連載・『三体』から見る現代中国の想像力 第三回/宇宙から遠く離れて――『三体III:死神永生』について


※本記事は『エクリヲ vol.13」に掲載されたものです。

第一回/『三体』における閉域と文脈主義
第二回/未来は否定から生まれる――『三体2:暗黒森林』について

連載・『三体』から見る現代中国の想像力 第三回
宇宙から遠く離れて――『三体III:死神永生』について

 今回は〈三体〉シリーズの第三作にして最終作『三体III:死神永生』(以下『死神永生』)を取り上げて論じていく。この作品は、第一作、第二作と比べて、量的にも質的もはるかに膨大で複雑であり、その内容のすべてをここで論じるのは不可能である。したがって、本連載の第一回と第二回で抽出した「文脈主義」と「生存」という中心的なテーマに沿って『死神永生』を読解していくことにする。

 前回の『三体II:黒暗森林』についての議論では、この作品はまさに未来が不可能だという条件を引き受けながらも、それでもあらゆる形の現状否定を通して未来の可能性を模索し、無理やり現在の閉塞的な状況から我々を解放する道筋を現出させようとしていることを論じた。そのような徹底した現状否定的な原理こそ「生存」というものだった。

 しかしながら、「生存」という原理は論理的にかなり危ういものであることも前回で論じた通りである。それはとりあえず人類を未来に進ませることができ、その中で生じる人類自身の変化(文脈の変更による価値の相対化。例えば、生存のためなら全体主義になっても、一部の人間を犠牲にしても構わないという倫理の喪失など)によるダメージから身を守ることを可能にするが、その戦略は「何のために生き延びるのか」という問いを徹底的に排除したうえで初めて可能になる。

 劉慈欣の作品はしばしばそのモチーフに対する表層的な分析から「逃亡主義的」だとして非難されることが多いが、前回の最後で述べたように、生存の根拠をめぐる問題においてこそ真の逃亡主義、すなわちいかに世界を肯定するのかという問いからの逃亡主義、世界の肯定という義務そのものに対する否定が孕まれているとさえいえるかもしれない。

 このように、第二作では三体人の地球侵略は阻止され、人類は救われたという物語上の解決が与えられたが、その解決のために構想された原理は実に多くの問いを提起し、未解決のままになっているのである。真の逃亡主義はいったい何を意味するのか。そもそも世界を肯定するとは、どのようにして可能なのか。そして、「生存」はその危うさにもかかわらず、本当に普遍的な原理として不変なのか。もし文脈主義という〈三体〉シリーズの基本的なモードを「生存」という原理そのものに適用したら、それもまた文脈の変化に応じて複数化するのではないか。言い換えれば、「生存」は一義的な概念ではなく、より複

雑な内容を持ち、その都度変化していくものなのではないか。

 これらの問いはまた、〈三体〉シリーズの第三作『死神永生』における根本的なテーマの一つでもある。少なくとも本連載が設定した視点から、そのように考えられる。

一.内容要約

 本作は六部構成となっている。時間的には宇宙の終わりまで扱っており、内容や主題も前二作よりもはるかに多様化、複雑化しているため、ここではおおよそのアウトラインの提示に留めておく。

 二〇一〇年に面壁計画(ウォールフェイサー・プロジェクト)の実行が承認されたと同時に、その裏で別の計画が進行していた。その計画とは「階梯計画」である。具体的には宇宙に人の脳だけを送りだし、三体人がそれを受け取るように仕向ける作戦である。そうすることによって、三体人に脳から人間を再生させ、ある種のスパイ活動を可能にする。

 その計画に選ばれたのは雲天明(ユン・ティエンミン)だった。彼は癌を患い、安楽死を選び、そして死ぬ前に程心(チョン・シン)という密かに恋心を抱いていた女性に恒星をプレゼントした。この程心こそ、階梯計画の実質的な発案者と実行者だった。階梯計画が実行されたのちに、程心はその結果を見届けるために冬眠に入った。

 『黒暗森林』における羅ルオ・ジー輯の努力が実って三体人の地球侵略計画が頓挫し、二二一六年から、核抑止力によって維持される冷戦状態にも似た「威懾紀元」の時代に入る。戦争は終わったと考えた地球は、三体人との黒暗森林戦役で太陽系を脱出した宇宙船「青銅時代」号と「藍色空間(ブルー・スペース)」号を呼び戻そうとする。青銅時代号はそれに応じて地球に戻るも、反人類罪で乗員は全員処刑される。藍色空間号はそれを見て全速力をもって太陽系から遠ざかっていく。引力波を発射でき、地球と三体世界の座標を宇宙に暴露できる宇宙船「万有引力」号は、三体世界の無人探査機「水滴」二機とともに藍色空間号を追う。

 二二六七年。艾(アイ)AA博士(女性)は雲天明が購入し程心に贈った恒星DX3906の惑星が人類にも居住可能として、その所有権の問題で程心を冬眠から呼び覚ます。程心は聖女に祭り上げられ、引力波の発射権を握る羅輯の後継「執剣人」の選挙に出馬し、最終的に選ばれることになる。しかし、彼女が「執剣人」になった瞬間、三体人は突如太陽系にある引力波発射アンテナを攻撃し、程心は最後まで三体文明と地球文明の座標を発信する決心ができず、地球は三体人によって完全に占拠される。程心はオーストラリアの人類保護区における人間の過酷な状況に耐えられずに失明し、艾AAとともに再び冬眠に入る。万有引力号と藍色空間号も同時期に水滴の攻撃を受けて四次元空間の破片に入るが、両艦は水滴を破壊するとともに、引力波を発射し、三体世界と地球の座標を宇宙に暴露した。二二七三年に三体世界が破壊され、地球もいずれ破壊されるため三体人は地球から撤退。

 二二七四年、程心は冬眠から目覚め、失明を治療する。雲天明が三体人によって復活させられ、程心との遠隔会話が実現する。雲天明は童話を語り、地球が生き残るために採ることが可能な戦略を暗示する。雲天明の童話に基づいて人類は三つの戦略を捻出する。それらの戦略とは、光速宇宙船による「逃亡計画」、攻撃のダメージから逃れるために木星などの大惑星の背後に移住するという「掩体計画」、そして永遠に出られないように太陽系全体を低光速黒霧で覆う、安全声明としての「黒域計画」である。光速宇宙船の建造は痕跡を残すうえ、すべての人類を脱出させることはできないため、実質的に地球を放棄することになる。その推進は法律で禁止され、黒域計画もまた巨大な永続監獄でしかないために放棄され、掩体計画が採択された。程心は再び冬眠。

