マリオの二つの身体 乳首・安倍マリオ・ニューヨーク


レイシストになるな、マリオになろう。
彼はイタリア人の配管工で、日本人に作られ、英語を話し、メキシカンのような見た目をしていて、黒人のようにジャンプし、ユダヤ人のようにコインを掴む。
有名なネットミーム

 


『スーパーマリオオデッセイ』看板広告の一枚

 この画像を、あなたは最近駅構内や街のどこかで見たことがあるだろうか。
そう、この画像は最近発売されたスーパーマリオシリーズの最新作『スーパーマリオオデッセイ』のキービジュアルだ。キャッチコピーは「マリオ、世界の旅へ。」、発売3日で200万本は売れたというもはや揺らぐことのない任天堂の看板タイトルである。
 話はこの一枚から始まる。この画像は見た瞬間、マリオの中で何かが変わったことを予感させるもので、それはとても魅力的でありながらどこか違和感を与えるものだ。三頭身のマリオがリアル頭身の人間と隣り合っている、それだけのことだが、なぜこれほど刺激的でワクワクする構図になるのだろう。それを解き明かすために、この画像をもうすこしだけ眺めたら、先に進もう。

次の画像は9月14日の『スーパーマリオオデッセイ』の先行動画内の一枚だが、非常にショッキングな画像である。あまりにも衝撃的で、世界中の人々が、まるでチュパカブラでも見つけたかのように大騒ぎしたものだ。


スーパーマリオ オデッセイ [Nintendo Direct 2017.9.14](https://www.youtube.com/watch?v=-PDCxktFEfM)より

この画像のおかしな所は一見してすぐに気づくはずだ。マリオに乳首がある。これがどれだけ衝撃的な事実であったのか、即座にはわからないことかもしれない。
 もともと、マリオはイタリア出身のブルックリン在住の配管工として、他のコミックキャラクターに比べると生の人間に近い出自を持っていた。無性的であることを尊ばれるマスコットキャラクターにしては、立派なヒゲや癖の強い頭髪、パツパツのツナギなど、マリオは異例なほど男らしくてでセクシャルな記号をいくつか持っていたが、この度乳首が存在するということが公式に、しかもキービジュアルを通して大々的に明らかにされると、その二つのうすい紅点は極めて異様な特徴としてそのつるつるとした体表の上に浮かび上がってきた。

 しかし、乳首がないとなるとそれはそれでおかしなことじゃないか、と腕を組む人もいるだろう。人間なんだから乳首があって当たり前だ、変にぼかすほうがおかしいと。まさにそここそが、乳首が存在する極めて大きな原因なのだ。「人間なのだから」乳首がないとおかしい。しかし、本当にマリオは人間なのだろうか? 我々はこの小さなイタリア男が世界に及ぼす途方もない影響力を知っているが、それでも彼は三投身で、フィクションの世界の住人で、今までは彼に似つかわしいデフォルメされた世界で、乳首があろうがなかろうが関係のない世界で生きてきた。しかしこの乳首事件前後、近年マリオの存在の次元が大きく揺らぐ事態が次々と発生しており、乳首はそこに投下されたために巨大な話題を読んでしまった、というのが個人的見解である。マリオの存在の次元というと、よくわからないかもしれない。ゲームシステムにそってもう少し具体的にせまってみよう。
 
スーパーマリオオデッセイトレイラー(https://www.youtube.com/watch?time_continue=118&v=ef5pyjq0a_Y)より

 『スーパーマリオオデッセイ』では、それまでにない画期的なゲームシステムである「キャプチャシステム」を採用している。「キャプチャ」とは、要するに「乗っ取り」である。本作ではマリオの帽子にはキャッピーという名の幽霊が乗り移っており、あらゆるものにむかって帽子を投げ、投げた相手を操作することができるのだ。お馴染みのハンマーブロスやワンワンなどの敵はもちろん、上記のティラノサウルスや戦車やタクシー、そして「ニューダンカ―」というニューヨーク風の街にすむ等身大の一般市民まで、帽子を被せれば操作して操ることができる。この機能はボス格の敵には適用できない証拠に、ボス格の敵はみんな帽子をかぶっている。

