塗りつぶされた「抵抗」の肖像――アンジェイ・ワイダ『残像』レビュー


 アンジェイ・ワイダは「抵抗」の作家である。
 これまでワイダを語る誰もが、それ以上の何かを言ったことはなかった。
 あらためて考えてみよう。では、この作家はいったい何に抵抗していたというのか? 通説によれば、それはイデオロギーである。たしかにアンジェイ・ワイダは、終生ポーランドにおける全体主義権力による抑圧とそれに対峙する人々を描きつづけ、自らもまた体制との衝突を恐れなかった。

 ワイダの出世作である「抵抗」三部作――『世代』(1955年)『地下水道』(1957年)『灰とダイヤモンド』(1958年)――は、ナチス占領下のポーランドでの国軍による武装蜂起(ワルシャワ蜂起)を枢要な主題としている。『大理石の男』(1977年)はスターリン主義政治のなか、党により「労働英雄」に仕立て上げられた青年の虚偽を暴く筋立てであり、続編たる『鉄の男』(1981年)は、公開前年に結成された労働者組合「連帯」による反共運動の物となっている。近年ではWWⅡ末期におけるソ連軍によるポーランド亡命政府系将校の虐殺をあつかった『カティンの森』(2007年)も記憶に新しい(ワイダはこの事件で実の父を亡くした過去を持つ)。
 全体主義イデオロギーとの戦いを描きつづけてきたワイダは、まさしく「抵抗」の作家と呼ぶにふさわしいではないか。じっさい、昨年逝去したワイダが残した遺作『残像』(2016年、原題 Powidoki)にも、この「抵抗」の主題は通底している。同作のプロットをみてみよう。

 第二次世界大戦後、ポーランドはソヴィエト連邦の影響下におかれることになる。全体主義体制に脅かされながらも、前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは創作活動と教え子の指導に打ち込んでいく。しかし、芸術を政治に利用しようとする社会的リアリズム(スターリン様式)を強要するポーランド政府に真っ向から対立したため、ストゥシェミンスキは芸術家としての尊厳や名声を踏みにじられていく。しかし、この画家はいかなる境遇に追い込まれても、芸術に希望を失うことはなかった――。*1

 共産主義体制による検閲といった抑圧への「抵抗」というワイダ的主題は、遺作たる『残像』にも看取することができる。人々が期待するように、この巨匠は最期まで「抵抗」の作家であり続けたといっていい。

 しかし、である。『残像』は全体主義イデオロギーへの「抵抗」の作家というワイダの肖像を自壊させてしまう危険性を胚胎した問題作でもあるのだ。それはなぜか。
 ここでわたしたちは『残像』で何度も反復されるモティーフ群――色彩――に目を向ける必要がある。同作はその序盤に、象徴的なショットが配されている。ストゥシェミンスキが自宅でキャンバスに向かっていると、その無彩色の板は突如として「赤」に染め上げられる(【図1】)。

【図1】©2016 Akson Studio Sp. z o.o, Telewizja Polska S.A, EC 1 – Łódz Miasto Kultury, Narodowy Instytut Audiowizualny, Festiwal Filmowy Camerimage-Fundacja Tumult All Rights Reserved.

 アパートの外ではスターリンの肖像を大々的にあしらった旗が掲げられており、その光が部屋に差し込んできたためである。ストゥシェミンスキという実在の画家を題材に採ったため、『残像』は「赤」以外にも無数の色彩が印象的に作品内に配置されていく。やがて、遺作に散りばめられた色彩のモティーフは反復/変奏のうちに「抵抗」の作家というワイダの肖像を塗り替えてしまうことになる――。

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 2つの色彩を並置したとき、互いを最も引き立てる色を「補色」と呼ぶ。また補色とは色相環上で、ある色のちょうど反対に位置する色彩でもある(たとえば黄色の補色は紫であり、「赤」の補色は青緑になる)。対極にある色同士が並ぶとき、わたしたちはコントラストによってそれらの色彩を強烈に印象づけられるというわけだ。
 この色彩理論はワイダの遺作タイトルにも由来している。冒頭のシークエンスでストゥシェミンスキは入学したばかりの女学生に自身の視覚理論を次のように披歴する。 

