「読めなさ」から考える


0.

私の好きな哲学と、私の好きな芸術は、今はあまり生産的な合流を見せてくれていない。けれど、いつかはそうなってほしい。いや、自分の力できっとそうしてみせる。そうした気概からこの小文を書いた。主要な登場人物は3人に絞った。詩人の吉岡実と、哲学者の江川隆男、そして小説家の森敦。この3人の力を借りて、とりあえず、今の自分の問題関心をできるだけ詰め込んでみたのだが、自分が考えていることが読者にどれくらい伝わるかは、今まで以上に心もとない。テーマはずばり、「読めない」ということである。きわめて思考しづらい論題ではあるが、身近な友人たちの反応を鑑みるに、どうやら誰にも届かない話題でもなさそうでもある。読者からの批判的かつ生産的な応答を期待しつつ、はじめよう。

 

1.

吉岡実の生涯の詩作は、『静物』『僧侶』らに代表される前期作品と、『サフラン摘み』以降の後期作品とに分けられる、というのが一般的な詩史的見解だ。前期においては、グロテスクなイメージを読むものに喚起させる卓越した描写力が持ち味だったのに対し、後期になると、引用という手法の導入や大胆なタイポグラフィの趣向といった方向にその作風は変わっていった(詩集をパラパラと見たり、画像検索をかけるだけでも文字の密度の違いがすぐわかることだろう)。その間に「転回」(すが秀実)や「転生」(入沢康夫)を見る者は多く、その意味や意義についても既に数多くの批評が書かれているが、われわれは屋上屋を架すことをおそれず、守中高明がその吉岡論の末尾で述べているごとく、彼の「詩法が開いた最終的な場処」を「解消することなく、実践的に延長すること」を目指したい。

守中は、後期吉岡の詩が切り拓いた地平を、前期的な「描写」の言語と対立させている。

 

すなわち、そこにおける主体とその視点は、自らの叙述しようとするところものものの外部に位置し、対象を安定したパースペクティヴの下に描くことに専心しており、〔…〕主体と対象の境界は指向において画然と分離されているのである。ところが、『サフラン摘み』以後、事態は変化する。それ以後吉岡の記述はしばしば自己指示的になり、積極的に「自らの叙述するところのものに巻き込まれ」始めるのだ。(守中高明『反=詩的文法』)

 

われわれの問題関心に即してたどり直しておこう。描写される対象は、描写する主体と切り離されることによって安定した自立性を持ち得る。そして読者は、その言葉が喚起するイメージ(当たり前のことだが、イメージそれ自体は言葉の外部にあるものだ)を想像することとなる。これが「読む」ということだ(とされる)。対して、後期の「自己指示的」な言語は、その外部にいかなる対象をも持っていないため、読者は何も思い浮かべることができない。ゆえに「読めない」。すなわち、そこでは「読む」という行為(言葉)の意味そのものが問い直されているのである。吉岡を論じる者たちに、しばしば次のような共通の言葉遣いが見られることは興味深い。

 

〔…〕言葉を見つめることによって書き継がれた言葉を、いったいどう読んだらいいのだろうか。(松浦寿輝「想像から引用へ――吉岡実『サフラン摘み』以後」)

 

〔…〕われわれはその詩を読むことができない。(すが秀実『詩的モダニティの舞台』)

 

〔…〕つまり端的に、誰もそれらを読むことができない〔…〕。(守中、前掲書)

 

