ディズニーは「スター・ウォーズ」シリーズをいかに改変したか――『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』レビュー


※本記事には『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』の結末に関する記述が含まれています。ネタバレを避けたい方は閲覧をお控えください。

0. 「スター・ウォーズ」とは何だったのか

 2019年12月20日、日米同時公開となった最新作によって、今や世界中で愛される巨大なシリーズとなった一つの作品が完結する。40年前、まだ何者でもなかった映画好きの青年ジョージ・ルーカスが始めた「スター・ウォーズ」という物語は、「遠い昔、遥か彼方の銀河系で(a long time ago in a galaxy far, far away…)」のフレーズとともにその「彼方」からドラマ、ゲーム、アニメ、おもちゃと様々な媒体を通り抜け、あらゆる場所、あらゆる世代にリーチする一大産業へと成長した。

 ではその集大成、シリーズ完結編「スカイウォーカーの夜明け」には何が描かれていたのか。作品のモチーフを紐解き、そこから垣間見える私たち観客とポップカルチャーの現在形について覗いてみよう。

1. 「続三部作(sequel trilogy)」とは何だったのか

 最新作の内容に触れる前にまず本作がどのような経緯で作られたものなのか整理しておこう。まず第7作以降の3作品と、それ以前の6作品とが制作背景についてかなり異なる作品であることに触れておかなければならない。スター・ウォーズは先にも触れたように、ジョージ・ルーカスという一人のクリエイターによって誕生した。あらためて言うまでもないかもしれないが、これはハイテクな宇宙船が繰り広げる空中戦のスペクタクル、「帝国」という旧弊な専制国家とそれに立ち向かう反乱軍という世界観、主人公ルーク・スカイウォーカーと帝国を支配する彼の実父ダース・ベイダーの対立という古典的なメロドラマによって成り立つ、壮大かつ単純明快なスペースオペラだった。つまりいくら宇宙という巨大な舞台装置があっても、元々はルーカスという一人の作家による「父子」の物語という個人的なオブセッションがその軸にあったのだ。

 しかし、シリーズ第7作からは全く事情が異なる。2012年、ウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収し、ルーカスがそれまで構想していたのとは別の物語として第9作までの完結編を製作し始めた。そして、2015年に、完成した第7作『スターウォーズ/フォースの覚醒』(J.J.エイブラムス監督)は、当時のルーカスによる最新作エピソードⅠ〜Ⅲよりもむしろ、旧三部作の「エピソードⅣ 新たなる希望」を想起させるものとして評判を集めることになった。

 スター・ウォーズシリーズの呼び名について少し整理しておこう。1977年から1983年までに作られたルーク・スカイウォーカーと父ダース・ベイダーの対決を描いた物語はエピソードⅣ〜Ⅵまでが旧三部作(original trilogy)、若き日のダース・ベイダーであるアナキン・スカイウォーカーがベイダーになるまでを描いたのがエピソードⅠ〜Ⅲまでが新三部作(prequel trilogy)と呼ばれ、ここまでルーカスによる脚本・監督作品だ。一方、ディズニーにより再始動したエピソードⅥの続編、レイとカイロ・レンの対決を描いたものが続三部作(sequel trilogy)と呼ばれ、9本のスター・ウォーズの映画はこのように3本一セットの物語群になっている。

 最初に作られた旧三部作が黒澤明の『隠し砦の三悪人』(1958)を手本にした、非力な若者が強大な敵に知恵と勇気で立ち向かう成長譚だったとすれば、新三部作は、本作を特徴付ける超能力「フォース」の使い手として天賦の才を発揮するアナキンのスター性と、最新技術と莫大な予算が実現した豪華絢爛な戦闘シーンを目玉にした煌びやかな「英雄譚」だった。新三部作が、旧三部作とはうって変わって主人公の「闇落ち」というバッドエンドが約束された悲劇だったことも付け加えておこう。そこで、続三部作の1作目エピソードⅦは、再び帝国の支配に陥った銀河でカイロ・レンという独裁者に立ち向かう反乱軍のドラマに回帰したことは、これがルーカスの最新作よりも旧三部作に近い物語を持っていたことを意味している。続三部作は、ディズニーとJ・J・エイブラムスによる旧三部作の二次創作のような作品として完成されている。

