絵画というハイブリッド――梅沢和木について


新たな問い:絵画というハイブリッド

 ごく単純化して結論だけ取り出せば、梅沢の絵画空間における発明は、星雲状の塊の連なりをその基底的な要素にすることによって、絵画平面を回遊的で空間的な形式=形態で展開したところにある。そしてそれは、ポストデジタル写真的な状況——細部の埋却と主題の強調——によって条件付けられている。星雲状の塊が十分な視覚的強度を伴って構成されるためには、視覚的効果の弱い細部が除去され、固有名性の高い部分のみが取り出される必要があるからである。しかしここで、私たちはひとつの新た問いに直面する。それは、細部の埋却と主題の強調という半ば自動化された処理の持つ政治性は、梅沢の作品においてどのように理解されうるのか、という問いである。つまり、梅沢の画面を構成する原理としての画像の純化—馴化は、キャラクター表象やネットミーム、彼自身が友人間と取り交わしたような画像の利用という点では、その情動的なメカニズムを捉え、有効に機能している一方で、震災のような現実の問題を扱う上では、その細部を埋却し、ステレオタイプなメッセージへと手懐けてしまうことに繋がっているのではないか、ということだ。

梅沢和木《すべてを死るのも》2017年

 

 実際のところ、梅沢は2011年以降、被災地へ赴いて自らの手でその風景を写真に収め、作品の素材としてそれらの写真を用いている。そうした写真には、被災地の瓦礫や遺棄物が、自然のまま=自動的に細部として刻み込まれている。しかしこうした細部は、梅沢の作品では、画面へと定着する過程において埋却される。切り抜かれたり加工されることによって、手に負えない細部は馴化されてしまうのである。こうした処理によって、梅沢の作品のなかで、被災地の写真は、作者自身の手によって撮影されたものなのにもかかわらず、その生々しい状況を提示するものというよりも、私たちがテレビやウェブの報道で聞かされているような、使いまわされた震災のイメージの再生産へと堕してしまっているように思われる。

 そしてこれは、画像からその固有名性の高い部分を抽出するというプロセスが、そもそも当の画像のシミュラークル性に依存しているということでもある。梅沢は、キャラクター画像からその最もエッセンシャルな部分を抽出し、キャラクターの固有名性を棄損しないままに、「画素」へと還元する。しかし、こうした処理が可能である背景には、当のキャラクター自体がそもそも文化的なデータベースに登録された様々な要素の組み合わせに過ぎないという事実がある27。それは写真においても変わらない。写真における細部の埋却と主題の強調は、それが主にコミュニケーションに用いられる際に、つまり交換可能な記号として機能する場合において、主に支配的な性質として現れているのであった。いずれにせよ、梅沢の画面における要素の純化—馴化は、その要素のシミュラークル性に条件付けられている。梅沢の画面において用いられている画像の多くは、そのオリジナル、つまり自然の=生のままの対象を参照頁として持たない。ひいては、梅沢におけるこうしたイメージの利用は、社会的に支配的なイメージを所与のものとして自然化してしまう作業であるとさえいえるだろう28。梅沢の画面にあらわれているイメージが私たちにとって「喚起力」をもつためには、私たちがそうした対象を、部分へと分解されデータベースへと登録されたイメージを通したものとして知っていること——さらには、それを(梅沢の作品を鑑賞する人々のうちの)支配的多数が知っているということ——を条件として必要とする。そして、もしそうだとすれば、梅沢の画面は、震災というテーマもまた、そうした形でしか扱うことができない。それはつまり、震災という現実の問題においてありとあらゆる細部=自然にさらされた当事者を疎外する非当事者中心的な立場への開き直りであるとさえいえてしまうのではないか。

 こうした梅沢の作品における問題は、まずある面において逃れようもなく存在する。しかし、梅沢の画像にたいするこの極めて政治的な操作は、同時に震災をめぐる社会的状況を別なかたちで描出しているようにも思われる。

 哲学者・人類学者のブリュノ・ラトゥールは、『虚構の「近代」——科学人類学は警告する』のなかで、現代において、自然と文化が新たな形で配合されていると指摘する。

 

科学的事実は確かに築かれるものだが、社会的次元には還元できない。社会を構成する際に動員されたモノが社会的次元に居座るからだ。もっともこうも言える。モノは確かに実在するが、どう見てもそれは社会的アクター(行為者)そっくりである。科学哲学が生み出した”外在する”リアリティとはとてもいえない。この二重構造(社会とともにある科学、科学とともにある社会)がいくつかの実践を通して現れてくる。そしてそうした実践を脱構築という考えかたで把握することもほとんど不可能である。オゾンホールはこれまで頻繁に議論され、あまりに社会的であるために、純然たる自然に分類するのは憚られる。また、企業戦略や国家戦略の中身を見れば化学反応式が氾濫していて、権力や利害に還元することなどとうていできない。生物生存権についての議論は、”意味効果”に還元するにはリアルすぎるし社会的でもある。29

