批判の行方:『エクリヲ vol.12』「ポストクリティーク――いま批評には何ができるのか」


 見かけを疑い、隠された真実を暴き出すこと。「中立」や「自然」や「普通」などなく、実際には特定のイデオロギーや世界観に基づいたものであると気づくこと。ばらばらに存在しているかに見える事象を、その背後にある体系や構造の次元に照準を合わせることで、あるまとまりをもって理解すること。賢くなるとはこうした知的営為に習熟することであり、テクストを読むとはこの隠れた次元をこそ見出すことであり、そうした実践を続けていくことで、わたしたちはきっと世界をよりよく知り、よりよく変えていけるはずだ。作品と批評的に向き合うとは何よりこうした姿勢を採ることであり、これが作品として囲われた領域とその外の世界とをつなぐ回路となる。例えば、それまで気づかれずにいた女性蔑視やホモフォビアを可視化し、西洋や日本の植民地主義や帝国主義、オリエンタリズムを指摘し、後期資本主義の様態や資本家による搾取の構造を描き出し、有形無形の権力が蠢くさまを記述することを通じて。

 しかし近年、そうした知性のあり方がうまく機能しなかったり、現実と思うように接点を持てないと感じられる機会が様々な形で増えてきているように思われる。ある作品を「批判的」に読み解くのだとして、それは実のところ何を行うのか。作品がイデオロギーとの共犯関係を隠していると鮮やかに暴くことが型通りの空虚な振る舞いに思えたり、作品に秘められた抵抗の萌芽を見出してもそれがその読解の外でどんな意味を持つというのかと疑問に感じたりすることが増えていないだろうか。あるいはまた、わたしたちはジェンダー・ギャップ指数が毎年のように史上最低順位を更新し続け、嫌韓・嫌中本が書店に並び、数多の難点を指摘された政権がかつてなく安定した支持を集める国で暮らしている。それがいかに問題かを示す言葉はこんなにも溢れているのに、である。これは日本固有の閉鎖性や保守性のせいなのだろうか。しかしわたしたちはまた、世界各地で排外主義勢力が着実に力を増していることも知っているし、「国境の壁」を築くと豪語した大資本家がアメリカ国民の信任を得て大統領に就任したことも知っている。こうした状況は、そこにどのような問題が隠されているのかを指摘する声がまだまだ足りていないことを意味しているのだろうか。啓蒙や批判が十分でないのであって、その量を増やすことで事態の好転が期待できるのかもしれない。しかし、例えば出席者二、三十人の全員が男性である閣僚会議の、そのあまりにも分かりやすく「間違った」写真を見て、それでもやはりこの政権のミソジニーを「暴く」べきだろうか。

1. 現代においてクリティーク=批判は何をしてきたのか

 今回特集する「ポストクリティーク」は、一九六〇年代以降の批評理論諸派が可能にし促進してきた世界の見方を、クリティーク=批判という名の下に捉え直してみることで、それがいまどのような限界に突き当たっているのかを検討し、これからの道を模索しようとする議論である。「批判」はカントやマルクスに由来する哲学的概念だが(したがってポストクリティークは本質的に近代論、啓蒙思想論を射程に含む)、『クリティークの限界』(二〇一五年)の著者リタ・フェルスキはこの伝統を踏まえつつ、この概念をより限定的に、近年知識人層の間で共有された方法意識として描き出していく。ポール・リクールの用語を借りて「懐疑の解釈学」と言い換えられるクリティーク[1]は、対象に対して警戒を絶やさずそれが何かを隠しているのではないかと疑い続けること、隠された次元を発見するという目的を持ってテクストや社会現象と向き合うことだと規定される。興味深いのは、ここからさらに進んでフェルスキが、テクストは深層を持ち批評家はそれを掘るという空間性、および、批評家は探偵のようにテクストの「罪」を探り当てようとするという物語性を、クリティークの特性だとすることだ。批判的思考をこうした形象に分解してみることで、それがどのような空間的装置と筋書きに依っているかを考察すると共に、クリティークを批評家の意識的な言明に限定せず、表現やイメージのレベルで捉えることが可能になる。

