくて、わたしたちがそれを画像表象として見ようとする限り、わたしたちは崩れた画像を自動的に表象として機能しはじめさせてしまう。それじしんが指し示すものをもはや失ったのに、それが表象しはじめるとき、いったい何が指示されているのか。それは、一方で、フリーイラストにおいて描写されるフィクショナルキャラクタのような、薄い性質しかもたないキャラクタを指示する画像ではない。それは、他方で「やる夫」や「初音ミク」のような、遍在するキャラクタを指示する画像でもない。それは、キャラクタとしての同一性を持たない、キャラクタ未満の何かを指示する画像だ。こうした画像によって指示される対象を「壊れているキャラクタ(collapsed character)」と呼んでみたい。

 壊れているキャラクタは、特定のキャラクタの画像が壊れることで表象され、あるいは、はじめから壊された画像から立ち現れる対象である。それは機能しないはずの画像が表象してしまう奇妙な対象である。致命的な作画崩壊、グリッチ処理によって原型を失ったキャラクタの画像、雨に濡れ滲んだポスター、破られたイラスト、割れたディスプレイ。これらの壊れた画像から、壊れたキャラクタは姿を現わす。

 キャラクタの画像が、いつ壊れているキャラクタを表象しはじめるのかについての条件ははっきりしない。例としては、たんに四肢や身体が崩れるのみならず、その顔面がキャラクタを指示できなくなる地点をあげられる。たとえば、いわゆる作画崩壊において、キャラクタの指が通常より多く/少なくなっても、その画像のまとまりは特定のキャラクタを指し示しうる。だが、キャラクタの顔そのものに大きな変化が起こる時、その画像のまとまりはもはやその特定のキャラクタそのものを指し示すことはできなくなる。

 壊れているキャラクタ概念は、名倉と灰街の指摘に共通する、ずれや機能不全への注目を手がかりに、しかし、ふたりが注目するものとやや異なる対象を扱うことを目指して導入されている。名倉は、感覚的対象としてのキャラクタと実在的対象としての配信者のずれを、灰街は、キャラクタの画像としてのアバターと、それが追随できないことで現前する身体性とのずれを語っている。

 わたしは、あくまでフィクショナルキャラクタとキャラクタの画像のあいだでの参照関係について語ろうとしている。壊れているキャラクタは、あるフィクショナルキャラクタを表象するキャラクタの画像のまとまりの約束事の機能不全によって発生する。

 壊れているキャラクタそれ自体は、これまで、様々な状況で出現してきた対象である。幾多の作画崩壊によって、打ち捨てられたページによって。だが、壊れているキャラクタは、VTuberという実践によってそのあり方を際立たせている。

 VTuberは、フィクショナルキャラクタの画像を用いて、それをパーソンの動きと重ね合わせることで、特有のペルソナを呈示する実践である。その時、ふつう、パーソンはフィクショナルキャラクタを演じているわけではない。もちろん、VTuberのうちには作り込まれた設定を持ち、台本にそって話すVTuberも存在しうる。だが、一般に、VTuberにおいてたのしまれているのは、そのパーソンの性格や生活がペルソナを介して垣間見られる点にある。キャラクタの画像は、それ自体で自立して特定のキャラクタを表象するには、すでに特定の結びつきを持ってしまっている。つまり、パーソンとのつながりを強く持っている場合が多い。

 そのとき用いられているキャラクタの画像は、もちろん、薄いものであれ特定のフィクショナルキャラクタを表象するが、しかし、もっぱら、パーソンの動きを表象するための画像として用いられる。あるVTuberが動いているとき、鑑賞者は、一方で、その画像の運動をパーソンの動きとして理解しつつ、同時に、何らかのフィクショナルキャラクタの動きとしても見てしまいうる。

 ここからわたしは次のように指摘したい。VTuberのアバターが崩れ、バグり、壊れているキャラクタを出現させるとき、ペルソナの重なりが壊れる。すなわち、もともとは重なり合っていたパーソンとしてのペルソナとキャラクタとしてのペルソナが壊れる。

