村上春樹のある種の傾向――『騎士団長殺し』にみる反復と逸脱の構造(2)


そっくりであるというのは、愛にとって残酷な制度であり、しかもそれが、人を裏切る夢の定めなのである
――ロラン・バルト『明るい部屋』*1

行動の反復によってのみ偏在的傾向の普遍化は可能なのだ
――村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』*2

 村上春樹の登場人物たちが似たような性格の持ち主であることはつとに批判されてきた。だが、もしもそのような類似した性質を持つ人々のネットワークが、擬似的な家族関係を形成しているように見えるとしたら、我々はそれをどのように評価できるだろうか。一方で、類似していることと同一であることの間には埋められない溝がある。類似がどこまで同一に漸近しても、両者が重なりあうことはない。類似したモティーフの反復は、むしろそこに存在する微細な差異を際立たせる。そうであるとして、その細部の偏差にこそ宿る普遍を、我々は見出すことができるだろうか。
 
 手を握ること

 村上は、手を握りあう人物たちを繰り返し描く作家である。前回の論考では、「手を握る」というモティーフに着目して『騎士団長殺し』と『1Q84』から該当する人物および場面をいくつか取り上げた。そのような人物像の母型を、我々はノンフィクション作品『アンダーグラウンド』(1997年)のうちに求めることができる。

 『アンダーグラウンド』は、オウム真理教によって引き起こされた地下鉄サリン事件(1995年)の被害者に取材し、村上が直接聴き取った話をまとめた大部のノンフィクション作品である(文庫版のページ数は777ページに達する)。同書には60人分の証言が収録されており、そのなかに、丸ノ内線(荻窪行き、A777)で被害にあった明石志津子(仮名)という女性のインタビューが含まれている。彼女は事件の後遺症で脳機能に重篤な障害を負っている。村上が取材を行った時点で、明石の身体には麻痺が残っており、多くの記憶が失われ、まともに言葉を話すことのできない状態にあった。明石の手を握った村上は「その指の力は予想していたよりずっと強いものだ」と述べ*3、さらに、帰り際にもう一度手を握ったときの印象を次のように記している。

 長いあいだ彼女は私の手を握っていた。そんなに強く誰かに手を握られたのはほんとうに久しぶりのことだ。
 その感触は、病院からの帰り道にも、家に帰ってからも、私の手にずっと長く残っていた。まるで冬の午後の、日溜まりの温かみの記憶みたいに。実をいえばそれは今でもまだかすかに残っている。あるいはこれからも残り続けるかもしれない。今こうして机に向かって文章を書きながら、その温もりによってずいぶん助けられているように感じる。自分が書くべきことは、その温もりの中にあらかた収められているはずだという気がする。*4

 

 村上は、明石の手を握ったときの感触が「これからも残り続けるかもしれない」と書き記しているが、その予感は正しかったと言えるだろう。あるいは、村上自身は明確にこの出来事を思い浮かべてその後の小説を書いたわけではないかもしれない。だが、少なくとも彼の身体はその感触を忘れていない。そうでなければ、『1Q84』で青豆が「とても強く、一瞬も力を緩めることなく」天吾の手を握ったり、『騎士団長殺し』の妹・小径が「小さく温かく、しかし驚くほど力強い指」で主人公の手を握ったり、あるいは、主人公の手を握ったまりえの指の力が「予想外に強かった」りすることはなかったのではないか。小学生のとき、放課後の教室で青豆に手を握られて「激しい心の震え」を経験した『1Q84』の天吾は、その経験を拠り所に小説家の道を進んでゆく。

  ちなみに、映画版の『ノルウェイの森』(トラン・アン・ユン監督、2010年)では、主人公(松山ケンイチ)と緑(水原希子)が出会ったときと仲直りしたときの二度、二人が握手を交わす場面が描かれているが[図1、2]、原作小説にそのような描写は存在しない。その後の村上作品に繰り返しあらわれる「手を握ること」のモティーフが、映像化に際してはからずも回帰しているのだとすれば、興味深い現象ではある。

【図1】

【図2】
※図1、図2ともに『ノルウェイの森』(トラン・アン・ユン監督、2010年)

  閑話休題。『アンダーグラウンド』の明石には兄がいた。彼は仕事帰りに片道50分かけて妹の病室に寄り、一時間ほど話をしていくのだという。舌が回らないために村上にはうまく聴き取れない明石の言葉(「いいぃぃおぅ=いいひと」など)も、兄には理解できている。この二人の関係を見た村上は「ずっと以前から、おそらくは子供のころから、お兄さんがこんな風に妹をからかい、妹はこんな風ににっこりと笑っていたのではあるまいか」と感じる*5