 現代の言説空間におけるこうした思考法の強制力には、多かれ少なかれ誰しも思い当たるところがあるはずだ。あるテクストが裏に抱えるイデオロギーや偏見に気づかずに、うっかりそのテクストを絶賛してしまったりしたら周囲からどのような目で見られるか。知的な真剣さや厳密さの基準は、実のところクリティーク的であるか否かに設定されているのだ。したがってクリティークは、選択可能な方法の一つというよりも「ムード」や「雰囲気」の問題(フェルスキ)、あるいは「情動」の問題であり、この点で今日におけるポリティカル・コレクトネスのような事象とも関係してくる。クィア理論家のイヴ・セジウィックは、「とってもパラノイアなあなたのことだからこのエッセイも自分のことだと思ってるでしょ」といういかにも挑発的な問いかけを冠するエッセイで、フェルスキがクリティークと呼ぶものを「パラノイア的読解」と名付ける。何かが隠されているのではないかと強迫的に疑い続けるパラノイアの症状がクィア理論、さらには現代批評理論に広く見られることを、セジウィックはホモフォビアとの闘いやAIDSに関するアクティヴィズムの内側から指摘する。重要なのは、パラノイアが「ネガティブな情動の理論」であり、「反射的かつ擬態的」であり、「伝染しやすい」ことだ。パラノイアはそれを鏡写しのように真似したいという誘惑を情動のレベルで引き起こす性質を持っており、だからこそそれは伝播・固定化しやすい。

2. クリティークの感染的伝播

 クリティークの「伝染」の範囲はどこまで広がるだろうか。ブリュノ・ラトゥールが「批判はなぜ力を失ったのか」でまず注目するのは、クリティークの全面化という事態だ。クリティークは知識人の、あるいは左派の武器であるという暗黙の前提がある。しかしとある政策コンサルタントが「科学的確実性が欠如している」と言ってクリティークの身振りを取りながら地球温暖化を否定するのを見るとき、もはやそれは知的訓練を積み特定の主張を共有する人々の占有物ではなくなっている(こうしてクリティーク論はポストトゥルース論とも交差する)。ラトゥールが批判の言い換えとして持ち出すモチーフの一つは、「陰謀論」だ。自明なものなど何一つなく全ては構築されているのだと考える批判者の思考法は、あらゆるものの背後に陰謀を嗅ぎ取る陰謀論者の習慣とどこかで重なってしまう。わたしたちは一度SNSを開けば、あらゆる報道に、あるいはツイートの一つ一つに疑いの目を向けることに長けた人たちをいくらでも見つけることができる(「これはパクツイです!」)。それでも内容さえ確かなら、批判という形式の有効性自体は信頼すべきだろうか。フレドリック・ジェイムソンはかつて、ポストモダンの文化において「深さ」は消滅し、「情動」は減衰していると言った[2]。しかしいまわたしたちが生きているのはむしろ、個々人がそこここで深さを作り出し、それが直ちに情動的なコミュニケーションに乗って拡散されていくような世界なのかもしれないのだ[3]。

 クリティークの全面化をこのように見てみることで、文芸批評家であるセジウィックやフェルスキが文学部の教室から発した議論が、メディアの問題抜きには考えられないことが明らかになってくる。クリティークが一方で増殖しながら、他方で世界とうまく関係できなくなっているように見えることの二一世紀的条件を問うためには、デジタル・メディアへの洞察が欠かせないだろう。『大人のためのメディア論講義』や『現代思想の教科書』で「現代人の生活を現在の知の水準において問い、私たちが自分自身の思考において現在の世界を基礎付ける[4]」批判=クリティークの必要性を説いてきた石田英敬の東浩紀との共著『新記号論』は同時に、従来のクリティークをメディア記号論的視点から再規定し、その機能不全の実態を解明しようとする書物として読むことができる[5]。クリティークは映画的な光学モデルであり、表象=代理の論理に基づくイデオロギーや同一化批判であり、アナログ記号理論に基づく消費社会批判である。しかし現代において中心的なデジタル記号はそのようなモデルをとらない。デジタル・メディアのロジックは、同一化ではなく模倣であり、表象ではなく感応・感染である。人々は画面の向こう側にあるデジタル記号とこちら側にある身体が接するインターフェース上で、情動的かつ感染的に動いている。このヴィジョンはCOVID-19と呼ばれる新型コロナウィルス感染症がSNS発のデマの即時的な拡散を伴って大きな混乱を引き起こしている現在、もはや単なる比喩以上の現実味を持っている。だとすれば、二〇世紀的批判がいま無力である理由は明快だろう。デジタル・メディアにおける感染とアナログ記号論的クリティークのアナクロニズムにわたしたちは自覚的になるべきなのだ。