 『スーパーマリオオデッセイ』のマリオは帽子を被せればなんでも「マリオ」として操れてしまうため、ゲームの操作経験がとても広がった。目につくなんでも操作することができる。このシステムは細胞から惑星まで操作できるPCゲーム『Everything』に似ているが、重要な違いは、全てのプレイアブルキャラクターは帽子を被せており、帽子をかぶせているが故にその対象はマリオとして操作している、という点だ。しかしそうなると、本物のマリオのアイデンティティがあやふやになってしまう。帽子を被ったらなんでもマリオなのか? それじゃもういっそマリオの本体はあのヒゲもじゃの小男ではなく、帽子のほうになってしまうじゃないのか?現在の状況を見るに「その通りだ」としか言いようがない。この事については以前起きた大きな事件がその傍証を与えてくれる。すなわち、安倍マリオ事件である。

 

2016年に開催されたリオオリンピックの閉会セレモニーは、同時に来る2020年の東京オリンピックの予告セレモニーでもあった。君が代が響いた後、椎名林檎や三宅純などが関わる日本のインターナショナルな魅力をふんだんに詰め込んだ映像が再生され、有名アスリートたちからボールを受け取った安部晋三が、車の中で帽子を被ってマリオに変身する。そして渋谷を通るとアイコニックな緑色の土管を(日本の反対側にあるブラジルへ突き抜ける意味合いで)くぐる。そして現実のスタジアムの中心に、赤い帽子と青いスーツをかぶった安倍晋三が現れる。


(上記動画より)

 小雨にそぼ濡れて少し疲れた顔の安部晋三は、このときマリオと象徴的同化を果たしている。まさに、帽子を被ることでマリオになるという、日本特有の手法であるコスチューム・プレイを行うことで、彼は晴れ舞台で最も親しみ深いキャラクターそのものとして現れ、人々の好感を効果的に買うことに成功したわけだ。ここではマリオの帽子は本来オリンピックを彩るものであるオリーブ冠とほとんど同じ働きをもつ。つまり、魔術的なものを付与し、被ったものを祝福する。マリオの帽子は極めてアイコニックなものとして、任天堂のロゴデザインのいくつかで採用されている。

 

 この事例は、マリオはなんにでもなれるのだから、ひっくるめれば、帽子をかぶれば誰でもマリオになれる、ということを証明した。安倍マリオの前後で、明らかにマリオというのが「プレイする」客観的存在から「なる」主体的存在に変化したのだ。ならばやはり、帽子に脱ぎ捨てられた身体のアイデンティティはどこに帰属するのか。このどうみても一人だけ世界観が違う三頭身の男は、彼だけがもつ特有の磁場を持っているといえる。『スーパーマリオオデッセイ』のPVも、明らかにこの異常さの中で危うく成立している。

 ニュードンク(ヨーク)シティにかこつけて、歌姫を囲むビッグバンドジャズに乗せて華麗に実写の人間たちが、ダンスを踊る。この歌姫は実はポリーンという初期のピーチのような立場にいた女性だが、ここではリアル・シンガーが仮装して現れる。しかしそこにマリオが現れて、あろうことか実写の人間に合わせて先頭でダンスを踊り始める。それ以外の部分は極めて写実的で現実そのものなのに、三頭身のマリオが現実の世界でダンスをすると、まるではめ込み映像のように見えてもおかしくない。しかし、それを有無を言わさぬ情報量でPVは仕立て上げ、一つの事実を仕立て上げようとしている。ほら、ぜんぜんおかしくないでしょ? と言わんばかりに。

 

 ここで重要なのはポリーンとマリオの対比である。ポリーンは知名度も低いとはいえ実際にマリオ作品に存在するキャラクターなのに、彼女は現実の女性が仮装することで、マリオと対比的に「リアル」な肉体を持った存在として現れる。ポリーンはこの映像の中では我々の世界の住人であるが、一方ゲーム中ではニュードンクシティの市長として3Dモデルが用意されている。 つまりこのPVを撮ったために、ポリーンは現実とゲームの二つに対応する、それぞれ別々の身体が用意されたことになる。しかし一方、マリオは全てが現実の世界でも3Dの身体のまま飛び回る。マリオには一つだけで十分なわけだ。マリオはもはやゲームの中に留まらず、二つの世界を媒介するメディアになる。我々の現実世界のリアリティの中においても、マリオの身体はそれ自体が現実にふれるためのデバイスなのだ。
 