 アメリカ本国での「スター・ウォーズ」人気がどのようなものか、日本人がその肌感覚を直接感じるのは難しいかもしれない。しかし、例えば『ファンボーイズ』(カイル・ニューマン監督、2008年)のような、スター・ウォーズのファンを描いた映画の登場からその人気の大きさとギークのステレオタイプとしての「スター・ウォーズファン」の特性を垣間見ることができる。学園モノのドラマに度々登場する「スター・ウォーズファン」というのは、フィギュアやコスプレを愛好する、日本で言えば一世代前のオタク、マイナーな趣味として愛好し、マイナーさゆえに連帯しファンダムを形成するギークたちの戯画として描かれてきた。「スター・ウォーズ」は「指輪物語」と並んで、本来的な意味での(メインに対する)「サブ」カルチャーの代表だった。

 ディズニーによるルーカス「スター・ウォーズ」の続編製作は実質的に、この「サブカルチャー・スター・ウォーズ」を、旧三部作も新三部作さえも知らない世代にリーチできる「新品のポップカルチャー」としてリブランディングすることが目指されていたと憶測するのは決して的外れではないだろう。ディズニーによるルーカスフィルムの買収は公式にスター・ウォーズがディズニーランドのアトラクションの一部になり(アトラクション自体はすでにあったが)、ディズニーストアの商品の一部にそのおもちゃが並び、「スター・ウォーズ」に「ディズニー」というもう一つ規模の大きなブランドをかぶせることを意味していた。

 少々脱線するが、商売にとってこれが珍しくないことだとしても大作映画においてこの10年でディズニーはかなり大々的にこの事業に取り組んできた。例えば、「スター・ウォーズ」自体は誰もが知っている、決してマイナーではない存在でもマイナー、スター・ウォーズの熱狂的なファンにはマイノリティのイメージがつきまとっていた。このようにマイナーな中ではメジャーなものに資本の魔法をかけて、「ストレートなメジャー」にしてしまった。事実、エピソードⅦだけで、旧三部作の合計を超える20億ドル超の世界興行収入を獲得しており、エピソードⅦ・Ⅷの2本だけで興行収入は旧三部作、新三部作いずれもの合計を凌いでいる。ディズニーの魔法によって、続三部作が「最も稼いだスター・ウォーズ」になることはすでに確定しているのだ1

 スター・ウォーズに起きた事態とマーベルのそれはとてもよく似ている。ディズニーはときにフェミニズムやポストコロニアリズムといった特定のイデオロギーにも、少し前までインディペンデント映画の専売特許だったポリティカルコレクトネスにも同じ魔法をかけてポップカルチャーに巻き込んでしまった。ディズニーアニメーションが『ズートピア』で多文化共生の寓話を描いたことや、『アナと雪の女王』で「王子様」を排除した姉妹の物語が大きな支持を得たこと、ピクサーの『ファインディング・ニモ』に精神疾患や認知の病を抱えた魚のキャラクターを登場させたことなどにその事例を垣間見ることができる。「公正さ」を勧善懲悪の物語に仕立て、娯楽に変えてしまったのだ。ここでは、それが引き起こした不具合と妙味のほんの一部に触れることになる。

 監督として抜擢されたJ.J.エイブラムスは、テレビプロデューサーを父に持ち、21世紀を代表するアメリカ映画のヒットメイカーだ。ジェリー・ブラッカイマーとスティーブン・スピルバーグの薫陶を受けてテレビ、映画をまたにかけ活躍してきた彼のキャリアには「ミッション・インポッシブル」「スタートレック」「スター・ウォーズ」と、彼よりも前の世代でブランドの価値が完成されたシリーズの続編監督を任されている。彼はルーカスのように一つのシリーズ、一つの物語に固執する作家ではなく、巨大産業の一環として続編映画の仕事を受ける職人なのだ。つまり「スターウォーズ続三部作」はディズニーとエイブラムスによる「ポップカルチャーにおける職人仕事」として、続編というよりもむしろまるで「リメイク」や「リブート」として仕切り直しされている。