 二三五四年、程心は冬眠から目覚める。太陽系に対する攻撃は三体世界に対して行われたような物理攻撃ではなく、空間全体を光速で二次元化するという「物理法則の改変による攻撃」だったため、光速宇宙船がなければ生き残ることは不可能となり、掩体計画は無意味と化す。羅輯らが秘密裏に研究製造していた光速宇宙船「星雲」号に乗って、程心と艾AAのたった二人の人類が太陽系から脱出した。

 二人はかつて雲天明が程心に贈ったDX3906星系の惑星に到着する。そこで二人を待っていた万有引力号の乗組員・関一帆の口から、万有引力号、藍色空間号ら宇宙船上の人類は生き残り、宇宙で新たな居住区を建設していることを知る。関一帆と程心は関の宇宙船に乗って探査に出かけたときに、雲天明が程心に会いにきたという知らせを艾AAから受け取るも、時間が低速に進む「死線」にとらわれ、脱出したときにはすでに一八〇〇万年以上進んでいたことを知り、雲天明が死ぬ前に残した小宇宙に入る。そこで程心は人類文明の記録である「時間の外の過ぎ去りし出来事」を執筆する。大宇宙から宇宙を再生させるための宇宙回帰運動の知らせを受け取り、小宇宙の質量をすべて大宇宙に返還し、程心と関一帆もまた大宇宙に戻る。

二.黒域計画――ディストピアとしてのユートピア

⑴三つの生存戦略

 人類という種の存続と生存にとって、雲天明が語った童話に基づいて人類が考え出した三つの可能な戦略がきわめて重要なものである。したがって、「生存」を主に考察する本連載ではこれらの戦略を中心的な対象として取り上げる。

 複数の戦略が提示されているとはいえ、その準備と実現に費やせる時間と資源が限られているうえ、それぞれの戦略に固有の問題があるために、そのなかから適切なものを選ばなければならない(と人類社会は考えた)。どの戦略を選び取るかは最終的に人類の運命を決するものであり、間違えることは決して許されないのである。

 しかし、ここで注意すべきは、示唆された戦略は単に生存の失敗と成功の確率のみに関わっているのではないということである。実際、どの戦略も人類の生存にとって成功の可能性を提示しているし、どの戦略がより成功に近いかの確率は、表面的には計算可能のように見えても、原理的には計算不可能である。したがって、それぞれの戦略は成功の確率だけでなく、同時に「生存の仕方」の差異にも関わっている。すなわち、ここでの選択は同時に「どのような生存を選び取るか」ということの決定を要請しているのである。

 以下、三つの戦略の内容を簡単に示す。

1.掩体計画

 直接的には雲天明の情報とは関係のない、人類自身が決めた計画である。

 木星、土星、天王星、海王星という四つの大惑星を掩体として、人類の生存拠点をそれらの背後に建造し、先進異星文明による攻撃のインパクトから身を守るという計画。太陽が破壊された後も核融合でエネルギーを生み出すことが可能である。建設のための資源もまた地球外から採取するため、地球の資源と経済に対する影響が少ない。

 その時点で人類が持っている技術のみで実現でき、倫理的・政治的・経済的にリスクがもっとも低く、いちばん現実的な計画だとされている。

2.黒域計画

 太陽系全体を低光速のブラックホールに変え、その状態をもって太陽系は安全であるという、敵対的な他文明に対する声明とする計画。理論的には未知な部分が多いが、いったん実現されれば、生存にとってもっとも安全を確保できる計画でもある。太陽系を失い危険に満ちた宇宙空間内で流浪する運命を免れ、長期にわたって住み慣れた地球環境での生活を可能にするが、同時に大きな代償も伴う。

 しかし地球文明はこれに大きな代償を支払わなければならない。太陽系を宇宙の他の部分と隔絶させることは、人類が自分が身をおく宇宙の直径を一六〇光年から五〇天文単位にまで縮小することを意味する。光速〔が秒速〕一六・七キロの世界における生活はどのようなものかについてまだ知ることはできないが、確かなのはその世界ではコンピュータと量子コンピュータはきわめて低い速度でしか実行できず、人類は低技術社会に後戻りするということだ。それは智子(ソフォン)よりも強力な技術封鎖だ。したがって、黒域安全声明は自己隔絶以外にも、自らを技術的な不能にするという側面も持つ。それは自ら作りだした低光速の罠から自力で抜け出す力を人類が永遠に持てないことを意味する。[1]

3.逃亡計画

 光速の宇宙船を建造し、太陽系から離れるという計画。

 光速宇宙船は地球文明にいかなる安全保障も与えない。それは星間航行のみを可能にする技術である。三つの計画のなかで未知な部分がもっとも多く、リスクがもっとも大きい計画なだけでなく、たとえ実現したとしても広漠とした宇宙を流浪する人類の前途は未知のままである。さらに、誰が逃げ、誰が残るのかという倫理的な問題――「死の不平等」問題――を引き起こすため、政治的にはもっとも実現しにくい計画である。

⑵黒域計画のユートピア性

 三つの計画のうちどれを選ぶかについて、人類社会で大きな論争が起こった。大衆は光速宇宙船による逃亡計画に否定的な反応を示した。たとえそれが実現されたとしても自分たちには関係のない話だし、宇宙空間に対する恐怖もまたこの三世紀のあいだでかつてなく増幅されていた。黒域計画に対しては残念だという気持ちを抱くが、安穏な生活のためならやむを得ないと考えている。しかし、黒域計画の実現に必要とされる高度な技術は神のみが持つものと考えられているため、彼らは掩体計画をもっとも現実的な計画だとして支持している。

 それに対してエリート層は、光速宇宙船計画か黒域計画かのあいだで対立していた。光速宇宙船を支持するエリート層は、人類の最終的な安全は銀河系への領土拡張と移民によって保障され、この冷酷な宇宙において外向型の文明しか生き残れないと考える。光速宇宙船の支持者たちは掩体計画には反対しないが、黒域計画に強い嫌悪感を持つ。それは確かに人類の長期的な生存を可能にするが、そのような状態は文明全体にとってほとんど死と変わらない。

 光速宇宙船に反対するエリート層は、人類社会は長い苦労の歴史を経て、やっと民主的な理想社会に入ったのに、太陽系を捨てて宇宙に入ったら不可避的に社会的な退化をもたらすと考える。彼らからすれば「宇宙は虫眼鏡のように、一瞬で人類の暗黒面を最大にできる」[2] 。民主的な人類社会が無数の全体主義世界を生み出すなど彼らには到底容認できないのである。

