「即興音楽」あるいは「インプロヴァイズド・ミュージック」と人が口にするとき、果たしてそれは具体的に何を指し示してそのように呼んでいると言えるのか。曖昧なまま言葉だけが先行して流通し、決して合意や相互理解に至ることのない自家撞着した議論に陥っていることはないだろうか。たとえば「ジャズ」という言葉はある特定の音楽ジャンルとその歴史的展開を意味しているとともに、音を組織化するための方法論として歴史とは無縁の場所で使われることもあれば、音楽に関わろうとする人間の態度を示すものとして、ジャンルやその歴史とも、方法論とも無関係に用いられることがある。「ロック」しかり「クラシック」しかり、そうした複数の意味合いは大抵の場合、暗黙の了解のもとに適切に選択されて不自由のない対話を進めることもできるが、ときとして、本当はまったく別のことがらについて言及しているのにもかかわらず、それらがあたかも同じ対象を扱っているかのごとく見做されてしまうことによって、貶める必要のないものに苛烈な批判を加え、ありうべき可能性をそれが芽吹く手前で間引いてしまうこともある。議論は必ずしも円滑におこなわれる必要はないものの、言語化の過程で実際の音に関わる営みをあまりにも貧しく還元/縮減してしまうことほど愚かなことはない。
そうであれば「即興音楽」という言葉に孕まれた複数の意味について、一度立ち止まり、腑分けして考えてみることも必要だろう。その結果として、現在そう呼ばれる音楽がどのようなものとしてわたしたちの前にあり、あるいはどのような可能性を胚胎しているのかということも、朧げながら見えてくるはずだ。
「即興」概念をめぐって
とはいえ「即興音楽」という言葉は「ジャズ」や「ロック」に比較してあまり一般的なものではなく、辞書を引いて容易に出てくるものでもない。そこでまずはこの「音楽」に冠せられた「即興」という言葉の意味を探るところから始めたい。美学者の佐々木健一は『美学辞典』という著作のなかで「即興」という項目を設けて次のような定義を施している。
現在に集中し、心に浮かぶ想いもしくは構想にそのまま従って、それを外に現実化してゆくこと。1)
佐々木健一『美学辞典』、東京大学出版会、一九九五年、六三頁。
ここから佐々木は「即興」に含まれるものとして時間性・内発性・応答という三つの構成要素を取り出している。すなわち「即興」とはいま現在の持続時間と関わっているのであり、行為主体の内側から湧き出てくる自発的な心的状態に導かれているのであり、そしてその時間性と内発性を即時的に結びつけるのが応答の契機である、と。
加えて佐々木は「即興」とその英語である“improvisation”を「指している現象は同一」と述べながらもニュアンスがやや異なるということについて言及している。漢語がもとになっているという「即興」は、「興」すなわち「面白味=心の活動が盛り上がること」を追いかけ具現化する行為であるのに対して、否定の接頭辞im(in)が付されている“improvisation”は、「provision=計画、事前の準備、見通し」ではない、ということである。つまり肯定的な捉え方と否定的な捉え方という違いがここにはある。
だが単に肯定的か否定的かに留まらず、ここにはもっと決定的な差異が孕まれているように思われる。「即興」が興の赴くままにいま現在を生きているのに対して、“improvisation”では事前に何をおこなっていないのかという、過去との関わりに視線が向けられているからだ。計画を立てない、見通しを立てない、準備をしない、これらはすべて実際に行為がおこなわれる以前の状態について述べられた内容である。反対に「即興」が関わるのはあくまでも現在であって、計画を立てようが立てなかろうが、見通しを立てようが立てなかろうが、その時その場で起こる出来事に焦点が当てられていく。一般的には「即興」と“improvisation”は言語の違いに過ぎずほとんど同義として扱われているものの、そこではおそらくこうした僅かに異なる意味が混じり合うことによって、「決められた楽譜などによらず、演奏者が即席で作曲しながら演奏すること2)」といった風に、過去との関わりにおける否定的行為と、現在との関わりにおける肯定的行為が組み合わされたものとして捉えられている。
