「平岡正明論」の再設定――大谷能生×後藤護×吉田雅史 鼎談


●「大谷能生」という批評家

後藤 大谷さんと平岡と似た部分があるとすると、それは「歴史」への関心になるんですかね。マルクス・レーニン主義は基本的に「歴史」を重視しますよね。

大谷 たしかに「個人」よりは「歴史」だね。

後藤 例えば映画だと蓮實重彦がスクリーンに映っているもの、つまり「表層」を批評する。音楽ならば、佐々木敦さんは「聴取」をキーワードにそこで鳴る音のみを記述することにこだわりを持っているはずです。そういった見方がある一方で、平岡の批評は表層を突き破って歴史の古層へと遡っていくダイナミズムのようなものがあります。だから大谷さんはその「歴史」への態度に共鳴したのではないか、と思っていました。

大谷 音楽にしろ映画にしろ、録られた音や撮られた映像というものをあつかうとき、現在ではもちろん、20世紀のメディア環境の前提をなくしては考えられないと思ってます。そのメディアに対してどう対峙するのか、ということを考えないとわれわれの「文化」に対する批評にはならない。僕はまず最初に、「レコードとは何か」という問題意識から、音楽批評を始めました。佐々木(敦)さんとは古い付き合いで、影響を受けてますし大好きですが、佐々木さんの音楽論に不満があるとすれば、それは大雑把に「聴くこと」と書いてしまうことかもしれません。ただ「聴くこと」じゃなくて、「レコードを聴くこと」、「レコードされたものを聴くこと」、「レコードされたものを音楽として/音として聴くこと」ということを考えたい。工業製品であり、複製品であるレコードはどういった独自の原理を持つか。ケージがレコードの存在を嫌がっていたのは有名な話ですが、レコード化された世界の中で響く音楽は、それを前提としない場所とは異なった力を持っている。ライヴとレコードでの音楽体験は、映画と演劇の体験と同じくらい異なっている。その問題を扱わないと、わたしたちの時代の「音楽批評」にならないのではないか、っていうのが、だいたい、90年代の音楽批評で僕が取り組んでいたことです。
 そういった原理論ばかりやってきたんで、あんまりその他の言説には詳しくないんですよ。「ロキノン的」とか。多分、いろいろな違いはあるけど、自分の知ってる「音楽」っていうものも、細かく見ていけば、20世紀の音楽の歴史には、様々な形で断層があって、地域差、階層差、譜面化されるかどうか、劇場なのか路上なのか、売り買いできる商品形態のありかたのことなり、アナログ/デジタルの変化、といった様々な条件が折り畳まれていると思うんです。

吉田 なるほど。そういう意味では現在はライヴとレコードの聴取経験の違いがさらに広がっているとも言えますよね。ストリーミング中心の楽曲受容の一方で、たとえばコーチェラやグラミー賞なんかでのパフォーマンスが非常に話題になっていて、両者を語ることはほとんど別物であるというくらい。

大谷 そういうメディア的な問題意識から批評を書き始めたので、まあ、90年代は平岡正明と距離があったわけです。まずやらなくてはいけないのは、今目の前で膨大に増え続けるレコードやCDといったものとどう向き合うか、ということだった。で、それをある程度やって、『貧しい音楽』(2007)にまとめました。その後、それで、メディア論として展開していた即興音楽への認識と、ブラックミュージックの大道とをもう一度接続し直すということを考え始めたわけです。即興演奏とレコード芸術はどう結び付くのかという問題意識の発展として、実践も含めて、ブラックミュージック批評に取り組んだという感じ。そのとき即興演奏とレコード芸術の組み合わせとしてHIPHOPがおもしろくて、HIPHOPについて書くとなったらそもそも「ブラックミュージックとは何ぞや?」という視座が必要になってくる。そう考えていくと、自然に「モダン・ジャズとは何か」とかも触れる必要が出てきますよね。
 そういう問題意識で音楽批評を書いていたので、そこから「平岡正明を書く」ことへの興味が出てくるのは10年くらいかかるんだよね。レコードとかの問題以前に、その背景にあるものへの興味――レコードとかCDがなくてもそれ以前からあるものへの興味というか。それは20世紀のメディアの問題以前に、19世紀からずっと繋がっているものがあるんだという感覚を徐々に捕まえ直して行った。自分の演奏の中でもそういう感覚を強く持てるようになってきた。
 話が長くなってしまったけど、そういう風に考えてきながらこれまで音楽批評を書いてきたので、あまり最初から全体を統合するような「歴史」観があったわけではないんですよね。ただそういう変遷のなかで、なぜ平岡正明に辿り着いたかというと、2010年代に入って、メディア環境のアップデートがすごい勢いで進んでいったでしょう。映画とか小説もデジタル化・ポータブル化・ストリーミング化している……でも音楽は20年以上も前に早くその変化にさらされていて、俺はそのメディアの問題について一通り考えて書いてきたつもりなんです。だから今、音楽のメディアの問題に対する関心は落ち着いてきていて、逆にパフォーミング・アーツやステージ上で起こること、言葉でのパフォーマンスといったものに興味が出てきた。そこから平岡正明への関心が出てきたんですよね。