 結果として、リスクがもっとも少なく、実現可能性がもっとも高い掩体計画が選ばれることになる。そして、光速宇宙船計画は逃亡主義の危険を引き起こすとして、その開発は法的に厳しく禁止される。ここで重要なのは、大衆にしても、光速宇宙船の支持者にしても、光速宇宙船の反対者にしても、誰一人として黒域計画を歓迎すべきものとして考えていないということである。光速宇宙船計画は熱狂的な支持者を生み出しているし、掩体計画は現実性が認められているのに対して、唯一黒域計画だけが否定的な評価しか下されていない。

 これは「生存」の確保を最上の価値としている〈三体〉における地球文明にとってとても奇妙な事態である。というのも、黒域計画がもっとも長期的な安全を保障する計画であるからだ。太陽系全体がブラックホール化すれば、いかなる外部からの攻撃とも無縁な生活を送ることができ、黒暗森林の論理から逃れることができる。にもかかわらず、この生存を最大限保証する計画が強い嫌悪を引き起こし、いかなる積極的な支持も得られていないのはなぜなのか。ここに「生存」という概念を掘り下げるための手がかりがあるように思われる。

 まず、「黒域計画」の実現はいったいどのような帰結をもたらし、どのような世界を実現するのか。この点について中国の哲学者趙汀陽(ジャオ・ティンヤン)が詳しく論じている。それを参照しながら議論を進めよう。

 趙によれば、黒域計画が実現すれば、人類文明にとっての発展が実質的に存在しなくなるという。

 それ〔人類が実質的に発展できなくなること〕が意味するのは、すべての問題に最終的な答えが与えられ、もはや神秘的なことが存在しなくなるということである。〔中略〕もしある文明がその能力のすべての可能性を汲み尽くすことができれば、新しい問題は現れなくなり、不断の試行錯誤を通してすべての問題の最適解を探り当てることができる。政治にしても、経済にしても、法律問題にしても、すべて有限条件下の最適解に辿り着ける。〔中略〕哲学はもはや存在せず、歴史は帳簿に成り下がり、芸術は雑技に変わる。文明のすべての問題に標準的な答えまたは最終原理が与えられたとしたら、自己の反復しか残らず、文明の行為は単に正解の答え合わせを意味する。[3]

 言い換えれば、黒域計画の実現は絶対的な静止状態、まったく変化が生じない状態をもたらす。ちょうど時計が無限に回りつづけてもいかなる新しい物語も生み出さないのと同じように。そのような文明においては、文明の生存が完璧に保証されるだけでなく、文明の意義に悩まされることもない。そこでは真の意味で歴史が終わり、生存のみが残っている。趙もいうように、見方によってはここは「桃源郷」のようなユートピアにも見える。すべての問題が解決されているため、いかなる苦しみも悲しみもなく、生きる意味などを自問する必要もない世界。ここはまさしく生存にとって最高の世界である。

 しかし、ここで最初の問いに戻らなければならない。なぜこのようなユートピアが作品の論理ではもっとも否定的なものとして退けられているのか。もし趙が定義するように生存とは「存在しつづけること」だとすれば、このような否定的な描き方、言い換えれば論理的にユートピアとしてみなすべき世界をディストピアとして描くことは正当化されえないはずである。この矛盾を解決するために、生存という概念自体の中に区別を設けなければならない。すなわち、このような生存とは異なる、目指されるべき生存の形、つまり、単に存在しつづけることとは異なる生存の形が作品の中で想定され、かつ理想とされている

と考える必要がある。

⑶黒域計画のディストピア性

 なぜ黒域計画がもたらす世界が一種のディストピアとして描かれているのか。作品の主人公程心が懸命に黒域計画の良い側面を見出そうとしてもできず、結局「私も黒域計画があまり好きではない」と告白せざるをえなかった[4]、その理由とは何か。

 我々は前回の『黒暗森林』に対する分析のなかで、生存が根拠づけられなければならないものであること、しかしその根拠づけは原理的な難しさゆえに否定的に先送りされ、主人公の幻想における愛によって仮留めされていたことを見た。生存の根拠づけは、趙の定義を敷衍すると、「存在しつづけるのは何のためか」という問いに言い換えることができる。この「何のためか」という部分が意味しているのは、存在しつづけることそれ自体だけでは事足りず、それを価値づけ、意義を与える文脈を必要としているということである。そして、価値と意義を付与する文脈は、存在しつづけること自体からは決して生み出されることのないもの、それの外部から到来することしかできないものである。

 黒域計画を激しく嫌悪する光速宇宙船の支持者たちは、黒域における生は死と変わらないと考えている。なぜか。そこではすべての問題に答えが与えられていると趙が述べていたが、より踏み込んで言えば、すべての問題が解消されているということでもある。なぜならそもそも問いを構成すること自体、文脈という外部性を必要とするが、黒域ではそのような外部性としての文脈が入り込むことができないからだ。そこでは、「存在しつづけるのは何のためか」という問いを発することができないのみならず、存在しつづけることが根拠づけられないため、そもそも存在しつづけないこととの区別ができないのである。

存在しつづけることと存在しつづけないこと、両者は端的に等価な選択肢として与えられているのである。

  生存することも、しないことも同じだとすれば、それはユートピアとして現れると同時にすぐさまディストピアに反転してしまう。黒域計画のユートピア性とディストピア性はまったく同じもの、コインの裏表である。したがって、生存すること、すなわち存在しつづけることのために、生存しないこと、すなわち存在しつづけないこともまた必然的に肯定されるような世界を選択することは矛盾以外の何ものでもない。エリートたちの嫌悪も、程心の漠然とした敬遠もまた、このような矛盾した構造を直観したからにほかならない。生存には根拠=文脈が必要である。

三.「理想的」な生存

 存在しつづけることとしての生存は、それ自体では正当化されえない。存在しないことよりも「望ましい」選択肢である必要がある。ここでは生存の形態が複数化されている。どのような生存を選ぶのかという問いが発され、悪い生存か良い生存かの区別が確立されているのである。言い換えれば、存在しつづけ、かつそうするだけの意義を有することが、『死神永生』における生存の理想形だということだ。

 前作の『黒暗森林』で提示されていた生存は、ある意味「ゼロ道徳」の宇宙において否定的に導出された、やむを得ない、現実的な選択肢だったが、『死神永生』で提示されている生存の理想形の存在はその「ゼロ道徳」における生存の中に「良い」と「悪い」という道徳的区別を再び導入しているのである。

 人類に生存至上主義を強いたのは「黒暗森林状態」という新たな世界観、すなわち文脈の到来である。それは相手を滅ぼさなければ自分が滅ぼされるような弱肉強食の世界であり、他者を滅ぼすことで自己を守り、自己保存を可能にする世界である。そこで生き延びるためには、三体世界がかつてそうしていたように、徹底的に自己内部における矛盾と対立を排除しなければならない。したがって、全体をたった一つの意志、たった一つの行為にまとめようとする全体主義こそ「黒暗森林状態」を生き延びるための合理的な社会形態になる。

