王様ゲーム的『春の祭典』――ロジェ・ベルナット『春の祭典』に参加して考察したこと


 現在、早稲田大学演劇博物館で開催中の企画展示「Who Dance ? 振付のアクチュアリティ」(2016年1月31日まで開催)の関連イベントであるロジェ・ベルナットによる演出・振り付けの『春の祭典』に参加した。『春の祭典』はストラヴィンスキーが作曲したバレエであり、事前の告知では「1975年のピナ・バウシュ版を大胆に翻案した」とのことで非常に興味がそそられた。サイト上にはスタッフが明記されているが、出演するはずのダンサーについては記載がないことが気になった。

ピナ・バウシュ版『春の祭典』の動画

 私は12月12日の17時の回に友達と一緒に観劇した。入口で無線通信機とヘッドフォンを渡された。会場はバスケットコート程の広さの体育館のような場所で天井は高く、上のブースからヘッドフォンに流す内容を制御しているようであった。左右前後の壁には2メートルくらいの高さの黒板が置かれていた。やがてヘッドフォンからはボーカロイドの声がして、黒板にチョークで「森」といった文字を書くように指示された。そして、そのヘッドフォンから聞こえる声に指示されて、左右前後の壁に同じくらいの数の人間がそれぞれに配置された。ボーカロイドの声は「アナタガタノキョウリョクガナケレバエンゲキハオワレマセン」と繰り返し言っていた。照明が消され、スポットライトだけが体育館の中央を照らし、ボーカロイドの声は「マンナカハソウゲンデス」と言った。一緒に来た友達を見ると、彼はかっこつけるようにゆっくりと中央のスポットライトの下に歩き出し、水をすくうような動作をして、光の射す方に手をかざしていた。彼以外にも複数の人が同じような動作をしていた。彼のいきなりの動作に「さては、こいつ内緒でダンサーとして出演することになっていたのだな」と思っていたのだが、ボーカロイドの声が私にも指示を出してきた。「テヲアゲテモリノホウヘアルイテクダサイ」ここにきて私はこの演劇の出演者が誰であるかを理解した。その日『春の祭典』を観に来たお互いに誰かもわからない老若男女が、鹿のように跳び、狼のように生贄を追い詰め、風のように走りまわったのだった。

 本作のステージ・クリエーションとしてスタッフクレジットされているロジェ・ベルナットはスペインの演出家で、過去にはフェスティバル/トーキョー10『パブリック・ドメイン』という作品を製作しており、こちらも今作同様、観客がヘッドホンから聞こえる指示に従いながら進行する観客参加型演劇だったらしい。ボーカロイドの声の指示通りにこの作品に参加した私は、どこかにダンサーや役者になりたいという願望があったのかもしれない。そういった意味ではとても素晴らしい体験だった。しかし、私はどこか引っかかることがあった。このボーカロイドの声に指示されるままに、集団で何かをすることに既視感があったからだ。この感覚は、王様ゲームなのではないかと。王様ゲームとは、大学のサークルといったある程度親しい者たち同士で行う例のアレである。参加者の内、くじ引きで王様を決めて、他の人たちは番号を決めて、王様になった人が「1番と3番はキスをする」と指示をして、その番号の人が実際に指示通りにキスをしちゃったりするゲームである。そして、誰が1番になり、誰が2番になっているかは王様は指示をするまでわからない。このようなルールで『春の祭典』を上演したことによって、王様であるボーカロイドの指示に従い、私は頭髪の薄い男性と手をつなぎ風のよう走り、東欧系の美女と向かい合って腰を抱き合ったのだ。実際の演劇の演出家と俳優の関係も、もしかしたら王様ゲーム的なものなのかもしれない。蜷川幸雄の演出時の逸話によって、演出家は俳優に灰皿を投げるのが仕事と思われているが、あくまで王様は指示をするのが仕事だ。そしてその指示に従うのが俳優の仕事という部分もあるのかもしれない。しかし、今回の『春の祭典』では観客という王様ゲームの仕組みに不慣れな存在が指示される側になっている。そして、王様の立場であるボーカロイドの声の内容を編集しているロジェ・ベルナットは、その指示される側の観客を楽しませることを仕事としている側面がある。つまり、王様であるはずのロジェ・ベルナットには、観客をみんな平等に楽しくさせなければいけないという義務が少なからず生じていることになる。そして今回のように集団で創作する芸術は、権力性をどうしても伴うことになる。権力性を伴うことにどれだけ意識的かということは非常に重要で、権力性を伴ってはいけないということになってしまったら、ある観客は「私は太陽神イアリロの役を演じたかった」とか言い出すかもしれないし、場合によってはボーカロイドの指示に従わず、勝手に生贄役になりだす人もいるかもしれない。そうした消費者の暴走による学級崩壊的な先にあるのは、もはや芸術とは言えないものになるような気もする。また、指示する側も曖昧な指示をしてしまったり、安易な平等主義に陥ると、昨今の学芸会で見られるような同じ主役が多数いるような事態(例:桃太郎が8人いるような内容)になってしまってもおかしくない。上演の冒頭で「アナタガタノキョウリョクガナケレバエンゲキハオワレマセン」という半強制を伴った上で、個々人の権利を一旦ロジェ・ベルナットに集中し、集団を動かす権力を持った上で『春の祭典』を上演し、上演後、上のブースから「Merci!Bon weekend!」というスタッフの声が観客に届き、彼らが会場を退場していく時に、この王様ゲームの共犯的な権力が浮き彫りになった気がした。