 この理想的ともいえる兄妹関係は、『騎士団長殺し』の主人公とその妹・小径(こみち)の姿と重なる。『騎士団長殺し』の主人公が回想のなかで幼い妹と手を握りあうことによって、『アンダーグラウンド』の明石兄妹をフィクションのなかで反復させているのである*6。この論考では、村上の作品世界内に見られるこうした登場人物の系譜を疑似家族的な関係として捉えてみたい。「家族」という言葉に込めている含意は次節で説明するとして、ここでは、村上作品内にあってある特徴を備えた一群の登場人物たちが、作品横断的な関係の網の目を作り上げていることを予告的に述べておくに留める。

 『騎士団長殺し』に話を戻そう。前回の論考でもそのつながりを指摘したように、主人公が肖像画を描くことになる秋川まりえという少女は、いくつかの点で主人公の妹を彷彿とさせる。作中ではじめてまりえに言及する際、主人公は「彼女が私の亡くなった妹にどこか似た雰囲気を持っており、しかも年齢が妹の死んだときの年齢とだいたい同じだった」ことをわざわざ確認している*7。まりえと懇意になった主人公は、あるとき雑木林のなかを彼女と並んで歩く。歩いている途中にまりえに手を握られた主人公は、「小さな手だったが、力は予想外に強」く、「彼女に急に手を握られて少し驚きはしたが、たぶん子供の頃によく妹の手を握って歩いていたせいだろう、とくに意外には感じなかった」と述べている*8。主人公にとってまりえは亡くなった妹の代わりのような存在なのである。まりえの絵を描き始めた主人公は「私の中で秋川まりえの姿と、妹のコミの姿とがひとつに入り混じっていく感覚があった」と述べ、さらに「二人のほとんど同年齢の少女たちの魂は既にどこかで――たぶん私の入り込んではいけない奥深い場所で――響き合い、結びついてしまったようだった」と続ける*9

 目の輝きを共有すること

 くわえて、実は主人公の妻がこの妹に似たところを持っており、彼が惹かれた理由もそこにあったことが作品の序盤で明らかにされている。のちに主人公の妻となり、そして離婚の危機を乗り越えることになる女性は、はじめて会ったとき、彼に死んだ妹のことを思い出させる。主人公の語りによれば「とりわけ目の動きや輝きが与える印象が、不思議なくらいそっくりだった」という。*10彼は、亡き妹の目を通して妻を見出すのである。

 誰かと誰かが似ていることを示すとき、本作では「目」が特権的な位置を占めることになる。ここで強調される「目」という顔のパーツもまた、『アンダーグラウンド』の明石に由来するものである。明石の目について、村上は次のように書いている。

彼女の両目は、瞼もきちんとは開いていない。でもよく見ると、その瞳の中に光が宿っていることがわかる。それは小さいけれど、とてもしっかりとした輝きを放つ光だ。私が最初に気がついたのは、その紛れもない輝きだった。*11

  『アンダーグラウンド』の明石、『騎士団長殺し』の主人公の妹、妻、そして秋川まりえは「目の輝き」を共有しあっている。『騎士団長殺し』には、さらにこの系列に付け加えるべきもう一人の人物がいる。それが免色渉である。まりえと免色の共通点について、主人公は次のような観察をしている。

もし似ているところをひとつだけあげろと言われれば、それは目になるだろう。二人の目の表情には、とくにその一瞬の独特なきらめき方には、どこかしら共通するものがあるように感じられた。*12

 まりえは、免色がかつて付き合っていた恋人が別の男性と結婚してからもうけた子どもであるが、その出産の時期から逆算すると、免色が恋人と最後に会ったときの性行為によってできた子かもしれないという(恋人の死後、そのような事実を匂わせる手紙が送られてくる)。しかし、免色はまりえが本当に自分の娘なのかどうか確信を持てないでいる。そこで主人公の画家としての観察眼を頼って、自分たちの顔に親子の徴が見られないか尋ねる。主人公は、はっきりしたことは言えないとしつつも「ただ目の動きには、何かしら相通じるものがあるように感じました」と伝える*13。免色と秋川まりえが似通った目を持っていることは、まりえと叔母の秋川笙子の二人に関して「二人はどの点をとっても顔立ちがまるで似ていない」「二人の相貌のあいだには共通するところがまるで見当たらない」とわざわざ書き付けられていることと対をなしている*14

 家族的類似

 本作において、必ずしも血に制限されない疑似家族的な結びつきは、他の登場人物たちを巻き込んでさらなる広がりを見せる。その内実を確認する前に、「家族」の問題を考えるにあたって、ここで哲学的な補助線を引いておくことにしよう。