 「黒暗森林状態」という新しい文脈は、かつて我々が奉じていたさまざまな価値――人権意識、平等、民主主義などの人類同士が平和、平穏に生存するための価値――の放棄もしくは新しい位置づけを要求する。言い換えれば、そこで生じているのは、我々の世界を価値づけてきた文脈の根本的な組み換えである。

 では、なぜそこまでして生存を求めるのか。

 前回で論じたように、「たとえ生存が人間的な倫理に反する行為をともなうとしても、人間性の未来における再生可能性の保存にその根拠がある」と劉慈欣は考えており、「生存は未来を、つまり可能性もしくは潜在性を確保できる。そのためならば、現在の文明における非倫理的な行動も正当化でき、倫理的な判断を先送りにすることができる」[5] 。『黒暗森林』の例でいえば、ルネサンスの遺産=ヒューマニズムを犠牲にするのは、別様の新しいヒューマニズムの到来、ないし別様の新しいヒューマニズムの絶えざる到来を可能にするためである。

 このような生存を黒域におけるそれと比べたとき、両者の違いは明らかである。黒域における生存では、歴史は存在できず、文脈の変化は決して起こらない。未来も、可能性も、潜在性も存在しない。したがって、両者の違いは、文脈の変化を犠牲にすることによって成り立つ生存(黒域計画)と、文脈の変化を前提とする生存(光速宇宙船による逃亡計画、掩体計画)の違いだといえる。

 ここでは生存に対する価値づけの反転が起こっている。

 『三体I』や『黒暗森林』で提示されていた文脈主義とは、特定の文脈の中で生きているとしても、その文脈自体が偶然的なものであり、早晩別の文脈に取って代わられるため、その際に大きなダメージを受けてしまうというものだった。文化大革命が終わった後、紅衛兵たちは英雄でもなく敵でもない、ただの「歴史」になってしまったし、宇宙の真理だと思われたものは操作可能だった。我々が現実だと考えていたものは実は操作可能な「ヴァーチャル・リアリティ」のようなものでしかなかったのかもしれない。そのような相対化は我々のリアリティの足場を崩し、恐怖を引き起こす。ゆえに生存とは文脈の変化によるダメージを少なくするためにこそ要請されていたものだった。それはやむを得ない選択肢であり、特に『黒暗森林』では否定的にしかその根拠を示せなかったのである。

 他方、『死神永生』においては、黒域のような文脈の変化の起こらない世界と比べれば、文脈が絶えず変化し、相対化されていく世界はむしろ肯定されるべきものとして現れてくる。言い換えれば、文脈の変化によって被る根本的なダメージ(変容、異化など)と比べて、文脈の変化がない世界、すなわち一義的に決定された世界は宇宙における「根本的な悪」として現れるのである。こうして、否定的に描かれてきた文脈主義的な世界を肯定する契機が出現する。そして、そのような世界で生きのびるための生存、変容を被りながらもそれに適応して存在しつづけることが肯定される。ここで、生存という概念は、「変化に耐える」という否定的な定義から、「変化を獲得する」という積極的な定義を得る。

 『死神永生』の後半において、掩体計画は結果的に間違った選択として提示される。なぜならそれは三体世界が辿った運命を参考にして、「物理的な打撃を受けるだろう」という既知の文脈においてのみもっとも現実的な選択肢だったからだ。しかし実際に受けた攻撃は太陽系全体の「次元降下」、光速宇宙船がなければ決して逃れることのできない、「宇宙戦争」というより大きいスケールで展開される、新たな文脈からの攻撃だった。掩体計画は文脈の変化を最小限に想定してしまうという、これまでも人類が繰り返してきた過ちを再度繰り返してしまったのである。太陽系の滅亡はもはや決定的なものとなり、主人公の

程心と艾AAを除いて、そこで生活していた人類全体も滅ぶ運命にある。

 しかしながら、人類という種が滅んだわけでは決してない。内容要約でも述べたように、太陽系を脱出した程心と艾AAはDX3906星系で二人を待っていた万有引力号の乗組員・関一帆の口から、万有引力号、藍色空間号上の人類は生き残り、宇宙のさまざまな場所で居住区を建設していることを知る。青銅時代号と藍色空間号は最初に人類の変化を受け入れ、新しい人類になることを受け入れた「世界」だった。そして、万有引力号とともに引力波を発射し、三体世界と太陽系の座標を暴露した彼らは、「故郷」というかつて自分たちの存在意義を規定していた、慣れ親しんだ世界=文脈を最初に徹底的に放棄し、「変化を獲得する」ことの積極的な価値を受け入れた者たちでもある。

 三体人が去った後、人類に一縷の期待を残した青銅時代号は地球の呼びかけに応じて、地球に戻ってきたが、実は彼らを反人類的として裁く裁判を開くための帰還要請だった。乗組員はそこで自分がいかに人類であることをやめ、完全かつ徹底的に変化したのかについて、以下のように述べている。

 裁判官:あなたは当時どういう心理状態だったのですか。
 シュナイダー:その瞬間、あっ、〔燃料回収を目的とした、「量子」号への〕攻撃の瞬間ではなく、「青銅時代」号は永遠に帰ることができず、宇宙船が私にとっての世界の全体になったと気づいた瞬間に、私は変わってしまったのです。過程はなく、一瞬でまったく別の人間に変わりました。〔後略〕
〔中略〕
 シュナイダー:〔前略〕とにかくその瞬間、私は自己を投げ捨て、集団の一部、その細胞、歯車の一つになりました。集団が存続できてはじめて、自分の存在に意味があるのです……うまく言えませんが、そのような感じです。あなたたちに理解してもらえるなんて期待しません。裁判官殿、たとえあなたでも、自ら「青銅時代」号に乗り込み、太陽系の外に向けて私たちの航路を辿って何万天文単位あるいはもっと遠く航行しても、理解できないでしょう。なぜなら自分がいずれ戻ってくることを知っているからです。あなたの魂は地球から一歩も離れておらず、地球に残ったままなのです。宇宙船の後に何もなく、地球と太陽がすべて消え、まったく空虚に変わったのを経験してはじめて、私のその時の変化を理解できるのです。[6]

 青銅時代号の乗組員にとって、地球のある太陽系はそれまで彼らの価値や行動を規定する文脈だったが、しかしそれが消えれば、新しい文脈が到来する。文脈が変われば、従来の大義や意味、根拠などすべて相対化され、捨て去るべきものになることが必然であると、ここでは言われている。それは青銅時代号にとって、全体主義や食人といった「反人類」的な価値や行動を受け入れることだった。地球に戻らなかった藍色空間号にとっても同じである。