ものを見ると目に像が映る/見るのをやめて視線をそらすと、今度はそれが残像として目の中に残る/残像は形こそ同じだが「補色」なんだ/残像はものを見たあと網膜に残る色なんだよ

 「赤」を見た場合には、網膜部分の「赤」に対する感度が低下し、補色にあたる青と緑を感知する網膜上の感度が上昇する。この生理現象のために、「赤」を見た後に目をつむると裏返しの青緑色の残像が生じるのである。

 ここで「赤」以外に『残像』で変奏される色彩――「黒」のモティーフを思い起こしたい。作中、ストゥシェミンスキはごく僅かの例外を除いて、つねに「黒」いジャケットを着込んでいる。愛娘ニカと過ごすシーンでも、娘の羽織うコートと対比をなすようにストゥシェミンスキは「黒」のコートを着ることになる。また、ニカが母(画家にとっての妻)の葬式に参列する際、そのコートの色を非難されるや生地を裏返して「黒」いコートにするショットも印象的に配されている。
 作品設定のみならず、「黒」の色彩はストゥシェミンスキの作品にも印象的に用いられている。(作中にも出てくるが)ストゥシェミンスキの設計した現代美術館の一室でも「赤」とならんで「黒」がアクセントとして効果的に使用されている。空間デザインのみならず、「赤」と「黒」のモティーフは、複数のストゥシェミンスキ作品にも看取することができる【図2】。

【図2】ストゥシェミンスキとカタジナ・コブロによる抽象彫刻

 ストゥシェミンスキは、なぜその表現に「黒」を印象的に用いたのか。それは残像効果にとって「黒」が枢要な色彩であるからに他ならない。色彩理論において、ある色は色相環上で反対に位置する補色と混ざり合うことで「黒」に近似していく。
 序盤で印象的に配された「赤」、そして同様に頻出する「黒」のモティーフにこそ、「抵抗」の作家というワイダの肖像画を塗り替えてしまう可能性が位置している。どういうことか。

 まず『残像』における「赤」はワイダが抵抗し続けてきた共産イデオロギーを象徴するものとしてのみ機能していない。たとえば、ストゥシェミンスキの愛娘たるニカはスクリーンに姿を現す大半において、「赤」いコートに身に纏う。ストゥシェミンスキが設計した現代美術館の一室では、「赤」の色彩が非常に強調された形で壁面にコンポジットされている。権力によって失職を余儀なくされたこの画家は、町場のアトリエで商業画を描いている最中に自らの「赤」い血を吐き出す。
 それらは否定性のみを一意に定義できない「赤」の色彩である。「赤」を共産主義体制の謂であるとするなら、この時点で「抵抗」の作家というワイダ像は早くも瓦解しているのかもしれない。

 だが、『残像』において「抵抗」の肖像は二重に塗りつぶされている。共産イデオロギー(赤)を一意に否定できず、自らの側にも「赤」を引き寄せてしまうストゥシェミンスキ=ワイダの矛盾を、さらに端的に象徴するのが「黒」のモティーフである。共産体制≒「赤」と対極にある補色を混ぜることを通じて生成される「黒」とは、すなわちイデオロギーの混濁である。ストゥシェミンスキはつねに「黒」をその身に纏うこと、矛盾を内部に抱えた「抵抗」者であることをたしかにイメージ上で示してしまっているのではないか。
 かつて批評家であるスラヴォイ・ジジェクはイデオロギーの定義を通説的な理解を転覆する形で次のように措定した。

 イデオロギーというものは、初めは矛盾しているように見えた事実さえもが、そのイデオロギーを支持する議論として機能しはじめたときに、真の成功をおさめたといえるのだ。……資本主義の場合、この矛盾……は資本主義という概念そのものの中に含まれている。この内的矛盾こそが、永久的な拡大再生産へと駆り立てるのである。*2