 思想家の東浩紀による最新の単著『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、2017年)の第2部は「家族の哲学(序論)」と題されている。ここで東が主張しているのは、保守勢力が喧伝しているような「伝統的家族」の復権などではもちろんない。混迷を極める現代社会にあって、グローバリズムとナショナリズムのどちらにも加担することなく(というよりもはやそれは不可能なので)、人々の連帯(マルチチュード)を担保するために、東は「観光客」という概念を提案し、「観光客の哲学」を展開する。そして、観光客が拠りどころとするべき新しいアイデンティティとして家族に目をつけ、観光客の哲学が家族の哲学によって補完される必要性を説く。

 東が展開する議論のなかで、本稿の文脈において鍵となるのは「家族的類似性」と「不能の父」という二つの概念である。これらの概念を用いることで、村上春樹の『騎士団長殺し』は「家族の哲学」を体現する作品として読み直すことができる。

 議論を進める前に、二つの概念の内容を確認しておこう。「家族的類似性」は、もともとはウィトゲンシュタインが言語ゲームの性質を説明する際に用いた言葉である。東はこれを次のように説明している。

あるグループがある。メンバー全員の共通点はとくにない。ただ、ひとりひとりを見るとたがいにそれぞれ異なった共通項をもっている。だからグループとしてはなんとなくのまとまりを構成している。*15

 これを実際の親族関係に当てはめると「ぼくと叔父は似ている。叔父と大叔父も似ている。だからといって、ぼくと大叔父が似ているとはかぎらない」といった事態を指すことになる*16。『騎士団長殺し』の主人公の妻の名前は「ゆず」というが、彼はしばしば妻のことを「すだち」と呼んでからかったという。「すだちじゃなくて、ゆず。似ているけど違う」*17。しかし、やはり両者はどうしようもなく似ている。同じ柑橘類の属するもの同士の間に見られる家族的類似性。冒頭近くに置かれたこのエピソードは、本作で展開されることになる人間関係を予示的に仄めかしている。

  『騎士団長殺し』では、家族的類似の関係が血のつながりを超えて広がっている。まず、主人公と妹の血縁に基づく関係があり、その妹に似たところを持つ妻と、主人公が肖像画を描くことになる秋川まりえという二人の女性があらわれる。そして、免色はまりえと似た目を持っており、彼は彼女の実の父親かもしれないという。

 妹とまりえ、妹と妻、あるいはまりえと免色はそれぞれに似た部分を持っているが、彼ら全員が似ていることを強調するような描写は本作に見られない。じっさい、相互に反復しあいながらゆるやかにつながりあっているかに見える彼らの関係性のうちには、それを再び解体し、再組織化するような複数の線が潜在している。そのうちの一本が「不能の父」の系譜である。

 不能の父

 免色は主人公を映し出す鏡のような存在であり、二人はともに「不能の父」として描き出されている。免色は、自分の娘かもしれないまりえを観察するためだけに、わざわざ小田原の山の中に家を購入し、そこに移り住んできた人物である(その近くに、訳あって主人公が借りることになった家もある)。そして夜な夜な、ベランダから高性能の双眼鏡を覗いて、山向こうの家にまりえの姿を求めつづけている。その行為は一般的な感覚からすればきわめて気味の悪いものだろう。

 免色はDNA検査を行ってまりえと自分の血の繋がりを確認することもなければ、まりえの母親との関係を打ち明けて、彼女を引き取ろうとすることもない。ただ遠目から彼女のことを見守るだけである。その意味で、免色はまりえの成長に関与できない「不能の父」であるほかない。主人公は、そのような行為にふける免色に自らの無力さを重ねて「他の人にはこれまで感じたことのない近しい思いを抱くように」なる*18

 主人公と免色はある部分で「似たもの同士」である。彼らは「自分たちが手にしているものではなく、またこれから手にしようとしているものでもなく、むしろ失ってきたもの、今は手にしていないものによって前に動かされている」*19。のちほど改めて確認するが、東はまさにこのような感覚を「仮定法の亡霊」と呼ぶ。

 東は、ドストエフスキーの読解を通して、「不能の父」という一見ネガティヴな概念をポジティヴなものとして捉え直す。具体的には、作者の死によってじっさいには書かれなかった『カラマーゾフの兄弟』の続編を、亀山郁夫の議論を参照しながら分析することで、主人公のアリョーシャがまさにそのような存在になりえた可能性を提示する。

