画家・橋本大輔インタビュー:『ヱクリヲ vol.9』「写真のメタモルフォーゼ」特集番外編


 写真はその創生期に先行する表現様式であった絵画を模倣した。だが、ひとたび写真という存在が広く流通し始めると、写真を基とした絵画もまた出現するようになる。自撮りアプリには絵画(平面)的加工が施され、アニメーションのなかには写真を取り込んだ背景が現れる。
 画家の橋本大輔は、自ら撮影したデジタル写真を基として――時にそのイメージを指で触れながら――写真と絵画、あるいは瞬間と永遠の境界を攪乱するイメージを制作する。『ヱクリヲ vol.9』掲載論考「無数の「窓」 写真と絵画、あるいはその界面に」で取り上げられた、この特異な画家の制作手法に迫った。『ヱクリヲ vol.9』「写真のメタモルフォーゼ」特集番外編として、画家・橋本大輔インタビューをお送りする。(取材・構成:山下研)

ハイパーリアリズム以降の「リアリズム」

――僕が橋本さんの作品を初めて観たのは、東京都美術館での企画展示「現代の写実――映像を超えて」(2017年11月~2018年1月)だったんです。そこには写真を基とした、あるいは写真を思わせるような「リアル」な絵画が多く並んでいました。橋本さんとその他の画家の違いを伺う前に、まず制作手法を教えてください。ご自身で撮影された写真を基にしているんですか?

橋本大輔(以下、橋本) 自分のデジタルの一眼レフカメラで撮った写真を、28 インチのモニターに表示しながら描いていっています。一枚の絵を描くときにも、写真は複数枚撮るようにしています。

――それは空間の構造を知るために何枚か撮っているんですか。

橋本 空間そのものを把握するのと、あとは「忘れないように」するためですね。

――「現代の写実」展だと、他の方の作品はモノとか人を対象にして、わりと近い距離感で描いているものが多かったと思います。一方で橋本さんは、誰もいない廃墟というがらんとした空間に差し込む「光」や「空気」そのものが作品の中心にあるような気がします。他の写実的な画家や、たとえばホキ美術館(千葉市。写実絵画作品を中心に展示)に収蔵されている作品と、ご自身の違いは感じますか。

橋本 画家として差異化したい思いはもちろんあります。僕は具体的な対象を描いていても、それをどこか抽象的なもののように捉えて描いていると思います。抽象的な記号の配列、記憶やイメージを具体的なものに紐づけて忘れないようにしている……あとは僕にはハイブリッドな部分があると思っています。日本のリアリズム絵画がどこから来ているかというと、源流は複数あります。一つはスペイン、あるいはアメリカのハイパーリアリズム。それにアカデミー系の古典技法もあれば、写真などもあります。
 
 僕はそれらをまんべんなく取り入れようとしているところがあります。ホキ美術館に収蔵されている方だと、たとえばレンブラント等の模写であったり古典技術に則っているものが多い印象です。それに加えて、触覚性の重視による現象学的な写真批判を共有しているところがあり、そうした潮流の画家の人たちはハイパーリアリズムを好ましく思っていません。

 触覚性の重視というのは、言い換えると、単眼の一面的な見え方や記号的シミュラークルではなく、事物の存在、その裏側を認め、それらとの関係のうちにある質感や主体の知覚・認識を重要視するということです。「事物そのものへ」というスローガンに基づいたリアリズムといってよいでしょう。その際に、自然科学的、素朴実在論的な認識で事物を推し量るのではなく、「目に見えるもの」や「感じられるもの」という主観に基づいたリアルさを追求する点で現象学的なのです。写実絵画の周辺で用いられる「存在」という概念は、おおむねそのような現象学的視座に基づいていることが多いように思われます。触覚性の重視による現象学的な写真批判とは、端的にいって写真は一面的で表面的なものにすぎないとするものです。

――ホキ美術館のサイトには、展示している作品は「物の存在感を描きだす写実絵画」で、「近年、米国を中心に起こった写真を利用して克明に描くスーパーリアリズムとも一線を画す」ものという説明もありますね。

