聖地巡礼の視点 ――「見たことのある景色」のその先へ


 聖地巡礼――アニメの舞台となったとされる場所を巡る行為――の様子をブログやニュースなどで見て、あくまでスタンプラリーのようなものだと思っている人はいないだろうか。自分がキャラクターの位置に重なるカットを撮り、ひとつひとつチェックポイントを潰していく。キャラクターや作品の熱狂的なファンが足を運び、自身をそこに投影する――そう考えているなら、それは聖地巡礼の楽しみ方のひとつであって本質ではない。その地にわざわざ自らの足で行く理由は、もっと私たちの作品の見方に関わるような理由なのではないだろうか。

 そのことについて、(お得意の)『Free!』から考察していく。テレビアニメ『Free!』(2013年7~9月、2014年7~9月)そしてその過去編である映画『ハイ☆スピード!―Free! Starting Days―』(2015年12月)の舞台である「岩鳶」は、鳥取県にある「岩美」という地がモデルになっている。岩鳶高校があるとされる位置だけは大きく違っているが、他の景色や位置、更には民家など建物の形に至るまで細かく再現されていて、聖地巡礼に訪れる人は後を絶たない。かくいう私も今年の3月、そして8月と岩美を訪れ、「聖地巡礼」というものをしてみた。

 

 聖地巡礼をしているブログを見ると、アニメのキャプチャーと全く同じ構図の写真を並べて配置する形式を基本としている。

 

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遊覧船乗り場近く

 

これはキャラクターとそこで起こった物語に対して、アニメのカメラの視線と自分のカメラの視線(もしくは自分自身の視線)を同一化する、三人称の楽しみ方であると言える。「キャラクターがそこにいた」風景を切り取って、アニメで「見たことのある景色」を自分の目線でたしかに「見たことのある」景色にするように。

 

 そして同じく、キャラクターがいた場所に自分も立ち、彼らが見ていた景色を見る。そうすることでその景色を立体的なものとして、彼らがそこにいたものとして、実感することができる。

 

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同じく遊覧船乗り場近く、キャラクター視点のパノラマ写真

 

 ここで問題にしたいのは、これが三人称に対して一人称の楽しみ方であるかと言うと、決してそうではない点である。たしかに、アニメで描かれていないが重要な「キャラクターが見ていた景色」というこの視点を獲得することは、聖地巡礼の醍醐味ではある。しかし、彼らはその景色をその時――特に印象的なシーンでは――ほんとうに〈見て〉いたのだろうか。私たちは彼らが見たその景色をほんとうに獲得しえるのだろうか。

 

 例えば2期11話で主人公の遙と親友である真琴が初めてケンカするシーンには、岩美の景色だけではなく印象的な特大の花火が重ねられる。実際に毎年この場所で花火大会が行なわれているようで、絶好の聖地巡礼期間のひとつとなっている。

 

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どれも田後港神社前

 

 この下の海辺では灯籠流しが行われていて賑わっているが、そこから逃げて高台の小さな展望台に来た遙と真琴は二人っきりで、向き合って言い合いを始める。「夢が見つからない」と変化を恐れる遙を「このままでいい訳ない」と叱咤する真琴、そして「お前も進路決めてないだろ」と反論する遙。幼い頃から一緒にいた二人が感情を顕にして言い合いをするのは初めてのことで、1期からの様子も鑑みて、視聴者の心に特に強く残ったシーンであるだろう。ここで急に真琴が黙り、言い合いが止まる。そこに芸術的なまでの大きく綺麗な花火が背景に挿入されるのだ。私たち視聴者はここで、景色や花火と2人を同時に視界に収め、その相乗効果に感動する。しかしこの時、2人は普段からある岩美の綺麗な景色どころかこの花火すらも全く気にしない。横で大きな音と共に打ち上がる花火に反応せずに、まるで何事もないように、ただ遙の方を見て真琴は告白する――「俺、東京の大学に行く」。
 私たちが聖地巡礼をしてその景色に感動すればするほど、キャラクターや物語そのものとは離れていってしまうのではないだろうか。岩美の景色はたしかに綺麗だ。澄んだ海、青い空、普段見ない植物、潮風、神秘的に浮かぶ島々――こういったものを見たら当たり前に私たちは感動して、よくその景色を〈見て〉しまう。しかし、キャラクターからしたらむしろその景色が当たり前で、なんでもない風景なのである。それは、カメラの視点と人間の視点の違いにも近い、その景色を〈見る〉という行為に対する原理の違いである。