 ここで『カラマーゾフの兄弟』の物語を詳しく紹介することは控えるが、この作品がカラマーゾフ家の三兄弟(ドミートリイ、イワン、アリョーシャ)と腹違いのスメルジャコフの四人の兄弟を中心に置き、この四人の父親の殺害(「父殺し」)をめぐる物語を基調としていることがさしあたり肝要である。そして本作は、アリョーシャを師と仰ぐ少年たちが「カラマーゾフ万歳!」と叫んで終わっている。すなわち、『カラマーゾフの兄弟』とは、自らの家族に何らかの欠陥を抱えた少年たちが、アリョーシャ・カラマーゾフを父とする疑似家族的な共同体の成立を言祝いで終わる作品なのである。しかし、続編では成長した少年たちが皇帝暗殺を目指すも、アリョーシャはその計画の首謀者として支配力を振るうわけでもなく、また子どもたちの計画を止めることもできない「不能の父」としてあるほかないだろうと東=亀山は考える。

 続編で皇帝暗殺を目論むグループのリーダー格は、コーリャ・クラソートキンという名の少年になると予想されている。東は、首謀者コーリャと他の少年たちの関係を『悪霊』のニコライ・スタヴローギンとテロリストたちの関係が反復したものと見る。並外れた能力を持つ主人公スタヴローギンが、複数の女性と関係を持ちながら、周囲の人間を操ってテロ事件を画策するという基本線に、内ゲバの過程で起こった殺人や、その周辺人物の顛末を複雑に描き込んだ作品が『悪霊』である。スタヴローギンは、一般にテロリストと考えられている人物だが、東はむしろ「リバタリアンなIT起業家やエンジニアたちと比較するのがよい」と指摘する。東によれば、スタヴローギンの本質は「無関心病」にあり、彼は「他人の運命を操作する。操作できるから操作する。目的なく操作する」ような人物である。*20

 そして、スタヴローギン的な無関心病のテロリストの先に、ドストエスフキーが「最後の主体」として想定していた存在こそ「不能の父」たるアリョーシャではないかというのが東の見立てである。

 「超人」の系譜

 なぜくどくどと『悪霊』の話をしているかといえば、スタヴローギンのイメージが『騎士団長殺し』の免色に引き継がれているように思われるからである。免色はスタヴローギンに似ている。たとえば、まりえに近づくために主人公をはじめとする周囲の人間に巧みに働きかけ、結果として自分の望む通りに事態を進める彼の能力はスタヴローギン顔負けである。二人とも、人を易々と操れるようなきわめて非凡な能力を持ちながらも、その先には何か遠大な目的があるというわけではない。単に「操作できるから操作する」のである。

 ドストエフスキーの強い影響を受けている村上もまた、東の関心とは別の経路を辿って、似通った認識に達し、村上なりの仕方でスタヴローギン的な主体の更新を目論んでいたのではないか。じっさい、『騎士団長殺し』には、この読みを傍証するような細部が存在している。

  『騎士団長殺し』では、主人公とその友人の雨田とのあいだで次のような会話が交わされる。

 

「ところで本といえば、ドストエフスキーの『悪霊』の中で、自分が自由であることを証明するために拳銃自殺する男がいたと記憶しているんだけど、なんていう名前だっけ? おまえに訊けばわかるような気がしたんだが」

「キリーロフ」と私は言った。

「そうだ、キリーロフだ。このあいだから思い出そうとしていたんだけど、どうしても思い出せなかった」*21

 

 この会話は特に脈絡もなく、いかにも唐突に交わされている。主人公が「本」という単語を発しただけで、この場面でドストエフスキーや『悪霊』といった固有名が挙げられる必然性はほとんどない。もちろん、村上はこうした古典的な作家への言及やその作品の引用を頻繁に行う作家であり、じっさい、この会話の直前にはジェーン・オースティンの名前が持ち出されている。

 しかし、ここでわざわざ『悪霊』に言及し、しかも「おまえに訊けばわかるような気がした」と主人公の友人に言わせているのは、ある種のメタ・メッセージとも受け取ることができる。物語世界内の水準でいえば、文学愛好家の主人公に訊けばキリーロフの名前が出てくるだろうという期待が雨田にあったと考えることができるが、これが読者の水準での仕掛けだとすれば、スタヴローギンを思わせる免色なる人物とかかわり合いになっている主人公自身が、『悪霊』でそのスタヴローギンに振り回された挙げ句に自殺することになるキリーロフと重なる。ここで雨田がキリーロフの名前を思い出せないことと、『騎士団長殺し』の主人公の名前が最後まで一度も出てこないことに符号の一致を見るのは穿ちすぎだろうか。