松浦の疑問を反語と読めば、3人のいずれもが吉岡の詩を「読めない」と評しているのだ。それぞれの詩論を実際に読めばたちどころにわかることだが、この「読めない」は、共感の不可能性からくる反撥などではまったくない。むしろ、あらん限りの賛辞として言われていることは間違いない。しかしそれ以上に重要なのは、言葉のもっと即物的なレベルにおいてそう言われているということである。そもそも、人がある事柄を「わかった」「理解した」と言うとき、それは何を意味するのだろうか。例えば、「ロウキュウジ」という言葉を提示されて、あなたは最初その意味がわからない。だが、「老給仕」という字をふることによって、「ロウキュウジ」という音と「老給仕」という字と、頭の中にある何らかのイメージが結びつくことによってその意味が「わかる」。逆に、その現象が起きなければ、いつまでもその意味は「わからない」ままとなるだろう。つまり「わかる」とは、少なくとも一面的には、未知の何かが既知の何かと合致するこの体験のことを言うのではないか。となると、吉岡の詩が「読めない」のは、詩の言葉がそうした既知のイメージと合致することを拒んでいるから、ということになるだろう。では、何らかの知識を得たり、経験を積んだりすれば、この詩が「読める」ようになるのかと言えば、おそらくそうではない。むしろ、どこまで突き詰めても「読めない」ところに、吉岡の詩のすごさがあるのだと言えないだろうか。吉岡の詩は、まったく意味の分からない電波語のようなもので書かれているわけではない(そういったもののほとんどが読むに堪えないのは、大方の夙に知るところだろう)。そうではなく、詩が語られる/読まれるその瞬間の外部において、言葉がいかなる場所にも帰属しないような状態が作られているのでる。

すがは、その吉岡論をこう結んでいる。

 

しかも、その読むことができないという事態を、喜びをもって肯定せよと呼びかけているのが、吉岡実の作品なのである。(すが、前掲書)

 

この言葉は、次に引用する江川隆男の発言と奇妙なこだまを交わしているように思えてならない。章を移そう。

 

2.

江川隆男は、『超人の倫理』のあとがきでこう書いている。

 

私が今まで書いてきた著作や論文のなかには、ほとんど日常的な事例はありません。それは、実は当然のことでもありました。というのも、私が研究し展開し形成しようとしてきた哲学は、何よりも表象と道徳的な思考にけっして依拠しないような哲学だったからです。

こうしたイメージなき思考を徹底していった結果、私は、何と小説が読めなくなってしまいました。正確に言うと、一頁を読むのに十分もかかってしまいます。というのも、読んでいて、それ以前の場面や人物といった表象像を維持できなくなってしまい、絶えず前の頁にもどらなくてはならないからです。そういった意味で、読むことができなくなったのです。

しかし、私は、それでいいと思っています。イメージや記号を頭の中に浮かべて、それを一般的に語るような思考ではなく、イメージのない思考が何をいかにして言語的に構成し伝えうるのか、といった問いのなかにこそ哲学があると信じているからです。

 

江川の著作(『存在と差異』『死の哲学』『アンチ・モラリア』など)は、正直に言ってものすごく読みづらい。読みづらいというより、なんというか取り付く島もない印象すら受ける。しかし、本人の講義は極めてわかりやすい。そのギャップに興味を持っていて、彼の著作を色々と読んでいたのだが、『超人の倫理』は、大学での講義を基にしているだけあって、とてもわかりやすく、かつ再読、再々読に十分耐えうるものだ。そんな本のあとがきを引用したため、余計な注釈は不要かもしれないが、ポイントはやはり「イメージなき思考」である。その外部に対象を持たずに深化し展開されていく思考こそが「哲学」なのだと言われると、人生の悩みなどについて考えることと哲学を同一視している向きには、まさに「イメージが湧かない」かもしれない。だが、江川が挙げている小説の例は、とてもわかりやすいだろう。

ここでは次のことを確認しておきたいあ。すなわち、吉岡実が詩作において探究していた地平は、実は哲学という分野においても並行的に探究されていた主題であったのだ。江川の偏愛するバルーフ・デ・スピノザ(なんと早くも17世紀にこのような主題のもとに完璧な書物を作り上げた哲学者がいたのだ!)や、スピノザの影響を公言して憚らなかったジル・ドゥルーズ(彼の『差異と反復』のキーテーマがまさに「表象批判」である)がその代表的な探究者であると言えるだろう。 ドゥルーズに影響を受けた文学論というのは、日本でも数限りなく存在するが、この「イメージなき思考」という点から展開された詩論や小説論というのは寡聞にしてまだほとんど知らない。それはひとつには、なんと言っても書きづらい、そして理解されづらい、というのがあるのだろう。だがイメージなき思考は哲学だけの独占物ではないはずだ。少なくとも私は、小説の分野でイメージなき思考を探究してみせた人物をひとり知っている。それが次に紹介する森敦だ。