2. 「スカイウォーカー」とは何だったのか

 先ほども述べたが続三部作では、ルーク・スカイウォーカーによって旧三部作で壊滅された帝国の残党が復活したカイロ・レン率いる「ファースト・オーダー」と、それに抵抗するレイア・オーガナ率いる「レジスタンス」の戦いの物語として幕を開ける。

 砂漠の惑星ジャクーで廃品回収をしていたレイは偶然この戦いに巻き込まれ、自身が強力なフォースの持ち主で、実はレイアとハン・ソロの息子だったレンにほぼ唯一対抗できる者であることを知り、戦争に巻き込まれていく。こうして続三部作は惑星間を飛び回って戦いと戦争に勝つためのアイテム探し、人命救出に奔走するレジスタンスのスペクタクルと、フォースの使い手であるレンとレイの対話による心理ドラマ、彼らを見守るレイアやルークら旧三部作の主人公格たちのサポートを主軸に展開してきた。

 エピソードⅧ「最後のジェダイ」(2018年)ではエイブラムスの代わりに『LOOPER/ルーパー』(2012年)などのSF映画のヒットで頭角を表したライアン・ジョンソンが起用されることになる。しかし、映画自体はヒットしたもののこれがスターウォーズファンダムの間で賛否両論を巻き起こす問題作となった。

 アメリカに限らないが、漫画や小説原作の映画化、続編、リメイク映画はしばらく増加傾向にあり、映画化された作品がそれまで原作を知らなかった層にリーチする一方、元からいた原作ファンを満足させる出来に当該のクリエイターが尽力できるかどうかが評価の物差しの一つとなる。この傾向はSNSによって迅速に作品の感想が共有される鑑賞環境で、さらに強化されるようになった。例えばその最も極端な例として、マーベルやDCのコミック原作の映画がRotten tomatoesのような投稿式レビューサイトで、熱狂的なファンたちが公開前の映画に、それがヒットするようにと大量の高評価レビューをときには人海戦術のように投稿する現象がみられるようになり、匿名の一部熱狂的なファンが作品のパブリックイメージに大きな影響を持つようになった。ときにはそれは、口コミを通じた作品評価の信ぴょう性を大きく崩壊させる事態さえ招いている。

 観客が極端に力を持った時代の「ファンダム映画」として「最後のジェダイ」に付けられたクレームのうち、特に尾を引いたものの一つが「レイの両親が正体不明である」というものだ。ルーカスという強烈な作家性から「スター・ウォーズ」を脱皮させようとしていた製作陣にとって、「スター・ウォーズ」を特にスカイウォーカーという一家のメロドラマという図式から解放することは本願だったかもしれない。しかし結果として、レイのせいでこの続三部作がスカイウォーカー家の物語でなくなることに、ファンたちが強くノーを突きつける自体となった。スカイウォーカーという一家は、ルーカスにとってはアルターエゴのようなものだったかもしれないが、ファンにとっては欠かすべからざるアイドルだったのだ。

 かくして「スカイウォーカーの夜明け」は、エイブラムスが監督に復帰し、タイトルもプロットもこれを踏まえて「スカイウォーカー」の物語としての軌道修正として再始動する。おそらくエイブラムスには、ルーカスの代役ではなくファンの代表として職人的な手管で旧三部作の二次創作を作ることが求められていた。実際にディズニーはファンダムの反発に真摯に答えることになるが、結果としてそれは製作者と観客の距離が近すぎるが故に私たちの時代の文化が抱える問題が露わにする結果を生み出した。