 ちょうど『ラブライブ!サンシャイン』で東京に来たAquasがアキバやビル群に感動する一方で、東京に住む私がその風景に何の感情も抱いていないように(この場合はむしろ、Aquasが来てくれたことで、特別な景色になったと言えるかもしれない)。同じ景色を見ていても、焦点が全く違っている――これは仮に、「準一人称視点」とでも名付けられるだろうか。

 

 それでは、完全には無理であっても、キャラクターが見ている風景、つまり一人称視点に近づくにはどうすればいいか。そのために必要になるのは、岩美に行った〈記憶〉である。

 2010年頃の近過去を描いた『Free!』のキャラクター達は、高校卒業後、東京やオーストラリアなど、それぞれ違う、遠い場所へと旅立つ。ほとんどのキャラクターが、2016年現在にはおそらく岩鳶にはいないのだ。そこで自分の目標に向かいながら、ふとした時に思い出すのは「あの」海や空だろう。

 2期最終話で流れたキャラクターソング、「clear blue departure」に、こんな節がある。

〈旅立ちの朝に見上げる空に 見送るだけの 思い出なんかじゃない 今だって胸をアツくする 忘れない最高の景色〉

〈ひとりじゃないから この夢が輝く それぞれの場所が重なっていくね〉

作中なんども繰り返される、メドレーリレーを泳ぐ彼らが目指す「見たことのない景色」という「景色」を、そして「仲間、チーム」の意味を主題にした物語であったからこそ、この歌詞も重みを持つ。見たことのない「景色」は、岩美の「景色」と重なり、そのことで、それぞれ別々であった「場所」が重なっていく。生きてきた環境や思いの違いによって、同じ場所に立っても獲得できない「同じ景色」。だが、違う場所にいても岩美の景色を〈思い出す〉ことで、私たちを含めたそれぞれ焦点の差が和らいで逆説的に「同じ景色」に近づくのではないだろうか。

 

 『Free!』においてはその場所を離れても、たとえ生きている次元が違ったとしても、「同じ景色を想う」ことでキャラクターと近い目線を獲得し、「同じ景色を想う」仲間であると勇気をもらうことができる。

 そこで、他の作品にも少し言及しておこう。たとえば、『Free!』と同じ京都アニメーション制作の『響け!ユーフォニアム』( 2015年4月~6月)8話でも、印象的な場面に美しい景色を重ねる手法が使われているが、対称的である。

 こちらでは主人公・久美子と、少し気まずい関係である麗奈の関係が親密になるのだが、お祭りの喧騒から逃げるように、二人は楽器を背負って京都府宇治市にある大吉山へと登る。そこで、夜景をバックに麗奈は言う――「久美子ならわかってくれると思って。わたし、興味ない人とは無理に仲良くなろうと思わない。誰かと同じで安心するなんてバカげてる。当たり前に出来上がってる人の流れに抵抗したいの。全部は難しいけど、でもわかるでしょ?そういう意味不明な気持ち。」、「わたし特別になりたいの。他の奴らと同じになりたくない。」。

 

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大吉山展望台

 

ここでは、久美子は夜景と麗奈の両方を同じ視界に捉え、言葉の真っ直ぐさと、視覚的な美しさとの相乗効果で、麗奈に心を奪われるのだ(むろん、私をはじめとする視聴者達も然りである)。ここでは視聴者と久美子の見る景色はほぼイコールで結ぶことができる。

 一方、ここに聖地巡礼に行ったところで(私も行ったが)、『Free!』のような効果は得られない。むしろ自分の目の前に麗奈がいないことを強く意識し、この久美子と麗奈の逢瀬がより「尊い」ものとして心に刻まれることとなるだろう。

 

 「聖地巡礼」とは、その場所にいた誰かを想いながら、ひとつひとつの景色をかけがえないものとして〈記憶〉していく行為である。それは、三人称視点でキャラクターがいた景色を見る楽しさや、準一人称視点でキャラクターが(見ていたかは定かではないが)向き合っていた景色を見る楽しさだけではない。物語にとって、キャラクターにとってこの景色はどのような意味を持つかを考えることで、より作品に近づいた体験ができる。そして作品によって、更に別の意味が浮かび上がってくるのではないだろうか。