 

3.森敦の『意味の変容』は、1984年に出版された小説で、奇妙な図形あるいは数式などが文中にいくつも挿入されたシュールなつくりでありながら、「『意味の変容』ノオト」と題された付録解説を柄谷行人、岩井克人、浅田彰、中上健次という今見ても豪華な四人が書いていることで、おそらくは当時有名になったであろう作品である。生前の話なので推測するしかないのだが、ニューアカデミズムの空気が流れる中に現れ柄谷らに激賞されたこの小説を、読者の多くは一所懸命「解読」しようとして読んだはずだ。実際、数学に造詣の深い森は、もちろんこうした図形や数式をいい加減にでっちあげたわけではないし、その「解読」の手助けとして四人の解説を利用することも大いにできるだろうが、私が述べたいのは、そうした知識をいっさい持たない人にとってもこの小説は無類に面白く読めるものだということだ。いや、ここまでの議論から言えば、面白く「読めない」と敢えて記すべきか。面白く読めないのではなく、無類に面白く、かつ「読めない」のである。

その冒頭を書き写してみよう。

 

壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗なものたらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものではないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。

  ともあれ、この崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものと、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものとは、互いに境界によって内部、外部を形成するところの反対概念である。なにを以て内部となし、外部となすか、その厳密な定義はやがて明らかにされていくであろうが、このようにして壮麗なものは、反対概念を包括する全体概念であると言っていい。

 

私は、スピノザの『エチカ』を読んでいる時の手ごたえ、あの歯の立たなさに非常に近い感触を、この小説を読んでいる時に受ける。もし語句の意味がわからなければ辞書をひけばいいのだが、そんなことには大して意味がないと思う。回りくどく語られているのを整理するために「壮麗なもの」、「邪悪なもの」、「怪異なもの」、「頽廃したもの」をそれぞれA,B,C,Dに置き換えてみたこともある(そうしたら福永信みたいになった。福永信も気になる作家だ)。ともかくなんとかして、この面白さを言語化したいと何年も苦しんでいたのだが、吉岡や江川の仕事と突き合わせることによって、ようやくその一端をつかめた気がする。『意味の変容』が「読めない」のは、それがイメージなき思考に貫かれた言葉で書かれているからなのだ。文学は「想像力」の営みだと思われている節があるが、実はそうした想像や表象をどこまでも排して、イメージなき思考のみで文章を彫琢することの方が、よほど難しく、かつスリリングなのではないか。私はそのことを、ここまで挙げてきた人物の著作を通して体感することができた。

 

ではこの後どうするか。はじめの守中の引用に戻れば、やはり後戻り不可能なこの体験を通過してしまった以上、それを「実践的に延長する」しかあるまい。余談だが、私は今後しばらくこの『ヱクリヲ』の同人活動から離れてみようと考えている。今までずっと批評文を書くことをやってきた(というかそれしかできなかった)わけだが、この「イメージなき思考」と、対象がなければ成立しえない「批評」は、どうにも相性が悪いようにも感じられるのである。正確に言えば、既存の「批評」という概念を刷新するくらいの言語改革を持ち込まなければ、イメージなき思考で書かれた批評というのは難しいのではないかということだ。そうした言語を模索するためには、やはり一度自分の文体を見つめ直し、それを彫琢する期間が必要だろう。その準備期間として、しばらく批評から離れてみたいと考えているのだ。最後は個人的な話になってしまったが、「イメージなき思考」のポテンシャルは少しでも伝わっただろうか?

 

谷口惇