 スタヴローギンはしばしば「悪魔的超人」と評されるが、村上作品にはこうした「超人」的な人物の系譜がある(ちなみに『悪霊』はニーチェの「超人」思想に影響を与えた作品としても知られているが、ここではそこまでは立ち入らない)。前回の論考でも触れたように、免色は『ノルウェイの森』に登場する永沢という男に似ている。東大の法学部に所属する永沢は、外務省に楽々と就職を決めるようなきわめて優れた能力を持っており、育ちのよい美人の恋人がいるにもかかわらず、ナンパに明け暮れ次々と女の子をモノにしていく人物である。だが、永沢には何か確たる理想があるわけではない。己の能力を誇示するのに相応しい場として中央省庁での出世競争や、バーでの女漁りがあるだけである。『騎士団長殺し』の免色もまたそのような超人的な能力を持っている。しかし、彼はある段階でそのような腕試しの場から降りてしまっている点で、描かれなかった永沢のその後の人生を思わせる。

「こんなことを言うといかにも傲慢に聞こえるかもしれませんが、私は自分のことをずいぶん頭の切れる有能な人間だと思って、これまで生きてきました。勘も優れているし、判断力も決断力もあります。体力にも恵まれています。何を手がけても失敗する気がしません。実際、望んだものはだいたいすべて手に入れてきました。(中略)そして将来、自分はほぼ完璧な人間になれるはずだと考えていました。世界をそっくり見下ろせるような高い場所にたどり着けるだろうと。しかし五十歳を過ぎて、鏡の前に立って自分自身を眺めてみて、私がそこに発見するのはただのからっぽの人間です。無です。T・S・エリオットが言うところの藁の人間です」*22

 先ほどの引用部分で、免色は「鏡の前に立って自分自身を眺めてみ」たと言っているが、ちょうどこれと同じ身振りをとった人物が先行する村上作品に存在している。短編小説「プールサイド」(1983年)の主人公は、35歳の誕生日の翌朝に「脱衣室の壁についた等身大の鏡の前に生まれたままの姿で立ち、自分の体をじっくりと点検」する*23。若い頃から遊び相手の女性に不自由することはなく、特に勉強しなくてもトップクラスの成績を維持し、入社した会社で大成功を収め若くして重役の地位についた彼は、美人の妻とは別に若い愛人を持ち、順風満帆な人生を謳歌していた。

 何不自由のない人生。しかし「これ以上の何を求めればいいのか」わからない彼は、35歳の誕生日を迎え、確実に自分を捉えつつある老いを前にして、涙を流す。「どうして泣いているのか、彼には理解できなかった。泣く理由なんて何ひとつないはずだった」と言いつつ、この短編小説で描かれているのは、明らかに、ある種の成功者を捉える人生の虚しさである。

 そして、この短編小説を介して東浩紀は村上春樹と文学的な交わりを持つことになる。東の長編小説『クォンタム・ファミリーズ』(2009年)で言及される村上作品がまさにこの「プールサイド」なのである。膨大なSF的教養に支えられたこの小説で特に重要な位置を与えられている純文学作家がドストエフスキーと村上春樹であることも注目に値する。ドストエフスキー(とりわけ『地下室の手記』)に強い影響を受けている『クォンタム・ファミリーズ』の主人公は、本作の冒頭近くで『悪霊』のスタヴローギンの言葉を引用してみせている。かつて少女に性的虐待を行った後ろ暗い過去を持つ本作の主人公の造形が、少女を性的に陵辱して自殺に追いやったスタヴローギンを基にしているのは明らかだろう(おまけに彼は並行世界でテロリストとなる)。『騎士団長殺し』の免色が秋川まりえに対して暴力的な行為の寸前に踏みとどまる場面は、文学史のなかに存在するこうした関連作品と「家族的に」共鳴しあう。ドストエフスキー=村上春樹=東浩紀を結びつけるような文学的想像力の系譜を考えるとき、そこには空虚を抱えた超人的な人物が存在しているのである。

 腹違いの兄弟姉妹たち

 著名な字幕翻訳家の娘を妻に持ち、大学に職を得ながら10歳も若い女学生と肉体関係を持っている『クォンタム・ファミリーズ』の主人公は、世間的に見ればはっきりと成功者の側にいる人間である。35歳になった彼は、好きではなかった村上春樹の小説を読みふけるようになり、「初期の短編のなかに、『元水泳選手の男』が三五歳の誕生日を迎えて、煙草を吸ったり妻の寝顔を眺めたりしたあとなぜか一〇分間だけ涙を流すという、ただそれだけの物語を発見」する*24。東は具体的な作品名を挙げてはいないが、その内容から「プールサイド」を前提にしているのは疑いない。

 東の主人公は、村上の短編に次のような解釈を与える。彼は「ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている」とし、この三者をそれぞれ「直説法過去」「直説法未来」「仮定法過去」と呼び、齢を重ねるとは仮定法過去の総和を増やしていくことだと考える。*25直説法と仮定法のバランスは、「おそらくは三五歳あたりで逆転」し、「その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる」。*26「仮定法の亡霊」は、「そもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない」ので、「『元水泳選手の男』は、『やりがいのある仕事と高い年収と幸せな家庭と若い恋人と頑丈な体と緑色のMGとクラシック・レコードのコレクションを持っていた』としても、涙を流す」のである。*27
 
