ふと、ある時にある曲を思い出してしまう瞬間がある。その瞬間は、歌詞やメロディと情景のリンクから引き起こるものであったり、はたまた全く関係ないながらも急に想起されるものでもあるかもしれない。だが、思い出したその曲を「懐かしいな」などの感想で流してしまうのは、やや勿体無い気がする。そこで、つい先日起こったその偶然の出逢いについて、ここに書き留めておこうと思う。2010年に発売された、THE BACK HORNの楽曲「閉ざされた世界」と、私たちが見る「世界」についてである。
この曲のミュージックビデオ(MV)では、ゆっくりと落ちていくブラウン管テレビのシーンが何度も挿入される。テレビの中では歌詞とともに〈炎〉が映され、やたらとドラマチックな歌詞と相まって視線をそこに誘導する。テレビの中は、この曲やその前に発売された「罠」が主題歌になったアニメ『機動戦士ガンダムOO』のような(この曲の外の)虚構の世界を表しているとも考えられる。特に2番のサビではテレビの中で、メンバーがそれぞれパートを変え、あたかも今流れている音を本来弾いていないメンバーが奏でているように見える演出がされている。そこでは、いっそう事実ではないことを事実らしくつくり上げている様―虚構―を見て取れるだろう。すると、テレビの外はその対極にあるもの、つまり事実の世界ということになる。
THE BACK HORNは当初、演奏する身体としてテレビの外に、後半になると私たちが鑑賞する対象としてテレビの中にいることが増えていく。よって、美しさと激情の対比を同居させながら展開する言葉と音色、そして映像に引き込まれていくほど、私たちの視線はテレビの中に注目することが増えていくのだ。
そこには、「私たちは、普段生きている世界―事実―よりも、テレビの中の世界―虚構―の方をより凝視しているのではないか」という問題意識がある。
6月12日放送の「ニッポン戦後サブカルチャー史」で、「90年代に村井秀夫刺殺事件が起こった時、『虚構は現実(この文章内で言う「事実」)に負けた』という言説ができた」という。つまり、虚構よりもドラマチックな出来事が、事実として、リアルタイムで起こり、それをお茶の間がテレビを通して目撃したということだ。この話を聞いて、上記の問題意識とこの曲が私に降ってきて、出逢ったのである。
現在は、おそらく電車内でTwitterを開いて周囲の人やものを見ない、歩いていても音楽を聴きながらなんとなく目的地まで歩いているというライフスタイルを送る人が増えたのではないかと思う。マルチメディアデバイスが発達し、私たちの意識も散漫―マルチメディア―している。そのような生き方で、本当に〈世界を見つめ〉られているのだろうか。むしろ、ドラマを見る時、ゲームをする時、漫画を読む時などにはその作品に集中して、街を歩く時よりも細かくその世界の状況を見つめているのではないだろうか。
私たちは『機動戦士ガンダムOO』のようなフィクションの作品を見て苦しくなったり感動したりする。OOの世界は、事実として世界各地で起きている紛争などの出来事を経た、(放送当時から)300年後の世界とされている。しかし、その現在進行形で起きている紛争については、のめり込むこともその域まで心が動かされる訳でもなく、あまりきちんと見ていないのではないか。これはむしろ、「虚構は現実に勝った」とも言えてしまうだろう。
しかしそれは「人が『虚構の世界の方がいい』とジャッジした」のでは決してない。考えてみれば当然のことで、凝視させるメカニズムをそもそもメディアが持っているからだ。事実はある意味「在るだけで意味がある」が、しかし虚構は「見てもらわなければ意味がない」――たくさんの人に見てもらえれば利益が上がるという競争原理の元に成立しているものだ。見られるために作り出され、人の気を引くための工夫は大いに成されている。
曲のタイトルになっている「閉ざされた世界」という言葉は〈真実はここにはないから〉〈絶望に満ちた〉〈羽ばたき続ける微かな光へと〉という節と繋がり、ドラマチックで人を惹き付ける、つまりそこはテレビの中の虚構世界である(ブラウン管テレビの中はたしかに物理的に「閉ざされて」いる)。一方で、それらと対比される事実世界は、〈真実がある〉〈心〉のある場所、〈心〉を持つ自分が在る場所、最後の一節の〈最後まで世界を見つめ続けていく〉の「世界」のことではないかと読み解ける。なぜなら、〈宇宙(そら)へ〉〈ラストシーン〉〈翼〉〈鐘〉〈堕天使〉〈賛美歌〉と、必要以上に飾られたモチーフが並ぶ中、最後の一節だけ、〈もう一度信じるだけの勇気を持って〉〈もう一度疑うだけの知性を持って〉〈最後まで世界を見つめ続けていく〉とまっすぐな言葉で、聞いていると「こちら側」に向かってくる感覚がするのだ。
特に、ボーカルの山田将司が「続けていく」といった終止形の動詞を歌う時には、しばしば「続けていけ」と聞こえるように発音することも印象的である。(サビでも〈運命を切り開け〉というフレーズはあるが、語彙の決まり文句らしさから、どこかこれはテレビの中に向けた言葉のように思われる。)
それだけでなくこのMVでは、テレビの外の世界にもドラマチックな演出がされている。ゆっくりと落ちていくブラウン管テレビを後景に、天使を思わせる白い羽根が舞い散り、私たちの注意をTVの中からちらちらと逸らすのだ。特に最後のサビからは、テレビはなくなり、テレビの外の世界のTHE BACK HORNに白い羽根が降り注ぐ。この羽根は、テレビの外の世界、つまり事実世界にも存在する虚構性、つまり凝視するできごとを表しているのではないか。つまり最後の〈世界を見つめ続けていく〉の「世界」は、私たちの生きるこの世界と重なり、そこではまごう事なき「事実」と「虚構」の両方が介在して謂わば「現実」を構成しているのだ。
そして、「これがMVである」ということを忘れてはいけない。つまり、私たちもテレビやパソコンといったデバイスを使って、液晶からこの虚構世界を覗き込んでいるのだ。
液晶の中{ テレビの中(炎が揺らめく)/テレビの外(羽根が舞う) } / 液晶の外(私たち)
私たちから見ると、単なる液晶の中の世界(テレビの外)も虚構で、その奥にさらに虚構がある。では液晶の外はまごうことなき事実だろうか。白い羽根が舞うあの液晶の中のように、虚構が重なってくることはないのだろうか。もちろん、ある。テレビの中/外の対比はそのまま、液晶の中/外にも持ち込める。
村井秀夫刺殺事件は「虚構である」と思っていたテレビの中に「村井が刺殺された」という事実が入り込んでいた様を、反転させると「村井が死んだ」という事実にテレビを通して見た「目の前で刺された」という虚構が重なって受け取られた、現実なのだ。それはむしろ虚構の力の増大を示した事件だったのではないか。
私たちが過去を見る上で、「今」から当時を見てどう捉えられるかが重要である。90年代当時の言説を使い回すようでは、当時も今も、果てには未来も、なにも語れやしないのではないか。私たちが〈見つめ続け〉るべく世界は、もはやテレビや回想でしか触れられない虚構が重なった、概念としては曖昧であるが存在する「今、ここ」という現実――つまり、過去だけでも今だけでもない、両者の偶然の出逢いなのである。