 先に批判はカントやマルクスに由来する概念だと述べたが、そうした近代論の水準で批判としての批評を問おうとするのが、フランス語の論集『ポストクリティーク[6]』を編纂したローラン・ド・ステールおよび何人かの寄稿者と、それを論じる大橋完太郎の論考である。批判とは相手を組み伏せようとする力の闘争であり(ド・ステール)、自らの存続のために批判されるべき状況を結果として延命させてしまう営みであり、それは結局生成変化を起こすことができず(アルメン・アバネシアン)、現代では新自由主義的秩序にあっさりと収まってしまう。作品と批評、危機と批判のセットは、実のところ予定調和的な円環運動に落ち着いてしまうというわけだ。大橋が言うように、誰もが日常的に評価し、コメントし、「論破」の力関係のなかに巻き込まれていく現代は、多かれ少なかれあらゆる人々が批評家として暮らす時代だと言える。ここ数百年にわたる「批判」というプロジェクトを問い直すことは、その意味で、あらゆる現代人の関心事たり得るだろう。

3.「ポストクリティーク」は何をするのか

 このように批判のあり方を複数のレベルでクリアにし、わたしたちの時代を考えるための一つの足がかりを得ることに、ポストクリティーク論のまず最初の狙いはある。その上でこれまでの硬直化したクリティークとは異なったあり方のヴィジョンが、各論者によって模索されていくことになるだろう。詳しくは論考、インタビューを見ていただくしかないが、セジウィックは「修復的読解」、フェルスキは「ポストクリティーク的読解」と彼女たちが名付けるものを、ラトゥールは言語と世界という問題設定自体の拒否から「臨界超過(スーパークリティカル)」の「集まり」を提案し、石田はインターフェースやプラットフォームそのものを批評することの、大橋は批判(critique)に対する「臨界」(criticality)や「ネクロマンシー」としての「フィクション」の、可能性を問う。何か決定的な解答が用意されているわけではない。しかしここには、これからわたしたち自身が考えていくためのヒントがたくさん見出せるはずだ。

 付け加えておけば、フェルスキらのものと似たような立論はこれまでにもなかったわけではない。日本ならば蓮實重彥、英語圏ならばスーザン・ソンタグの深層批判、解釈批判がまずは思い浮かぶし(両者は映画に深く肩入れする点でも共通している)、ポストクリティークという用語は哲学者マイケル・ポランニーが一九六〇年代に用いていた(他にフェルスキが先達として挙げる名前は、ヴィトゲンシュタイン、カヴェル、ランシエールである[7])。それに対して今回特集する流れは、直接的には二〇〇〇年代初頭にセジウィックやラトゥールが端緒を開き、一五年程度の議論を経てフェルスキがまとめるに至ったものである。いまの文脈においてこの系譜の先行者を読み直すことで実り豊かな発見があるかもしれないと同時に、フェルスキらの議論には二〇世紀後半から二一世紀にかけての批評と社会の変転を見てきた彼女らの経験が明らかに反映しており、その時代性もまた無視できないものである。「批判の勝利」(ド・ステール)の時代に「批判の限界」を考えること。これがポストクリティーク論が提起する現代の批評的課題である。

 ここまでの整理のなかで想定されている批判の実存的主体には、実際には複数のレベルがあり、それを安易に一緒にすべきではないかもしれない。特にここでは、ポストクリティークの呼びかけが誰よりもまずクリティークに深くコミットした人々の口から発せられていることを重視しよう。今回訳出した論者は三人とも、自分がいかにクリティークを促進する仕事をしてきたかを反省的に、ときに当惑気味に、回顧している。前期セジウィックのモチーフである「クローゼット」はパラノイア的な深さの最たるイメージであり、フェルスキはフェミニストとしての自分の著作がいかに多くを批判的思考に負ってきたかを述懐し、ラトゥールは自らの科学的事実批判が地球温暖化の否認に成り代わってしまったことに戸惑っている。彼らは批判の力を実感し、批判に多くを期待してきた人たちなのだ。だから、ポストクリティークは、批判の問題そのものをただ回避したいだけの人に口実を提供するようなものではありえない。

 クリティークに対する感じ方や態度は、世代的な要素も絡みつつ、人によって異なるだろうが、今日でもクリティーク的な物の見方を学んで興奮を覚え、それが知的なイニシエーションになるようなケースは存在するはずだし、その意味が消滅するわけではない。しかしこうして形成された主体は、いささか個人的な経験を反映した言い方になるが、紋切り型やベタな次元との付き合い方を貧しくしてしまうという問題を抱えがちであるように思われる。クリティークは「自然」や「普通」を異化する道具立てを豊かにするが、それ自体が固定化してしまうという現象とは別に、紋切り型やベタと交渉していく生の本質的な一側面をしばしば過小評価してしまう。スーザン・ソンタグはかつて「キャンプ」と名指される美的な「感覚[8]」を言語化しようとしたが、これはある誇張的なベタさや紋切り型を、その存在を否定したり小さく見積もったりするのでもなければ、異化し転覆することで何かラディカルなものに作り変えるのでもない、つまり「批判」するのではない仕方で、評価しようとする試みだった。クリティークにコミットする主体にとってこうした方向性の探求は、批判を不健全に肥大化させないためにもぜひとも必要なことだ。