そしてそのように考えると「即興」は“improvisation”というより、「自由に、気の向くままに」といった意味を持つ“adlib”という言葉のほうがニュアンスが近いということにもなってくる。ラテン語がもとになっている“adlib”もしばしば“improvisation”と同義として扱われている。だがかつてこの二語を比較することによって、後者の語に特有の意味合いが付与されるという価値転換がおこなわれたことを、ここでは踏まえておかなければならないだろう。
「アドリブからインプロヴィゼイションへ」という副題が付された音楽批評家/大正琴奏者の竹田賢一による論考「即興の素描」では、六〇年代から七〇年代にかけて「アドリブ=ジャズにおける即興」――この「ジャズ」の部分は他のジャンルに置き換えることもできるだろう――から「インプロヴィゼイション=即興そのものに対する関心」へと移り変わっていった歴史的展開に触れられつつ、後者の「インプロヴィゼーション」に関するいくつかの証言とフリー・ジャズや現代音楽をはじめとした数々の実践が紹介されている。そしてここでの価値転換の意義を竹田はひとまず次のように述べている。
このインプロヴィゼイションの視点からアドリブ理解を捉え返してみると、アドリブのよって立つフォーマットとは、むしろインプロヴィゼイションを作曲の側(西欧音楽の側)に囲い込む仕組みに、逆転して見えてくる。3)
竹田賢一「即興の素描――アドリブからインプロヴィゼイションへ」、『ジャズ――音楽の手帖』、青土社、一九八一年、二六四頁。
「アドリブ」も「インプロヴィゼーション」もどちらも即興演奏には違いないのだが、特定のジャンルの音楽的フォーマットに根差すことによってはじめて立ち現れる「アドリブ」は、即興性ではなくそれが可能となるジャンルの正統性がより重要なものとしてもとめられる。だがそれだけではない。即興演奏ではなくむしろフォーマットのほうに視線を投げかけることこそ、他でもなく作曲構造から音楽を捉えようとする西洋近代主義的な眼差しに他ならないからだ。つまり「アドリブ」という理解それ自体がそもそも音楽の文化的な囲い込みなのである。反対に「インプロヴィゼーション」に着目するならば、それはフォーマットというよりもそこから逸脱する「自由」へと力点が置かれて把握される。「フリー・インプロヴィゼイションのフリーとは、自己の抱いている音楽の範例から身を引き離す自由として獲得される4)」。同時にそこでは「それぞれが抱え、そこから身を引き離そうとしている音楽的、文化的、生理的、社会的な制約との不自由な闘いを前提としている5)」。西洋近代主義的な眼差しに対して自覚的になること、そして音楽行為から即興性を見出すことは、演奏を成り立たせるフォーマットではなく「自由」を捉えることによってこそ獲得される。
こうした「アドリブ/インプロヴィゼーション」の区分けがデレク・ベイリーの「イディオム的即興/非イディオム的即興」という語用を想定してなされたものであることは想像に難くない。ベイリーは即興演奏を「あるイディオムの表現方法に結びつき、そのイディオムからアイデンティティーや動機づけをえているもの」と「別種の関心に立ち、通常いわゆるフリー・インプロヴィゼーションの中に多く見られるもの」に大別し、後者のほうにこそ「既知のものを新生させたり変化させ、永遠にめざされたものへと駆り立てる機会がある」と述べていたのだった6)。だがそれは純粋無垢な「インプロヴィゼーション」を取り出すこと、あらゆる制約から自由な即興演奏の実現が目指されたわけではない。ベイリーは一貫してギターという制約だらけの楽器を手放すことはなかったうえに、死の間際まで病に侵され自由の効かなくなった己の肉体を音楽実践の場に据え続けていたからだ。それは彼自身も「あらゆる即興演奏は、それが伝統的なものであれ、新しいものであれ、既知のものとの関係性のなかから生まれる7)」と語っていたように、すでにある音にまつわる歴史と記憶との相関関係から紡ぎ出される「自由」であり「インプロヴィゼーション」なのである。