橋本 だけど、写真的なパラダイムを引き受けたうえで、そこから距離を取ろうとする不思議なバランスがホキ美術館の絵も成立させていると思うんですね。このように皆が「写実絵画」を見た時に「写真みたいだね」という感想を漏らすのが一般化していると、「写真みたいだけど写真ではないんだぞ」という部分にユートピアを求めたくなるものです。再現的な描写がつねに写真との対峙に迫られるということを踏まえたうえで絵画的な意味を求めようとすることが、古典回帰だったり、絵画的に写真の視覚を乗り越えようというような試みもにつながっているのです。この限りでは僕を含めた絵画制作者は写真的視覚を共有している以上、多かれ少なかれ同じような土俵で制作しているわけです。

 僕が試みていることはあえて写真の世界に積極的に入ってそこから絵画を眺めてみたらどうなるかということです。僕はハイパーリアリズム、言い換えればポストモダン以後に改めてリアルとは何か、ということを自身の制作を通して探究するという部分に主眼を置いています。これは、いわゆる「写実」にも、既存の「リアリズム」にもなじめない僕の疎外感の表現でもあります。

――橋本さんは抽象的なものを描こうとしていると言うけれど、そのために写真をベースにしているのはとても不思議な気がします。なぜ一度、写真にしたイメージを経由する必要があるんですか。

橋本 僕の制作動機として「目に見えるものはなぜ〈見える〉のか」という基礎的な関心があるんです。それを自分を通して知るメディアが絵画なんです。たとえば、見るということを科学的に説明しようとすると、水晶体があって、網膜があってと生理学的な説明は一応はできます。その目のシステムを外部化したものが、カメラ≒写真だと考えることもできると思うんですね。僕の制作はそのような目の構造の理解という点から出発しました。

 今日的な日本の写実絵画の源流とされる明治期の高橋由一らにおける写真受容においても、再現的「リアルさ」において写真への驚嘆と写実への欲求は地続きであったように思われます。いわば、「見えること」を光学的・工学的に解明しようという志向とでもいいましょうか。再現的描写は今日においては素朴で最も非前衛的なものの一つと見なされていますが、日本の油画受容として工学的な現実への接近方法という側面があったことを見直すこともまた必要だと思っています。そして、西洋における油彩もまた、現実への接近を何らかの仕方で志向したがゆえに生じたメディアだったといえます。それは今日における写真、映像への欲求と水面下では共有するものをもっているものでしょう。

 そして、油彩と共に線遠近法もまた現実への接近方法として発明され、象徴形式として以後定着していきましたが、多くの論者によって指摘されているように線遠近法はカメラオブスキュラとの関係抜きに語れない部分があります。そのように考えた時、油彩―写実―写真というものは一つのパースペクティブを成していることに思い至るわけです。僕は油彩をやるにあたってそのようなメディアの成立に思いをはせ、そこを自分なりにたどりなおそうということを考えました。そのため、自分にとって写真と油絵はそもそも近しいものなのです。今日油画科で油画を描かないということは普通の事態でもありますが、油画と写真―写実の関係性を一度通過してのち絵画を考えようというのが自身の制作の始まりでした。

 もっとも、ものを見るということは写真的モデルによって説明できるものではありません。僕は直接的に写真を使いますが、絵画に限らず視覚表現をやる人はカメラオブスキュラモデルのような認識論的アナロジーとの不和をそれぞれの仕方で表明しているのだということもできるかもしれません。これは、写真以後の絵画が試行錯誤してきた美術史的な事実からも見て取ることができるでしょう。