 自身も35歳になる東の主人公は「春樹の描いた感覚はよく理解できた」と言いつつも、「僕と春樹のあいだには決定的な違いがある」とも感じている*28。「元水泳選手の男」は、自身の半生をプールで知り合った作家に語ることで、「蜃気楼が消え」、「迷いのない人生に戻っていく」が、自分にはそのように考えることはできないと言う。しかしながら、ここにはある作為が働いている。作品を読む限り、春樹が描いた元水泳選手の男は必ずしも「仮定法の亡霊」を払拭できているわけではない。東は「タフにフルスピードで泳ぐ」という「プールサイド」の文章を引用したうえで、元水泳選手の男が今後の人生をそのように生きることを決意したと記しているが、これは正確ではない*29。元水泳選手が「70年をフルスピードで泳ぐ」*30と決心したのは、鏡の前に立つより以前、自らの来し方を振り返って涙を流す以前のことであり、この短編は、むしろその決意が揺らいでいる様子をこそ描いているのである。そうであるとすれば、『クォンタム・ファミリーズ』の主人公が否定しているにも関わらず、春樹が描いた元水泳選手の男は、やはりもう一人の彼である。春樹の主人公と東の主人公は似ている、あたかも並行世界を生きるもう一人の自分であるかのように。あるいは、片親を違える家族であるかのように。

 超人たちの末裔

  『クォンタム・ファミリーズ』で「仮定法の亡霊」に囚われた男とその家族の物語を描いた東は、『ゲンロン0』でその思想的決着をつけている。それがドストエフスキーの読解を経由してたどり着いた「不能の父」の境地である。そして、村上春樹が『騎士団長殺し』を通して描き出そうとしたのも、そのような父のあり方だと考えられないだろうか。

  『騎士団長殺し』の主人公は、若い男に走って一度は自分のもとを去った妻との関係を修復し、作品の終盤で再びともに暮らすようになるが、妻は彼と離れている間に子を身籠もっていた。しかし、その子の父親が誰かわからないのである。妻によれば、それが不倫相手の若い男との間にできた子でないことは間違いないという。小説では、主人公が夢のなかで妻をレイプするエピソードが描かれており、そのときにできた子であることが示唆される。主人公はそのような超現実的な話を「信じる」ことにする。信じることができる主人公と、できない免色。この一点において二人の「不能の父」は袂を分かつことになる。

 やがて生まれてきた主人公の子どもは室(むろ)と名付けられ、数年後には迎えにきた主人公と手をつないで保育園から家へと帰っていく姿が描かれる。ちょうどその頃、作中で東日本大震災が起こり、津波の映像を娘に見せまいとして、主人公の「手」は娘の両「目」を塞ぐ(そのささやかな細部の異同の解釈は別の機会に論じるとして、ここでは『クォンタム・ファミリーズ』の主人公が、並行世界の娘・風子の手を離したことで彼女が車に轢かれかける場面があることと、作品の結末部で自らが過去に犯した少女に対する性的虐待を自首する際、別の世界の娘・汐子の手をつなぐのではなく、肩車をしながら警察署の前までやってきていることを指摘しておきたい)。『騎士団長殺し』では、主人公と娘の外見が似ているかどうか一切触れられないが、おそらくこれは意図的なものである。

 主人公は免色と似たところを持ちつつも、明確に異なる父親として生きはじめる。「秋川まりえが自分の子どもであるかもしれない、あるいはそうではないかもしれない、という可能性のバランスの上に人生を成り立たせて」、「その二つの可能性を天秤にかけ、その終ることのない微妙な振幅の中に自己の存在意味を見いだそうとしている」免色とは違って、『騎士団長殺し』の主人公に迷いはない。なぜなら彼には「信じる力」が備わっているからだ。信じる力、これはあまりにナイーヴすぎる結論だろうか。