 しかしながら、結果として太陽系は滅び、彼ら「反人類」的な存在こそ人類の生存を可能にした。文脈の変化は自らが拠って立つことのできる唯一の足場として引き受けるべきである、そのような解釈が成り立つ文脈がこうした認識から生まれる。

 『三体I』における文脈主義はもっぱらニヒリズムをもたらし、『黒暗森林』における文脈主義はそのようなニヒリズムを徹底的に推し進めることでニヒリスティックなヒーロー=救済者を作り上げたとすれば、『死神永生』は文脈主義を取ることで世界の偶然性の必然性を開示し、それを引き受けることを「善」として提示する。「黒暗森林状態」における善とは、文脈の外部を肯定し、それを受け入れつづけることにほかならない。作品はそれが人類にとっての唯一の希望だと暗示しているのである。

四.宇宙から遠く離れて

 とはいえ、生存が外部を呼び込み、その到来を可能性として保存するという点で肯定される、ということ自体、あくまで黒暗森林状態の内部においてである。言い換えれば、黒暗森林状態がそのような肯定的な価値を生み出す文脈として機能しているのである。これが意味するのは黒暗森林状態という文脈自体、限定的なものでしかない可能性が常に存在しているということだ。

 『死神永生』は後半部でまさにそのような限定をさらに超えて、黒暗森林状態の外部を描こうとしている。関一帆は言う。

「黒暗森林状態は私たちにとって生存のすべてだが、宇宙にとっては些細なことにすぎない。仮に宇宙が陣地の間にある一つの大きな戦場――事実その通りだ――だとして、狙撃手が敵側のうっかり自分のからだを晒した者、例えば通信兵あるいは炊事兵などを射殺すること、これが黒暗森林状態だ。戦争にとってそれはごく些細なことだが、本物の星間戦争をあなたたちはまだ知らない」[7]

 「本物の星間戦争」というものを人類は知らない。それは人類が生存のすべてだと思っていた黒暗森林状態の外部にある、より大きな文脈である。

 『死神永生』で衝撃的な設定の一つに、宇宙の物理法則そのものを操作可能なものとして武器化している文明が存在することが挙げられる。

 関一帆は聞く。「当ててごらん。技術的にほぼ無限の力を持つ文明にとって、もっとも強力な武器は何か。技術の角度からではなく、哲学的な抽象性で考えてみてくれ」
 程心はしばらく考えたが、もがくように首を振る。「わからないわ」
「きみが経験してきたことがヒントになるだろう」
 彼女は何を経験してきたのか。彼女がついさっき見たのは、一つの恒星系を滅ぼすために、残忍な攻撃者がそこの空間の次元を一つ下げたことだ。空間の次元、それは何か。
「宇宙の物理法則よ」程心は答える。
「きみは鋭い。その通り、宇宙の物理法則だ。それがもっとも畏怖すべき武器であり、そしてもちろんもっとも有効な防御手段でもある。銀河系であれアンドロメダ銀河であれ、そして局部銀河群であれ超銀河団であれ、本当の星間戦争では神並みの技術を持つ参戦文明はみな躊躇なく宇宙の物理法則を戦争の武器にする。武器となる法則は多くあるが、もっともよく使われるのは空間次元と光速だ。一般的に次元降下は攻撃に、光速の減速は防御に使われる。したがって、太陽系が受けた次元攻撃は最高レベルのものだ。まあ、これも地球文明の栄誉だろう。次元攻撃を使ったということは、あなたたちを重視しているということだ。この宇宙では、他人に重視されるのはとても珍しいことなんだ」[8]

 宇宙の物理法則という「自然」でさえ、宇宙人間の戦争によって「人」工的に作り出された状態でしかなかった。宇宙の物理法則は一つの限定された文脈でしかなかったということだ。我々にとってメタレベルにあるものが、他者にとってオブジェクトレベルにあるものだった。絶対に不可変だと思われていたものもまた可塑的である世界だった。黒暗森林というのは、これまでずっとこのようにあったものではなく、これからもずっとこのままであるようなものでもない、絶えざる文脈の変化の現在における結果の一つでしかない。そして、それは当然これまで別様でありえたし、これからも別様でありうる。

 掩体計画とは、物理法則にしたがった衝撃を加えてくる敵対的な他者による攻撃を想定した計画である。しかしながら、宇宙の法則そのものを操作し、攻撃を行うことは、明らかにそのような想定の外部にある「ありえないこと」である。したがって、掩体計画の失敗の原因の一つはそうした「ありえない」外部性の存在を思考から排除したことにある。そして、作品ではそのような排除は太陽系を放棄しないこと、逃亡しないこと、つまり変化しないことを選択した結果として描かれている。

 実際、掩体計画で築かれた新しい人類世界は、主人公の程心の目を通して描かれているが、そこでは人類の生活はむしろ三体人が到来する前の「黄金時代」へと退行しており、冬眠していた程心にとってそこは未来の世界であるにもかかわらず、懐かしさすら覚えるような場所だった。

 結果として、光速宇宙船による逃亡計画、太陽系を放棄し、何が起こるかわからない宇宙空間に身を投げ出すことこそ正しい選択肢だったわけだが、それはいっさいの懐かしさを放棄すること、到来する外部の文脈を常に受け入れ、それによる自己の徹底的な変異を受け入れることを要求する。青銅時代号、藍色空間号、万有引力号は、黒暗森林状態という現在の宇宙状態において自己変化を受け入れ、生存という「善」を目指し、そのためにかつて「悪」とされていた行為も厭わなかった。先述したように、黒暗森林状態における根源的な悪とは「変化を獲得できないこと」であり、それを避けるためならすべての行為が「善」となる。

 しかしながら、二次元化する太陽系から抜け出し、新たな星系に辿り着いた程心は、関一帆とともに再び黒域に包まれた星に閉じ込められることになる。彼らはそこから逃れるために、大宇宙から小宇宙に入る。大宇宙からいっさい影響を受けることなく、かつ時間の進みが異なるため、小宇宙に十年間いることで大宇宙の時間的終焉に辿り着くことができる。小宇宙は大宇宙から時間的にも空間的にも分離しているのだ。そこは人類が存続しているか、生存が実現されているかがどうでもよくなる世界である。文字通り、黒暗森林状態によって支配されている宇宙の一部、ないしその外部にあってそれをより過激に推し進めている宇宙全体の外部にある。ここでは「変化すること」の絶対性は、黒暗森林状態そのものに再帰的に適用されている。つまり、黒暗森林状態自体もまた変化しなければならないのである。