 僕は生まれた時から写真や映像に親しんできましたし、社会的な共有物としての写真が浸透した社会に生きてきました。今日絵画を制作するにしても、写真は必ず意識下にも無意識下にも影響を与えてくるものです。それは、イメージに写真が不可避的に食い込んで混ざり合っているような事態を生んでいると思っています。いわば、写真は超越論的なものとして存在するに至っているわけです。そして、経験的なイメージは次々と写真に収められていくわけですよね。まるで旅行先で熱心にシャッターを切るように、あるいは他愛もない写真が日々膨大に生産され続けていくように、写真は事後的に経験の総体をイメージ化していきます。そのような環境にあって、今自分が見ているのは何なのか、という問いもまたアクチュアルなものとして立ち現れてくるのです。

 観光地に行ったときに映像で既に見知っていたときの感覚と、それにとどまらない事実性は両義的でありえます。写真を見ながら絵を描くことは、写真を見ていることと、何か他のものを見ているということが同時に起こっていることが普通なのであり、写真は写真以前にあってかつ事後的に、再帰的に写真である。このことは、写真と共にある我々もまた写真と共に生きているということを表しているのです。僕にとって写真を経由するというのは、今現在の自分なりの世界との関わり方です。それは、あいだに何かを介在させなければ世界と関われないという弱さも表しています。それは、僕自身の問題でもありますが、同時に写真という「言語」を共有している我々の問題としての、「世界の見え方」を探ることでもあると思うのです。

橋本大輔の実践

橋本大輔《標》2015, F130, 油彩パネル

――実際に橋本さんの作品を観ながら話を聞いていってもいいですか。たとえば《標》ですが、これは明るい部分にフォーカスが当たっているかのように見えます。

橋本 フォーカスは作品によって変えていますね。この作品は線遠近法と写真的イメージの混淆をかなり意図して描いています。上に描いてある鉄骨のトラス構造は、写真を見つつも、線遠近法のように消失点に向かって伸びる平行線のようにあえて描き直しているんです。写真ならレンズの構造上、イメージの端は必ず歪んでしまうんですが、この絵はそこを修正をしているので、写真みたいだけど写真じゃないイメージです。線遠近法はとても理念的・超越論的なもので、それを瞬間的な写真のイメージにどれだけ適用できるか、という挑戦です。

 線遠近法は人間が二つの目を持っていることとか、目が動いたり、眼球が球面ということを非人間的に捨象したものですよね。でも、それによって人は空間を(構造的に)「見る」ことができたというアンビバレントがある。これは人為的な捨象によって、非人間的なイメージを作るというねじれだと思います。この絵のモチーフが廃墟なのは、誰もいない空間にいかにも理念的な構造を持った建物を描きたかったからなんです。

 同時に、この作品では遠近法的な「前から後ろ」へと続く絵画空間に、絵具の層としての「前から後ろ」へと続く積層構造を対応させ、キアロスクーロからなる平面的な画面構成と、空間的な視線誘導や全体の調和というものを意識した作品です。絵画空間には基本的に三つの空間が導入可能であると僕は考えています。第一に遠近法的な空間、第二に色空間、第三に物質としての空間です。遠近法的な空間というのは、線遠近法に加えて、きめの勾配などにみられるような要素の漸進的な変化のことです。色空間というのは色相、明度、彩度からなるものですね。加えて物質としての空間というのは、事物としての絵画が一定の量として空間内に存在する事実のことです。基本的に絵画というのはこれら空間的な情報をコンポジションすることからなる一連の行為の痕跡です。そこで、制作者は一定の時間に沿ってこうした空間的情報を配置していくことで何らかの「色価」をそこにつくり出していくのですが、これは瞬間の行為としては成立しないものです。

 絵画は空間的情報を時間的に扱う行為です。それゆえ、絵画の基本的な存在様態は積層構造なのです。油彩の基本技法におけるグレージングやインパストといった技法もまた、物質としての絵具の積層構造とその他の空間や時間との関係性を創出することにほかなりません。そして、そのような無数のやり取りの痕跡としてしか絵画のイメージは立ち現れてきません。それが写真的イメージであったとしてもそうです。無数の時間・空間を集合しながら瞬間に至るという矛盾をつねにさらしているのが絵画なのです。この作品では、瞬間と記憶、前と後、光と空間、等々といった様々な両義的な要素をまとめ上げるということもまたテーマでした。そして、絵画は今までもそのような二項対立や弁証法をそれぞれの仕方で探求してきたように思います。