 この意味を再確認するために、最後にもう一度、あの一枚を見てみよう。

 マリオは、1920年代のグッド・オールド・デイズのニューヨーク(ゲーム中ではニュードンク・シティ)の街並みの中、コンサバティブ・スーツに身を包んだ男を流し見ながら「追い越して」いく。このニュードンクシティでは事物のリアリティレベルを落としておらず、全てがデフォルメのない世界として現れている。つまり、この世界では三頭身のマリオは本来明らかに異質な存在のはずだ。

 しかし、1920年代の、映画やゲームで何度も主題にされてきたはずの世界にただ一人マリオがいるだけで、この世界はマリオ的な現実の輪郭の中に包含され、どこかコミカルで愉快なものに感じられてくる。マリオがいるだけで、この街並みはその全てが「遊べる」ものだという予感で楽しげになってくる。

 手でマリオを覆い隠してみよう。何かが違っていないか? そこには確かに(少しだけローポリだが)我々が知っている映像としてのニューヨークの景色が見えてくる。しかし、やはりそれはどこか遠いものだ。世界中の多くの人間にとって1920年のニューヨークは映画の中にしかないもので、手で触れたり触れたりできるものではない。しかしマリオがそこにいるというだけで、どんな場所でも遊べるステージにしてくれる。ニューヨークをニュードンクシティという触れるものに変えてくれるデバイス、それがマリオなのだ。

 そして我々がこの画像を見て最初に感じた興奮は、我々の現実世界をマリオのように飛び回れるという予感に裏付けされたものであり、それは他の身体、特に等身大の身体では変えが効かない経験だということだ。マリオは、我々がよく知ったマリオ的ジャンプやマリオ的走法や固有の歩幅を持ってニューヨークに飛び込むからこそ、我々は他のどの身体よりその世界の壁や地面などの表面をよく「触り」、リアルなものとして感じることができる。


『スーパーマリオブラザーズ』のゲーム画面

 それは最古のスクロール画面の時代のゲーム『スーパーマリオブラザーズ』から馴染み深い触覚である。ゲームをクリアするにはマリオの身体を熟知しなければならない。マリオなら飛べる限界の高さ、マリオなら届く距離、マリオならつかめる壁のヘリ、マリオなら登れる建造物……いわばマリオの身体はそれ自体が独特の記法・測量法を持つ現代の伊能忠敬である。伊能忠敬が歩幅を完璧に調整し自らの行脚によって日本を測量したのは有名な話であるが、マリオの三頭身の身体はマリオだけの測量を用意し、我々に世界を測量する経験を与えてくれる。そしてマリオの身体を通せば、どのような世界であっても測量され、それによって触感が浮かび上がってくるのだ。 

 今までの話をまとめるなら、現代のマリオには二つの異なる身体の次元があるといえる。

・一つは「帽子の身体」、帽子をかぶせればマリオは誰にでもなれる、そして逆に帽子を被れば誰でもマリオになれる。

・もうひとつは「三頭身の身体」、マリオはその三頭身と身体能力でもって独特な測量法を発揮するためには、マリオ自身の身体は唯一無二のものでなければならない。

 このように考えると、一つ目の近年の新しい特徴である「帽子の身体」の極めてグローバルでボーダーレスな「なんでもあり」な在り方と、二つ目の昔からの特徴である「三頭身の身体」の限定的でスペシフィックな「ただひとつの」在り方の対立は極めて興味深い。 というのも、『キャプチャー』や『安部マリオ』の「帽子の身体」を通して、マリオは明らかに人間をやめてしまったわけだが、人間として残されたマリオの昔からの「三等親の身体」の価値が失効したわけではない。現代のマリオの上でこの二つの身体がモザイク上に構成されているわけだ。

 強力な影響力を持ちながら、マリオは人間そっくりの身体をしている。それを鑑みるに、マリオは上記の二つだけではなく、さまざまな現代の身体論の一つの特異点になっていると考えることができるだろう。だからその意味では、この男に乳首がある、ということが新たに明らかにされたことも、いずれは重大な意味合いを持つかもしれないのだが、……それについては識者の新たな見地を待ちたい所である。