山戸結希自ら企画・プロデュースを務めた『21世紀の女の子』(2018年)に続き、長編としては第5作目となる『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019年)が公開された。大学在学中に発表された初監督作品『あの娘が海辺で踊ってる』(2012年)以来、一貫して山戸結希は「女の子」の物語を撮り続けている。本作『ホットギミック ガールミーツボーイ』では、堀未央奈が演じる主人公の初(はつみ)と、複数の「男の子」の関係性が描かれる。これまでの監督作品からのテーマの変遷、撮影における方法論、その特異な台詞構成などを伺った監督へのインタビューをお送りする。
(取材・構成:伊藤元晴、山下研、若林良)
『ホットギミック ガールミーツボーイ』が描くもの
――成田初(はつみ)役を演じた堀未央奈さんのキャスティングは、山戸監督たっての希望と伺いました。堀さんをキャスティングした理由を教えて頂けないでしょうか。
山戸結希 2016年2月に乃木坂46のMV(『ハルジオンが咲く頃』)を監督したときが始まりでした。そのときほとんどお話する時間はなかったのですが、大人数のなかで立っている堀さんが、たった一人で佇んでいるように視え、存在が心に残りました。
そのうらはらな在り方が灼き付くような。そうして今回、最初に心に浮かんだのが堀さんでした。
――デビュー作の『あの娘が海辺で踊ってる』(2012年)から『おとぎ話みたい』(2014年)、『溺れるナイフ』(2016年)と、山戸さんは理想的な他者を巡る初恋の物語を多く撮ってきたように思います。一方で、今回の『ホットギミック ガールミーツボーイ』は、初の「私の初恋は終わってしまったんだね」というセリフが印象的です。今回、描いたテーマ自体にこれまでと変化はありますか。
山戸 『溺れるナイフ』にせよ『ホットギミック ガールミーツボーイ』にせよ、ひとつのすでに先行して存在するジャンルの映画――ロマンチック・ラブを撮るんだという意識は当然ありましたね。しかしそれと相反して、性愛のモチーフだけで120分を使い果たして良いのか、という回路も同じく見えていました。ティーンムービーを撮るとき、必ず性愛だけではなくてもうひとつモチーフが必要になりますし、それゆえに作家的土壌にもなり得ると思っています。
例えば『溺れるナイフ』では、自己実現の問題が性愛と混在して肥大化していた状態から、性愛と自己実現にこそ引き裂かれてゆき、どちらかをより強固な形で選ばざるを得なかった物語と言えるかもしれません。
『ホットギミック ガールミーツボーイ』においては、自己実現的な側面が、映画の前半には顕在化してこないので、テーマ性が一見後退しているようにも見えるかもしれませんが、性愛と自己実現という二つの円のベン図があるとしたら、それを今すぐに破いて独立した問題としてのみ照射させるのではなく、その混ざり合う影の癒着部分に切り込むことこそが、現在に既与のものとしてある社会と、自分自身が映画を撮るという未知の行為とのひとつの関わり方なのだろうと考えています。
その(性愛と自己実現が交わる)癒着部分に切り込むことを重要視するというのは、つまり、性愛の引力によって主導権を引き渡し――それと引き換えに主体性を剥奪される道ではなく、性愛への希求自体を契機として自分自身の欲望が輪郭を持ち、それによって自らの意志の存在証明も訴求され、選択を迫られた際に、より重層性を持った自己存在の未来、そして再構築されるべき自己実現の問題へと接続し得る道。それが、今生きている十代の女の子に対して、最も誠実なアプローチなのかなと想像しています。
こうしたテーマの変遷に関しては、自己発展というより、社会と自作との距離を緊密な緊張関係に置きたい、その循環の現れ自体を、映画にまつわる最終事象かつ初期設定として捉え直してゆきたい、という志向から生成して来ているのだと思います。
――『ホットギミック ガールミーツボーイ』では亮輝(清水尋也)の変化が物語の一つの軸になっていると思いました。山戸さんはこれまで少女にフォーカスをあて、その変化を描く作品を撮ってきたように感じますが、本作は「男の子」についての物語でもあるのでしょうか。もしそうだとしたら、亮輝に仮託されたものは何だったんでしょうか。
山戸 内面的な自覚としては、登場人物たちが、主人公との関係性によってその姿の見え方が立ち上がることを大切にしたいという意識があり、性別による書き込みというよりは、距離による映し方の問題が大きくあったのだと思います。