吉田 そういう意味では平岡はジャズはジャズ喫茶で聴けということを言っていますね。個人の属性を捨てて名もなき存在としてレコードと向き合う。それを可能にするのがジャズ喫茶という場所だと。それは経験としての聴取体験を重視するということなんでしょうか。

大谷 平岡もレコードが無ければ書けない批評家ではあるとは思うんですよ。工業化された娯楽作品は、全員にきちんと分配できるという点でプロレタリアート的です。売買できる商品であるレコードに吹き込まれた一度きりしか生まれない演奏=ジャズってかなり矛盾したもので、だからこそこれだけのパワーを持つんだってことで。

吉田 平岡はライヴは見られなくてもレコードがあれば書けると言っていますもんね。ジャズ喫茶に行けさえすれば、あるいは貸しレコードで借りさえすれば誰でもその音楽とは向き合える。

大谷 そう。だから、それが資本が生み出した労働者階級=20世紀のわたしたちの基盤にあるんだという前提ですよね。社会主義とメディアの問題を扱っていたのがマルクス主義だったわけで、当然そこもカバーしなくてはいけない。

後藤 一つ気になったのは、「14. 西郷隆盛における永久革命」のところで、あの本を平岡のベストワークに挙げる人も多いんです。夢野久作やその父である杉山茂丸といった九州の豪傑たちから読み解かれる裏日本史で、かなり刺激的な本だと思うんですが、あの章がテーゼ列挙式になったのはなぜなんでしょうか。

大谷 あそこは俺の実力不足でもあるんだけど、やっぱり、個々の平岡論というよりも、暗に論じている対象なのは、それらを支えている論調の偏りというか、高度経済成長期からはじまっている「サブカル」を語る文脈そのものを対象にしたいわけです。正直言って、現行のほとんどのサブカルチャー論が俺にはピンとこない。基本的に自分が子どもの頃の文化を全肯定してしまうじゃないですか。でも60年代は(思想的)退潮期だったということを踏まえないといけない。

後藤 サブカル批評そのものの見直しというわけですね。

大谷 そうですね。だから平岡正明そのものにどこまで肉迫できるか、ということはこの本では、まあ、メインにはしてません。かなりコンパクトにまとめる方向で書きました。大変だったけど(笑)。これは『植草甚一の勉強』(2012)のときもそうでしたが。だから個々の平岡の文章のおもしろさについてはこれから書かれていけばいいと思っています。

吉田 最近、四方田さんが「1968」トリロジーを編集したり、絓秀実さんの『革命的な、あまりに革命的な』の増補版が文庫で出たりとか、偶然とはいえ60年代論を再考する機運があると思うんですね。大谷さんにも60年代を見直しておきたいという意図はあったんでしょうか。

大谷 まったくないですねー。これから勉強してみます。でも基本的に「68よりは58」といま直感的には思ってます。58年と78年ですかね。

後藤 78年はちなみに何があった年なんですか?

大谷 「全冷中」ですね。

吉田・後藤 「全冷中」か(笑)

大谷 あとは『ジョーズ』と『未知との遭遇』とか。『スター・ウォーズ』とか(笑)。俺「全冷中」大好きなんだよねー、ああいうアホなやつ。菊地成孔と大谷能生のコンビは「全冷中」の正統後継者だと思ってる。JAZZ DOMMUNISTERSは「全冷中」!