橋本大輔《観測所》2017, P300, 油彩パネル  東京藝術大学大学美術館蔵

――《観測所》は画面の隅々まで克明に描かれていて、パン・フォーカスの写真を思わせるところがあります。

橋本 この作品でやりたかったのは「アナログ深度合成」なんです。デジカメの深度合成(ピントを変えて複数枚の撮影を行い、自動的に合成することすべてにピントが合った写真を生成する)を、自分でやってしまうという(笑)。それを絵画でやると、ちょっとシュールレアリスティックなものになるんです。

 描いてみたら距離を無化するような効果も生まれていると思いました。ちょっと万華鏡のような。実際の写真だと、モノの厚みとかが感じられて奥行があるんですが、そこにさらに写真的な効果を加えたらより「写真」っぽいものになったといいますか。これもトラス構造を線遠近法的効果と同調するように描き直していますね。

 イメージの克明さがもつ力という部分もひとつのテーマでした。これも写真的な要素の一つかもしれませんが、絵画に描くということでそうした部分はより強調されるものです。僕はトラス構造が好きです。それを執拗に追っていくことが、建物の合理的な力学をトレースするような気分にもなりますし、しっかり描くと重力を感じられるからです。また、その要素の集合体としての面白さもあります。廃墟はそもそもそのようなよくわからないけど面白い何かであふれているものです。画面に描きこんだその何かは、よいと思っていたり、何かの痕跡を感じさせるのですが、結局それが何かはわからないというところが魅力的で、いかにもプンクトゥム的に面白いのです。それらを一つ一つ丹念に描くという行為自体に意味を見出して制作することが、この作品の全体を統一しています。

橋本大輔《FAC3016》2014

橋本 カメラの効果を模倣するという点で言うと、この作品でやりたかったことの一つは「アナログHDR」なんです。ハイダイナミックレンジ(HDR:通常の写真では表現のできない広い色調を実現する合成技術)的な効果を狙って、奥の方は本来めちゃくちゃ暗いんですけど、そこもしっかり見えるように描き直しています。だから、奥の光は自分の感覚ですね。

 こういう「リアリズム」絵画を描いていると、描かれた対象について「これは本当にあるものなんですか?」とよく聞かれます。でも、僕はこれは「ここにしかない」イメージだと思っています。対象となった場所はもちろん実在するんですけど、このイメージは描かれる前には存在せず、描きながらつねに写真や記憶とに立ち返りながら、あるいは多様に見られることを通して生まれてくる。それはつねに事後的だし、再帰的なイメージなんです。

 この作品は自分の制作の基礎になっているものと思っています。先述した遠近法と写真の混淆や、光と空間の問題、絵画的空間の扱い、全体の事物への配慮、等の問題を明確に意識して描いたのはこの絵画が最初です。そのとき、HDRやパースの問題、細部の曖昧さや人間の眼とカメラの眼との差異などの問題にも思い至りました。アナログHDRとは言いましたが、人間の眼は大変優れた露出補正ができるので、HDRなんてしなくていいのですよね。そんな当たり前のことに気づいたのも新鮮でした。

 絵画で描くことの意味ということを考えてみたのも、この作品を描いているときくらいからだったと思います。ここまで「再帰的」という概念を重視していることを示してきましたが、絵画に関わらず芸術の存在として重要なのは意味がない存在を世界に「投機」することだと考えています。そして、そののちに意味はそこに事後的に生成する。このあり方がいわゆる芸術の自律性として言われてきたものです。そのような観点でいうならば、絵画の意味は絵画の中にしかない。このような自己言及性は実体を定義することの困難として、自家撞着の袋小路を生むことでしょう。
 しかし、実際に制作していくことのうちにあっては、意味がない状態に耐えるといいますか、意味がないことを認めることが必要なのだと思っています。作品からあふれ出る共示的な意味や無意味をいかに生成できるかということが重要だと思っています。