外面的には、ラブコメ的な部分が過去作の中でも、最も強化された原作・話型を採用しているため、鏡像関係としての男の子がより近接的に現れざるを得なかったのかもなと思います。
――クライマックスにいたるまで堀さん演じる初と複数の男の子との関係が描かれます。「今はあなたといたい」「ずっとバカでいたいね」など、今後の変化を思わせるセリフが印象的ですが、女の子が自己実現をし、主体性を持つ性愛/恋愛のあるべき形を山戸さんはどう考えていますか。
山戸 十代のロマンチック・ラブの物語に対抗する形で、亀裂し、引き裂かれ、離ればなれになってゆく二人というものがより重要なモチーフとしてあり、「運命の恋」という幻想の前に、たくさんのものを見失ってしまうことを回避する道を探し当てたいと考えています。
物語が、若年層に手を差し伸べることができたら、女の子にとってもですが、ジェンダーロールによる抑圧をお互いに和らげ、その荷物を持ち合うような関係の提案も出来るはずだと認識しています。
――「今はお母さんになれなくてごめんね」という言葉が終盤にあり、非常に印象に残りました。今までの山戸さんの映画の中では、(「お母さん」という言葉は)あまり出てこなかった印象があります。デビュー作の『あの娘が海辺で踊ってる』(2012年)でも親が描かれません。『おとぎ話みたい』『5つ数えれば君の夢』も同じ傾向があるように思います。山戸さんのなかで変化があったんでしょうか。
山戸 『あの娘が海辺で踊ってる』を撮り終わった際に、事後的に、「女性におけるエディプス・コンプレックス」を試みたのだな、と自己批評の補助線を引きました。(「エレクトラ・コンプレックス」とは異なって)「女性におけるエディプス・コンプレックス」なるものは学問上存在しませんが、“女の子による父殺し”という概念ですね。作品における、実在の「母」の表象に焦点を絞った時、外面的な現れの変遷は見られるかもしれませんが、抽象的、神話的なレイヤーにおいてはこれまでも潜在してきたものなのかなと解釈しています。
――『ホットギミック ガールミーツボーイ』は見方を変えると、男の子が好きな女の子と望んだ関係になれない物語でもあると思います。「女性におけるエディプス・コンプレックス」と聞いたときに、女の子が自分の憧れの人にひどいことをされてしまうという書き換えが起きているのかなとも思いました。
山戸 自身にとっての親和性が高く鏡像関係にある他者からの裏切りという意味においては、母からの裏切り、「捨て子」というイメージの上で語られるのかもしれません。「捨て子」として、母の絶対性に対して、親子の繋がりさえも相対化されるということは、子にとっての母の存在性がより広義に解釈され、血縁を基盤としなかったり、擬似家族としての代替可能性を受容したりせざるを得ないですよね。絶対的に思われていた自己の身体と分かち難い他者との鏡像関係が壊され、癒着の「へその緒」が千切れるということが、今作ではポジティブなものとして向かっているのかもしれないですね。然してそれは、「運命の人」すらも相対化され得るのだと言う明るさとして。
――このポジティブな変化は、ある種の親離れや成熟の問題と読み替えることもできますでしょうか。
山戸 他者性の受容という意味では、その通りだと思います。
今回のインタビューの冒頭で、「理想的な他者を巡る初恋の物語を撮っている」と評していただけたのですが、まず「理想的な他者」というフレーズ自体が語義矛盾してあるために、その幻想は離別という形で打ち砕かれるか、あるいは他者がその由来からしても不都合な他者として立ち現れ、到底直視できない、と同時に目を離すことも許されない鏡の歪みを受け入れてゆくか、そうした二つの道に物語が引き裂かれてゆくことになるでしょう。
初期作品では、女性の二者間における悲劇の物語として描かれ始めた寓話が、近作では依拠する宛先が女性から男性に展開したことによって――それはもはやエディプス・コンプレックスの話型に該当するのか?――、その神話におけるセクシャリティは既に裏切られています。しかし今作において梓(板垣瑞生)は、まなざされ客体化される生業を持ち、古来からの性役割に対する転換を引き受けてもいます。そのジェンダーロールの転換が、根源的な愛の物語に重ねられたセクシャリティの転倒と、パラレルに並行して行われることで新しい物語が形成されていると仮定したならば、未だ自分の作品群には、エディプス・コンプレックスによる補助線が二重に書き重ねられながら対応している、そんな解釈も残されているのかもしれませんね。
(次ページ “もしも「豊洲神話」を撮れたなら” へ続く)
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