ラトゥールによれば、近代的な言説において、科学的事実を構成するのは超越的な自然であり、他方で社会や文化を構成するのは人間の自由意志であるとされる。そのようにして自然と社会・文化は切り離され、そのどちらか一方が現象の説明に用いられる。しかし実際には、非人間的なモノとしての自然が動員されて社会が構築され、また社会的言説によって自然は記述されるのである。そこには、自然と文化・社会の混合物(ハイブリッド)が生まれている。

 前述のように、梅沢の作品における細部の埋却にかんする問題は、たとえば被災地の写真においては、その生のままのイメージを馴化し、社会的に反復されたイメージへと変換してしまうところにあった。しかし実際のところ、震災は、純粋な自然災害では決してなく、それをきっかけとして制御不能に陥った原子力発電所という人為の所産による、ハイブリッドな災害であった。さらにいえば、二次的影響もふくめた政治経済的な災害としての震災は、被災地という地理的なレベルをこえて、私たちの生活を広く覆っている。こうした事実は、地震をめぐる被害が、純粋に自然的なものではなく、人為的なものをめぐる事故や、政治経済的な問題——すなわち自然なモノと人為を伴うイメージが混在するハイブリッドなエコノミーにかんするものにもなっているということをこれ以上なく示している。そして、そのように震災をとらえるとき、地理政治学的な区分による単純な当事者と非当事者の二分法は解体される。生のままの被災地を映した画像だけではなく、それが報道のためにトリミングされたものでも、もしくは何らかの主義主張に応じて改変されたものであったとしても、それらは等しく私たちをめぐる震災の現実を構成しているのである。

 ここへきて、私たちは梅沢の作品における原理を、その主題において生起する構造に見出す。梅沢の作品における自然/文化の混交——それは自然災害をゲームオブジェクトかのように形式化し縮減してしまうものであった——は、その主題、自然と政治経済のハイブリッドとしての震災へと折り返される。梅沢の画面において、一方では自然の風景は、加工され記号的な要素へと還元されつつ、同時にその人為的なプロセスにおいては、「自動選択ツール」によるジャギーやJPEGの圧縮ノイズのように、作者の制御のきかない細部を生み出している。こうした作品の特徴は、その形式的なレベルだけではなく、そこで描かれる震災後のネットという自文化的な問題圏を描出している。私たちは、部分において、「人為的な操作に相同するもの」としての画像郡を順々に追いながら、全体として、それらが構築したひとつの風景をを見る。そして同時に、一方では、人為的に抽出された「喚起力の高い」画像に目を奪われつつ、他方でそれでもなお消去されることのない細部をその画像のきわに見るのだ。梅沢の画面に用いられるありきたりな被災地の写真は、彼が非当事者へと開き直っていることの証左ではない。それは、震災というハイブリッドを描出するための技芸なのである。