 他方、ムードや空気としてより広い範囲で半意識的に共有されたクリティークは、いわば「クリティーク臭」のようなものとして、人々に立場表明を迫る。内容の是非の判断以前に、「クリティーク臭」自体への好意や反感が、人々の反応の多くの部分を規定する[9]。こうした状況のなかで、批判に深くコミットしない人にとっての問題は、ある種のダブルスタンダードを採用してクリティークをやり過ごすことの心理的負担や、その負担に耐えることの全面的な放棄といった形をとることになるだろう。トランプ現象など近年目立つ政治的出来事の少なくない部分を構成するのが、クリティーク的なもの自体へのこのレベルでの嫌悪感であるように思われる。

 最後に、フェルスキの問題提起があくまでアメリカの文学研究、教育の現場からなされていることを再度想起し、その議論が日本の環境に単純には移植できないことに注意しておこう。そもそも制度的な違いがある。少なくとも文学の領域の場合、日本だとどうしても研究と批評の距離が強調されることが多く、批評にはしばしば非-大学的なニュアンスが伴うが、アメリカでは両者の距離ははるかに近い。学者(スコラー)は基本的に批評家(クリティック)であり、彼らの書く論文は批評でもある。しかしおそらくより興味深いのは、批判=クリティークの位置づけの文化的な差異だろう。アメリカでは公民権運動のように、人種を中心とする差異に基づく抵抗と変革の歴史があるが、日本ではそれはあまり前景化してこない。石田の言い方を借りれば、肌の色が即座にその人物の人種的歴史を「表象」してしまう北米に対して、日本にはぼんやりとした同一性の幻想を維持できてしまうような風土がある。端的に言って日本のクリティーク的土壌はたいへん希薄なのだ。しかし、それではクリティークが全く根づいていないのかと言えばそうではない。多くの人が批判理論を学んだし、すでに述べたように「空気」としての批判性はむしろ十分広まっているようにさえ思える。クリティークとの関係が一段間接的で、その分複雑だと見るべきだ。ここで詳しく考察することはできないが、クリティークの問題を日本から論じることは、それ自体興味深い視座を提供する可能性があるだろう。

 クリティークの氾濫と、クリティークの機能不全。ここからわたしたちはどのような批評を構想し、どのような未来を描くことができるだろうか。

〈註〉
1この議論に参加している論者は、「クリティーク」的なものとそのオルタナティヴになりうると彼らが考えるものを少しずつ異なった仕方で規定している。シャロン・マーカスとスティーヴン・ベストは「症候的読解」(symptomaticreading)に対して表層的読解(surfacereading)を(StephenBest&SharonMarcus,“SurfaceReading:AnIntroduction,”Representations108.1(2009):1-21)、ティモシー・ビューズは「肌理に逆らって読むこと」に対して「肌理に沿って読むこと」を提案する(TimothyBewes,“ReadingwiththeGrain:ANewWorldinLiteraryCriticism,”Differences:AJournalofFeministCulturalStudies21.3(2010):1-33)。他によく言及される論文に、HeatherLove,“ClosebutnotDeep:LiteraryEthicsandtheDescriptiveTurn,”NewLiteraryHistory41.2(2010):371-91、論集にElizabethAnker&RitaFelski(eds.).CritiqueandPostcritique.DukeUP,2017がある。
2FredricJameson.Postmodernism,or,TheCulturalLogicofLateCapitalism.DukeUP,1991.Chapter1.
3RobinvandenAkker,AlisonGibbons,andTimotheusVermeulen(eds.).Metamodernism:Historicity,Affect,andDepthAfterPostmodernism.Rowman&LittlefieldIntl.,2017.Section2-3.4石田英敬、東浩紀『新記号論│脳とメディアが出会うとき』ゲンロン、二〇一九年。特に、第三講義および補論。
5石田英敬『現代思想の教科書│世界を変える知の地平15章』ちくま学芸文庫、二〇一〇年、一五頁。
6LaurentdeSutter(dir.).Postcritique.PUF,2019.
7RitaFelski.TheLimitisofCritique.UofChicagoP,2015.p.150.
8スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」、『反解釈』高橋康成訳、ちくま学芸文庫、一九九六年、四三一頁。
9この点については、ポリティカル・コレクトネスに対する「安心」、「不快」の感情レベルでの分断を論じた、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』平凡社、二〇一九年、第三、四章が参考になる