 本作の前半は、ダース・ベイダーの生みの親であるシスの暗黒卿パルパティーンが銀河の未知の領域に(再)発見され、そこに至るための二つの地図「ウェイ・ファインダー」を探す冒険が描かれる。作品冒頭でいちはやくこれを見つけたカイロ・レンは先にパルパティーンのもとに到着し、二つ目の「ウェイ・ファインダー」を求めるレイたちレジスタンスと、レイを探し求めるレンという二つの航路が作品のプロットを描いていく。レイのもとにたどり着いたレンはそこで、レイがパルパティーンの孫であるという事実を伝える。

 レイの出自を明らかにするという脚本の軌道修正で、ディズニーとエイブラムスは「スターウォーズ」をスカイウォーカーとパルパティーン両家の戦争という構図を作り直してしまった。そして結果的にではあるが、レイとレンという二人の主役が、キャピュレットとモンタギューのように対抗する二つの家の間で取り替えられた子どものような立ち位置に据えられることになった。

 どういうことか。レンの庇護者だったスノークをパルパティーンが「自らが作り出した幻」だと伝えたことを考慮するなら、レイ・パルパティーンは「スカイウォーカーに育てられたパルパティーン」であり、レイアを母に持つベン・スカイウォーカー(カイロ・レン)は反対に「パルパティーンに育てられたスカイウォーカー」だったのだ。最後にキスシーンまで用意されたレイとレンの物語はまるで銀河を股にかけた「ロミオとジュリエット」の悲恋とさえ言えるだろう。二人は鏡のように同じで反対の対称構図から「血縁」を乗り越えるという同じ苦難を乗り越え結ばれるのだ。

 結末は、自分がパルパティーンの血族だと知って落ち込むレイにルークの亡霊がかけた「血よりも強いものがある(something is stronger than blood.)」という言葉に強く裏打ちされる。レンのほうは改心し、レイと共闘してパルパティーンを手にかけ、彼女を庇って自分も命を落とす。これはエピソードⅥで、ダース・ベイダーがルークに対してとった振る舞いを踏襲した筋書きだ。カイロ・レンは子供を授かって父になることこそなかったものの、ベイダー(アナキン)が自分の息子に対してしたようにレイに対して自己犠牲的に振る舞うことで、自己実現への花道が用意される形となった。対して、レイは生き残り、見知らぬ老婆に自分が「レイ・スカイウォーカー」だと名乗り映画がラストシーンを迎える。

 何者でもなかったものが血縁もなく「スカイウォーカー」を名乗ること。これがエイブラムスとディズニーが用意した「本物」の二次創作としてのスターウォーズの結末のようだ。スカイウォーカーでないはずのレイがスカイウォーカーを名乗る姿には、エイブラムスによってルーカスでないものが語る「スター・ウォーズ」、同時にディズニーによって特権的で排外的なものではなく、万人に配られるポップカルチャーとして生まれ変わった「スター・ウォーズ」の姿が重ねられている。ディズニーの「スター・ウォーズ」は、物語をルーカスのオリジナリティから解放し「誰でもスカイウォーカーになれる」という物語を作り直すことに落ち着いたようだ。

 旧三部作の「二次創作」のようであることで続三部作は、オリジナルの「スター・ウォーズ」とは「オリジナリティ」という点でおそらく最も異なる作品になった。本作には、インディペンデントではなく巨大産業こそ、観客と密にコミュニケーションを取ることが可能になったこと、マーケティングと観客のロビイングがいかに強い影響力を持ったかということ、そしてその結果として斬新な「オリジナリティ」が娯楽の中でますます困難になるという事態を露呈させている。今、私たちを最も楽しませてくれるのは優等生のクリエイターによって作られた予定調和の「フィクションのシミュレーション」という二重の虚構なのかもしれない。(了)

〈註〉
1 https://pixiin.com/star-wars/
例えばそうした批判を扱ったものの一つについて述べたものとして以下が参考になる。https://www.forbes.com/sites/scottmendelson/2017/12/19/the-last-jedi-why-star-wars-fans-hate-one-of-the-best-star-wars-movies/#60c03fac5658