練習に来た学生たちの楽器を弾きならす音がとぐろを巻く学生会館地下1階の廊下を通り抜け、さらに深く折り返し階段を下った先を右に曲がったところに受付けはあった。最初はそれが受付けだとは気付かなかった、というのもポスターや看板といった目印らしきものが周囲に見当たらなかったからだ。そこにはいくつものヘッドフォンを載せたテーブルと、そしてその周りにヘッドフォンを装着した人の群れがあるだけだった。劇場のチケット受け渡し口ではしばしば今後上演される劇の大量のチラシが観客それぞれの手に渡されるものだが、そうした類のものもここにはなかった。受付で名前を告げるとチラシを渡されるどころか背中に掛けていたリュックを没収され、入れ代わりに無線受信機とヘッドフォンを渡され「受信機はポケットに入れてください」とだけ告げられた。ヘッドフォンからはオーケストラが演奏前のチューニングを行う音が延々と流れていた。 ほどなくして会場への扉が開かれ、手持ち無沙汰にそれを待っていた私は脇目も振らずに直行した。ロジェ・ベルナットの『春の祭典』。ストラヴィンスキー作曲の同曲はピナ・バウシュによってダンサーが砂まみれになる振付けを施され、コンテンポラリーダンス界を震撼させたことは大学の授業でも耳にする話だ。今回の上演に際して紹介文は次のように簡潔に書かれている。
- スペインの演出家ロジェ・ベルナットが舞踊史の金字塔『春の祭典』に挑みます。 1975年のピナ・バウシュ版を大胆に翻案した本作の振付を通して、観客は共同体をめぐる問いに身体とともに向き合うことになるでしょう。 (演劇博物館公式サイト(
https://www.waseda.jp/enpaku/ex/4116/
- )より引用)
だから会場に入った時、四辺の壁に大きな黒い板が立てられている以外は伽藍同然に椅子一つ設置されていなかったことに驚いたし、大して驚くこともなかった。「何でもあり」の現代芸術の世界では「予想もしないことが起こる事態」は「予想内」(予想外=予想内)なのだ。しかし、その日の演目は「予想もしないこと」の中に「予想内のこと」を包含していた(予想外⊃予想内)ので事態は複雑さを増すのである。 観客がおよそ全員会場に入ってしばらくすると、ヘッドフォンから人工の音声が流れた。「今夜の儀式を完成させるためにはあなたたちの協力が必要です」「正面の板に大きく「夜明け」と書いてください」声に従って観客たちは板に近付き、足元に落ちていたチョークを取って白く文字を刻む。続いて他の板にも別の言葉を書くよう指示があり、それが終わると照明が落ち、「劇」が始まった。私は「演者」がいつ出てくるのか不安に思ったが、結局それは杞憂に終わる。すでに私たちが演者だったのだ。 それから起こったことは長かったのか短かったのか、記憶が定かではない。ストラヴィンスキーをバックミュージックにして「両手を上に上げ左右に振ってください」「あなたの前に池があります。水を掬って下さい」などを指示する声がヘッドフォンから次々に流れ、普段着を来た参加者らが「舞台」を駆け回り、踊り、互いに顔も名前も知らない人たちがその場で「即興」で一つのバレエを完成させる――。下手をすれば想像したくもないような形で崩壊してしまいそうなこのパフォーマンスを完遂させるべく、念入りに練り上げられたベルナットと人工音声による構成にはただ言葉を失うばかりだ。そして《Who Dance?》と銘打たれた坪内逍遥記念演劇博物館の展示企画のその関連イベントとしてこれほど的を射た批評的なパフォーマンスはあるだろうか。誰が踊る?――舞踊家、踊り手、ダンサーという「芸術家」が現れ、「観客」という習慣が蔓延るのは人類の歴史のほんの一部においてでしかない。芸術家と観客の境界を操作するというアイデア一本勝負ではなく、そのアイデアを具体的な作品として昇華し切っているところに私は大きな感銘を覚えた。ベルナットが振付ける『春の祭典』は「観客」を「芸術家」のポジションに強制移設させる。少なくとも伝統的な「観客/アーティスト」の図式に慣れ切った私は、彼のパフォーマンスをそのようなものとして「消費」してもいた。だが一方で、そのような図式に拘らない人は純粋に彼のパフォーマンスを自分のパフォーマンスとして全身で楽しんでいたのではないか。それを「王様ゲーム」と呼ぶことは至極もっともな指摘だろう。 しかし、ヘッドフォンから流れる声を徹頭徹尾聞き流し棒立ちを固持していた私は、即物的に行動に踏み出せないが故の「不自由さ」を胸の中にくすぶらせていたのだった。 「観客」はいかにあるべきか、ということについて語らなくてはならない。時代遅れだろうか。それならそれで構わない。一つの一貫性によって創造らしきものが出来るのであれば私はその姿勢を貫いてみよう。私が執着した「観客」とは、誰もが義務教育で習うように「自由に作品を観賞することで感性を養う観客」である。ヘッドフォンの指示を無視したのは、無視する自由が私にあると確信したからだ。舞台と参加者と人工音声が支配するあの空間で、私は愚かなことに「自由」を求めようとしたのだ。 だがこの企ては中途半端なものに終わってしまった。それにそもそもの「観客」の定義に潜むアポリアに気付かないでいたのだ。これは単純なことで、究極に「自由な観客」でいるためには「観客」の枠の外に出なければいけないからだ。「観客」の枠から飛び出し、かつ人工音声の指示から「自由」になる方法はいくらでも思いついた。人工音声の指示を誰よりもオーバーに実行する、指示に従いつつも全く関係のない行為に走る、指示を完全無視して好き勝手暴れまわる等々。これらの内いずれも私は実行しなかった。その行為によって実現された私一人の「自由」が、ベルナットと観客が織りなす儀式を妨害してなお価値を持つのかどうか確信を持てなかったからだ。その結果、私は壁際で終始氷のように棒立ちするだけであった。 私が「自由」などというちっぽけなものに拘ったのは、「自由」のためというよりもむしろ、自分が従いたいとは思わないものに命令され動かされることへの不安、全員が同じ方向を向いて同じ身振りをするマッスの中に彼らと何の縁も持たない(し今後も持つことがないだろう)自分が溶解することに対する身の毛がよだつ程の嫌悪感が原因だったように思う。しかしもう一つ、大抵の振付けが「予想内」のものだったことも理由の内に入る。身も蓋もない言い方だが、私はピナ・バウシュの振付けを言葉が指図することができる限度で再現した踊りを踊りたいとは思わなかった。(私は「1975年のピナ・バウシュ版を大胆に翻案した」プロによる踊りを見たかっただけなのかもしれない。つまり、このイベントは観客席という安全席で傍観を続けていた私のような参加者の告発としての様相を現す。)ベルナットが過去に制作した『パブリック・ドメイン』のように、彼オリジナルの作品を参加者が初めて作り上げるようなものであれば私の足は動いたのかもしれない。だがもはや、このパフォーマンスはベルナットの手によるものなのか、参加者との共犯によるものなのか、それとも土に眠る故ピナ・バウシュによるものなのか、その所属を問うことはできない。一体誰がクリエイターなのか、そもそもそれを問うこと自体が何ら意味をなすかどうかも分からない。自ら何かを作り出す者だけが「自由」を得るのなら、私もベルナットの共犯者になるべきだったのか――。 すなわち、「共同体をめぐる問い」にあっけなく捕らえられてしまったのだ。
【クロスレビュー】 こちらも併せてご覧下さい→王様ゲーム的『春の祭典』――ロジェ・ベルナット『春の祭典』に参加して考察したこと