 このように結論付けることは、楽観的すぎるだろうか。

〈註〉
1 『梅沢和木 × TAKU OBATA 超えてゆく風景』2018年9月1日 – 12月2日, ワタリウム美術館, 東京
2トーク「ハイパー ランドスケープ論」, 2018年9月2日, 東京, https://youtu.be/pK4_xHsbmnM [2019年2月アクセス]
3 「梅ラボの絵って下手ですからね。絶対この話は出るから、先に僕が言っておきます。よく言われるやつです。「梅ラボ〔の作品〕は、純粋な絵として見たときに、上手くないのではないか」という意見はある。(中略)黒瀬さんのずっと連載されている平面論であったりとか、梅ラボについての言及というのは非常に重要なものなんですけど、そこで、たぶん絵として見たらというときと、もっと一般に平面としてだとか、ある現象だとか、もっと言えば作品として見たらというところで、おそらくすれ違いが起きているように僕には思えます。なぜなら、カオスラウンジ/梅ラボというのは、インスタレーションだったりとか、構図というものをいったん無みしてしまうような大きな壁紙によって見せていくスタイル(中略)が選ばれている」(長谷川による発言, 同上, 23’10”-25’29”)、「いや、でも絵として見れるところは下手だよ。でも絵として見れるところは、梅ラボ全体の中の多くて3割、3.5割くらいで、でも絵の具の「リヒターした」やつは、いや本人が「リヒターする」って言っているので、最初はすごい下手だったんだけど、いま上手くなってるんだよ。いやでも、描画レベルでは、ね。それは争点じゃない」(黒瀬による発言, 同上, 1°28’8”-57”)
4 黒瀬も「情報的視覚の平面」のなかで、梅沢の作品をラウシェンバーグ以降の系譜において論じている。しかし、黒瀬がコンバインよばれる作品を起点に梅沢にアプローチしているのに対し、本稿ではシルクスクリーンを用いたコラージュに注目する。黒瀬は、ラウシェンバーグのシルクスクリーンのコラージュについて「「写真」の秩序が全面化し」ていると述べ、これを黒瀬の主張する「情報的視覚」という観点からすれば退行であると論じている。しかし、後述するように、本稿の論点はむしろ、この「「写真」の秩序」自体の可変性にある。(黒瀬陽平, 「情報的視覚の平面」, 『梅沢和木 Re:エターナル フォース画像コア』筒井宏樹・長田詩織編, 2018, pp.34-35)
5 「梅沢作品の本質は、梅沢が、(中略)一人の、インターネットに耽溺するオタクであることにある。(中略)梅沢はこのように、高度に消費社会化/情報社会化が進行した今日に生きる現代人の一人として、その感覚を正しく作品へと落とし込んだのである」(gnck, 「キャラと画像とインターネット——画像の演算性の美学Ⅰ」, 『北加賀屋クロッシング2013:MOBILIS IN MOBILI——交錯する現在』, 北加賀屋クロッシング実行委員会, 2014, p.39)
6 梅沢をはじめとした、画像加工を作品の制作に用いるアーティストにおける政治性については、拙稿「Photoshop以降の写真作品——「写真装置」のソフトウェアについて」で、ヴィレム・フルッサーの「写真装置」の概念を通じて論じた。フルッサーは、「写真家」と「写真装置」の関係を、単純な使用の関係ではなくゲームという双方向的なモデルで論じているが、梅沢をはじめとするアーティストたちも、「写真装置」を媒介して、画像をめぐる力動的な場に巻き込まれているのである。(永田康祐, 「Photoshop以降の写真——「写真装置」のソフトウェアについて」, 『インスタグラムと現代視覚文化論』, 久保田晃弘・きりとりめでる編, ビー・エヌ・エヌ新社, 2018, pp.85-105)
7 レオ・スタインバーグ, 「他の批評基準」, 『美術手帖1997年1-3月号』, 美術出版社, 1997, pp.186-202, pp.182-193, pp.174-187
8 同上(3月号), p.181
9 同上(2月号), p.191
10 同上(3月号), p.180
11 Rosalind E. Krauss, “Rauschenberg and the Materialized Image”, Artforum VOL.13 NO.4, 1974, pp.36-43
12 ibid., p.37
13 ibid., p.38
14 ロザリンド・E・クラウス, 「シュルレアリスムの写真的条件」, 『オリジナリティと反復』, 小西信之訳, リブロポート, 1994, pp.73-95
15 同上, pp.86-87
16 同上, pp.87-88
17 ロザリンド・クラウス, 「指標論パート2」, 『オリジナリティと反復』, 小西信之訳, リブロポート, 1994, pp.169-176
18「つまり、ポッツィは抽象的な絵画のオブジェを、鋳型や押印や痕跡の地位に還元しているのだ。(中略)彼のパネルの色彩の分割は、自然的連続体の持つ諸特性の画面への転写ないしは押印以外の何物でもない。この絵画は全体として、自然的連続を指し示すのだ——指差す身振りに伴われたこれ〔原文太字〕という語が現実世界の一片を分離させ、その瞬間にある自然の出来事の一時的なレッテルとなることによって、自らを一つの意味で満たすのと同じやり方で。(中略)絵画は、外的な指示対象もしくは物体と物理的に併置されたときにだけ意味を帯びる、転換子あるいは空虚な記号(これ〔原文太字〕という語のような)と見做されるのである」(同上, pp.172-173)
19 Krauss, op. sit., 1974, p.43