さらに付け加えておくならば、竹田賢一の文章に登場した「作曲」という概念が、あくまでも西洋近代主義的なイデオロギーの象徴として用いられていることには注意を促しておきたい。一般的に作曲という言葉は即興の対概念であるかのように思われているところがあるものの、「即興」または“improvisation”の語義からも明らかなように、それは二項対立を形成するのではなく、あくまでも別の概念として捉えられるべきである。『美学辞典』のなかで佐々木健一は「霊感と即興性」と「推敲と構築性」の対立軸を提示してもいるのだが、これは「即興」と「作曲」をそのまま置き換えたものとして捉えられてはならない。かつてホアキン・M・ベニテスが明らかにした「口述的/筆記的」という対比も、彼自身が「自由な集団即興は、例えば一人の〈作曲家〉によって与えられる或る種の言葉によるインプットのような何らかの先在するものの助けがない限り、殆ど不可能である8)」と述べているように、「即興」と「作曲」の言い換えではなく、あくまでもそれら両概念により多く観察される特長が言い表されているに過ぎない。音楽を文化的に囲い込むのではなく、しかしあくまでも既知のものとの関係性から生み出される「インプロヴィゼーション」は、西洋近代主義的なイデオロギーとは別種の「作曲」を見出すことによって、そして事前の計画や準備とは別の関心領域にある「即興」の現在性とその「自由」によって、はじめてわたしたちの前に立ち現れることになるだろう。
「即興音楽」の諸相
「即興」と“improvisation”の微妙かつ決定的な差異、しかしそれらが混在する「インプロヴィゼーション」という語と「アドリブ」との対比。そこから導かれる「フリー・インプロヴィゼーション」としての「即興そのもの」への眼差し。あるいは排中律に従うことのない「即興/作曲」の二分法。これらを踏まえた上であらためて「即興音楽」とは何であるのかを問うならば、それは「即興そのもの」を問うことそれ自体が既知のものとなることから生まれたひとつの音楽ジャンルであり、そうした問いに込められたイデオロギッシュな批判理論であり、音を介した表現活動をおこなうにあたって価値基準となるような美学的態度決定のことであり、即興演奏を通してしか到達し得ないような領域に突き進もうとする方法的手段のことであり、こうした様々な位相と関わりのあるところから生まれたシーンに対する名称であり、そしてさらに「即興」であること「音楽」であることを超えて進みゆく原理のことだと言えるだろう。そうした「即興音楽」の総体をここに書き尽くすことなど到底できないし、あるいはまだ表面化していない相もあるものの――たとえばここには娯楽と快楽や社会学としての「即興音楽」が抜けている――、少しでも立体的に捉えることによって「即興音楽」という言葉が宙に浮いたまま進む議論の不毛さを回避するための作業過程に貢献することはできる。以下では粗雑ながらもごく簡単に「即興音楽」の諸相について言及していく。先取りして付言しておくならば、たとえばロマン主義美学や盲目的な自由の希求としての「即興音楽」の限界を嗅ぎ取った批判的言明は、情況全体に適用されるべきではないことはもとより、その方法論や原理論、あるいはあらたに打ち立てられるだろう美学に対しても適用されるべきではないのである。
ジャンルとして
「フリー・インプロヴィゼーション」が少なからぬ人数によっておこなわれ短くはない時間を経たとき、「自由」へと向けられた身振りも正統性を突き崩す実践も、輪郭づけられた音楽行為としてジャンルとその歴史を形成してゆく9)。いかなる歴史であれその出発点は事後的に見出されるものでしかないが、「即興音楽」の歴史の端緒をひとつもとめるとしたら、フリー・ジャズと現代音楽が交差するところに生まれたジョゼフ・ホルブルックというイギリスのグループを挙げることができる。一九六三年から六六年まで活動したこのグループのあと、百花繚乱の様相を呈する七〇年代を経てジャンルに変容が見られるのは、八〇年代のニューヨークに出来したジョン・ゾーンに象徴されるシーンだろう。そのポストモダニスティックなありようを清水俊彦は「イディオム的即興/非イディオム的即興から汎イディオム的即興へ」と書き表した10)。だがもはや新しさをもとめることのない相対主義的なあり方は、次第にそれぞれの個人的な技量や出自へと関心領域が収束していくことにもなった。九〇年代以降、正統性に奉仕することのないオルタナティヴな即興演奏は、「イディオム」とその問題系から離れて聴取者を取り入れた「音響」の実験へと重心が移り変わってゆく。それもまた飽和状態に達したのち、ゼロ年代からテン年代にかけては、テクスチュアからストラクチュアへと視点が切り替わる流れがある一方で、演奏者からも聴取者からも離れたシンプルな物理的現象に焦点を当てていく「フェノメノロジスト」とも称される実践もおこなわれていく。ここで注意すべきなのは、以上のようなジャンルとその歴史において担い手とされた人々が紡いできたまったく別の系譜を、こうした史的理解がむしろ覆い隠してしまうということである。たとえば福島恵一が「受信機」として取り出そうとする系譜は、デレク・ベイリーという固有名から即座に上記の「即興音楽」へと結びつけてしまうような歴史観が黙殺してきたものでもある11)。