 村上は『アンダーグランド』のあとに、正確にその姉妹編と呼ぶべき『約束された場所で』(1998年)というノンフィクション作品を発表している。『アンダーグラウンド』が地下鉄サリン事件の被害者に取材した作品であったのに対し、『約束された場所で』ではオウム真理教の元信者にインタビューを行っている。そこで村上が突きつけられたのは「小説家が小説を書くという行為と、彼らが宗教を希求するという行為のあいだには、打ち消すことのできない共通点のようなものが存在している」という感覚である*31。「そこにはものすごく似たものがある」*32。しかし、「相似性と同時に、何かしら決定的な相違点」があることにも気がつく*33。同書に収められた河合隼雄との対談のなかで、村上は価値判断の基準は、善悪ではなくスケールの違いに求めるべきではないかという趣旨の発言をしている*34。巨大なカルト宗教の単純な教義に対抗できるのは、それを飲み込むような複雑さを持ちながらも、場合によってはよりささやかな物語なのではないか。巨大な組織体系を備えた宗教団体と社会の最小構成単位としての家族。その信仰の対象に「教義」を置く代わりに「家族」を置いてみること。『騎士団長殺し』の主人公の娘である(かもしれない)室が「恩寵のひとつのかたち」と呼ばれているのは偶然ではないだろう(『1Q84』の青豆に訪れたのも、生物学的な父親が定かではない恩寵としての妊娠だった)。

 スケールを問題にする以上、価値判断の基準は常に揺れ動かざるをえない、またそうであるからこそ意味があるとも言える。一口に家族を信じるといっても、それが血縁を超えて広がりうるものである以上、固定的で絶対的な基準とはなりえない。じっさい、同じ教祖=父を戴き、同じ教義を信奉するカルト宗教の構成員を疑似家族と見なすことも可能である。あるいは、村上自身も述べているように、会社や学校といった組織の法と、カルト教団のそれとは所詮は紙一重のものである(「カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常な人々ではない。落ちこぼれでもなければ、風変わりな人でもない。彼らは、私やあなたのまわりに暮らしている普通(あるいは見方によっては普通以上)の人々なのだ」*35)。その意味で、『騎士団長殺し』の主人公が最後に見せた決意はやはり危うさと背中合わせのものである。村上の小説がじっさいにカルト的な人気を博し、世界中の読者がその登場人物たちのうちに自らの似姿を見出している現実を前に、警戒心を抱く人々があらわれるのはむしろ健全なことだろう。

 そうであるとすれば、「信仰」の内容を確定させることを放棄した免色の方が、ある意味においてはより倫理的であるとさえ言えないだろうか(それはそれで危ういあり方ではあるとして)。村上の長編小説では主人公が父親になること自体が例外的である。『騎士団長殺し』の主人公は、いつもながらに村上作品の主人公にふさわしい冒険を経ながらも、村上作品ではお目にかかったことがないまっとうな父親へと成長する。それに対して、免色は、一見まともな父親になる主人公を際立たせる影のような存在に見える。だが、我々は、ドストエフスキー的な超人の系譜に位置する人物が父親になること、あるいはなろうとあがくことの方に画期を見出すべきかもしれない。自分の娘かどうかもわからない少女の成長を望遠鏡越しに見守る「不気味な」父親像の造形、超人的な人物の成れの果てこそ、村上春樹にとっての新機軸ではないだろうか。

◇註

1 ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』、花輪光訳、みすず書房、1985年、80頁。
2 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』、新潮文庫、1988年、14頁。 『アンダーグラウンド』、226頁。
3  村上春樹『アンダーグラウンド』、講談社文庫、1999年、229頁。
4  『アンダーグラウンド』、233頁。
5 『アンダーグラウンド』、226頁。
6 主人公と妹が手を握りあう場面の具体的な描写は、以下の引用を参照されたい。「一緒に富士の風穴に入ったとき、冷ややかな暗闇の中で妹は私の手をしっかり握りつづけていた。小さく温かく、しかし驚くほど力強い指だった。私たちのあいだには確かな生命の交流があった。私たちは何かを与えると同時に、何かを受け取っていた」(村上春樹『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』、新潮社、111〜2頁)
7 「第1部」、413頁。
8 「第2部」、212頁。
9 「第1部」、496頁。
10 「第1部」、44頁。
11 『アンダーグラウンド』、223頁。
12 「第1部」、447頁。
13 「第2部」、43頁。
14 「第1部」、476頁。
15 東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』、ゲンロン、2017年、221頁。
16 同書、221頁。
17 「第1部」、48頁。
18 「第1部」、434頁。
19 同書、434頁。
20 『ゲンロン0』、278頁。
21 「第2部」、195〜6頁。
22 「第2部」、269頁。
23 村上春樹「プールサイド」、『回転木馬のデッド・ヒート』、講談社文庫、2004年、68頁。
24 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、新潮社、2009年、28頁。
25 同書、28頁。
26 同書、28頁。
27 同書、28頁。
28 同書、28-9頁。
29 同書、29頁。
30 「プールサイド」、65頁。
31 村上春樹『約束された場所で』、文春文庫、2001年、17頁。
32 同書、17頁。
33 同書、17頁。
34 同書、291頁。
35 同書、331頁。