20 ibid, p.40
21 gnck, 前掲書, p.39
22 本論では扱うことができなかったが、梅沢の作品における部分と全体的構図の関係はシリーズにおいて少しずつ変化している。両者の関係が特徴的なものは、(1)《東方新超死》のシリーズのように単一のシルエットを形成するもの、(2)《ラヴォス》のように弾幕状の形態をもつもの、(3)《magic – mirror》のシリーズのように曼荼羅状の構成のもの、(4)《とある現実の超風景》のように空間的な奥行きを持つもの、の4つに大別できる。(2)では、全体の構成は「ニコニコ動画」といったウェブコンテンツのもつ形態的特徴が構図に対して与えられており、(4)では黙示録的、ないしはゲームやアニメのコンセプトアート的なイメージが構図の特徴となっている。このような画面構成の変化には、(3)における宗教的モチーフへの参照が重要な転換点となっているといえるだろう。すなわち、インターネットを視覚的に表象するにあたって、(2)当初はウェブコンテンツのデザインやゲーム画面などがイメージソースになっていたが、(3)それらが仏教的な世界観と接続され、画像の集合に対して超越的な意味性が与えられるようになる。そして、(4)震災を契機に、曼荼羅のような図化された世界観ではなく、具象的な空間表現へと移行した、と整理できる。なお、(2)と(3)については、梅沢本人が美術批評研究者の筒井弘樹との対談のなかで語っている。(トーク「梅沢和木作品の超詳細解説」, 2018年9月29日, 東京, https://www.youtube.com/watch?v=x5ESKmhqwj0 [2019年2月アクセス])
23 José van Dijck, Mediated Memories in the Digital Age, Stanford University Press, 2007
24  ibid, pp.113-115
25 gnck, 前掲書, p.40
26 こうした鑑賞者の経験は、梅沢の制作の状況に酷似したものだと考えられる。梅沢は作品の制作のほとんどを画像編集アプリケーションのPhotoshopを用いて行っており、作業画面としても23インチの液晶モニタ2台で作業していることから、ソフトウェアの拡大縮小機能を使いながら画面全体と細部を行き来して作業しているだろうと想定できる。そして、実際にコラージュの要素を配置していく作業は、比較的ズームした状態で、すなわち全体の構図を確認できない状態で行っているように思われる。さらにいえば、こうした作業プロセスから鑑みるに、ソフトウェア上のキャンバスサイズは最初から厳密に決まっているのではなく、制作の進行に応じて都度大小されているだろうと予測できる。すなわち、梅沢の作品において画面の境界は(実際的にはわからないにしても、すくなくとも形式上は)あらかじめ設定された条件ではなく、コラージュのプロセスによって事後的に決定されるものなのである。なお、利用しているソフトウェアについては梅沢本人が述べており(梅沢和木+大澤真幸+金森穣+佐々木敦+東浩紀, 「記号から触覚へ」, 『ゲンロン5』, 東浩紀編, 株式会社ゲンロン, 2017, pp.23)、作業環境については梅沢のツイッターに投稿された画像(@umelaboのツイート, 2018年9月16日18:08, https://twitter.com/umelabo/status/1041252564031889408 [2019年2月アクセス])から判断した。
27 思想家の東浩紀は、1990年代以降のオタク文化についてデータベースをモデルに論じている。東は、例えばキャラクターの消費において、オタクたちは個々のキャラクターへ盲目的に没入して消費する一方で、その対象を「萌え要素」へと分解し、データベースのなかで相対化して消費していると指摘する。東は、オタク文化において、個々の作品もまた、社会的に共有された「大きな物語」によって意味づけられるのではなく、その文化圏において培われたデータベースによって基礎づけられていると述べる。オタクたちは、個々の作品を、「大きな物語」へと逆照射することなく即物的に没入して感動し、しかし同時にデータベースへと分解して消費するのである。東は、作品やキャラクターを背後から基礎づけるモデルの物語からデータベースへの変化を、ポストモダン哲学の主体理論における「大きな物語」の凋落と併せて論じ、ポストモダンの主体理論においてデータベースが重要なメタファーになりうると主張している。本論では扱うことができなかったが、梅沢の作品における統一的な構図と、それとは独立したコラージュの要素という対比は、東のオタク文化への指摘からも整理することができるだろう。(東浩紀, 『動物化するポストモダン』, 講談社現代新書, p.76)
28 本稿では震災のイメージを中心に議論しているが、梅沢の作品における画像をめぐる問題は、オタク文化における性的対象化の問題とも不可分である。梅沢の作品は、アニメやゲームのキャラクターの最も「喚起力のある」部分を抽出することによってその強度を獲得しているが、その取捨選択とオタク文化における性的対象化は、否定しがたく関係している。本稿では充分に議論できなかったが、梅沢の作品における女性表象の扱われ方については、詳細な分析が必要となるだろう。
29 ブルーノ・ラトゥール, 『虚構の「近代」——科学人類学は警告する』, 河村久美子訳, 新評論, 2008, p.20

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