 ジジェクが述べていることを大まかに要約してしまえば、イデオロギーとはつねに対立的な主義/主張によって裏支えされているということである。一見、矛盾を突くように思えるイデオロギーへの批判は、まさにその存在によってイデオロギーの支配する世界への相補的担保として機能する。ストゥシェミンスキは共産主義(「赤」)を批判し、その対極の立場(補色)として自己規定していたのかもしれないが、それはジジェクのいうように自身もまた共産イデオロギーを敵として実体化することで、その体制を裏支えしてしまっていたのである。つまるところ「赤」もまたストゥシェミンスキの内部にあるのであり、結果この「抵抗」の画家はイデオロギーの混濁たる「黒」をつねに身に纏うこととなる。

 このクリティカル・ポイントは作品分析の水準にとどまらない。映画をつうじたワイダによる共産主義体制への「抵抗」の実践もまた、そのようなイデオロギーの論理に支配されていたことを端的に証明する事実がある。

 ポーランドは1989年以降の民主化の進展によって表現の完全な自由を手にすることになるが、この規制緩和はじつに皮肉な光景をポーランド映画界にもたらすことになる。検閲や規制が完全に撤廃されることで国内では自由に映画が制作・公開され、また国外の映画も輸入されることになるのだが、この「民主化」がもたらしたのはハリウッド映画による市場の席巻だった*3。ポーランド国産映画は動員数を減らしていき、弱体化を余儀なくされる。
 ワイダやカヴァレロヴィチといった「抵抗」の作家群が傑作を生み出すことになったのは、共産主義イデオロギーによる(相補的)抑圧のもとだったのである。ポーランドにおける豊穣な映画の可能性は、共産主義体制の崩壊とともに瓦解したといっていい。

 『残像』は終幕に近づくにつれ、悲劇性を高めていく。ストゥシェミンスキは抑圧のもとに職を追われ、食事や画材を購入するための配給券すら与えられることなく、貧困に落ち込んでいく。やがて町場のアトリエに職を求め、もっとも嫌悪していた体制の象徴たる赤旗のデザインを担当する。このとき、まさしく「抵抗」の最中に描いていた前衛絵画の表現的到達は見られず、体制への順応は凡庸な絵を生み出すばかりである。

 ワイダは批判によって拡大発展していくイデオロギーの論理をあらかじめ知っていたのではないか。ポーランドの「抵抗」の作家たちが民主化以降に、その輝きを失ったことを自覚していたからこそ、この作家は現代のポーランドを舞台に扱わず、終生、体制への「抵抗」をテーマに全体主義との対立や中世の史実を題材にとってカメラを回し続けたのだ。そして、ワイダの描く「抵抗」がたえず苦々しい結末を迎えるのは、その打倒されるべき体制との相補的関係を知りつつ目を瞑ってきたからだろう。遺作たる『残像』は、ワイダ作品に潜在していた「抵抗」のモティーフを自壊させる可能性を、「赤」と「黒」の相補的関係によってこれ以上になく象徴的に炙り出してしまった。

 補色の原理のもとにイデオロギーの相補的関係を描き出す『残像』は、アンジェイ・ワイダの「抵抗」の作家という肖像画を塗りつぶす遺作としてわたしたちのもとに残された――。

◇註
1 『残像』パンフレットをもとに筆者作成
2 スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳『イデオロギーの崇高な対象』(2001年)河出書房新社
3 渡辺克義著『ポーランドを知るための60章 エリア・スタディーズ』(2001年)明石書店

◇上映情報
『残像』
6月10日(土)、岩波ホールほか全国順次公開
©2016 Akson Studio Sp. z o.o, Telewizja Polska S.A, EC 1 – Łódz Miasto Kultury, Narodowy Instytut Audiowizualny, Festiwal Filmowy Camerimage-Fundacja Tumult All Rights Reserved.

アンジェイ・ワイダ監督
2016年/ポーランド映画/ポーランド語/99分/カラー/シネマスコープ/5.1ch/DCP/配給:アルバトロス・フィルム/後援:ポーランド広報センター/提供:ニューセレクト/宣伝:テレザ、ポイント・セット

©2016 Akson Studio Sp. z o.o, Telewizja Polska S.A, EC 1 – Łódz Miasto Kultury, Narodowy Instytut Audiowizualny, Festiwal Filmowy Camerimage-Fundacja Tumult All Rights Reserved.