イデオロギーとして
ジャンルの成立は他方ではイデオロギーの根拠地としての役割も果たしていく。すでに見たように「アドリブ」から「インプロヴィゼーション」へと向かった価値転換が「即興音楽」にもたらしたのは、まずもって作者‐作品‐演奏者という序列化され固定化されたヒエラルキーに対する批判的実践をおこなうための場所だった。そこでなされた実践は全能の神としての作者が牽制を振るう西洋近代主義的な音楽の構造に対するオルタナティヴの提示であり、別の場所で・別の時間に作り出される音楽に対して、この場所で・この時間にという特権に着目することで演奏者の主体性を確保する試みでもあった。さらに九〇年代以降はここに加えられた演奏者‐聴取者という系列がクローズアップされ、さらなる主体性の確保としても「音響」の重要性が浮かび上がってきた。「ある演奏が即興であるかどうかを厳密に判断できるのは演奏者自身しかいない」のに対して「ある音楽が音響的かどうかは、最終的には聴き手個々人の主観が決めることである12)」。ただしこうした西洋近代主義的な音楽への批判である主体性の確保、いわば創造性の多様化という取り組み自体が、そもそも西洋近代主義的な態度でしかないという再批判があることにも留意しておかなければならない。たとえばイラン音楽の即興性を作り手の眼差しから解き明かした谷正人は、「即興の本質を音楽家個人の「創造性」の中で捉えようとする視点は、「自律した作者」とその作者が作り出す「閉じられた作品」をどこかに前提している」と書き記している13)。いわば複数の演奏者、複数の聴取者によるアンサンブルがここにはもとめられていくべきであるとともに、「フェノメノロジスト」が提示する演奏者でも聴取者でもない主体性の可能性に関しても考慮に入れなければならなくなるだろう。
美学として
「即興」がその場で起こる面白味に従い、それを追いかけ表現として具体化するものならば、「推敲と構築性」よりも「霊感と即興性」により多く親和性が高いということはたしかに言える。それはインスピレーションの啓示を手中に収めた近代的な「天才」の所業と言い換えることもできる。つまりはロマン主義美学の延長線上にあるものだ。だが「即興」のマテリアルな側面に着目することによって即物主義的な別の美学的可能性を考えることもできる。振動現象でしかない音を物質的に捉えることは、皮膚感覚に根差した知覚様式としての触覚的経験を救い出すことであり、現在性から切り離すことのできない「即興」の不定形性を、視覚だけでも聴覚だけでもなく、音に接する際に体系立てられていたはずの感覚の再配置そのものとして体験することにもなるだろう。『リダクション』の著者ペーター・ニクラス・ウィルソンが提唱した「即興演奏のパラダイムシフト」を念頭に置いて北里義之が述べる「耳の変容」「感覚の変容」こそはそうしたいわば器官なき身体として捉え返された物質=触覚の美学を打ち立てるひとつの契機となる14)。そしてそれはさらに物質そのものが触覚を発動するような脱人間主義的な美学へと展開していくための手がかりにもなりうるはずである。ティモシー・モートンが、「物質的で物理的だが、それでいていくぶん触知しえないもの」としての「アンビエンス」が詩的に指し示す主客二元論の脱領土化を、「硬直性、二元論、首尾一貫した確定状態」によっては回収しきれない「曖昧さ」としての即興演奏と関連づけて述べていること15)を、あらたな美学の構想へと向けてここに書き加えておいてもいいだろう。
方法論として