吉田 マジですか(笑)

大谷 いやいや、最初から言ってる(笑)。フォロワーもまったくいなかったのに、21世紀に突然、スーパーマンのアレ、隕石が落ちてきたくらいの感じで(笑)、現れたのが「全冷中」としてのJAZZ DOMMUNISTERS。俺はマジです。

後藤 となると、JAZZ DOMMUNISTERSもまたある種のパロディ的な試みだったわけですね。つまりHIPHOPのパロディだったということですか。

大谷 そう、パロディ的っていうかパロディですよ。だってラッパーでもないのに、どっから出てきたのお前ら? っていうことですよ。

後藤 ちょっと話は変わりますけど、菊地成孔さんは平岡正明からの影響はあったんでしょうか。というのも菊地さんの文体のスタイルは「平岡正明+浅田彰」みたいなところがあります。べらんめえ口調のポストモダン文体といいますか。

大谷 確かに菊地さんも推敲しないでそのまま書く、書いた後も一回も読み直さない人だからね。読むタイミングで書く人。ただそれは平岡を意識しているとかではなく、そういう風にしか書けないというだけだと思うけど。

吉田 平岡も本当に推敲とは無縁という書き方ですよね。同じことを三回くらい繰り返して書いていて何度も同じ話に戻ってくるから、「あれっ俺もしかしてページ間違えたかな」と思うことがしばしばあるくらいで。

後藤 平岡は一度出したテーマに何度も回帰しますからね。その間アドリブで書いてるんだろうなというのがビシビシ伝わってきて、そのライヴ感が好きですね。

吉田 ちなみに大谷さんの音楽家としての活動でいうと、「Jazz Alternative」に続く作品は予定されているんですか。

大谷 今年は「ブレイクビーツの拡張工事」的なライブをやろうかなと。あと色々、それこそ1978年の歌謡曲をサックスで吹くとか、ビバップの本丸であるチャーリー・パーカー曲集とか、韓国演歌とか、ストリングスのアレンジとか……。
 執筆では白木秀雄論とか平岡精二論をやりたいんだよね。あの時代の人たちについて書く媒体が全部なくなってしまったから、どうしようかなと。

後藤 でも、大谷さんがすごいのは今回の『平岡正明論』をどこで連載すると決まっているわけでなく準備して書き始めていることですよね。

大谷 いやいや、当たり前のことだよ。レコード会社と契約してからバンドやる人はいないでしょう。別に誰かにお願いされなくてもトラックは勝手に作るでしょ? それと批評書くのも同じだよ!

(了)

〈註〉
1 全日本冷やし中華愛好会:ジャズ・ピアニストである山下洋輔が発起人となり結成した「革命運動のパロディ」。平岡も参画していた。
2 山下洋輔:ジャズピアニスト。他分野への進出、コラボレーションにも積極的であり、筒井康隆やタモリとも深い関係がある。
3 『エスプレッソ』:音楽批評誌。1996年‐2002年。大谷氏が創刊し編集・執筆に携わる。
4 フェラ・クティ:ナイジェリア生まれのミュージシャン。アフロ・ビートの創始者。「Black President(黒い大統領)」の呼び名で知られ、黒人解放家としても活動。
5 吉田秀和:1913年生まれ。音楽評論家。日本の音楽評論家としては初の個人全集が刊行された。
6 サニー・マレイ:米国のジャズ演奏家。オーネット・コールマンやアルバート・アイラー、セシル・テイラー等とともにフリー・ジャズの礎を築く。64年にアイラー、ゲイリー・ピーコックとトリオを結成。その後もロフト・ジャズ・シーンの中心人物として活躍した。
7 間章:立教大学在学中に『ジャズ』誌に音楽批評を発表し、批評活動を開始。また一方で、阿部薫、近藤等則らミュージシャンをプロデュースするなど多岐に亘って活動する。1978年12月12日脳出血で亡くなる。享年32歳。
8 フランソワ・ラブレー:フランス・ルネサンス期の作家。「ガルガンチュワとパンタグリュエル」はフランスルネサンス文学最大の傑作とされる。
9 グリール・マーカス:アメリカの音楽評論家。『ローリング・ストーン』誌などで批評を執筆。著書に『ミステリー・トレイン』など。
10 フランシス・イェイツ:英国の思想史家。おもにルネサンス期の精神史研究を行う。
11 林達夫:1896年生まれ。思想家。著書に『思想の運命』など。
12 三波春夫:昭和を代表する浪曲師、演歌歌手。紫綬褒章も受章している。
13 浪曲:明治時代初期から始まった芸能で、「浪花節」(なにわぶし)とも言う。三下りの三味線を用いて物語を、節と啖呵(台詞)で演じる語り芸。