 灰街が示唆するように、そして名倉が分析を試みたように、VTuberにおけるアバターの壊れが重要なのは、それがVTuberの構造をまざまざと見せつける点にある。もともと、VTuberは、パーソンのペルソナでありながら、しかし、キャラクタの画像が重なり合った対象である。その重なり合いによって、キャラクタの画像とかわいさ、パーソンの動きのかわいさなどが複雑に関係しながら鑑賞されている。このとき、キャラクタの画像が壊れることで、それは、灰街が示唆するように、もともとのキャラクタとは別の対象を表象しはじめる。それによって、ひとつのペルソナに重ね合わされていたはずの、パーソンのペルソナとしての、そして、キャラクタのペルソナとしての二つのペルソナは壊れ、それぞれの存在を際立たせはじめる。VTuberであるパーソンの、そして壊れているキャラクタの存在を。

 

3.3. バーチャルYouTuberの三つの壊れ

 以上の議論を再考すれば、名倉、灰街、そして、わたしはそれぞれ別の壊れについて議論していることがわかる。それを図式的に整理すればつぎのようになる。すなわち、

(1)ペルソナイメージの壊れ:キャラクタのペルソナイメージとパーソンに帰属されうるペルソナイメージの重なりの壊れ。

(2)身体の壊れ:キャラクタとパーソンの身体の重なりの壊れ。

(3)ペルソナの壊れ:キャラクタのペルソナとパーソンのペルソナの壊れ。

 これらを図示すると次のようになる(図3)

図3 三つの壊れ

 第一に、名倉が指摘している壊れは、三層理論の表現を用いれば、「ペルソナイメージの壊れ」として理解できる。これは、フィクショナルキャラクタの設定としてのキャラクタのペルソナイメージと、それに準拠するはずのパーソンの性格や言動が形作るパーソンのペルソナイメージとのあいだでの壊れを指す。名倉があげるように、月ノ美兎がもともとは、「清楚な委員長」というキャラクタ設定を持っていたが、度重なる清楚とは言えない独特な言動によってかたちづくられたあらたなペルソナイメージがその設定を壊し、この壊れから見出されうる魅力を論じている。

 第二に、灰街が指摘している壊れは、「身体の壊れ」と名づけられる。身体の壊れは、モーションキャプチャによって、同一性を保っていたはずのアバターの身体とそれを動かすパーソンの身体との関係が、様々な制約、ノイズやバグによって切断され、ずれ込み、つながりを失って壊れ、さらに、鑑賞者に見えている壊れた身体が別の身体を表象しはじめる事態を指す。灰街は、例として、キズナアイ(のパーソン)が飛び跳ねるものの、キズナアイのキャラクタの画像(アバター)は奇妙に痙攣し、実際のパーソンの動きを追随できないときに現象する身体の壊れを例示している。

 第三に、わたしが注目している壊れは、「ペルソナの壊れ」である。ペルソナの壊れは、キャラクタの画像のバグり、壊れが、もともともっていたペルソナとの重ね合わせを崩壊させ、パーソンのペルソナを置き去りにし、壊れているキャラクタを出現させる現象を指す。わたしの焦点は灰街の議論の対象と一部重なり合う。だが、身体よりももうすこし抽象的に、パーソンと壊れているキャラクタがべつべつの存在として輪郭をもちはじめる事態に注目している。たとえば、3Dモデルのアバターたちは、しばしば予想できない動きを行い、腕や髪が身体にめり込んだり、関節があらぬ方向に曲がったり、身体が伸びたりと、崩れ、壊れることがある。そのとき、身体の現前とは重なりつつも、薄いものであったとしても、べつのキャラクタ、壊れているキャラクタが姿を見せるように思える。むろん、わたしは、この壊れているキャラクタの出現が一瞬であり、すぐにまた、もともとのキャラクタの画像として落ち着くことを認める。だが、わたしは、その一瞬のキャラクタの出現に奇妙な魅力を感じる。その瞬間の宙吊りのペルソナにわたしが何を見出すべきか判断できなくなる瞬間に不明な快楽を感じることがある。

