問のZeroと1の間――範宙遊泳『われらの血がしょうたい』クロスレビュー


 範宙遊泳の新作『われらの血がしょうたい』は桜木町駅近くにある横浜にぎわい座の地下2階にある、のげシャーレという小ホールで上演された。地下2階へは2機のエレベーターでのみ移動でき、階段では移動できない。1階から下へは地下2階にしかエレベーターは止まらず、そこにはのげシャーレしかないため、エレベーター内で乗り合わせた人間は、ほぼ間違いなくこの作品の関係者か観客だ。エレベーターという個室に1人または複数人で、一旦は閉じ込められ、地下2階に着く。そこは、携帯電話の通話はおろかネット接続も完全に遮断されていた。いつでもどこでもだれとでも、端末を通して情報の交換をしている人にとっては、そうしたオフラインである状況に不安を覚えるかもしれない。こうしたクローズドな空間で『われらの血がしょうたい』は上演された。

 この作品の最も大きな特徴に関しては、本サイトに既に投稿されている谷口惇の執筆した『問いが生成される解像度――範宙遊泳『われらの血がしょうたい』を観て』に記載されている通りである。そのため、この題にある「問い」のひとつとして、以下の劇評を読むことを強くおすすめする。

 私は『われらの血がしょうたい』を観劇して以下の4つの差異に興味を抱いた。
1 身体の差異「足・腕・血」
 作品の序盤で役者が台詞を発声しながら、足首を挫くようにつま先を地面に着け、そのまま転がり、立ち上がり、再び 足首を挫くようにつま先を地面に着け、まるで足がその機能を失ったかのように転がる。また、別の場面では集団で腕をもぐような動作を左右交互に繰り返していたりする。そして、2人の警備員が1人の浮浪者をマンションの工事現場から両腕を抱え引きづりだしていくという動作を繰り返し何度も行う異様な場面では、警備員の1人が自分の手についた血から、自分が刺されていることに気づき慌てるのだが、浮浪者が「お前の血じゃない」というと何事もなかったかのように元に戻る。もう1人の警備員にも同じことが起き、浮浪者は「誰の血かわかっているだろう。俺の血だ」という。こういった場面で、「足、腕、血」を失っているのか失っていないのかよくわからない身体動作が行われている。そして、この浮浪者がなぜだか銅像になるのだが(もしかしたら場面が続いているだけで全く無関係かもしれない)その銅像の目が動いたり、足が動いたり、腕が動いたりして、それに気づき周りの人が驚くというという場面があり、そこから、各役者が動いているのか、動いていないのかわからないほどに非常にゆっくりと動くという場面が散見し始める。最後に役者が退場?していく時には、クロード・レジ演出の『室内』のラストを思わせるような歩く動作をスロー再生したような動作をしている。こうして喪失と非喪失、静と動の境界線が曖昧になっていく。

2 文字の差異「英語・日本語・絵文字」
 この作品はフェスティバル/トーキョー15 連携プログラムでもあり、なおかつインド公演を行う予定もある作品のため、英語字幕が用意されている。日本語が話されている時は英語字幕が、英語が話されている時は日本語字幕がスクリーンに表示される。ここに携帯メールで使用されている絵文字が加わる。作品内では、会話の訳としての字幕としてだけではなく、文字単体で、ネット空間を漂うかのように英語や日本語、絵文字がスクリーン内で揺れたり、舞台を中心にして周回軌道を描くように移動したり、失踪する母親からのメールの文面に使用されたりしている。

3 声の差異「生声・マイクを通した声・スピーカーから聞こえる声」
 作品内では生声で十分客席全体に聞こえるくらいの劇場の広さのため、基本的にはマイクは使用していない。しかし、例外的に人工知能の声を発声する時にはマイクを通して発声し、機械っぽい音質に変換してスピーカーから音を出力していた。人工知能と人間の会話の場面では、会話の間の問題もあるためマイクを通して役者が発声していると思われる。しかし、作品の後半でZama(人工知能)を演じている熊川ふみが「知らない」と連呼する場面があるのだが、私にはそこだけ役者は口パクで、下手の上部のスピーカーだけから録音済みの音声を流しているように見えた。決して聞こえた、ではない。デジタル変換された音声がリアルタイムでマイクを通しているものなのか、過去にマイクを通して録音されたものなのかを、音だけで識別することは非常に困難だからだ。

4 スクリーンの差異「影・光」
 舞台上には2つの衝立式スクリーンが八の字型に観客に向かって広くなるように置かれている。そこに舞台中央手前に置かれた2つのプロジェクターからの映像が交差するようにして投影される。そして、舞台中央奥の上部の黒い壁をスクリーンとして3つ目のプロジェクターから白抜きの文字が字幕として投影される。主に役者は2つの衝立式スクリーンと舞台手前のプロジェクターの間で演じるため、影絵のようにしてスクリーンには役者の影が投影される。作品内ではそういった影絵的な場面も多くあり、夫婦が夕方の中で未来の生活について語り合う場面では、夫役の役者が木やリニアモーターカーをプロジェクターの手前で動かし影絵をスクリーンに写している。そして、マンションの工事の場面では、トラクターやシャベルカーの影絵が投影される中で、警備員役の2人が上手側のスクリーンを前方に倒し、下手の壁に運んでいく。やがて、下手側のスクリーンも移動され、下手の壁から2つのスクリーンによって三角錐の角が突き出すような形になる。この時、この三角錐の中にフッドライトが配置されており、スクリーンがまるで障子のようになって、照明がぼんやりと点灯する。プロジェクターの映像を投影していた時とは反対の位置を光源として、スクリーンの存在が浮かび上がる。