 そして、新しい宇宙は黒暗森林の法則が通用しない世界だという意味で新しい文脈を構成するだろう。

 とはいえ、人類という種は新しい宇宙に辿り着くことはできない。小宇宙に作品の視点が移った時点で彼らの生存はもはや重要性を持たなくなる。人類の生存とは黒暗森林という文脈においてそこで生じるさまざまな変化を生き延びるための手段だった以上、黒暗森林という文脈の外部に至れば、生存もまた絶対的な善として要請できなくなる。

 程心と関一帆という男女のペアが新しい宇宙に入れば、人類という種の生存が保証されると思われるかもしれない。しかしながら、二人は、大宇宙を再生させるために小宇宙の質量をそれに返還しなくてはならない、でなければ宇宙は再生せず、永遠に死んだままだろうと、「帰零者」と呼ばれる高度文明から通告される。

 回帰運動声明:我々の宇宙の総質量は臨界値以下にまで減少している。宇宙は閉鎖系から開放系に転換し、永遠の膨張の中で死ぬだろう。すべての生命と記憶はみな死ぬだろう。新しい宇宙には記憶体のみを送り、あなたたちが宇宙から持ち去った質量を返還せよ。[9]

 そして、程心は小宇宙から出て、再生する前の宇宙に戻ることを決意する。智子から考え直すように言われるが、彼女は自分の「責任」を果たそうとする。

「〔前略〕しかしここに残ることが最善の選択だと思う。小宇宙に残ることで二つの可能な未来がある。もし回帰運動が成功したら、大宇宙の崩壊を特異点として新しい創世のビッグバンが起こり、二人は新しい宇宙に行くことができる。そしてもし回帰運動が失敗し、大宇宙が死んだとしても、二人はここで一生を送ることができる。この小宇宙も悪くない」
「もし小宇宙にいる者たちがみなそのように考えたら、大宇宙の死は避けられなくなるでしょう」程心は言った。
〔中略〕
「あなたはまだ責任のために生きているのですね」智子は程心に言った。[10]

 程心は一生をかけて、「責任という階段を上り」[11]続けた。両親を失望させないために、社会を失望させないために、人類を失望させないために、そして最後は宇宙を失望させないために。それは自分の責任を果たすために、責任に反することをしなければならないというパラドックスに満ちた人生だった。三体人との戦争に勝つために、引力波を発射しなければならなかったが、それは人類世界を滅ぼすことを意味するため踏み切れず、結果的に三体人による「人間性のホロコースト」とも呼ぶべき事態を引き起こした。あるいは、人類を死にゆく太陽系から脱出させるために、光速宇宙船の製造を支持しなければならなかったが、それによって起こる戦争も避けるために光速宇宙船計画を自らの手で終わらせざるをえなかった。

 このようなパラドックスの根本にあるのは、三体人と黒暗森林状態にある宇宙が突きつけた、「人類は人類でありつづけるために、これまで通りの人類であってはならない」という矛盾である。人類が生存し、人間性を再生するために、人間性を放棄しなければならないのだ。羅輯(と劉慈欣)が採った解決策は、時間的な延期、すなわち、たとえ今において人間性を放棄しても、それは未来における人間性の(よりよい形での)再生のために放棄するのだという延期の論理である。しかし、程心にとってそのような時間的な延期は解決ではなく、解決の延期でしかない。パラドックスは常に構造的なもの、同時的なものとして現れていた。

 程心が出会ったある老人は、彼女に次のように語っている。

「〔前略〕西暦紀元に不治の病にかかった時私はまだ四十歳だったが、気持ちは落ち着いていて、冬眠しようなどとまったく考えていなかった。私は自分が何もわからない、ショック状態のときに冬眠させられたのだ。起きた時にはすでに抑止紀元だった。その時は来世に転生したかと思ったが、まったくそんなことはなく、ただ死を少し遠ざけただけで、まだ先で私を待っていたのだ……灯台が完成したその日の夜、海の上でそれが光を発しているのを遠くから見つめていた時、私は突然悟ったのだ。死はただ一つの永遠に光りつづける灯台だ。どこに向けて航行しようとも、最終的には必ずそれが指示する方向に転向しなければならない。すべては過ぎ去り、消滅していくが、ただ死神のみ永遠に生きつづけるのだ」[12]

 ここはタイトルとなっている「死神永生」の言葉が唯一出てくる箇所でもある。論理的に生存は死の延期でしかなく、たとえそれがどれほど遠い未来の出来事になろうとも、この事実は変わらない。延期は何も解決しないのだ。

 程心は、〈三体〉三部作のなかでもっとも嫌われているキャラクターといっても過言ではない。彼女は主人公であるにもかかわらず、ほとんど悪役並みの嫌悪を持たれているのである。多くの読者にとって彼女は「目の前のことしか見えていない」ために、幾度も人類を危機に陥れ、最終的に太陽系そのものを滅ぼした、優柔不断な人物である。しかしながら、これまでの分析が示しているように、それは彼女自身の性質なのではなく、パラドキシカルな場に身を置いているからにほかならない。その場とは、既存の文脈と新しい文脈が衝突する場所であり、既存の文脈における期待=責任が常に新しい文脈と深刻なずれを持ってしまうところである。パラドックスはそこから生まれる。彼女は誰よりもこのパラドックスの解決不可能性を理解し、悩んだ。

 延期としての生存は、いずれ限界に突き当たり、その正当性と意義を失う。もちろん、それが限界に突き当たるまでには多くの生が営まれ、人間性もまた幾度失われても再生するだろう。しかし、宇宙の外、黒暗森林状態という文脈の外部という視点から見ると、未来の人間のために現在の人間を犠牲にすることは、現在の人間のために未来を犠牲にすることとどれほど異なるのか。これは論理的にはただの反復であり、そこには違いは存在しない。

 彼女が宇宙の死を止めるために、人類という種の新しい宇宙における生を放棄するのは、ある意味必然だった。生存というものが黒暗森林状態という文脈における戦略であるかぎり、その有限性もまた明らかだからだ。言い換えれば、有限性の否定としての生存それ自体の有限性が、宇宙から遠く離れた外部の文脈から明らかにされる。そして、ここではたとえ人類が生存することができなくても、人類なき世界が変化していくことそれ自体を肯定しなければならないという倫理が示されている。

五.「死神永生」と「死後の生」

 人類は永遠に生存しつづけることはできず、人間なしに世界は存在していく。したがって、無限性を夢見る人間はそれでも有限性にとどまるほかない。すべての物事に終わりと死がいずれやってくる。それが作品のタイトル「死神永生」のもっとも表層的な意味だろう。