興の赴くままに行動すること、あるいは事前の準備を必要としないこと。こうした方法を用いることによってはじめて到達できるような音楽がある。たとえば言語や文化を異にする人々が一箇所に集い、一部の人間が中心的な役回りを担うのではなく、しかし誰もが音楽の担い手として中心でもあるようなアンサンブルを、いかにしたら生み出すことができるのか。この場合、もしも事前に推敲を重ねた構築物を共有するのだとしたら、そこではその「作曲」に関わった人へと権力が集中してしまうだろう。「自律的に引き継がれるようなアーティスト間の協働の場」「片言であるがゆえにすれ違い、境界までギリギリに引き伸ばされ、意味もひっくり返されてしまうような所16)」とdj sniffが述べるアジアン・ミーティング・フェスティバルにおいて方法論として「即興音楽」が採択されているのは、こうしたことと無関係ではない。あるいは著書『奏でることの力』のなかで「非専門家が自分の表現を実現するための一手段」として教育や音楽療法の世界における即興性に期待を寄せる若尾裕は、ミュージック・セラピストとプロ・レベルのピアノ技術を持ちながら末期の病に侵されたクライアントとのやりとりを紹介している17。音楽療法において即興演奏は特権的なものではなく、誰もが表現をおこない、互いにコミュニケーションを取るための方法として開かれたものである、と考えるセラピストとの三三回にも及ぶ二人のセッションは、クライアントにとって未体験だったという即興演奏が「生きるための糧」にまで激変する過程にもなっており、こうしたところにも「即興音楽」ならではの方法論的可能性を見出すことができる。
情況論として
ジャンル、イデオロギー、美学、あるいは方法論として「即興音楽」と名付けられた実践が、実質的にはそうした意味だけを担うことがなくなりながらも、人間と場所の繋がりとして具体的なシーンを形成する一助となるということもある。もちろんどこに視点を設定するのかによって同時代的情況は異なる姿をあらわすだろう。たとえば水道橋のイベント・スペースであるフタリからシーンを眺めてみるとき、そこでは必ずしも方法論や美学的態度、あるいはジャンルとその歴史的展開として「即興音楽」という言葉を当てはめることのできない試みに立ち会うことになる。ゼロ年代初頭の「即興音楽」シーンの象徴として語られる代々木オフサイトとまったく関わりを持つことなく、沖縄から大阪芸大へ、そして東京へと活動の拠点を移してきた大城真や、モートン・フェルドマンもヴァンデルヴァイザー楽派も興味がないと嘯きながらミニマルな作曲作品を提示する浦裕幸など、ほんの一例に過ぎないが、ここではいくつもの文脈が複雑に絡み合っているのだ。もしもそれらを「即興音楽」と呼べるのだとしたら、それはこのスペースの前身となったウェブサイトが“ImprovisedMusicfromJapan”と題していたことによるところが大きい。たしかにそこでは多くの優れた即興演奏を目にすることができるものの、同様に魅力的な作曲作品に取り組む演奏家もいれば、「即興音楽」とはまったく別の美学的関心から音楽をおこなう者もいる。さらにそこではジャンルとしての「即興音楽」に近接する別の既存の領域、たとえばノイズ・ミュージックやサウンド・アート、現代音楽、フリー・ジャズといったシーンと密接な関わりを持ちながらも、そうした言葉でさえ捉えきれない試みが多々見受けられる18)。
原理論として
「即興」とは原理的には行為主体の現在性に関わるのであって、それは二重の意味で記述を困難なものにする。すなわち「書かれたもの」はその対象の主体性からは離れているとともに、行為の現在性からもつねにすでに遅れたものでしかないからだ。一方で“improvisation”が過去性と否定性に関わるということからは、検証を促す後ろ向きの眼差しが有効であるとともに、否定されるべき記述可能な対象があるということを意味してもいる。これらの意味が混在した「インプロヴィゼーション」においてもまた、その言語化を触発する要素は多分に過去性・否定性と関わってくる。佐々木敦が『即興の解体/懐胎』の冒頭で「驚くべきこと(=予期しないこと(=意想外なこと))はいかにして起こりうるのか」と定式化したその問いも、どちらかと言えばこうした即興観に基づいたものだと言えるだろう。佐々木はそこから「インプロヴィゼーション」の自己矛盾を喝破するとともにその不可能性を突き詰め、いわば「即興演奏は原理的に即興演奏ではありえない」といった同語反復的なアポリアを抽出するとともに、再現と反復の不可能性を演劇作品から見出すことによって逆説的にその原理の弁証法的展開を試みた19。同じように原理を展開させたものとして、千駄ヶ谷ループ・ラインでおこなわれていたいくつかの実験、たとえば木下和重による時間構造の抽出や宇波拓による音以外のものを用いた音楽表現などを、「インプロヴィゼーション」における「意想外なこと」の探求として挙げることができる。即興演奏を人間の反応と発音から引き剥がす「フェノメノロジスト」の一部の実践をここに加えてもいいだろう。ただし将来的には、“improvisation”に偏重した「インプロヴィゼーション」の原理的考察から、「即興」の潜勢力を記述不可能性に抗して取り出す作業が必要になってくるようにも思われる。