〈プロフィール〉
大谷能生(おおたに・よしお)
1972年生まれ。音楽(サックス・エレクトロニクス・作編曲・トラックメイキング)/批評(ジャズ史・20世紀音楽史・音楽理論)。96年~02年まで音楽批評誌「Espresso」を編集・執筆。菊地成孔との共著『憂鬱と官能を教えた学校』や、単著『貧しい音楽』『散文世界の散漫な散策 二〇世紀の批評を読む』『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』など著作多数。音楽家としてはsim、mas、JazzDommunisters、呑むズ、蓮沼執太フィルなど多くのグループやセッションに参加。ソロ・アルバム『「河岸忘日抄」より』、『舞台のための音楽2』をHEADZから、『Jazz Abstractions』をBlackSmokerからリリース。映画『乱暴と待機』の音楽および「相対性理論と大谷能生」名義で主題歌を担当。チェルフィッチュ、東京デスロック、中野茂樹+フランケンズ、岩渕貞太、鈴木ユキオ、大橋可也&ダンサーズ、室伏鴻、イデビアン・クルーなど、これまで50本以上の舞台作品に参加している。また、吉田アミとの「吉田アミ、か、大谷能生」では、朗読/音楽/文学の越境実験を継続的に展開中。山縣太一作・演出・振付作品『海底で履く靴には紐がない』(2015)、『ドッグマンノーライフ』(2016/第61回岸田戯曲賞最終選考候補)では主演をつとめる。『ホールドミーおよしお』(2017/CoRich舞台芸術まつり!2017春演技賞受賞)。

後藤護(ごとう・まもる)
1988年生まれ。映画・音楽ライター、翻訳家。J・G・フレイザー『金枝篇』(国書刊行会)の訳文校正を担当中。主な論考に「「スペクタクル」としての畸形――及びセックス・ピストルズの闘争/逃走術」(『見世物』第6号、新宿書房)、「レアグルーヴ、平岡正明――「ジャズ的」から「ヒップホップ的」へ」(『ヱクリヲ7』、特集「音楽批評のオルタナティヴ」所収)、「楕円幻想としての『ラ・ラ・ランド』」、「『ラ・ラ・ランド』と青の神話学――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像」(ともに『ヱクリヲWEB』掲載)などがある。翻訳論考にトニー・レインズ「虚無との接触」(『アピチャッポン・ウィーラセタクン』フィルムアート社)がある。音楽サイトRe:minderにてコラム連載中。

吉田雅史(よしだ・まさし)
1975年生まれ。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ユリイカ』『ele-king』『クライテリア』『ヱクリヲ』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著)。訳書に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKSより2018年8月刊行予定)。ビートメイカーとしては、Meiso『轆轤』(2017)プロデュース。

〈新刊情報〉
『平岡正明論』
大谷能生著
単行本: 296ページ
出版社: Pヴァイン
発売日: 2018/5/30

(内容紹介)
よみがえる、戦後最大スケールの思考
ジャズ、政治思想、第三世界革命、犯罪、水滸伝、中国人俘虜問題、歌謡曲、映画、極真空手、河内音頭、大道芸、浪曲、新内、落語……と数多くのテーマに空前絶後のスケールで取り組んだ批評家・平岡正明。
本書では、その生涯と著作をたどる「本章三十六段」、120冊以上にのぼる全著作から厳選した「著作案内三十六冊」、すぐに使えるパンチラインを集めた「マチャアキズム・テーゼ三十六発」という108項目から、平岡の思想を紐解きます。
長く続くポスト・モダンの時代にあって、常に世界規模・100年規模のスケールで「民衆の力」という「大きな物語」に全身で取り組んできた、その大思想の全貌がいまよみがえる!