 とはいえ、程心が最後に果たした「責任」の視点から、そこに別の意味を読み取ることもできる。死とは単に生物学的な系譜の断絶のみを意味しているのではなく、さまざまな生の断絶と再生が起こる場そのものの死でもある。実際、もし程心が小宇宙の質量を大宇宙に返還しなければ、大宇宙は次元降下と膨張を続け、最後には再生することすらできずに、何の変化も生じない絶対的な静止状態、つまり死に至ることが予想される。

 しかしながら、もし宇宙がそのような状態に至り、場そのものの死が実現されれば、そこに新たな死もまた存在できなくなるだろう。それは「死神」自身の死にほかならない。したがって、死神が永遠に生きつづけるためには、生もまた永遠に生起しつづける必要がある。ここから、「死神永生」とは常識的ないわゆる死の絶対性のみを意味しているわけではなく、むしろ絶えず世界に変化をもたらす原理だということが導かれる。

 死神は絶えず現有の世界=文脈に有限性を突きつけ、それを解体するが、その解体は新しいものの到来によってこそもたらされる。死神永生とは、すべてが有限的なものとして過ぎ去っていき、外からの有限的なものの到来によって新しいものに変化するという事実それ自体が不変だということを表現する概念である。この可変性の不変性こそ、「死神永生」というタイトルの意味であり、黒暗森林原理が暗示するような膠着した世界を乗り越え、無限の世界が我々なしに続いていくことを肯定するものとして提示されているのである。程心が最後に果たした「責任」は何よりもこの可変性の不変性の保存にある。

 さらに、それと同時に、程心は新たな生存の形を受け入れたように思われる。具体的に見ていこう。

 程心は小宇宙に入った後に、「時間の外の過ぎ去りし出来事」という書物を執筆した。その内容は実は『死神永生』という作品の一部として提示されてきたものでもある。そこでは人類文明が辿った運命の一部が記録されている。我々が読んでいる『死神永生』という作品自体、すでに滅んだ人類文明や宇宙の記録だというふうに読むこともできる。

 また、程心と関一帆は新しい宇宙で人類という種を生存させることをやめて大宇宙に戻る際、小宇宙の中にマイクロコンピュータを残した。そこには人類文明と三体文明に関するほとんどすべての記録が保存されている。大宇宙が再生した後に、それが「時間の外の過ぎ去りし出来事」という書物とともに新しい宇宙に放たれることになっている。

 智子は金属箱を手に持っていた〔本作では智子は人型のアンドロイドとして登場している〕。それは彼らが小宇宙の中に残し、新しい宇宙に送る漂流瓶だ。その本体は一台のマイクロコンピュータである。コンピュータの量子メモリーには小宇宙のメインコンピュータのすべての情報が保存されており、それは三体文明と地球文明についての記憶のほとんどすべてだった。新しい宇宙が誕生した時、金属箱は門からの信号を受け取り、備え付けの小さな推進機構を使って門をくぐり、新しい宇宙に入ることになっている。それは新しい宇宙の高次元空間の中で漂い、拾われて解読される日が来るのを待つ。同時に、それはニュートリノを使って、保存されている情報を絶えず再生することになっている。もし新しい宇宙にもニュートリノがあればの話だが。[13]

 大宇宙で発展してきた他の多くの文明と同様に、人類は生き延びることなく、消滅するだろう。残るものは単に我々がどのような変化を経験してきたのかに関する記録=歴史(テクスト)だけである。ゆえに人類文明全体が一つのテクストとして生き延びていくことになるだろう。問題はそれが実際に読まれるかどうか、どのようなコンテクスト=文脈において読まれるか、その読まれ方がどのように変化していくかについてはまったく未知のままであることだ。テクストになるということは、我々はそこに現前する(present)ことなく、一種の再現=表象(representation)として、外部性に常にさらされながら生き延びていくことを意味する。

 この視点から翻って黒暗森林状態における生存を考えると、それが常に一種の現前を前提にしていたことがわかる。人類という種の存続は、文化的・生物学的な同一性の現前を要求する。しかしながら、そもそもそのような同一性を設定し、絶対化することにどれほどの正当性があったのだろうか。

 劉慈欣自身はこの問題に敏感だった。サイボーグ化した人間は人間だと言えるのかという質問に対して、彼は以下のように答えている。

 まず、第一の問題として、誰が人間を定義する権利を持つのでしょうか。私たちはいま人間を定義する者として誰がもっともふさわしいと考えているのでしょうか。もちろん私たちの最初の祖先でしょう。例えば二〇万年前あるいはどのくらい前かわからない石器時代初期の者たちのような、最初の人間、初めてのホモ・サピエンスだ。彼らが人間を定義するのにもっともふさわしいでしょう。
 しかし彼らの定義にしたがえば、私たちはとっくに人間ではなくなっているはずです。石器時代の人間と比べて、私たちは行動様式、思考方法、社会構造、生活の環境、ないし私たちのこの見た目、着ている服など、彼らから見ればとっくに同じ人間ではなくなっています。そして私たちもまた振り返ってこの石器時代の人間を見た時、彼らを人間と認めるのは憚られるが、彼らを人間だと言う時は「原始」という二文字をつけなければならない。つまり、実際両者は生理的に、構造的に大差ないにもかかわらず、彼らだって私たちが認めるような、本当の意味での私たちのような人間ではないというわけです。[14]

 原始人が文明を有する人間にとって遠く離れた存在であるのと同じように、そして文化大革命時代の紅衛兵がただの歴史になり、彼らの価値が忘れ去られていくのと同じように、現代の人間もまた未来の人間にとって見知らぬ者になっていくだろう。文化的にも、生物学的にも。そこでは、同一性はただの幻想と化す。そもそも、青銅時代号、藍色空間号、万有引力号が人類の生存を可能にしたにもかかわらず、地球の人類が彼らを「反人類的」だと断罪したのは、このような同一性の幻想に由来する。

 ニクラス・ルーマンは、現在の社会は未来社会にとってただの痕跡になるだろうと論じている。

いずれにせよ未来の社会は別の世界に住み、別のパースペクティヴと別の選好をふまえることになるだろう(そもそもそのように言えるのは、未来の社会もやはり有意味なコミュニケーションという基礎の上に成り立っている限りでの話だが)。未来社会の人々はわれわれの心配事や趣味を、多少とも楽しみをもたらしてくれる珍奇なものとして尊重するかもしれない。ただしそれもまた、われわれの社会の痕跡が、そしてその痕跡を読み取る能力が存続している場合に限られるのである。[15]