 『われらの血がしょうたい』の中で、この複数の差異の接点となる箇所を挙げつつ、私なりの問1をたてていこうと思う。

身体の差異✕文字の差異
 前述した「足がその機能を失ったかのよう」なダンスは、同じく前述した「ネット空間を漂うかのように英語や日本語、絵文字がスクリーン内で揺れたり、舞台を中心にして周回軌道を描くように移動」しているスクリーンの前で行われる。このダンスは終盤でZamaがスクリーンに投影された映像の人物たちと会話していく中でも再び発症する。

身体の差異✕声の差異
 声の差異に関して、「デジタル変換された音声がリアルタイムでマイクを通しているものなのか、過去にマイクを通して録音されたものなのかを、音だけで識別することは非常に困難だからだ」と記載したが、これは役者が観客に見えていない場合には、より困難なものとなる。この舞台においては、役者が見えなくなる時とはスクリーンの裏にいる時になる。(中間の位置として、上手に椅子と机の上にノートパソコンとマイクが置かれており、役者が代わるがわるそこに移動して、パソコンで音響、照明のオペレーション?をしているようにも見える)役者が見えていない時に、手拍子の音楽が流れるのだが、あの音楽がスピーカーから流れているようにも、スクリーンの裏で役者が手拍子をしているようにも聞こえる。

身体の差異✕スクリーンの差異
 作品の序盤で英語をしゃべる外国人とその家政婦のやり取りの場面があり、その際に役者の影がスクリーンに投影されている。その場面と全く同じやり取りが終盤で映像としてスクリーンに投影される。その映像にはスクリーンの前で演じる役者の影も写っている。実際の影と、影の映像の違いはプロジェクターの間に光を遮る人、物があるかないかが観客に見えているため判別は可能だ。しかし、これが終盤でスクリーンに投影されている「3番目のクローゼット」(ドットの粗い絵文字のようなクローゼット)に役者がボールを投げたり、開けようとすることによって、スクリーンが移動して、前述した下手に作られる三角錐になると、光源とスクリーンの間は三角錐の内側となるため、観客からは見えない。このため、影と影の映像の違いもわからなくなってくる。(しかし、三角錐内の照明はプロジェクターではなく、フッドライトだったと思われるので、三角錐内に見えた人影は役者の移動した実際の影だったと思う)そして、スクリーンが移動した後、プロジェクターはどうなるのかというと、映像を流し続けるのである。舞台奥の壁や、役者にプロジェクターは映像を投影し続ける。この時、役者の身体と白いスクリーンは映像の解像度は違えど、プロジェクターの映像を投影する同じ存在となる。考えてみれば、スクリーンに影となっているということは、その手前の役者の身体にはプロジェクターの映像が投影されているのだ。(スクリーンには遮蔽物という意味もある)

文字の差異✕声の差異
 冒頭で解像度の粗いドット絵で「は」という文字がスクリーンに投影され、「は」と機械のような声がスピーカーから聞こえる。そして、「は」という文字がスクリーンに投影され、「る」と機械のような声がスピーカーから聞こえる。ここでは意図的に字幕と台詞を変えているが、その文字と声の内容の違いだけではなく、字幕の出るタイミングと役者が発話するタイミングの前後関係においても、非常に緊張関係のある作品である。作品の終盤でZamaを中心にして、それぞれの役者が単語を発話していく場面があるのだが、その発話される単語の数よりも、字幕の単語の数の方が多くなっていた。

文字の差異✕スクリーンの差異
 上記の場面において、役者が発話していく単語、発話していない単語がチャットの履歴のようにして、舞台中央の黒い壁に投影されている白抜きの字幕が下から蓄積していき、上から見えなくなっていった。この小ホールの天井は2階建て分くらいの高さがあり、3メートルくらいの字幕の羅列が積み重なっていった。

声の差異✕スクリーンの差異
 作品の中盤で、Zeroという人口知能が現れる。スクリーンには青色の粗いドットの球体のような姿で投影される。このZeroの声がスクリーンの裏から聞こえたように感じたのだが、スクリーンの裏にはスピーカーがあるようには見えなかった。私の錯覚かもしれないので確かなことは言えないがスクリーンの裏で役者が機械のような声を発話しているのかもしれないと感じた。
 作品内で家政婦や家の住人とZamaの音声だけが会話をする場面があるのだが、この時、Zamaの声として上手に座っている熊川ふみがマイクを通して会話をしていた。この場面と全く同じやり取りが終盤で繰り返されるのだが、その時には、家の住人達がスクリーンに投影されている映像となっており、人口知能であるはずのZamaは熊川ふみが姿も含め演じ、マイクを握りながら会話をしていた。家の住人たちのスクリーンの映像は過去に撮影されたものだと思われるが、Zamaの声は映像に合わせてリアルタイムで発話されているのか、それともZamaの声すらも既に録音されているものかは私には判別できなかった。もっと言ってしまえば、家の住人の映像を人間といっていいのか、それとも人口知能といっていいのか私にはわからなかった。同じように、Zamaを人口知能といっていいのか、それとも人間といっていいのか私にはわからなかった。

 上記のようなことを考えながら、私は以下の問をたてた。

問1 人口知能と人間を区別することはできるのか?

 長々と書いてきてそんな陳腐な問が私に浮かんだ。この作品を観た人の数だけ問の数は増えていくだろう。
 私はとりあえず、この文章の冒頭で記述した『われらの血がしょうたい』上演が、なぜのげシャーレというクローズドな空間で行われたのかという疑問を問Zeroとして、問1との間を埋めていくことにする。

問1/4 会場後、開演までスクリーンに投影されていた4つ区切りの窓とその背景の自然の風景は・・・