【補遺】是枝裕和と不能の父
 疑似的な家族のあり方をめぐる想像力は近年のフィクション作品にも溢れている。東が『ゲンロン0』で言及しているアニメーション映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督、2016年)のラストシーンでは、戦災孤児の少女が、原爆で死んだ母親と同じく右手を失っているヒロインのすずに亡き母の姿を投影し、彼女の娘として引き取られるさまが描かれている。東も言うように、戦後の日本では、たまたま出会った戦災孤児を養子にする例は決して珍しいものではなかった。小津安二郎の戦後第一作にあたる『長屋紳士録』(1947年)の女性主人公は、ひょんなことから戦災孤児と思しき少年の世話をすることになり、彼を息子として迎え入れようとする。少年は肩をもぞもぞと動かす独特の癖を持っているが、劇中ではそれが女性主人公に移ることがギャグの一部として用いられている。血縁がなくとも、一緒に暮らしていれば互いの癖が似てくるのである。結局、実の父親があらわれて少年を引き取っていくのだが、子どもが欲しくなった彼女は、映画の最後に新たな戦災孤児を求めて上野周辺に赴く。
 あるいは、ゼロ年代にデビューし人気を博した西尾維新のライトノベルでも(疑似)家族の問題が主要なテーマをなしている。デビュー作の「戯言」シリーズもそうだが、アニメ化作品がヒットした「物語」シリーズにもその問題意識は引き継がれている。このシリーズでは、各エピソードのタイトルに、そのエピソードで中心的な役割を果たす登場人物の名前と、怪異(妖怪のような存在)の名前を組み合わせたものが用いられている。たとえば、最初のエピソードのタイトルは、ヒロインの戦場ヶ原ひたぎの名前と、彼女に蟹の怪異が取り憑くことをあわせて「ひたぎクラブ」となっている。なかでも、注目すべきは「つばさファミリー」と題されたエピソードである。中心となるのは羽川翼という女性キャラクターだが、彼女は実の母親の再婚相手(男性)の再婚相手(女性)と、その女性の再婚相手の男性とともに「家族」を形成しており、そのような歪な環境が彼女に強いストレスを与え、怪異につけいる隙を与えたことになっている。羽川にとって、家族は妖怪も同然である。彼女は、失敗した疑似家族関係をあがなうような別の疑似家族関係(友人同士の結びつき)を模索することになる。
 最後に映画監督の是枝裕和に触れておこう。村上春樹とは何の関係もないように思われるかもしれないが、彼もまたオウム真理教によるテロ事件を自らの作品に取り入れた作家であり、家族のあり方を問いつづけている作家である。テロ事件の被害者とオウムの信者を取材した村上に対して、是枝はテロ事件の加害者の家族に焦点を合わせた映画『DISTANCE』(2001年)を発表している。被害者と加害者の間にそれほどの差はなかったのではないかと考える是枝は、両者を媒介する存在として加害者遺族という特殊な当事者をフィクションに導入する(この映画では、テロ事件の実行犯たちは、事件後に教団によって殺されている)。彼らは、世間からは犯罪者の身内として後ろ指を指されるような存在でありながら、家族が凶悪犯罪の当事者になったことで人生を狂わされた被害者的な存在でもある。本作ではそのような微妙な立場に立たされた人々の精神的なむすびつき=コミュニティの存在が描かれる。
 そもそも是枝は、デビュー作の『幻の光』(1995年)から、繰り返し家族のあり方を追究してきた作家である(宮本輝の同名の小説を原作に持つこの映画で描かれるのは、お互いに連れ子のある男女が再婚し、新たな家庭を築いていく物語である)。離婚と再婚、それに伴う家族の変化、子どもの動揺といった主題は是枝作品の至るところに見出すことができる。福山雅治を主演に迎えた『そして父になる』(2013年)では、じっさいに起こった新生児の取り違え事件に想を得て、家族の問題をラディカルに問うてみせた。
 さきごろ一般公開されたばかりの是枝の新作映画『三度目の殺人』もまた、そのような読みを誘う作品である。『そして父になる』につづき主演を務めた福山雅治は、今作でも、仕事人間としては優秀でありながら、父親として欠陥を抱えた人物を演じている。福山演じる弁護士は妻と別居しており、娘は万引きを繰り返す非行少女となっている。そして福山は平気で嘘泣きができるような自分の娘を扱いかねる。一方で、福山が弁護することになる殺人犯(役所広司)も父になり損ねた人物である(実の娘からは「死んで欲しい」と言われる)。劇中では明言はされないものの、彼が殺人を犯した動機もそこにあったことが示唆されている。殺人を犯すことで、はじめて擬似的な父親の地位を占めることができた役所は、その代償として「死刑=三度目の殺人」を受け入れる。彼が「空っぽの器」と形容されるのは、「不能の父」の末裔であるからにほかならない。