 痕跡は読み取られることを要求するが、それを読み取る能力が存続しているかどうか、そしてどのような文脈においてどのように読み取られるかについてはまったく未決定であり、そこに無限の可能性がある。そしてまさにこの点において、痕跡とはテクストの一種にほかならない。生とは根本的に我々の痕跡を通した不完全な再現=表象として、生き延びていく。この意味で、〈三体〉における人類社会がこだわってきた、同一性を保存する現前的な生存は、実はそのはじめから痕跡的な生、すなわち再現的な生でしかなかったということが明らかになる。

 このような痕跡、テクストとしての生については、宮﨑裕助がジャック・デリダを論じる中で抽出した「死後の生」という概念がもっともよく表している。

私とは、そして私の生とは、それ自身のうちに抱えている根源的な葛藤をくぐり抜けて生き残ったなにものかである。
この葛藤は、私がつねに私自身のものではない痕跡――言語、記号、物質、他なるもの――に媒介されざるをえないという危機であり、私の生が、みずからの不在、みずからの死そのものに穿たれることで、たえず制御不可能な漂流状態に置かれており、他者の恣意によって誤解、誤読、歪曲、簒奪されるかもしれないという危機を示している。かくして私の生とは、みずからの死との抗争の後に、その死後に生き残った「生き延び」としての生なのである。[16]

 テクストとはたんに古典的な文献や公的な文書資料を指しているだけではない。最広義には、〔中略〕いつの日か私たちの生のすべての経験を文字通りライフログとして記録し保管しうるような全データ、要するに、あらゆる言語的な要素、痕跡や記号とみなすことのできるすべてのものを含んでいる。結局のところ、私たちの生そのものが、死後の生を担うテクストの翻訳を介してこそ成り立つのであり、そのような意味でそれ自体として所与のものではなく、はじめから「死後の生」の水準に置かれていると考えることができる。[17]

 前作の主人公である羅輯は、人類の座標が暴露され、攻撃を受けることがもはや確実となった後、冥王星に地球文明博物館を作り、人類文明を代表する芸術などを収集し、保存しているが、その実は地球文明の墓碑ともいうべきものだった。羅は早くからより破滅的な攻撃が来ることを予想して、密かに光速宇宙船の製造を進め、程心たちの太陽系脱出を可能にし、彼女たちに人類文明の精華を保存する役割を託した。すなわち、現在における人類の道徳と文化を犠牲にして、将来におけるそれらの再生を現前的な生存に託し、生の肯定を延期し、ある種の逃亡主義を象徴する存在だった羅輯は、ほかならぬ「死後の生」のための条件を整えていたのである。

 そして、羅輯から託され、程心が最後に果たした「責任」とは、生の肯定から逃げることをやめ、否定的・延期的な論理に貫かれた生存を痕跡=テクストとしての生、すなわち「死後の生」に読み替えた上でそれを肯定することだったのだ。

結び

 〈三体〉シリーズは、文脈主義を一種の支配的な世界観として採用し、あらゆる価値や意味が不安定になり、絶えず変容していく中で、いかにそのダメージを回避しながら、それでも「人間」として現前しつづけるような生存を確保するかということについて思考し、描いてきたといえる。つまり、文脈の変化による相対化は一種の対処すべき危険として認識され、その対処の方法こそ生存だったのである。

 しかしながら、これまでの分析が明らかにしたように、『死神永生』は文脈主義をもって生存について極限まで思弁した末に、現前的な生存を解体し、別種の生存を構想した。作品の最後において、人間という文脈の外部、さらには宇宙という文脈の外部において、「制御不可能」で、「他者の恣意によって誤解、誤読、歪曲、簒奪される」可能性をその運命とする、人間なき世界におけるテクストとしての「死後の生」こそ、そこから逃げることも目をそむけることもできない根源的な生として肯定されている。

 そして「可変性の不変性」、または「偶然性の必然性」を意味する原理である「死神永生」はそれ自体として(宇宙の死とともに)消滅することが可能だという点で、同じく可変的な文脈の一つでしかないともいえるが、程心はその消滅を否定し、それを存続させようとする。なぜなら、それは「死後の生」が可能となる条件にほかならないからだ。こうして、変化すること、偶然的なことが絶えず到来する、生がその死後においてもなお変形しながら生き延びることこそ、守られるべき普遍的=不変的な倫理として提示される。

 『死神永生』の終わり――それは〈三体〉シリーズ全体の終わりでもあるが――は次のような詩的な一節で飾られる。程心たちが小宇宙から出て、次の宇宙に送るための人類と三体文明に関する全情報を収めた漂流瓶と、小さな生態系を備えた「生態球」のみを残した後の場面だ。

 小宇宙の中には漂流瓶と生態球しか残されていない。漂流瓶は暗闇の中に身を隠している。一キロ平方メートルの宇宙の中で、唯一生態球の中の小さな太陽がかすかな光を発していた。その小さな命の世界で、透き通った水の玉がゼロ重力の環境の中を静かに漂っている。一匹の小さな魚がある水の玉から飛び出して別の水の玉の中に入り、軽やかに緑藻の間を泳いでいる。小さな陸地の草むらで、一滴の露が葉っぱから離れ、回転しながら浮かび上がっていく。宇宙の中に輝く一縷の太陽の光を反射しながら。[18]

 人間なき世界において小さな魚が生命の象徴として、ゼロ重力の小宇宙で悠々と生きている。そして、人間と三体人についての記憶は暗闇の中で、いつか誰かによって読み取られることを夢見ながら、長い「冬眠」についている。

 新しい世界が予感されている。

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[1]劉慈欣『三体3:死神永生』Kindle 版、読客文化、2012年、p.316。

[2]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.338。

[3]赵汀阳“赵汀阳解读《三体》: 最坏可能世界与‘安全声明’”. 澎湃新闻, 2020-05-10, https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_7310502.

[4]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.318。

[5]楊駿驍「未来は否定から生まれる│『三体2 :暗黒森林』について」『エクリヲvol.11』エクリヲ編集部、二〇二〇年、八一頁。

[6]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.84。

[7]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.470。

[8]『三体3:死神永生』Kindle 版、pp.470-471。

[9]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.507。

[10]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.508。

[11]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.508。

[12]『三体3:死神永生』Kindle 版、pp.311-312。

[13]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.512。

[14]刘慈欣的思想实验室“2.1 被技术改造后的人还是人吗?(嘉宾: 戴锦华)”. 2019-01-29. 喜马拉雅 FM.

[15]ニクラス・ルーマン『近代の観察』馬場靖雄訳、法政大学出版局、二〇〇三年、一一〇頁。

[16]宮﨑裕助『ジャック・デリダ: 死後の生を与える』岩波書店、二〇二〇年、六頁。

[17]『ジャック・デリダ: 死後の生を与える』、一三│ 一四頁。[18]『三体3:死神永生』Kindle 版、p.513。