 これらの壊れの議論は、どれかひとつののみがただしいわけではない。それぞれが別の角度から異なる壊れを見出したものだ。バーチャルYouTuberにおける壊れは、これ以外にも様々な関係がありうるし、また、これらの壊れの関係をさらに分析することもできる(あるいは、松下哲也が議論するように、こうした壊れからVTuberの可能性を考察する方向もあるだろう(松下 2018))。わたしは、これらの壊れの関係を手がかりに、さらに、アニメーションのキャラクタの、設定の、身体の、(あるいはペルソナの?)壊れを分析する。バーチャルYouTuberの分析にとどまらず、壊れの議論はフィクショナルキャラクタとその画像との独特の関係とふるまいを分析するにあたり重要な手がかりになるはずだ。

 

おわりに

 本稿では、名倉の四方対象の枠組みを整理しつつ、名倉が指摘したバーチャルYouTuberの構造と魅力とが三層理論からどこまで説明できるか、そしてできないかを検討した。検討を通じて、VTuberの魅力を、壊れているキャラクタ、そして上演する配信から検討する重要性が明らかになった。バーチャルYouTuberをめぐる思索においていまだ見逃されている余りのものを分析する試みは途上である。これから、バーチャルYouTuberの分析を通じて、この文化とその実践の特殊性を明らかにする作業が、そして、この文化の分析を介して、一〇年代の特徴を切り出す作業が必要とされる。

 つねに過去と未来との中で現在を見つめ、さらなる可能性を開くこと。本稿の議論がその一助となることを願う。

 

参考文献

灰街令. 2018. 「キャラジェクトの誕生」<https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2748/>.(2019年7月21日最終アクセス)

Horton, D., & Wohl, R., 1956, “Mass communication and para-social interaction: Observations on intimacy at a distance.” Psychiatry, 19 (3), 215-229.

松下哲也. 2018. 「キャラクター・ギークカルチャー・バーチャルYouTuber」『ユリイカ』50(9)特集バーチャルYouTuber、181-187頁.

名倉編. 2019. 「オブジェクト指向VTuber論を開始する」Sci-Fire, <https://scifire.org/2019/01/20/4580/>.(2019年7月21日最終アクセス)

ナンバユウキ. 2018a. 「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503>. (2019年7月21日最終アクセス)

––––.  2018b.「バーチャルユーチューバの三つの身体––––パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン>. (2019年7月21日最終アクセス)

––––. 2018c「高い城のアムフォの虚構のリアリズム––––虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実>.(2019年7月21日最終アクセス)

難波優輝. 2018a.「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50 (9)特集バーチャルYouTuber、117-125頁、青土社.

––––. 2018b. 「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号、81-87頁、紐育春秋.

––––. 2019. 「バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学––––配信のシステムとデザイン」『ヱクリヲ vo. 10』、44-64頁、ヱクリヲ編集部.

ヱクリヲ vol.10 
特集Ⅰ「一〇年代ポピュラー文化 〈作者〉と〈キャラクター〉のはざまで」
アイドル/メディア論研究で知られる西兼志と、ポップカルチャー批評のさやわかによる対談【アイドル〈の/と〉歴史】ほか、 一〇年代文化が持つコミュニケーション要素の系譜を総覧した、 【コンテンツ-コミュニケーション発展史 「会いにいける」から「反逆される」まで】他を掲載。
●さやわか×西 兼志「アイドル〈の/と〉歴史」
●高井くらら「コンテンツ-コミュニケーション発展史 〈会いにいける〉から〈反逆される〉まで」
●難波 優輝「バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学――配信のシステムとデザイン」
●楊 駿驍「あなたは今、わたしを操っている。――「選択分岐型」フィクションの新たな展開」ほか
特集Ⅱ「A24 インディペンデント映画スタジオの最先端」