※本論考は『ヱクリヲvol.7』「音楽批評のオルタナティヴ」特集に収録されたものを再掲したものです
〈註〉
1佐々木健一『美学辞典』、東京大学出版会、一九九五年、六三頁。
2「即興演奏」、新村出編著『広辞苑』第六版、岩波書店、二〇〇八年。
3竹田賢一「即興の素描――アドリブからインプロヴィゼイションへ」、『ジャズ――音楽の手帖』、青土社、一九八一年、二六四頁。
4同前書、二六七頁。
5同前書、二六七頁。
6デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション――即興演奏の彼方へ』、工作舎、一九八一年。
7同前書、二六四頁。翻訳は若尾裕、柳沢英輔(デイヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』での引用文)に従った。
8ホアキン・M・ベニテス『現代音楽を読む――エクリチュールを超えて』、朝日出版社、一九八一年、一二三頁。
9デイヴィッド・グラブスが『レコードは風景をだいなしにする――ジョン・ケージと録音物たち』(若尾裕、柳沢英輔訳、フィルムアート社、二〇一五年)で検証しているように、瞬間性と非記述性を核とする即興演奏それ自体が「イディオム的即興」として認知されてゆく過程に録音という契機が関係していることを踏まえるならば、ジャンルとしての「即興音楽」の成立そのものが極めて二〇世紀的な出来事だったと言うこともできるだろう。
10清水俊彦『ジャズ転生――現代ジャズの展開』、晶文社、一九八七年。
11福島恵一「震えへの凝視――tamaruのエレクトリック・ベース演奏」(miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-434.html)、「即興演奏のパラタクシス、ポスト・ベイリーの地平――大上流一の演奏を巡って」(miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-438.html)、ブログ『耳の枠はずし』、二〇一二年八月二日更新。
12大友良英「即興と音響をめぐる10枚」、『Inter CommunicationNo.35』、NTT出版、二〇〇一年、六二頁。
13谷正人『イラン音楽――声の文化と即興』、青土社、二〇〇七年、七三頁。
14北里義之「現代即興論〜20世紀末に即興演奏のパラダイムシフトは存在したのか〜」(web.archive.org/web/20120501201145/http://com-post.jp/index.php?catid=6&subcatid=48)、『com-post』(現在は閉鎖しているためリンクはWayback Machineのアーカイヴ)。
15篠原雅武『複数性のエコロジー――人間ならざるものの環境哲学』、以文社、二〇一六年。
16dj sniff「即興、協働、片言‐アジアン・ミュージック・ネットワークとAMFを振り返って」(asianmusic-network.com/archive/2017/09/—amf.html)。
17 若尾裕『奏でることの力』、春秋社、二〇〇〇年。
18情況論についてより詳しくは下記論考を参照。「即興音楽の新しい波――触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」(www.ele-king.net/columns/005754/)、『ele-king』。
19佐々木敦『即興の解体/懐胎――演奏と演劇のアポリア』、青土社、二〇一一年。
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